13
生身の人間とつきあっていくことは、やっぱり難しい。僕の思い通りに動いてくれるひとなんていないし、逆に僕が望んでいないことばかり僕に投げつける。もし誰かが失望したいと願うなら、僕は一目惚れを薦めよう。一目惚れなんて初めはいいけど、それからはその感動をただただ食いつぶしていくだけだ。最高のものを一度味わってしまったら、二度と満足することなんてないだろう。もっともっと、もっともっと、とどこまでも貪欲にただ望むだけだ。忘れたくない記憶もいつしか薄れて、鮮やかだった色は褪せて、ふれたときのぬくもりさえ思い出せない。ただ記憶の破片を集めて、つなぎあわせて、なんとかあの瞬間を再現しようと実りのない努力を続ける。僕はもうそんなことにも疲れてしまった。
僕は彼女に対するあらゆる感情を放棄した。もう目で彼女を追うこともないだろう。僕にとって、彼女はすでに終わってしまった人間だった。最高だった彼女はもういない。認識できただけ僕はラッキーだったと思う。終わった夢をいつまでも後生大事に抱えていても、一歩も前には進めない。
彼女は僕の思い出だ。このままそっとしまっておこう。だいたい僕は、あの日彼女がどんな服を着ていたのかさえ思い出せないんだ。
あの一件以来、彼女が現れそうな場所は徹底的に避けた。それは思っていたよりもずっと難しいことだった。みんなと顔を合わせることは極端に減った。僕の認識よりもずっと、彼女と僕の生活は重なっていたんだな、と改めて感じる。僕は彼女のテリトリー内の人間だったのかもしれない。
ひとりの部屋で、ベッドにもぐり込んで本を読んだりDVDを観たり、たまに曲を作ってみたり。だけどひとついいフレーズが浮かんでも、そこで創作の糸はプツリと切れてしまう。明け方、バラバラになった創作意欲と共に眠る。携帯の電源は切ったままだ。
バイトとバンドと、たまに大学へ行くことが僕の生活のすべてだ。一日、誰とも会話をしてないことに気づいて愕然とする。顔も憶えられないほどの客を相手にして、名前も知らないクラスメイトに囲まれて、僕の言葉はどこへ行ったんだろう。
たまに、ケンが僕のバイト先に遊びに来る。ちょっと寄っただけ、というけど、ホントは急に離れだした僕を心配してるんだろう。何気ないフリを装って、探りに来る。それは自分に不利なことがあるんじゃないかという不安からじゃなくて、純粋に去りつつある僕を心配してくれてるんだと思う。そう思いたい。だけど今はどうすることもできない。もしケンがそういう気持ちでいてくれたとしても、あいつの存在は今の僕にとって器用に処理できる問題じゃないんだ。できることならほっといてほしい。
「お、これって掘り出し物じゃん?」
「あー、それはすぐ売れるだろうね。お前買う?」
レジの前のラックを覗きながら、ケンは僕に話しかける。僕の顔は見ない。そういえば、最近誰かと目を合わすことがほとんどない。意識してるわけじゃないんだけど、僕がひとの目を見ないんだろうか・・・
ふとケンが僕の前に立つ。反射的に顔を上げて、ケンと目が合った。オレはなにも気づいてないのに、お前はなにをそんなに気にしてるんだい? とでも言いたげな笑顔だ。その気遣いが余計プレッシャーで、僕はふと目を逸らす。
ケンはカウンターにひじをついて、僕がさっきから格闘している帳簿を覗き込む。
「あ、そうだ。今度のうちのライブさ、来週の土曜だから。来るだろ?」
「土曜? うーんと・・・」
僕はレジの上の出勤表を見た。
「あー、ダメだ。遅番だよ、その日」
「なんで? お前の名前書いてないじゃん」
見ていやがったか、こいつ。ああ、とつぶいて、僕は0.5秒で言い訳を考えた。
「この前サチと代わってもらってさ、その埋め合わせしなきゃいけないんだよ」
自分でも下手な言い訳だと思った。ケンも納得しない様子で、
「どうしてもその日じゃなきゃいけないの? ほかの日だっていいじゃん、別に」
僕は帳簿をたたんで、うん、とうなずいた。
「悪い。次は行くよ」
ケンはそれ以上なにも言わず、これ食えよ、とガムを置いて帰った。シゲが
「サチなにも言ってなかったけど、いいのかよ?」
と心配そうな顔をした。僕はあいまいに笑ってその場をごまかした。
嘘はつきたくない、なんて言うつもりはない。僕は自分を守るために嘘をつく。誰のことも考えられない。
この前部屋の掃除をしていたら、夏にみんなで海へ行ったときの写真が出てきた。どの写真もバカみたいにはしゃいでいる僕達がいた。
マミヤくんとカズくんがおどけたポーズで笑ってる。麻ちゃんはパラソルの下で優雅にビールを飲んでる。タツヤ、ヤヨイ、ヨーコちゃんにトモ・・・夏の終わりに失くしたサングラスをかけた僕もいる。
楽しかったな、と写真をめくると、またまた懐かしい顔。マミヤくんの隣で笑う小夜ちゃん。あの頃のふたりはとても仲よさそうで、似た者夫婦だとみんなにからかわれてた。マミヤくんがバカを言って、小夜ちゃんが笑って。小夜ちゃんが笑わなくなったのはいつからだっただろう。
ケンが顔中しわくちゃにして笑っている。隣にはつばの広い帽子をかぶった彼女。まぶしそうに目を細めている。
自然とため息が出た。
株の相場も、人間関係も、日々変化する。変化はしかたない。だけど時の流れはあまりに無情で、僕はもう少しあのままでいたかった。
どこへしまおうか、少し悩んだ。アルバムなんてものはない。引き出しはいろんなものでいっぱいだ。写真を前にうーん、と考えて、面倒くさくなってまとめて洗面所で燃やしてしまった。過去の記録はいらない。記憶さえ残っていればそれでいいんだ。
僕は自分のライブの日もケンに教えなかった。きっとケンはほかの誰かから聞いて知っているんだろう。だけど僕が誘わない限り、あいつは来ない。離れかけている僕を無理に引き止めるほどの強引さがあれば、彼女はケンから目を離さなかったかもしれない。
「おい、郁弥。そろそろ出番だぞ」
ギターを抱えてタケシが僕に声をかける。僕はハイハイと気のない返事をして、軽くストレッチを始める。ライブ前にこれをやると、その日の調子がわかる。身体がなめらかに動くときはかなり気持ちよく歌えるし、どこか突っ張ったり硬く感じるときは、決まってショボイライブをする。僕のジンクスだ。
「今日はどうよ? よさそう?」
「うーん、なんだかなぁ・・・あんまりよくないよ、たぶん」
肩のあたりがだるい。椅子に置いといたタオルを取って、楽屋から狭い通路を歩く。いつもはゾクゾクする緊張感があるのに、今日はダメだ。ボルテージがまったく上がらない。
「今日ケンくんとかは来ないの?」
前を歩くタケシが振り返る。
「知らない。来ないんじゃない?」
客の入りはいつもと一緒だ。客席を見まわすと、知った顔ばかり。先にセッティングをしていたふたりに声をかけて、マイクの位置を直す。
「あ、郁弥。今日ケンくん来てるだろ?」
ベースのチューニングをしながらリョーちんが僕に聞く。
「え? 来てないと思うけど。なんで?」
「さっきカノジョに会ったからさ。てっきり来てるのかと思って」
リョーちんの声が僕の耳を通り過ぎる。客席の彼女と目が合った。僕が気づくだろうと思っていたのか、軽く会釈して、冷たい笑顔を見せる。
ほらね、僕のジンクスは当たるんだ。
「お疲れ様」
彼女に声をかけられたとき、自分がどんな表情をしていたのかわからない。きっと迷惑そうな顔だったんだろう、彼女は困ったように笑って、軽く首を傾げる。
「そんなに露骨に顔に出さなくてもいいじゃないですか」
僕は肩に下げていたタオルを取って、首筋を流れる汗を拭った。無視すればよかった。そうすることだってできたのに、どうして足を止めたんだ。僕は彼女と目が合わないように、自分の足元ばかり見ていた。
「この前、言いすぎたと思って・・・ごめんなさい」
ホントに悪いと思ってるなら、もう僕の前に姿を現さないでくれ。知り合いの女の子が僕の肩を叩いて追い越していく。
僕はなにも言わなかった。たったそれだけのことを言うために、彼女はここまで来たのか? それとも、僕がどんな反応をするか興味があったのかい? これ以上僕につきまとわないでくれ。ただそっとしておいてくれるだけで、僕は満足なんだよ。
言えない言葉が空想の世界を駆け巡る。彼女は無反応な僕に気を悪くした様子もなく、軽く笑って、コホン、とちいさな咳をした。妙に乾いた咳だった。
彼女は最後の笑みを浮かべる。
「ライブすごくよかったです。また見に来ますね」
心にもないことを言うな。今日のライブのどこがよかったんだ? 演ってる方が楽しくないんだ。そんなライブを見ていいと思うわけないだろう。まるでやることなすことすべて誉め殺すファンのセリフじゃないか。立ち去る彼女の後ろ姿を見ながら、僕は今の無意味な彼女の後味を噛み締めていた。彼女はとても静かで、飽きれかえるほどの自信や敵意、すべての感情をどこかへ置き忘れてしまったように見えた。今日の彼女は他人より少し器量のいい、目立たない女の子だった。
ホントにきみは、つまらない女の子だったんだね。
風邪をひいた、と嘘をついて、僕はひとりで帰った。とても打ち上げで騒げる気分じゃなかった。
人通りの途絶えた住宅街をトボトボ歩きながら、僕はホントに彼女のことが好きだったのか、少し考えた。
心のどこをとっても、僕は彼女のことが好きだったんだと胸を張って言えるような自信はひとつもない。好きだったことは確かだ。本当に、心の底から好きだった。だけどそれは、例えばビートルズが好きだとか、ルパン三世が好きだとか、そういう好きとどこが違うのか訊かれたら、僕はなにも言えない。彼女のことも、ビートルズやルパンと同列なんだと言われてしまえば、そうかもしれない、と答えるしかない。だったら彼女は、僕に対して怒ったり憎んだり、嫌ったりしていた彼女はどこへいってしまうんだろう。
恋愛でも人間関係でも、誰がなにをしようとどうでもよかった。気に入った女の子が他の誰かを好きでも、つきあっていた女の子を誰かにとられても、しょうがない、僕がいたらなかっただけさ、と思っていた。友人が去ろうが、バントが空中分解しようが、特になにかを強く思ったことがない。だけど欲がまったくなかったわけじゃないんだ。好きな子には好かれたいと思ったし、去っていったひとを想って淋しく過ごした夜もあった。もっと僕が貪欲な精神を持ち合わせていたら、壊れなかった関係もたくさんあっただろう。彼女のことだって、そうかもしれない。
僕は彼女が好きだった。だけどそれは言い換えれば、それほど好きじゃなかったということでもある。僕が本当になによりも彼女のことを想っていれば、彼女が僕をどれだけ嫌おうと、僕を無視しようと、僕は彼女を諦めなかったはずだ。
しょせんその程度なんだよ。心の声が聞こえる。中途半端に欲を出したり抑えたり、ひとの気持ちを考えてるフリをして、ホントは自分のことしか考えてないんだ。偽善的自己犠牲者。僕はこの世で一番卑怯な人間だ。
まったくダークな気持ちになって、ふと夜空を見上げると、昔ケンと見た冬の星座が、あの頃のまま輝いていた。