12
リフレッシュ効果は、あまり長くは続かなかった。
些細なことの考えすぎか、はたまたただの疲労か、僕は不眠症になってしまった。どんなに眠くても一時間ほどの浅い眠りで目が覚めてしまう。夢はたくさん見る。だけどひとつも憶えていない。目覚めたときに、漠然とした夢の残像感がまぶたの奥に残っているだけだ。不思議と、彼女の夢は見なかったような気がする。意識的に消去してるだけかもしれないけど、彼女の夢は見なかった。
空が高い。冬の空だ。
僕はひとりで街を歩いていた。
昨日は日曜日だっただけあって、比較的忙しかった。閉店間際はさすがに客足も途絶えて、僕とシゲはほっと一息ついて椅子に倒れこんだ。
「なあ、郁弥」
シゲに呼ばれて、僕は顔を上げた。知らないうちに眠っていたみたいだ。時計が十分進んでいる。
「なんだよ――まだ閉店じゃないじゃん――」
「お前さぁ、疲れてるんじゃねえの? 顔色悪いぞ」
「ああ・・・ちょっと最近寝不足でさぁ・・・それだけだよ。別に平気」
シゲはさっさと片づけを始める。まだ閉店三十分前なのに、いい度胸だ。
「いいからさ、明日休めよ。サチが代わりに入ってくれるっていうからさ」
僕は聞いてないふりをした。だけど正直、シゲの言葉はうれしかった。みんなの手前不眠症で休むなんてカッコ悪いことできなくて、気合でなんとかがんばってきたけど、さすがに限界だ。シゲは僕がうんと言うまで何度も同じ言葉を繰り返した。
予定外の休み。さて、なにをしよう? 一日中家でごろごろしていようかとも思ったけど、ひとりでいても気が滅入るだけだし、遊びたい友達もいないし、だから僕はひとりで出かけた。なんて淋しいヤツなんだ。
店に顔を出すと、あーあ、とため息をつきながらシゲは僕を追い出した。サチにお礼を言うと、ううん、と笑ってくれた。本屋に行って文庫本を三冊買って、レコード屋で新譜を物色して、結局一枚も買わずに外へ出た。街はすっかり冬支度だ。一日が過ぎるたびに、だんだんと街の五感が鋭くなる。冬の凛とした厳しさが好きだ。やさしささえ感じる。
スニーカーがアスファルトの衝撃を吸収する。ポケットに突っ込んだ手はあたたかい。
さて、次はどこに行こう。僕はまわりを見回して、足を止めた。なんてこったい――どうしてここに彼女とマミヤくんがいるんだ? 思わず顔を伏せる。僕は早足で、ふたりの前を通り過ぎようとした。
「あ、れ・・・郁弥、くん・・・?」
バカ正直な人だ。気づかないふりして通り過ぎればいいのに。僕は足を止めて、驚いた顔で立ち尽くすマミヤくんを振り返った。彼女は澄ました顔で、マミヤくんの腕に手を絡ませている。僕に気づくまで、彼女はとてもやさしい表情で笑っていた。今まで見たことない彼女の笑顔だったのに、今の彼女はなんだ? どうしてそんなとりつくろった顔で、見下すような眼で僕を見るんだ? 無視すればいいじゃないか。彼女の手が震えている。
できることなら見なかったことにしたかった。
「へへへ」
バツの悪そうな笑みを浮かべて、マミヤくんは上目使いに僕を見る。卑屈そうに見えないのはマミヤくんの人徳だろう。
「見られちゃったなぁ・・・」
僕は笑って肩をすくめる。これで終わりにしよう。だらだら言い訳を聞いたってしかたないし、マミヤくんだって本意じゃないだろ?
ヒラヒラと手を振りながら歩き始めた僕の腕を、強くつかんだ手があった。
「キリちゃん――」
ポカンと口をあけて、マミヤくんが彼女を見ている。僕も戸惑っていた。なぜ止める?
「どうしたの――?」
彼女はうつむいて、両手で僕の腕をつかんでいる。悔しそうに唇を噛み締めて、身動きもせずに立っている。頬にかかるまっすぐな髪が彼女の表情を隠す。僕はずっと彼女を見ていた。僕のまわりだけ、時間が急に止まった気がした。
「なんですか?」
僕の声にびくっと身体を強ばらせて、指に力がこもる。小刻みに震えている。うつむいてるから表情は読めない。彫像のようにじっとしているだけだ。
耐え難い沈黙に、彼女は肩で息をする。絞り出すような声が、かすかに唇からもれた。
「どうして・・・」
「え? なに?」
彼女は顔を上げて、きっと僕を睨む。眼力でひとが殺せるならいいのにと、心から願っているような、思いつめた眼だった。僕は一瞬、石にされたように動けなかった。彼女の眼に、貧血に似た軽い浮遊感。
「どうしてなにも言わないの?」
低く、震える彼女の声は、なんだか別人の声みたいで、僕は彼女がなんて言ったのか、はっきり聞いてなかった。視界の隅でマミヤくんの戸惑った顔が見えた。
「わたしになにか言いたいことあるんじゃないの? どうして見て見ぬふりするの? いつもいつもいつもいつも――見ないふりってそんなに楽? ねえ、友達のカノジョの浮気現場見て、それでもへらへら笑ってるなんて、あなたホントにケンちゃんの友達なの? みんなの前でだけ友達顔して、大事なときに力になってあげないなんて、あなた最低ね。信じられないわ」
僕はなにも言えなかった。この人はなにを言ってるんだ? 誰に向かって話してるんだ? いったいなにが起こってるんだ? 頭の中は疑問符でいっぱいで、誰でもいい、これを消してくれ、と本気で祈った。
彼女は苦しそうに肩で息をしている。ゆがんだ顔が、今にも泣き出しそうだ。
「いつも涼しい顔して、ひとの言葉から逃げてばかりで、それがカッコいいと思ってるの? 傷つくのが怖いんでしょ? そんなんただのいくじなしじゃない。あなたみたいな人間が一番卑怯よ。自分が欲しいものを欲しいとも言えないで、向こうからやってくるのを待ってるだけで、ガラスの上にビクビクしながら立ってるだけで。バカみたい。ねえ、これだけ言われても、あなたなにも思わないの? ホントはむかついてるんでしょ? わたしのこと殴りたいと思ってるんでしょ? 殴ればいいじゃない。ねえ、殴りたいなら殴ればいいじゃないのよ。ちょっと――なにか・・・なにか言いなさいよ!!」
彼女の爪が僕の腕に食い込む。通りを行き交う車の雑音が、不透明な幕を通して聞こえる。頭の中で大きなドラム缶が転がっているような耳鳴りがした。
「なにか・・・」
僕は思わず笑ってしまった。必死になって僕にすがる彼女に狂気すら感じた。僕はなるべく彼女の気持ちを荒立てないよう、やさしく彼女の手をほどいた。身体の真ん中がどんよりと重い。マミヤくんを見て、まいったね、と笑って、まっすぐ彼女の前に立った。
「あのね」
期待をこめた眼差しで、彼女は僕を見つめる。僕はため息をついた。初めてひとを好きになって、いろいろ思い悩んで、その結果がこれかい? なんて結末なんだ。こんなエンディング、誰も望んでいないのに。
「あなたの言ったことは、みんな当たってますよ。僕はケンとあなたがどうなろうと、その結果ケンとマミヤくんと一緒に会うことができなくなっても、しかたないと諦めます。僕はなにもしません。それはあなた達の問題であって、僕には関係ないし、関係ない人間が口を出してもしょうがないでしょう。そう思いませんか? 僕は臆病で、卑怯で、ズルイ人間なんです。敵前逃亡が得意な、いつもビクビクしてることをひとに気づかれないように、必死になってる人間、それが僕です。求められても困るんですよ。僕に求めないでください。あなたは僕になにをしてほしいんですか?」
僕は最後まで話しきれなかった。避ける隙もなく彼女が僕を殴る――いや、ひっぱたくとかじゃなくて、ホントに「殴る」だったんだ――もう一度振り上げられた腕を、マミヤくんが両手で止める。
「キリちゃん、どうしちゃったの?」
彼女は今にも泣き出さんばかりの眼で僕を睨みつけて、僕を押し退けるようにして駆け出した。彼女の後ろ姿が人込みにまぎれる。
「追いかけなよ」
まだ事態を把握していないのか、ぼんやりした顔で、マミヤくんはゆっくりうなずく。へへへ、とごまかすようにまた笑って、のろのろと駆け出す。人波をぬうように走るマミヤくんの後ろ姿を、僕はずっと見ていた。
行き交う人々が、ものめずらしそうに僕を見る。左頬が熱い。僕は笑って歩き出した。まあいい。女の子に殴られるのは慣れてる。
だけど僕は、ホントは泣きたかったんだ。壊れてしまった彼女を想って、報われない僕の気持ちを想って。ビルの谷間に沈む夕陽が、とても目に痛かった。
その晩、マミヤくんが僕の家を訪ねてきた。僕がドアを開けると、やけくその笑顔を見せる。
「郁弥くんほっぺ腫れちゃったね。だいじょぶ? いやぁ、オレもさぁ、まいったよ。あれから全然機嫌直んないの」
マミヤくんは笑って、土産のビールを僕に手渡す。
「ごめんね」
「別に。慣れてるからいいよ」
「あ、そっか」
納得するなよ、失礼だな、と僕は笑った。明日の朝食にしようと思っていたポテトチップスをマミヤくんに投げて、ビールを缶のまま渡した。ビールはよく冷えていて、開けるときに気持ちのいい音がした。
「グラスないの?」
「うん、キョーコさんに全部割られた」
「すっげー。カッコいー」
マミヤくんは腹を抱えて笑う。ほかのつまみを探しながら、僕も笑った。
「やっぱ痛かった?」
ビールを飲み干して、けけけっと笑いながらマミヤくんが僕の頬を指差す。痛かったよ、と僕は答える。
「なんかさぁ、キリちゃんて郁弥くんにはなぜかキツイよね。いつもはあんな子じゃないんだけどなぁ、なんでかね」
「オレのこと嫌いなんじゃないの?」
「郁弥くんのこと嫌いな女の子なんているの?」
「いっぱいいるよ。憎まれて別れる男だからさ」
ハハハッと楽しそうに笑って、マミヤくんは次のビールを開ける。
「あ、そうだ。この前のライブのビデオあるけど、観る? ミナコが撮ってくれたんだけどね」
「えー、観たい観たい」
薄いテレビに薄暗いステージがぼーっと浮かび上がる。ちょうど、ケンとマミヤくんの弾き語りからだった。思わず、僕もマミヤくんも一瞬無言になる。わざとじゃなかったんだよ。僕もまだ観てなかったんだから。
マミヤくんは頬杖をついて画面に見入っている。曲はビートルズの「ひとりぼっちのあいつ」で、マミヤくんがジョンを歌っている。
「カッコいいなぁ、オレ」
このふたりは、このときなにを想っていたんだろう。僕には想像もつかない。複雑な、いろんな感情が混ざり合って、だけどそれを表にはまったく出さないで、やっぱりこのふたりはすごい。
「ケンくんさぁ、オレのことなんか言ってなかった?」
マミヤくんは画面から目を離さない。なんだ、やっぱり気にしていたのか。ケンのことなんてまったく気にしてないように見えて、ちゃんとどこかで考えていたのか。僕は少ししらけてしまった。マミヤくんにはひとの機嫌を伺うようなことはしてほしくない。自分の行動にいつでも自信を持っている、むちゃくちゃなマミヤくんでいてほしいんだ。僕は煙草に火を点けて、ゆっくりと煙を吐き出した。
「別に、なにも。なんか言ってると思った?」
意地悪な質問だ。マミヤくんは笑って、ううん、と首を振った。
「ケンくんはそういうこと言わないだろうなぁって思ってたけど、だけどさ、ふつうむかつくじゃん? 郁弥くんには話すんじゃないかなって思って・・・なんだ、やっぱり疑ってたんじゃん、みたいな」
と言って、マミヤくんはまた笑う。
前言撤回。やっぱりマミヤくんだ。腐っても鯛。あまりに正直なマミヤくんの言い方に、僕は思わず笑ってしまった。ヘンなプライドを持った人間にはとても言えないよ、こんなこと。
画面の自分とシンクロするようにリズムを取りながら、マミヤくんはビールを飲む。
「小夜と別れたんだ」
ああ、やっぱり、と僕は思った。当然だろう。疑って、隠して、疑心暗鬼のままつきあっていくよりもその方がずっといい。小夜ちゃんは辛かっただろう。だけどマミヤくんだってきっと悩んだはずだし、苦しまなかったわけはない。それは小夜ちゃんだってわかってるだろう。わかってて、別れたんだろう。
マミヤくんは照れたように笑って、鼻をすすった。
「つい最近ね、もうオレと一緒にいるのヤなんだって。まあしょうがないよね。いろいろ迷惑もかけたし、キリちゃんのこともあったし。別れる理由数えたらきりないよ、ホント。全部オレのせいだけどさ」
「あの人とつきあうの?」
部屋の空気が薄い。僕達以外になにかとてつもなく大きな生物がいて、空気だけじゃなくて僕達まで喰べてるみたいだ。ボリボリ、ボリボリ、骨を噛み砕く音まで聞こえる。急に寒気を感じて、僕は身震いした。エアコンの温度を見ると、二十五度もあった。
「うーん・・・」
マミヤくんは言葉につまったように考え込む。いつの間にかビールはなくなっていた。
「マミヤくん、ターキーでも飲む?」
「あ、ちょうだい――あのねぇ、わかんない。オレの決めることじゃないと思ってるんだ。キリちゃんが決めればいいし、なんだったらケンくんでもいいよ。とにかくオレ以外の人に決めてほしいんだ」
僕は黙ってターキーの入ったマグカップをマミヤくんの前に置いた。
「ああ、ありがと」
それからマミヤくんとくだらないことを喋りながら、僕は彼女のことを考えていた。彼女に言われたことについて、怒ったりショックを受けたりすることはない。こんな僕だ。いまさら誰になにを言われても傷つくことはない。だけど、なぜそれを彼女が言うんだ? 彼女は僕になにを求めてるんだ? アヤちゃんに求められることは納得できる。あの子はなんでも欲しがる子だったから。だけど彼女は違ったじゃないか。ケンやマミヤくんのように、僕は彼女のテリトリー内の人間じゃないし、そんな人間にまで彼女は求めるのか? 彼女は確かに女王様かもしれない。だけどそれは彼女の王国の中だけであって、僕は彼女の民ではないんだ。それくらいのこと彼女だってわかってるはずなのに・・・
マミヤくんとどんな話をしたのかさっぱり憶えていない。結局ターキーもなくなって、日本酒を飲み出したことまでは憶えている。プカプカとゼリー状の海を泳いでいるような、浮遊感と粘着感の夜だった。マミヤくんは明け方「仕事だー」と叫んで帰っていった。ガッツな人だ。僕は二日酔いでバイトを休んでしまった。喉が渇いてしょうがないし、胃の中は荒れ狂う海のようだった。これじゃ仕事どころの騒ぎじゃない。一応電話を入れると、シゲがぶーぶー文句をたれた。うっとうしくて、
「オレにもいろいろあるんだよ。うだうだ言ってねえで休ませろ」
怒鳴り返されると思っていたのに、シゲはああ、そうかい、と笑っただけだった。相手にもされていないらしい。シゲのようにスケールのでかい人間から見れば、僕の悩みなんて蟻の足跡くらいのものなんだろう。うらやましいかぎりだ。