奇矯の御影さん
※ 怪異と書いていますが、怖いお話ではありません。
大正10年、1921年6月3日。
科学研究員の御影と、その部下の榊直之は、日々、研究室でさまざまな科学実験に取り組んでいた。実験器具や薬品が並ぶ研究室では、二人が実験を行い、その結果を記録・分析する光景が日常となっていた。
そんな御影には、もう一つ、熱中していることがあった。
それは、各地に残る怪奇現象や、不思議な伝承について調べることだった。
御影は記事を一枚手に取ると、記された日時や場所を確認し、余白にいくつもの仮説を書き込んでいく。不可解な現象にも、必ず何らかの理由がある。幼い頃から、御影はそう信じていた。
ノートの中には、長野県松本市にある、奇妙な屋敷についての記事も混じっていた。
御影は、その記事の端に、小さく印をつけていた。
「なんだろう」
研究道具を洗って片づけていた部下の榊は、机の上に増えていく資料を眺めて呟いた。
昼時。
御影は、近くの蕎麦屋から買ってきてもらった蕎麦を手に、鼻歌交じりに自分の研究室へと向かっていた。麺類が大好物の御影にとって、昼食の蕎麦は何よりの楽しみだった。
そのとき。
「うわっ」
廊下で足を滑らせた御影は、派手に転倒した。
ドスっ......。
そして、通りかかった社長の百目鬼の頭上に、蕎麦の入った丼を丸ごと落としてしまった。百目鬼は柔和な笑顔で「お疲れ御影くん」と労いの言葉をかけてくれたのに――。
「…………」
頭から蕎麦をかぶった百目鬼と、御影の目が合った。
蕎麦は、百目鬼がこの世で最も嫌悪する食べ物だった。
世界が食糧危機に陥って、蕎麦しか食べられなくなったとしても、絶対に食わん。その辺の草を食べて飢えをしのぐ方がマシだ――――。
以前、百目鬼はそう断言していた。
その蕎麦が今、彼の頭から上等なスーツに至るまで、容赦なく降りかかっていた。スーツには蕎麦の汁がびっしょりと染み込んでいる。
「御影えええええええっぇえええぇっ!!!?!!??!??!??」
雷が落ちた。
そして現在。
社長室に呼び出された御影の前には、新しいスーツに着替えた百目鬼が立ちはだかっていた。三人の部下に身なりを整えてもらったらしいが、その表情には隠しようのない怒りが浮かんでいる。
唇はきつく嚙み締められ、口元が怒りで歪み、青筋が額から首筋にかけて浮かび上がっている。眉間に深い皺が刻まれ、吊り上がった目が血走っている。これを鬼のような形相と言う・・・御影は考える。
・・・もう少し、蕎麦大盛りにしといた方がよかったかな。・・・蕎麦の量によって、社長の怒り具合も変わるのだろうか。
蕎麦の量について深く考えなかったことを、ちょっと後悔しながらも、それを表には出さず、御影は、とても申し訳なさそうな顔で、謝罪した。
「申し訳ありませんっ!!私としたことが!私の重大な過ちにより、多大なるご迷惑をおかけしてしまいました。誠に面目次第もございません。社長、もはや、ここに留まる資格など私にはないです...」
「もう良い!御影!貴様はこの調査所を出て行くのだっ!今すぐだっ!!貴様のような私の大嫌いな蕎麦を誤ってぶっかけてくる、馬鹿な研究者の顔などもう二度と見たくない!!」
こうして、長年良好だった二人の関係は、たった一杯の蕎麦によって崩壊した。
「はい。約八年間、大変お世話になりました。ご達者で」
社長の三人の部下たちは、そんな・・・と止め、その一人の、荒城が言う。
「考え直してください!!百目鬼様っ!御影さんは誰よりも頭が冴え、幾多の難解な研究を成功させて来られた!この研究所が世に知られ、多くの協力者や企業に恵まれるようになったのも、すべて御影さんのご功績ではありませんか...!それなのに、こんなことで解雇になってしまうなんて...お考え直しを!」
「こんなこと?」
ギロッと百目鬼の目が荒城を捉えた。
「貴様は!蕎麦を頭からぶっかけられることが、ちっぽけなことだと言いたいのかっ!!」
ひぃぃっと、荒城は縮こまる。御影は、くいっと眉を下げた。
「いい、荒城。これは私の不注意で起こったこと、重大な過ちだ。これは当然の判断だ。君も、己の不注意には十分気を付けるのだよ...」
くぅぅうううっと歯を食いしばる社長を残して、御影はすたすたと研究所を去った。
午後二時、頭上から照り付ける太陽を背に受けながら、御影の部下の榊は研究所を見上げた。和洋折衷建築の研究所。木造の伝統的な屋根と、モダンな西洋風の赤レンガ壁。
御影は約八年間、この研究所で働いてきた。榊が初めて部下としてついた相手も、御影だった。熱心に研究に取り組み、数々の功績を上げてきた姿を、榊は誰よりも近くで見てきた。
だからこそ、御影があっさりと解雇を受け入れたことが、どうしても理解できなかった。
・・・なぜ、御影さんはこんなにも簡単に解雇を受け入れたんだ。あの強情で頑固な御影さんなら、何かしら理由をつけて解雇を免れようとするはずだ。職を失えば、再就職だって簡単ではない。それなのに、御影さんは少しも落ち込んでいない。まさか……最初から、解雇されるつもりだったのか?
いや、待て。そもそも、あれほど優秀な御影さんが、何もない廊下で転んで蕎麦を落とすなんて、あり得るのか?……いや。時々、妙に抜けている人だからな。あり得ないとは言い切れない。
榊はまっすぐに御影を見る。つい先ほど解雇を言い渡されたにもかかわらず、全く落ち込んでいない。むしろ清らかな顔だ。腑に落ちない顔でぼおっと立ち止まる榊を御影は催促する。
「榊くん!何してるの?建物なんか見上げちゃって。もう見慣れてるだろう。それとも何か面白いものでも見つけた?」
御影は部下の榊が建物を見上げたまま突っ立っているので、不思議に思った。
すると、振り返った榊は、真っ向から直射日光を浴びながら言った。
「何を考えているのですか?御影さん。どうしてそのような晴れやかな顔をされているのですか。なぜ落ち込んでないのですか。普通は!解雇されたのが、社長にお蕎麦をかけて怒りを買ってしまったからだなんて、僕だったら落ち込みますよ!すっごく恥ずかしいし!いや普通は!蕎麦なんてかけません!頭から!」
「そう。まあ君だったらそんなミスしないだろう。意図的なミスなんだから」
「意図的なミス?まさか...蕎麦をかけたのはわざと社長に解雇してもらうための御影さんの作戦だったんですか?」
御影はうん!と笑う。榊は絶句した。
「うんじゃないです。そんなことのために食べ物を無駄にしたのですか!!?ダメです!罰が当たります!」
失望した顔で自分を見てくる榊に、御影は言った。
「榊くんと私は、四六時中新しい物質を作ったり、未知の物質を発見したり、化学反応を調べたり……ずっと科学実験をして、結果を分析して、研究してきただろう?
でも、君も知っていると思うけど、私には大事な趣味がある。怪奇について調べることだ。できることなら、さっさと研究所を辞めて、もっと自由に調べたかったんだよ」
「……言い方が悪いですよ。見損ないました」
「問題は、辞めてもそう簡単には次の仕事が見つからないことだったんだ。ここの研究員は給料もいいし、安定しているからね。辞めるのは少し躊躇していた。でも、だいぶお金も貯まったし、仕事が見つからないなら、自分で作ればいいと思った、自分で研究所を開くんだ。私たちの科学の知識を使って、怪奇現象を解き明かし、それで稼いでいく。……私はずっとそれがやりたかったんだ。子どもの頃から、怪奇現象の正体を自分の手で突き止めたいと思っていた。それなのに、いつの間にか安定した仕事に就いて、それなりに満足していた。もちろん、科学の研究も面白かったがね。でも、今日、ふと思ったんだ。別に、今の仕事にしがみつく必要なんてないじゃないかって。ああ、今だ。今、辞めよう。そう思ったんだよ」
「突発的ですね・・・とはいえ、別に蕎麦をかけなくても、社長に直接談判したらよかったと思います」
「終わったことだよ?くよくよしないで」
「なに開き直ってるんですか。くよくよしてないし……御影さん。僕も一緒に行きます」
「榊くん、君もかい?・・・無職の上司についていっても、何もないよ?」
「僕はこれからも、御影さんと一緒に研究を続けたいんです」
研究所を後にした二人は、ひとまず近くの寮へと向かった。
「これから、どうするつもりなんですか? 行く当てはあるんですか?」
「あるよ。長野県の松本市だ」
御影は、まるで最初から決めていたかのように答えた。
「松本には・・・月曜日から土曜日の午前0時に、2階の窓から灯りが10秒間灯る屋敷がある」
「・・・それって...たしか、新聞に載っていたものですよね?」
あぁ、と御影は荷物を整理しながら、答えた。
二人は荷物をまとめていた。
「御影さん。それも持って行くのですか?」
「うん」
御影が机の上の薬品を丁寧に片づけている。榊が「それも松本に持っていくんですか」と尋ね、御影が「当然だろう。あれは私の研究の中でも、特に大切なものだからね」と答えた。
そして――――長野県松本市にある田舎の屋敷に住み始めた二人は、科学の研究をする傍ら、新聞に載っている怪異についてチェックして過ごしていた。屋敷は調査のために借り受けたものだった。1週間ほど経って、だいぶ生活にも慣れてきた時のこと。いつも通り、午前11時30分になっても、起きてこない御影に榊は朝食を用意し、居間兼研究メインスペースに運んだ。
「御影さん。朝食できてます」
隣の寝室に繋がる襖に向かって、声をかける。
榊は朝食をとった後、科学の実験をして、書きかけの論文を書き上げた。まだ起きてこない。
「御影さん?」
呼んでも返事がない。いつもなら「うるさい」と返ってくるはずなのに。
・・・何かあったのだろうか。
榊は眉をひそめ、襖を開けた。
布団の中に、人がいる。
そこまではよかった。
「……え?」
見知らぬ女性が、静かな寝息を立てていた。
榊はそっと襖を閉めた。
一秒。
二秒。
もう一度、開けた。
女性は、まだそこにいた。
「……御影さん?」
返事はなかった。




