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 夜の帳が公爵邸を飲み込み、松明の炎が不規則に揺れている。

 俺は庭園の隅、見張り台の死角となる植え込みに身を潜め、リリアンから受け取った見取り図を脳内で反芻していた。


……ふん、ザル警備だな。


 私兵たちの警備記録によれば、二十分おきに三人の巡回が通るはずだが、実際には周期がかなり遅れている。角を曲がった先で、甲冑の擦れる音と、緊張感の欠片もない雑談が聞こえてきた。


「……おい、聞いたか? カトリーヌ様のことだよ」

「ああ、ハンス爺さんも料理長も消えたって話だろ。最近のお嬢様は、目が笑ってねえんだよ。昨日なんか、誰もいない廊下に向かって、見たこともねえ言葉で叫んでたって話だぜ」

「関わらないのが一番だ。あの屋敷の地下からは、時折、獣の鳴き声みたいな悲鳴が聞こえるって噂だ。……イカれてやがる」


 通り過ぎる兵士たちの背中を見送りながら、俺は鼻を鳴らした。

 イカれた雇い主、消える使用人、そして地下からの悲鳴。役者は揃いすぎている。戦場や裏社会で嫌というほど見てきた「破滅の予兆」だ。

 俺は音もなく影を渡り、屋敷の勝手口をピッキングし、内部へと侵入した。


 頭の中の見取り図と現状を照らし合わせる。

 豪華な装飾が施された廊下、不自然に配置された美術品。だが、俺の観察眼は隠された「歪み」を見逃さない。

 北棟の突き当たり、図面上では厚い壁となっているはずの場所だが、床の絨毯の摩耗具合がそこだけ不自然だ。重い荷物を引きずったような跡、そして、微かに漂う鉄錆の匂い──血の匂いだ。


 隠し通路の入り口。その前に、警備記録にはない衛兵が一人、険しい顔で立っていた。

 迷いはない。俺は気配を完全に殺し、奴の背後に回った。


「……動くな」


 冷たい鋼の感触を、奴の喉元に押し当てる。

 衛兵が短く息を呑む。俺は素早く奴の腰から剣を奪い取り、床へ放り投げた。金属音が響く前に、足でそれを遠くへ滑らせる。


「カトリーヌはこの先か?」


「あんたは……誰だ……っ」


「質問をしてるのは俺だ、答えろ。さもなくば、このまま喉を掻っ切る。……痛いぞ」


 ナイフの刃をわずかに食い込ませる。奴の身体が恐怖で硬直した。


「わ、分からない……。だが、おそらくそうだ。お、俺はレティアス。確かにカトリーヌ様の私兵だが……お嬢様は最近おかしいんだ。だから、俺も独断で調べてたんだ」


「どうおかしい?」


「屋敷の使用人が次々と消えている。皆の噂じゃ……彼女が殺してるって、話だ」


 レティアスの声は震えていた。その瞳には、裏切りへの迷いよりも、主への純粋な恐怖が勝っていた。


「両手を後ろに。抵抗するなよ。どうなるか、分かっているだろう?」


 レティアスは大人しく従った。俺は手際よくロープで奴の腕を縛り上げると、遠ざけるように突き放した。


「分かってる。従うから、殺さないでくれ……」


「……黙ってろ」


 俺は懐から『エルフの結晶石』を取り出した。微かな魔力を流すと、目の前の壁を覆っていた幻影の魔法が霧のように霧散し、重厚な鉄の扉が姿を現した。


「あんた、リリアン嬢に雇われたのか? それとも……」


「黙って前を向いて歩け。妙な真似をしたら殺す。よし、さっさと行け」


 レティアスの背中を押し、地下への階段を降りる。

 冷たく湿った空気が、地下室特有の腐敗臭を運んできた。階段を下りきった先、開かれた扉の向こうで、俺は最悪の光景を目にした。


 全身、返り血で真っ赤に染まった女──恐らくカトリーヌが、ぐったりとした新人メイドの遺体を引きずり、部屋の隅にある「穴」へと運んでいるところだった。


「ひっ……! 料理長だけじゃなく、アナまで……!」


 レティアスが驚愕に声を漏らす。

 カトリーヌは驚く様子もなく、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔は返り血で汚れ、もはや高貴な令嬢の面影などない。無表情のまま、俺の目をじっと見つめてくる。その瞳は、深淵のように暗かった。


「……彼女を降ろせ。ゆっくりだ」


 俺が剣の先で指示すると、カトリーヌは人形のような動きでメイドの遺体を床に置いた。怯える様子も、罪悪感も微塵もない。

 俺は剣の先で、さらに奥の扉を二度、弾くように指した。


「そっちだ。さっさと行け」


 カトリーヌは大人しく従い、先へと進む。レティアスを押し、その後ろに付かせ、俺も後に続く。

 扉の先には、豪奢だが異様な「檻」があった。

 そこに、やつれ果て、鎖に繋がれた男がいた。エドリックだ。


「エドリック様!? そ、そんな……!? まさか本当に、ここに!?」


 レティアスの叫びに、エドリックが力なく顔を上げた。


「エドリック、大丈夫か? 今助けてやる」


 俺が歩み寄ろうとした、その時だった。


「彼は誰にも渡さない!!!!」


 静寂を切り裂く、狂った咆哮。

 カトリーヌが、床に落ちていた火かき棒をひったくり、エドリックの喉元めがけて突っ込んだ。


「よせ!!」


 俺は反射的に剣を振るい、火かき棒を弾き飛ばそうとした。

 だが、カトリーヌの動きは予想以上に速く、そして支離滅裂だった。弾かれた火かき棒が空中で回転し、彼女自身がのめり出すように抵抗した結果──。


 鈍い音がして、火かき棒の鋭い先端が、カトリーヌ自身の首筋に深く突き刺さった。


「…………ッ」


 声にもならぬ悲鳴。

 鮮血が噴き出し、カトリーヌがその場に崩れ落ちる。


「カ、カトリーヌ様!?」


 レティアスが駆け寄ろうとする。俺はすかさず剣先を奴に向けた。


「動くな、動くな!! 跪け、跪け!!」


 威圧に押され、レティアスがその場に膝をつく。

 俺はすぐさまエドリックの元へ寄り、氷結魔法を込め、鎖を凍らせ、凍らせた箇所を剣で叩き割った。


「ガボッ……ゴボッ……」


 床に這いつくばったカトリーヌが、血の泡を吹きながら、こちらへ片腕を伸ばしている。


「わたさ……ない……私の……私の……世界……」


 執念。あるいは呪いか。

 俺を睨みつける彼女の瞳に、悪魔の影を見た気がした。だが、それが彼女自身の本性なのか、あるいは何者かの魔法によるものなのか、今の俺には知る術はない。


 ただ、見殺しにすることはできなかった。

 かつて、俺は自らの過ちで、救えるはずの命を、自らの手で死へと導き、救えなかったことが何度もある。その記憶が、俺の足を止めさせた。


エドリックに歩み寄る。


「歩けるか?」


「ああ……な、なんとか……」


 エドリックがふらつきながらも、俺の肩を借りて立ち上がる。


「このままじゃ、カトリーヌ様が死んでしまう! 頼む、助けてくれ!」


 レティアスが必死に訴える。俺は奴の拘束を、短剣で断ち切った。


「……助けてやれ。だが妙な真似をすれば、次は躊躇せん」


「分かってる……応急処置をする!」


 レティアスがカトリーヌに駆け寄るのを見届け、俺はエドリックを支えて地下室を素早く脱出した。

 背後から、レティアスが必死に主の名を呼ぶ声が聞こえてくる。


 俺たちは屋敷を後にした。

 振り返っても、追ってくる者は誰もいなかった。

 ただ、あの地下室の重い沈黙と、狂った令嬢の執念深い眼差しだけが、泥のように俺の意識にこびりついて離れなかった。

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