表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

6

 ハンスが消えてから、屋敷の空気は目に見えてよどみ始めた。

 長年、公爵家の心臓として機能していた老執事の不在は、時計の歯車が一つ欠けたような違和感を、末端の使用人にまで撒き散らしている。


「ハンスは急な病で引退しました。静養先は私が手配したわ。これからは、私が直接この屋敷の差配を執り行います」


 朝の広間。私の宣言に、メイドたちは一様に視線を伏せた。

 彼らの脳裏には「なぜ一言の挨拶もなく?」という疑問が浮かんでいるだろう。けれど、それを口にする勇気がある者はいない。私の背後に控える私兵たちの冷徹な視線が、彼らの舌を凍らせているからだ。


 私は自室に戻ると、机の引き出しから一冊の革張りの手帳を取り出した。

 それは、公爵家の資産目録ではない。

 ──『不純物リスト』

 私の世界、すなわちエドリックとの聖域を守るために、排除すべき人間の名前を記した死の帳簿だ。


(……料理長。最近、地下へ運ぶ食事の量に首を傾げていたわね。次はこの人かしら)


 羽ペンを走らせる。前世でバッグを奪われた時、私は何もできなかった。けれど今は、ペン一本で邪魔者の運命を「生ゴミの穴」へと書き換えることができる。この全能感こそが、今の私の唯一の報酬だった。



────



 その日の午後、私は隣国との外交に関わる公務のため、王城へと向かった。

 完璧な淑女として、冷徹な交渉者として、私は数時間を「演技」に費やす。頭の片隅では常に、地下に閉じ込めたエドリックの怯えた瞳を反芻しながら。


 あるじが不在となった公爵邸。

 その門前に、一台の馬車が音もなく止まった。

 降り立ったのは、エドリックの妹、リリアン伯爵令嬢だ。


「申し訳ございません、リリアン様。カトリーヌ様からは、何人なんぴとたりとも屋敷へ通すなとの厳命を受けております」


 守衛の騎士が槍を交差させる。だが、リリアンは怯むどころか、慈悲深い聖女のような微笑みを浮かべてみせた。


「あら、困ったわ。兄の私物の中に、カトリーヌ様にお渡ししなければならない大切な『お守り』が見つかりましたの。彼女がいま、どれほど心を痛めているか……。一刻も早くお届けして差し上げたいのです。……それとも、貴方は公爵令嬢の心の安らぎを邪魔するおつもり?」


 リリアンの言葉には、有無を言わせぬ貴族の威圧感と、相手の良心に付け入る巧妙な毒が混じっていた。守衛は顔を見合わせ、数秒の沈黙の後、ついに道を開けた。


 リリアンは迷いのない足取りで屋敷へと踏み込む。

 彼女が向かったのは、カトリーヌの部屋でも、兄が使っていた客間でもない。

 ──執事ハンスの事務室だ。


「伯爵家と公爵家、古い付き合いですもの。似たような仕掛けは、どこにでもあるわ……」


 彼女はハンスのデスクの脚にある、小さな節穴を指先でなぞった。カチ、という乾いた音がして、引き出しの底がわずかに浮き上がる。

 そこには、ハンスが消える直前まで綴っていた私的なメモが隠されていた。


『カトリーヌ様の不可解な支出。地下への過剰な配膳。私兵の夜間動員。……エドリック様は、もしや屋敷の中に──』


 リリアンの瞳が、氷のように冷たく冴えわたった。

 彼女はメモを素早く懐に隠すと、何食わぬ顔で事務室を後にした。



────



 夜。

 公務を終え、屋敷に帰還した私を待っていたのは、エドリック捜索隊の指揮官だった。


「お嬢様! 朗報です。隣領の森で、エドリック様のものと思われる外套の切れ端が発見されました! すぐに人員を倍増し、夜通しで山狩りを行えば──」


 指揮官は興奮気味に、泥に汚れた布片を差し出した。

 私はそれを一瞥し、無感情に言い放つ。


「……そう。ご苦労様。でも、夜通しの捜索は兵の体力を削るわ。明日の朝まで待機しなさい」


「は? しかし、一刻を争う事態です! 彼が生きていれば──」


「命令よ。流しなさい、その報告は。……私は疲れているの」


 私は指揮官の言葉を遮り、背を向けて歩き出した。

 指揮官は、去りゆく私の背中を、言葉にできない不気味さを感じながら見つめていた。

 婚約者を必死で探しているはずの令嬢が、有力な手がかりに「興味」すら示さない。その矛盾が、彼の忠誠心に小さな、けれど消えない火種を灯した。


 私は一人、自室へと戻る。

 地下の「聖域」へ向かう前に、私は再び『不純物リスト』を開いた。


(指揮官、あの人ももう限界ね。ハンスと同じ穴に送らなきゃ)


 名前を書き加える音が、静まり返った部屋に響く。

 前世で奪われたあのバッグ。

 中に入っていたエドリックのグッズは、あの日、踏切の向こう側で男に奪われ、泥にまみれて永遠に失われた。

 けれど今は、本物のエドリックが私の地下室にいる。

 彼を守るための代償が、死体の山であっても構わない。

 私は、汚れのない白い手袋をはめ直し、地下へと続く鍵を握りしめた。


「待っていて、エドリック。今夜は、あなたが一番好きだったシーンの再現をしましょう……」


 鏡の中の私は、完璧に美しい、壊れた聖女のような顔をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ