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ハンスが消えてから、屋敷の空気は目に見えて澱み始めた。
長年、公爵家の心臓として機能していた老執事の不在は、時計の歯車が一つ欠けたような違和感を、末端の使用人にまで撒き散らしている。
「ハンスは急な病で引退しました。静養先は私が手配したわ。これからは、私が直接この屋敷の差配を執り行います」
朝の広間。私の宣言に、メイドたちは一様に視線を伏せた。
彼らの脳裏には「なぜ一言の挨拶もなく?」という疑問が浮かんでいるだろう。けれど、それを口にする勇気がある者はいない。私の背後に控える私兵たちの冷徹な視線が、彼らの舌を凍らせているからだ。
私は自室に戻ると、机の引き出しから一冊の革張りの手帳を取り出した。
それは、公爵家の資産目録ではない。
──『不純物リスト』
私の世界、すなわちエドリックとの聖域を守るために、排除すべき人間の名前を記した死の帳簿だ。
(……料理長。最近、地下へ運ぶ食事の量に首を傾げていたわね。次はこの人かしら)
羽ペンを走らせる。前世でバッグを奪われた時、私は何もできなかった。けれど今は、ペン一本で邪魔者の運命を「生ゴミの穴」へと書き換えることができる。この全能感こそが、今の私の唯一の報酬だった。
────
その日の午後、私は隣国との外交に関わる公務のため、王城へと向かった。
完璧な淑女として、冷徹な交渉者として、私は数時間を「演技」に費やす。頭の片隅では常に、地下に閉じ込めたエドリックの怯えた瞳を反芻しながら。
主が不在となった公爵邸。
その門前に、一台の馬車が音もなく止まった。
降り立ったのは、エドリックの妹、リリアン伯爵令嬢だ。
「申し訳ございません、リリアン様。カトリーヌ様からは、何人たりとも屋敷へ通すなとの厳命を受けております」
守衛の騎士が槍を交差させる。だが、リリアンは怯むどころか、慈悲深い聖女のような微笑みを浮かべてみせた。
「あら、困ったわ。兄の私物の中に、カトリーヌ様にお渡ししなければならない大切な『お守り』が見つかりましたの。彼女がいま、どれほど心を痛めているか……。一刻も早くお届けして差し上げたいのです。……それとも、貴方は公爵令嬢の心の安らぎを邪魔するおつもり?」
リリアンの言葉には、有無を言わせぬ貴族の威圧感と、相手の良心に付け入る巧妙な毒が混じっていた。守衛は顔を見合わせ、数秒の沈黙の後、ついに道を開けた。
リリアンは迷いのない足取りで屋敷へと踏み込む。
彼女が向かったのは、カトリーヌの部屋でも、兄が使っていた客間でもない。
──執事ハンスの事務室だ。
「伯爵家と公爵家、古い付き合いですもの。似たような仕掛けは、どこにでもあるわ……」
彼女はハンスのデスクの脚にある、小さな節穴を指先でなぞった。カチ、という乾いた音がして、引き出しの底がわずかに浮き上がる。
そこには、ハンスが消える直前まで綴っていた私的なメモが隠されていた。
『カトリーヌ様の不可解な支出。地下への過剰な配膳。私兵の夜間動員。……エドリック様は、もしや屋敷の中に──』
リリアンの瞳が、氷のように冷たく冴えわたった。
彼女はメモを素早く懐に隠すと、何食わぬ顔で事務室を後にした。
────
夜。
公務を終え、屋敷に帰還した私を待っていたのは、エドリック捜索隊の指揮官だった。
「お嬢様! 朗報です。隣領の森で、エドリック様のものと思われる外套の切れ端が発見されました! すぐに人員を倍増し、夜通しで山狩りを行えば──」
指揮官は興奮気味に、泥に汚れた布片を差し出した。
私はそれを一瞥し、無感情に言い放つ。
「……そう。ご苦労様。でも、夜通しの捜索は兵の体力を削るわ。明日の朝まで待機しなさい」
「は? しかし、一刻を争う事態です! 彼が生きていれば──」
「命令よ。流しなさい、その報告は。……私は疲れているの」
私は指揮官の言葉を遮り、背を向けて歩き出した。
指揮官は、去りゆく私の背中を、言葉にできない不気味さを感じながら見つめていた。
婚約者を必死で探しているはずの令嬢が、有力な手がかりに「興味」すら示さない。その矛盾が、彼の忠誠心に小さな、けれど消えない火種を灯した。
私は一人、自室へと戻る。
地下の「聖域」へ向かう前に、私は再び『不純物リスト』を開いた。
(指揮官、あの人ももう限界ね。ハンスと同じ穴に送らなきゃ)
名前を書き加える音が、静まり返った部屋に響く。
前世で奪われたあのバッグ。
中に入っていたエドリックのグッズは、あの日、踏切の向こう側で男に奪われ、泥にまみれて永遠に失われた。
けれど今は、本物のエドリックが私の地下室にいる。
彼を守るための代償が、死体の山であっても構わない。
私は、汚れのない白い手袋をはめ直し、地下へと続く鍵を握りしめた。
「待っていて、エドリック。今夜は、あなたが一番好きだったシーンの再現をしましょう……」
鏡の中の私は、完璧に美しい、壊れた聖女のような顔をしていた。




