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 カチ、カチ、カチ……。

 脳裏で鳴り続ける踏切の警告音が、現実の時計の音と重なって響く。

 あの日、私は奪われた。

 あの日、私は踏みにじられた。

 だから、今の私は、私の「世界」を脅かす不純物を、一粒たりとも許さない。たとえそれが、幼い頃から私に礼儀作法を教え、雨の日には傘を差し出してくれた、初老の執事、ハンスであったとしても。


「……お嬢様。失礼ながら、最近のご様子はあまりに……不可解でございます」


 地下へと続く隠し扉の前。

 燭台を手にしたハンスが、深い皺の刻まれた顔に「落胆」を浮かべて立っていた。

 彼は有能すぎた。地下に運び込まれる食事の内容が、行方不明のエドリック様の好物ばかりであること。そして、私が夜な夜な、誰も通さぬはずの北棟の地下へ消えていくこと。彼はそれらを繋ぎ合わせ、一つの「正解」に辿り着いてしまったのだ。


「何が不可解なのかしら、ハンス。私はただ、エドリック様の無事を祈り、一人で静かに過ごしたいだけよ」


 私の声は、夜会の時と同じように澄んでいた。完璧な令嬢のメロディ。

 だが、ハンスは首を振った。


「私兵の動員費用、そして裏ルートで購入されている……精神を鎮めるための強い薬物。お嬢様、何をしておられるのですか。その扉の先には……一体何があるのですか?」


 ハンスが一歩、踏み出す。

 私の心臓が、あの踏切の瞬間のようにはねた。

 奪われる。彼が扉を開ければ、私の「聖域」が暴かれる。エドリックが連れ出され、私はまた、角の擦り切れたバッグを抱えて泥の中に転がされるのだ。


 ──いや。絶対に、嫌。


 私は、背後に隠していた重厚な鉄製の火かき棒を、ドレスの膨らみで隠しながら微笑んだ。


「……そう。そんなに疑うのなら、自分の目で確かめればいいわ。何もないわよ。見てみる?」


 私はゆっくりと、隠し扉の鍵を開けた。

 ハンスは、どこか安堵したような、それでいて警戒を解かぬ足取りで、私の先に立って暗い階段を降りていく。

 一段、二段。カチ、カチと靴音が響く。


 そして、最下層。エドリックの籠る「聖域」の扉。


その扉が開いた瞬間だった。


「逃げろ!! ハンス、逃げるんだ!!」


 ベッドに繋がれたエドリックが、枯れた声を振り絞って叫んだ。

 ハンスの目が見開かれる。驚愕が彼の顔を支配し、彼が私を振り返ろうとした、その瞬間。


「……私の邪魔をしないで」


 私は両手で火かき棒を振り抜き、渾身の力を込めてハンスの後頭部を叩きつけた。


 鈍い、嫌な音が地下室に響く。

 ハンスは抵抗する間もなかった。ハンスの身体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、彼の手から離れた燭台が床を転がって、不気味な光を壁に投げかける。

 ハンスの頭から溢れ出した赤黒い液体が、高価な絨毯の毛足にじわりと吸い込まれていった。


「あ……ああ……」


 エドリックが、見たこともないほどガタガタと震えながら、絶句している。

 私は、荒い呼吸を整えようともせず、ただ立ち尽くしていた。

 右手に伝わる、骨を砕いた感触。重いしびれ。

 前世で私を足蹴にした男の衝撃は、きっとこんな風だったのだろうか。

 私は今、奪われる側から、奪う側へと完全に境界線を越えたのだ。


「ハンス……? ねえ、ハンス。貴方は私に、レディは常に冷静であれと教えたわよね。……見て、私、とっても冷静よ♪」


地面に捨てた火かき棒が音を立てる。

 私は、返り血が飛んだ頬を拭うこともせず、無機質な瞳で床の遺体を見つめた。

 かつて私を慈しんでくれた老人の死。悲しみはない。あるのは、不純物を排除できたという、ひどく冷淡な安堵感だけだった。


「カトリーヌ……君は、君は……」


 エドリックの歯の根が合わない声が聞こえる。

 私は彼を一瞥もせず、ハンスの遺体の両脇を掴んだ。

 公爵令嬢の細い腕には不釣り合いな重労働。だが、火事場の馬鹿力のような、どす黒いエネルギーが身体中を駆け巡っていた。


 ズル、ズル、と遺体を引きずる音が、静まり返った地下室に響く。

 私は彼を、部屋の隅にある鉄の蓋へと運んだ。

 それはかつて、この屋敷が要塞として機能していた時代、生ゴミや汚物を一括して処理するために使われていた、深さ十数メートルにおよぶ竪穴。今はもう、誰もその存在すら覚えていない。


「……さようなら、ハンス。貴方の教えは、忘れないわ」


 私は無言で蓋を開け、ハンスの身体を暗闇の底へと突き落とした。

 数秒後、遠くで「どさり」という鈍い音が響き、すべてが終わった。


 私はゆっくりと蓋を閉め、エドリックの方を振り返る。

 彼は、もはや叫ぶことすらできず、シーツを握りしめて小さく丸まっていた。

 その瞳に宿っているのは、憎悪を通り越した、根源的な「恐怖」だ。でも、そんな彼も愛おしい。


「ねえ、エドリック。これで邪魔者は消えたわ。……これで、またこの世界には私たち二人だけ」


 私は、血に汚れたままの万年筆をポケットから取り出し、うっとりとそれを眺める。

 あの日、バッグを奪われた絶望。

 今日、私はそれを完璧に克服した。

 私の「推し」を、私の「命」を。

 邪魔するものは、例え誰であっても、この穴に捨ててあげましょう。


「……ンフフ。ねえ、エドリック。さっきの『逃げろ』って声、とっても迫力があったわ。公式の追放イベントの時のトーンにそっくり。……ねえ、もう一度、もう一度、私のためだけに、聴かせてくれる?」


 私は震える彼の隣に腰掛け、血の匂いを纏ったまま、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

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