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地下室の空気は、甘い香油の匂いと、逃げ場のない絶望の濁った気配が混ざり合っていた。
私は手元にある羊皮紙──前世の記憶を頼りに、彼がかつて(あるいは未来に)口にしたはずの「限定SSRカード・親愛度MAX」の台詞を書き起こしたもの──をエドリックに突きつけた。
「さあ、エドリック。これを読んで。……私が一番欲しかった、あの時のあなたの声で」
エドリックは震える手でその紙を受け取った。彼には、そこに書かれた文字が自分の運命を縛る呪文に見えているのかもしれない。
「……『君が、私の光だ。たとえ、世界が闇に包まれても……私は、君の手を……離さ、ない……っ』」
語尾が、恐怖で細く裏返る。
その瞬間、私の内側で何かがパチンと弾けた。
「違うッ!!」
私は彼の胸ぐらを掴み、ベッドへと押し倒した。顔を寄せると、彼の瞳に映る自分の顔が、ひどく歪んで見えた。
「本物のエドリックは、そんな情けない声は出さないわ! もっと優しく、慈愛に満ちて……そう、アプリの2分30秒あたりの、あの吐息混じりのトーンで言って! 語尾はもっと、私を溶かすように甘く沈み込ませるのよ!」
「アプリ……? 2分……? 何を言っているんだ、カトリーヌ、私は……」
「黙って! 公式があなたの情報を出さないから、私があなたの性格も、好きな食べ物も、私への愛し方も、全部『解釈』で埋めてあげたの! 完璧なパズルのように、私が作り上げたあなたが『正解』なのよ。だから、その通りに振る舞って!!」
私の叫びが、地下の冷たい壁に反響する。
エドリックは、私の愛が本気だと、ようやく悟ったのだろう。彼は絶望の淵で、私を愛するための「正解」を探し当てるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
次に彼が目を開けた時、そこにはこれまでとは違う、ガラス細工のような無機質な美しさが宿っていた。
「……わかった。君がどう振る舞って欲しいか言って。そうすれば、私は……その通りに従うから」
その言葉を聞いた瞬間、私はひどく失望したように吐き捨てた。
「……本物は、そんなこと言わなくても、私の期待に応えてくれていたわ」
「今は……私は君だけのものだから。君が望むエドリックになるよ、カトリーヌ。チャンスが欲しい。お願いだ」
彼が紡いだその言葉。
私の記憶にある「エドリック」は、そんな甘ったるい降伏の言葉を口にしたことはなかった。
けれど──。
「ああ……。あなたが私の事を……。そんなセリフ、あっち(前世)にはなかった。そうね、他のファンは味わえなかったことを、ただ、ただ私だけが、今こうして味わっている。そうよ! そうなのよ! さっきの情けない声も、裏返った震えも、私しか知らないあなたの『真実』の一面……!」
私は歓喜に打ち震え、彼の首筋に顔を埋めた。
公式さえも知らないエドリックが、今、私の腕の中にいる。これこそが、命を賭して彼を手に入れた私への、至高の報酬。
「なんて、なんて素敵なことなの……っ! ああ、愛しているわ、エドリック」
私は彼の拘束を、少しだけ解いてあげた。
彼は従順に私を受け入れているように見えた。。でも、ほんの少し、その瞳の奥深く、底なしの暗闇に渦巻く激しい「憎悪」に、私は、自分でも気づかない振りをしていたのかもしれない。
────
翌日。
私は公爵令嬢として、王都のきらびやかな夜会にいた。
昨夜の狂気が嘘のように、私は完璧な淑女として、シャンパングラスを傾ける。
「カトリーヌ様、お顔の色が優れないようですけれど。やはり、エドリック兄様のことが御心配で?」
背後からかけられた声に、私の心臓が僅かに跳ねた。
振り向くと、そこにはエドリックの妹、リリアン伯爵令嬢が立っていた。
あの報告の日、私を真顔で見つめていた、あの少女だ。
「ええ……。夜も眠れず、彼の無事を祈っておりますわ。私の領地で見失ったこと、本当に申し訳なく……」
私はハンカチを口元に当て、悲劇のヒロインの仮面を被る。
だが、リリアンの瞳は冷ややかに私を射抜いていた。
「不思議ですわ。兄様は非常に慎重な方でした。賊に襲われるような隙を見せるとは思えません。……それに、カトリーヌ様。貴女のその万年筆、兄様が大切にしていた、祖父の『形見』の物と瓜二つですわね。まるで、兄様がそこにいるかのように、大切に持っていらっしゃる」
彼女の視線が、私の胸元のポケットに刺さる。
私は微笑みを絶やさぬまま、狂気の冷静さで言葉を返した。
「ええ、これは私の『お守り』ですの。彼が戻ってくるまで、肌身離さず持っていようと決めておりますのよ。妹君である貴女なら、この気持ち、分かってくださるでしょう?」
苦しい言い訳で、体に寒気が走り、全身に冷や汗が流れたように感じる。
リリアンは何も答えず、ただ私の目をじっと見つめ返してきた。
その沈黙が、私の完璧な箱庭に、一筋の亀裂を走らせてしまったように感じた。




