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私の心には、涙が浮かんでいる。前世で、彼を愛しながらも、決して触れることのできなかった、あの絶望的な距離。それが今、この手の中に、この温もりとして存在していることへの、狂おしいほどの歓喜の涙が溢れる。
「……ねえ、今度はあなたの声で、私の愛が『正解』だって言ってくれる? お願い、あなたの言葉が欲しいの。ねえ? お願い。お願い、早く言って」
私の懇願は、次第に切迫した命令へと変わっていく。
私の愛を、彼自身に肯定させなければならない。それが、私がこの世界で生きるための、たった一つの証明なのだから。
エドリックは、青白い唇を震わせ、私という存在を見つめていた。
「ああ……ああ! き、君がすべて……すべて正しいよ、カ、カトリーヌ。本当に……」
彼のその言葉は、私にとっては、宇宙で最も美しい真実の言葉だった。
「……ンフフ♪ ありがとう♪ ねえ、もう少し聞いて」
私は、彼の答えに陶酔しながら、さらに記憶の蓋を開けていく。
「私の部屋、あなたのために片付けたことがあるのよ。それまではね、もっと雑然としてたんだけど、あれからは、あなたの視線がどこからも遮られないように、家具の配置を数センチ単位で調整したの。あなたに見守られるためじゃなくて、私があなたの視線の邪魔をしないように。これがファンとしての最低限の礼儀だと思ったから」
家具を捨て、生活スペースを削り、ただ彼を祭るための空間。
「あなたの壁の写真もね、全部同じ日の、同じ角度のあなたで埋めたことがあったわ。『なんで同じものを何百枚も?』なんて聞く人もいたけれど、全然違うのよ。印刷されたインクの乗り方が0.01mgずつ違うから、朝の光に反射するあなたの『憂い』も、一枚ごとに微妙に変化したの。それを全部、網羅してあげたかった。そうして初めて、あなたの『真実』に触れられる気がしたから。……ふふ、いま思えば、ちょっとだけこだわりすぎだったかしら♪」
「ひっ……」
エドリックが小さな悲鳴を上げた。
何百枚もの自分に見つめられる部屋。その素晴らしい光景を想像したのだろう。
「スマホの通知音も、あなたが最後についた、あの『掠れた呼吸音』に設定していたのよ。不謹慎だって怒られそうだけど、私にとっては、あなたが最後にこの世界に刻んだ『生命の証』だった。通知が届くたびに、私の肺も同じリズムで疼いて……。それが嬉しくて、わざわざ自分宛にメッセージを送って、何度も、何度も、その音を聴いていたのよ。そう、何度もね」
「……も、もう、やめてくれ。頼むから……」
「それから、あんな『贅沢』もしたわ。あなたの好物の食材を、あなたが『毒』を盛られたあのシーンと同じようにして食べたの。わざと喉が焼けるような温度で。……もちろん、死なない程度にね? そうやって痛みを共有することで、私の血液が少しずつあなたの成分に置き換わっていくのが分かった。鏡を見たとき、自分の瞳の奥にあなたが住み着いているのが見えて……あの時は、人生で一番、本当に幸せだったの」
私は、自分の手首の動脈に指を這わせる。
私の体の中を流れる血は、もう、私だけのものじゃない。彼の苦痛と、彼の愛で満たされている。
「あ、それと思い出しちゃった。一度、スマホの充電器の予備を忘れそうになったことがあったわ。一瞬でもあなたの意識が途切れるのは、私の存在がこの宇宙から消えるのと同じことなのに。慌てて鞄を漁ったら、一番奥に、あのあなたの愛用している万年筆が触れたの」
私は、ドレスの隠しポケットから、一本の古い万年筆を取り出した。レプリカじゃない。本物の彼の万年筆。彼の指紋までついている。愛おしい、私の宝物。
「当時、フリマで半年分の給料が飛んじゃったけど、あなたと同じモデルの、この古い高級な万年筆だった。あれを握っている間だけ、私の指先は『あなたの指先』になれる。あなたの綴った絶望も、愛も、私の手首を通じて再現できるんだって信じてたのよ。ンフフ♪」
その万年筆は、エドリックが劇中で、最期の遺書を綴ったものと同じモデル。
私は、その万年筆を愛おしげに頬ずりする。
「ねえ、エドリック。どうしてそんなに引いた顔をしてるの? 私はただ、普通の人より少しだけ『誠実』でありたかっただけなのよ?」
私は、万年筆を彼の目の前に突きつけた。
怯え、困惑し、私を拒絶しようとする。でも世界で一番愛しい顔。
「……ねえ、今の私、あの頃よりはマシな『私』になれてるかな? あなたの口から直接聞きたいの。ねえ? エドリック。答えて、お願い」
私は、彼の顔にじりじりと顔を近づける。
前世の事故の接写が、脳裏をよぎる。
紐が切れる音。足蹴された衝撃。
あの日、私はすべてを奪われた。
けれど今は。
私の世界は。
この鉄扉の向こうにあるこの部屋で、完璧な形で存在している。
誰にも、もう二度と、奪わせはしない。




