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鉄扉の向こうは、時間が凍りついたかのように静まり返っていた。
豪奢な天蓋付きベッド、最高級の絨毯。そこは牢獄というよりは、蒐集品を飾るための美しい箱だった。
「……離せ。カトリーヌ、いい加減にしろ」
ベッドのヘッドボードに繋がれた銀の鎖を鳴らし、エドリックが掠れた声で私を睨む。その瞳には、公爵令嬢である私への敬意など微塵もなく、ただ底知れぬ怪物を見るような恐怖と嫌悪だけが宿っていた。
私は、彼が愛した最高級の蒸し菓子を銀のトレイに戻し、ゆっくりと彼に歩み寄る。
抵抗を続ける彼の頬を、冷たい指先でまたそっとなぞる。
驚くほどに温かい。この温もりが、前世では決して触れることのできなかった、画面の向こう側の「現実」。
「ああ、可哀想に、エドリック。そんなに大きな声を出して……喉が枯れてしまうわ。さあ、お願い。これを食べて」
「誰が貴様の差し出した物など……ッ!」
彼が顔を背けた拍子に、銀のトレイが床に落ち、高い音を立てて菓子が散らばった。
私は、落ちた菓子を一瞥もしなかった。ただ、彼を見つめる私の瞳の温度が、すっと数度下がる。
「……ふふ。まだ、外の世界が恋しいのね。あんなに汚れて、残酷な世界なのに」
私はベッドの縁に腰掛け、彼の拘束されていて動けない方の手を取った。彼がびくりと身体を硬くするのが分かる。
「ねえ、エドリック。今日はね。あなたが少しでも私の事を好きになってくれるよう、私がどれだけあなたという存在を大切に積み上げてきたか、教えてあげるわね」
私は、彼の手を自分の胸元──心臓の鼓動が伝わる場所へと引き寄せた。
「私の部屋、変だって言う人もいたんだけど、私にとってはそこが世界のすべてだったの。壁一面のあなたに囲まれて、毎朝『おはよう』って言うのが、私にとってのブラッシングや洗顔と同じルーティーンで、たった一つの生きる儀式だったんだよ。数えてみたら、ポスターと切り抜きで、壁紙が1mmも見えなくなっちゃって……。でもね、これって断熱材代わりなの。あなたの温もりで部屋を包むのが、一番合理的でしょ?」
「……な、何を、言っているんだ? ポスター……? 断熱……?」
エドリックが困惑に眉をひそめる。私が口にする言葉の意味が、この世界の彼には理解できるはずもない。けれど、私は構わずに言葉を紡ぎ続けた。これは、私と、私の記憶の中の「彼」との聖なる対話なのだから。少しずつ、理解してくれればいい。いいえ、彼が私の言葉を聞いてくれているだけで、嬉しい。
「でね、スマホを開くたび、あのロック画面のあなたに会える。先月のイベントで一瞬だけ見せた、あの書き下ろし。瞳のハイライトが右に2ピクセルずれてたの、私だけはすぐに気づいたよ。あれ、ミスじゃないよね? あなたが抱える『孤独』を、公式がこっそり私にだけ教えてくれた絶妙なサインだったんだよね」
私の指先が、彼の鎖骨をなぞる。
彼が劇中で負った、決して消えない傷跡がある場所。
「『……よし、今日も完璧』。そうやって毎日、あなたを充電器から解放してあげてた。ケースの裏に隠したあのコイン……あなたが劇中で命より大切にしてた幸運のレプリカ。あれをなぞるたび、あなたの心拍数が私の指に流れ込んできて、二人で一つの鼓動を刻んでるんだって確信できたの。シンクロ率を高めるのは、愛する者としての最低限のマナーだもんね」
「スマホ……、充電器……? カトリーヌ、貴様、呪術でも使っているのか……? 今すぐ……やめてくれ……」
エドリックの声が恐怖に震え始める。理解不能な語彙の羅列が、彼には高度な精神支配の呪文のように聞こえているのかもしれない。
その怯えた表情さえも、私には愛おしくてたまらない。だって、私だけしか知らない、彼の本当の姿だから。
「そして外を歩く時も、私のバッグの中にはあなただけの『小宇宙』を隠して歩いてたんだよ。飲みもしないワイングラスを忍ばせて、そして、あのメーカーの包帯も、いつだって新品を揃えて。もし明日、世界線がバグってあなたが傷だらけで私の前に現れても、すぐに手当てしてあげられるように。……ンフフ♪ ねえ、私、ちゃんと備えてたでしょ? だって、こうして本当に会えたんだから」
あの雨の日、紐が切れたバッグ。
あのバッグの中には、ワイングラスも、包帯も、彼の限定グッズも、すべてが詰まっていた。私の人生そのものが、あのバッグの中にあったのだ。
「電車の中では、あなたの名前を汚す不純な解釈を、一つずつ心の中で優しく訂正してあげてたの。あなたの『苦悩』を理解できない人たちの指の描き方や、数ミリの解釈違いを正してあげるのが、私なりの誠実さだったの」
「……」
エドリックはもう、何も言葉を発することができなかった。ただ、大きく見開かれた瞳で、私という存在を凝視し続けている。ああ、彼が私をこんなに真剣に見つめてくれている。その姿がどれほど愛おしいことか。
「みんなは、グッズに数百万もかける私を笑うけど。銀行に数字を預けるより、あなたの美しさという『絶対不変のプラチナレート』に、私の人生を全部換金した方が、よっぽど安全なのにね。ねえ? これって変なことかな? 私はただ、呼吸をするのと同じくらい自然に、あなたの存在を自分の細胞に刻みつけて、ここまで来ただけなのに」
私は彼の手を離し、今度は彼の両頬を優しく包み込んだ。




