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嫌な前世の記憶が蘇る……。


 遮断機の向こう側で、アスファルトを叩く雨の音はもう聞こえなかった。

 視界にあるのは、使い古されて角の擦り切れたバッグ。私にとっては命よりも重い、大切な中身の詰まったバッグ。それを掴む、見知らぬ男の汚れた指先。


──やめて。放して!


 声にならぬ悲鳴を上げ、必死に抵抗した。けれど、男が力任せにバッグをひったくる。

 ぷつり、と音を立てて、バッグの紐が根元から弾けた。

 奪われた。私の世界のすべてが。あの、薄汚い手に!


 取り返そうと一歩踏み出した瞬間、鳩尾みぞおちをえぐるような硬い衝撃が走った。

 男の重い蹴りが、私の身体を遮断機の内側へと突き飛ばす。

 踏ん張る間もなく、濡れた地面に足を取られ、背中から線路へ投げ出された。


 直後、真横から迫る巨大な鉄の塊が視界を埋め尽くした。

 身体が紙屑のように弾き飛ばされ、上下の感覚を失ったまま視界が猛烈に回転する。

 

 カチ、カチ、カチ──。


 無機質な踏切の警告音だけが、鼓膜の奥でやけに大きく響いた。

 痛みはない。ただ、奪われた悲しみだけが、雨に溶けることもなく胸の奥に凝り固まっていた…………。



────



「……必ず、見つけ出してみせます。我が公爵領で起きた不始末、この私が責任を持って」


私の声は、我ながら完璧な震えを帯びていた。

 目元を飾る薄いレースのハンカチーフ。そこには数滴の「涙」が染み込んでいる。

 目の前に座る伯爵夫妻は、沈痛な面持ちで私の手を取った。


「カトリーヌ様、そこまでご自身を責めないでください。息子、エドリックが行方不明になったのは不運な事故……。貴女が私財を投じてまで私兵を動かしてくださっていること、感謝に堪えません」


伯爵の言葉に、私は深く、深く頭を垂れる。

 私の婚約者である、フィオレンツォ王子も、痛ましげに私を見つめていた。

「そうだよ、カトリーヌ。もう何日も不眠不休で捜索を指揮しているじゃないか。賊の仕業か、あるいは……不名誉な話だが、誰かと駆け落ちでもしてしまったのか。これ以上は、君の身が持たない」


フィオレンツォ王子の心配はもっともだ。

 莫大な費用をかけて領内をしらみつぶしに調べ、不眠不休で捜索の指揮を執り続けているのだから。

 だが、私の視界の端で、一つだけ異質な「視線」があった。


エドリックの妹、伯爵家の末娘だ。

 彼女だけは、両親のように泣き崩れることもなく、無表情に、ただじっと私を凝視していた。

 その瞳は、私の慈愛の裏側にある「愛」を、無言で引き摺り出そうとしているかのようで、とても居心地が悪かった。


「……本日は、これでお引き取りを。伯爵家の方々には、当家の別宅で最高のもてなしを用意させました。朗報を待つ間、どうかお身体を休めてください」


私が合図を送ると、騎士たちが恭しく彼らを誘導し始める。

 立ち上がる際も、その少女は私から目を逸らさなかった。

 見つめ合う数秒。

 私は慈愛に満ちた、悲しげな微笑を崩さなかった。

この子は、危険かも。


フィオレンツォ王子とキスを交わし、皆が完全に屋敷を去っていき、重厚な扉が閉まる。

 カチ、という音が響いた瞬間、私の顔からすべての感情が剥げ落ちた。


「……ふぅ」


冷え切った紅茶を一口飲み、私は一人、屋敷の最深部へと向かう。


 何重もの鍵と封印魔法がかけた、誰も知らない幻影の隠し扉。

 その先にある、長い、長い地下階段。

 一歩、降りるごとに、前世の踏切の音が遠ざかり、代わりに「私の世界」の匂いが濃くなっていく。


最下層の重い鉄扉を恍惚に開ける。

 そこは、外の光が一切届かない、豪奢で冷酷な「聖域」だった。


「離せ……ッ! 自分が何をしているのか分かっているのか! カトリーヌ、正気か貴様!」


部屋の中央。

 天蓋付きのベッドに繋がれた男──エドリックが、私を見て獣のように吠えた。

 数日間の監禁で、その端正な顔立ちは青白く、髪は乱れている。


私は、何も言わずに彼に歩み寄った。

 銀のトレイに載せた、彼が愛した最高級の蒸し菓子。

 暴れる彼の頬を、冷たい指先でそっとなぞる。


「可哀想に、エドリック。そんなに大きな声を出して……大切な喉が枯れてしまうわ」


「ふざけるな! これ以上、伯爵家を……家族を愚弄するな!」


「愚弄? いいえ、逆よ。外の世界はとても残酷なの。賊も、裏切りも、多くの理不尽な死で……溢れているわ」


「そんな戯言、言われずとも分かっている。誰かーー!! 助けてくれーー!! 私はここだーー!!」


私の脳裏に、あの切れたバッグの紐が、私を蹴り飛ばした男の靴底が浮かぶ。

 もう二度と、あんな思いはしない。

 奪われる前に、私はこの手で「守る」と決めたのだ。


「誰にも聞こえないわ。そして、貴方を守れるのは、世界でこの私だけ。私だけが貴方を守ることができる。外の世界の汚れから、私が一生かけて貴方を洗ってあげる。だから、安心して。ね?」


私は、震える彼の唇に、毒のように甘い菓子を押し当てた。

 狂おしいほどの愛を込めて、優しく、いつものように微笑みながら。

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