雨の祠
「たす……けて」
雨音が、すべてを洗い流そうとしていた。
灰色の空から降り続ける雨は、石畳の街道を黒く染め、水溜まりに泥を溶かしていく。
街道の両脇には背の高い枯れ草が生い茂り、その向こうに朽ちかけた石垣が続いていた。
かつては畑だった場所には、今は何も育っていない。
折れた木の杭が地面に突き刺さったまま、雨に打たれている。
遠くには黒々とした森の影が見えるが、霧に霞んで輪郭が曖昧だった。
レオンは北へ向かっていた。目的地などなく、ただ街から街へ。
依頼があれば剣を振るう。なければ次の場所へ移る。それだけの日々だった。
守るべきものを失ってから、もう何年になるだろう。
それでも、足は止まらない。生きる理由など、もうとっくに無いというのに。
鈴の音が聞こえたのは、その声を聞く少し前だった。
風の中に混ざった、か細い音。レオンは足を止めた。マントは既に重く、肩に食い込んでいた。
街道脇に建つ古い祠。石の壁は苔に覆われ、屋根の一部が崩れている。人の気配などないはずの場所。
そこから、あの声が漏れていた。
レオンは剣の柄に手をかけたまま、ゆっくりと祠へ近づいた。石段には雨水が流れ、苔が滑る。
祠の奥、崩れた祭壇の影に、少女が蹲っていた。
十にも満たない小さな体。濡れた黒髪が顔に張りつき、薄汚れた白い服はボロボロだ。
細い手首には、何度も縛られたような赤い痕が生々しく残っている。
少女は顔を上げた。その瞳には恐怖が満ちていたが、同時に何か別のものが宿っている。
青白く明滅する、まだ目覚めきらない魔力の脈動だった。
「追われているのか」
少女は頷いた。唇が震え、言葉にならない。レオンは街道の向こうを見やった。
雨の向こうに、赤い紋章を掲げた騎士たちの影が揺れている。
蛇の教団。
レオンの胸の奥で、何かが疼いた。古い傷が開くような痛み。いや、痛みではなく渇きだ。
喉の奥から這い上がってくる、満たされぬ飢えのようなもの。
あの紋章を見るたび、彼の中で暗い炎が燃え上がる。血の匂いを求める獣が、檻を揺さぶり始める。
かつて守れなかった者も、あの赤い蛇の下で奪われた。
「あの連中が狙っているなら、俺が連中から救ってやる。」
「わたし……ミラ」少女はようやく言った。「わたし、わるい子……だから」
「お前は何も悪くない」レオンは低く言った。
彼は懐から護り符を取り出した。古い布に刻まれた印を祠の入口に押し当てると、淡い光が石壁を這う。
簡易の結界だ。完全ではない。それでも時間を稼ぐには十分だ。
水を含んだ足音が近づいた。騎士たちの背後から、ゆっくりと一人の男が現れる。
黒衣に身を包んだ魔導官だった。薬草と血を混ぜたような香が、雨を押しのけて漂ってくる。
「器を返していただこう」男の声は丁寧で、それ故に冷たかった。
「彼女の魂は教団のもの。秩序を乱す未熟な力は、正しき儀式によって浄化されねばならない」
「浄化?」レオンは剣を抜いた。刃が雨を弾く。「殺すことをそう呼ぶのか」
「この美しい、神の世界を守るためだ」
レオンの唇が、わずかに歪んだ。笑みとも呼べない何かだった。
「お前たちは、いつもそうだ」彼は静かに言った。「くそったれな神が」
男はこちらを睨みつけ、濡れた指で空中に赤い印を組む。するとミラを守る結界が軋んだ。
裂け目から赤い蛇紋が滲み、護り符が音を立てて燃える。
レオンは少女を背に庇い、剣を構えた。胸の奥で、暗い炎がさらに大きく燃え上がる。
騎士が二人、同時に踏み込んできた。
金属音が雨を裂いた。レオンの剣が一人目の槍を弾く。そして回転と同時に、その喉を切り裂いた。
血飛沫が雨に混じる。騎士は声も出せずに倒れた。
ああ、これだ。
胸の奥で何かが弾けた。檻が開く音。解放の、甘い痺れ。
レオンは深く息を吸った。血と雨の匂いが肺を満たす。
体が軽い。動きが滑らかだ。
色を失っていた世界が、この瞬間だけは極彩色に変わる。
二人目が剣を振り下ろす。レオンはそれを受け流し、カウンターで脇腹を刺し貫いた。
鎧の隙間に刃が滑り込み、肉を裂く感触。騎士は苦悶の声を上げて膝をついた。
レオンは剣を引き抜き、返す刃で首を落とした。
泥が跳ね、血が流れる。焦げた匂いと鉄の匂いが混ざり合う。
レオンは息を吐いた。胸の高鳴りが止まらない。全身が熱い。指先まで痺れている。
これは正義ではない。これは復讐だ。復讐という名の、なんと甘美な。
魔導官の顔色が変わった。呪文を唱え始める。空気が歪み、炎が生まれる。
炎が祠を舐めた。レオンは肩を焼かれながら少女を抱え、石段を転がり落ちる。
傷が疼き、視界が揺れる。だが痛みが心地よい。生きている実感が、久しぶりに体を駆け巡る。
彼の中で何かが歌っている。もっと、もっとだ。
レオンは立ち上がった。肩から血が滴る。だが彼は笑っていた。
「残りはお前一人か」
魔導官は後退した。次の呪文を紡ごうとする。だがレオンの方が速かった。
彼は地を蹴り、一気に間合いを詰めた。魔導官の術が完成する前に、剣が黒衣を裂く。
腹を、胸を、喉を。三太刀。正確に、容赦なく。
魔導官は血を吐いて倒れた。赤い蛇紋が、泥に沈んでいく。
レオンは剣を拭いもせず、その場に立ち尽くした。
雨が血塗られた刃を叩き、赤い雫を地面へ運んでいく。
本当はこの男たちを見た時、その紋章を見た時。
心が躍っていた。
あの快楽を、あの甘美を味わえると思ったら。
だが快楽の時はすぐに終わる。
その後に訪れるのは、全身にまとわりつく暗い絶望だ。
何度復讐しても、何人殺しても、晴れることはない。
本当に憎んでいるのは、自分自身なのだ。
早く死んでしまいたい、早く楽になりたい。
だが、心がそれを許さない。もっと苦しめ、もっと絶望しろ。
お前は許されない。
レオンは剣を拭いもせず、ゆっくりと振り返った。ミラが震えながら彼を見ている。
恐怖と、何か別の、救われたという安堵が、その瞳に混じっていた。
「怖かったか」レオンは聞いた。
ミラは頷いた。だが、泣いてはいなかった。
レオンはミラの手を取った。小さな手は冷たく、震えている。
「もう大丈夫だ」目を合わせることもなく言った。
その嘘に心は痛む。教団の追跡は終わらないだろう。
だが今は、この言葉しかない。
遠くに青い灯りが見えた。青灯の塔だ。そこへ行けば、少しは安全かもしれない。
確実ではないが、今よりはましだろう。
レオンの傷は深く、ミラの震えは止まらず、空はまだ晴れない。
足元には三つの死体が転がり、血が雨に薄められていく。
彼の胸の奥では、まだ暗い炎が燻っている。
二人は雨の中を歩き出した。呪いを背負ったまま。青い灯りへ向かって。




