1 豚の角煮
その日は雨が降っていた。
シトシトと弱い雨が1日中降っていて、都の中央の石畳は足元が滑りそうなほど濡れていて、通りをいくつか挟んだ平民や職人階級が住む通りはぬかるんでいた。
定食屋に通う職人さんたちは体を使う仕事が少なかったせいか、せっかく仕込んだ煮卵が思った以上に残ってしまった。
「うん、夜の小鉢に使おうか。半分に切って出せばお日様のような黄身が見えて元気になるよ」
そう言って母ちゃんは笑った。
こういう日は常連さんたちの出だしも早かった。
夜営業が始まると同時に店は一杯になって、小鉢の煮卵の黄身を見て皆ニコリとした。
さっさと食べると示し合わせたように飲み屋に向かう常連たちをアンズは笑顔で見送った。
閉店の30分も前になればガランと音を立てたように静まり返った。
「今日はこのあたりで終わりかしらね?」
通いの給仕の女性たちに余りそうな総菜を分けて持って帰ってもらえば、残りは後1-2人分だ。
「のれんと提灯、片づけてきちゃうね」
アンズは店じまいを告げるように店先にでた。
いつからか雨は小降りになっていた。
明日は天気になると良いな、そんなことを考えて暖簾に手をかけたところだった。
フラフラと千鳥足の男がどしんとアンズにぶつかってきた。
「んん?おや、これは失敬…」
焦点の合わない目つきでアンズを一瞥した若い男がぶつかったことに対して詫びたものの、ふわりと視界を巡らせてここが料理屋だと認識したらしい。
「ここは…?」
「定食屋です」
アンズの言葉を認識したかしてないかわからないけど、酔っ払いはぽやんとした表情を見せた。
「まだ、入って平気ですか?」
「ええ…うちはお酒は出せませんけど」
「お酒…お酒はね…ほら、手に持ってるから…」
そう言って手に持っているどころか腰に下げた酒瓶をポンと叩いたのであった。
「ちょいとお邪魔しますよ…」
アンズが案内する前に店の中にスルッと入っていった。
広くはない店内、古くてぼろいけど、清潔な店内に男は手近な席に座り込んだ。
アンズは暖簾と提灯を持って、店の中に入ってきた。
「あ…あの…いらっしゃいませ。今日の定食はもう角煮しかなくて、定食の場合は、煮卵と干豆腐の和え物と野菜の炊き合わせから選べます。角煮を3分の1にして、小鉢を3種にもできますよ」
「…うん…うん…うん…」
椅子に座ったことに安心したか、アンズが説明している間に酔っ払いは船をこぎだした。
「あの、どうしますか?」
「うん…そうだなぁ…角煮と小鉢3つがいいかなぁ…」
アンズの声に反応して、男は半分夢の世界で答えた。
「ごはんと汁物はどうします?」
「うーん…いらない!…酔っぱらってるからごはん食べられない…」
理屈は通らない酔っ払いの論理にアンズはただ笑顔を作った。
「はい、少々お待ちください」
酔っ払いはアンズが配膳をする間にうとうととしてしまった。
アンズはそっと酔っ払いの前に温かい角煮、小鉢3種をお盆に乗せたまま置いた。
ふわりと漂った角煮の甘い香りに酔っ払いは鼻をヒクヒクとさせ、ぽつりとつぶやいた。
「おいしそうな匂い…いい香り…」
「匂いだけじゃなくて、味もおいしいですよ」
寝ぼけ半分のつぶやきに返事をすれば、酔っ払いは目を開けた。
そして、目の前の御馳走に手を伸ばし、手づかみのまま角煮を食べてしまった。
店に残っていた常連客もアンズもシイカも厨房の片づけが終わった板前もその様子を見て唖然とする。
酔っ払いは汚れた手をぺろぺろとなめ、指をおいしそうにしゃぶっている。
「こりゃあ、本当に酔っぱらってやがる…おい、兄さん、箸ぐらい使えよ、赤ん坊じゃないんだから」
「ん…うん…箸…箸…これか…」
常連客の忠告を聞いても酔っぱらってるせいか箸を上手に持つこともできず、握りしめて干豆腐の和え物をひっかけながら口に運ぶ。
もぐもぐと口を動かしているうちに、ハッと覚醒した。
「美味い…すごく、美味い…」
そう言って角煮で汚れた手を着ているものでグイっとぬぐうのを見て、アンズは前掛けにかけていた布巾を差し出した。
「あの、これ、使ってください。箸も新しいの出しますね」
アンズが差し出した手ぬぐいで手をきれいにぬぐい、新しい箸を渡されて酔っ払いはすがすがしい笑顔でアンズに礼を言った。
酔っ払いが食べている間に常連客がアンズに声をかけた。
「アンズちゃん、おあいそ」
「はーい、いつもの定食なのでいつもの金額いただきます」
「明朗会計でいいねぇ…またな」
「はい、またお待ちしてます」
そう言って常連客を送りだせば、シイカが角煮と多めの干豆腐の和え物、汁物、少な目ご飯でアンズの賄いを作ってくれた。
「アンズ、片づける前に食べちゃいなさい」
「はーい…いただきます!今日の角煮も味染みてておいしい!」
そう言って頬を緩ませた。
賄いを食べながら、先ほどの酔っ払いの様子をアンズは伺っていた。
先ほど手づかみで角煮を食べたのが信じられないほどキレイな所作で、しかも味わって食べている。
「美味い…」
夢見心地で何度も酔っ払いは呟いた。
食べ終わっても湯呑を両手で抱え、ゆっくりと茶をすすっている。
時々動きが止まるのは寝ているからだとアンズは思ったが、酔っ払いはアンズが食べ終わったのを見て「お勘定」と声をかけてきた。
酔っ払いの財布から出てきたのは金貨で、さすがにアンズは引いてしまった。
「いえいえ、お釣りだせないですよ」
「じゃあ、残りは心付で」
「いや、無理ですって!心付でも多すぎです」
「でも…いま、手持ちはそれしかないんだ…」
しょぼんとする酔っ払いに、アンズは手近な紙にさらさらと書きつけた。
「これ、証文です。つけておくので、あとで払いに来てください」
「はい…」
酔っ払いは証文を懐に忍ばせて、少し酔いがさめたかそれでも千鳥足で定食屋を後にしたのであった。
酔っ払いの膳をみれば、残さずきれいに食べてある。
手を拭くのに渡した布巾は彼が持って行ってしまったのかもしれない。




