9フキノトウ味噌
「アンズさん、よだれ鶏、小鉢はキノコの和え物で。汁物…ちょっとでいいのでトマトを多くしてもらっていいですか?」
「はい、少々お待ちください」
アンズとコウの会話を聞いて、厨房では母ちゃんがお膳を作っていた。
アンズは汁物の鍋からそっとトマトをすくい出す。
ちょっとでいいなんて言うけど、相当好きなんだろうな、トマト。
そう思ってクスリと笑いがこみあげる。
アンズがお膳を持っていくとコウは気持ちぼんやりとしていた。
「コウさん?」
「アンズさん…これはおいしそうだ」
「今日はお疲れですか?」
「あ…今日は同業者の…酒宴に参加していたんです」
言いにくそうにコウは言った。
酒を断ったと話していたのに、酒を飲んだと幻滅されるのが怖かったのだ。
だから、いいわけのように言葉を紡ぐ。
「酒宴は…なかなかお腹にたまる温かいものが食べられなくて…それに、久々に飲んだ酒は…あまり味がわからなくて、温かい美味しいものが無性に食べたくなって」
「それで来てくださったんですか?」
「はい」
コウはアンズの目を見ず、頷いた。
「嬉しいです」
「え?」
「温かい美味しいものを食べたいって思ったときに思い出してもらえて嬉しいです」
アンズの笑顔を見てコウは初めて心も体も冷めきっていたことに気づいた。
そして、今ようやく温度が戻ってきた。
「…はい。せっかくだから温かいうちにいただきますね」
「はい」
コウが飲んだトマトの汁物は温かい。
酸味が聞いていて、それでいて少し甘くて、塩味もちょうど良くて、体に染み渡った。
よだれ鶏のピリ辛が酒でぼんやりした感覚を呼び覚ましてくれるし、刺激を抑えるのにキノコの和え物もちょうどよかった。
コウは最近は朝もちゃんと起きられる。
朝食を家族と一緒にとって、家業を一から教えてもらっている。
酒が抜けてすっきりしたせいか、家業を吸い込むように吸収できた。
それでも、1日の仕事疲れには、温かい美味しいものを食べたいと思う。
厨房の使用人には悪いけど、定食屋が開店している日は定食屋に来ることにした。
毎日酒を飲み歩いていた今までと比べれば、夕飯を食べてすぐ帰ってくるから両親も世話役の爺やもコウに小言を垂れることはなかったのだ。
今日は同業者の同じく若旦那が結婚をするというので、若旦那衆が集まった酒宴だった。
同じく放蕩者の若旦那、結婚は放蕩をさせないようにという親からの圧力で、したくない結婚を押し付けられると不満たらたらだった。
姿をちらっと見た結婚相手は勝気そうな不細工だとか、金を払わなくていい女郎ができると思えば我慢できなくもないとか酒の勢いに任せてずいぶんな言い方であった。
最近は放蕩をしないし、酒宴でも酒が進まないコウにも絡んできたが、コウのあいまいな態度に悪ノリのできる若旦那衆の元に行ってしまった。
酒と酒宴の悪ノリに心と胃が冷えてしまって、気づいたら定食屋に足を運んでいたのだ。
コウは常連客と話をしているアンズの姿を見つめた。
心と体が温かくなるのは料理だけのせいじゃないのかもしれない、そんなことを思った。
コウが常連になって、寒さが深まり、少し暖かくなってと季節がゆっくりと巡っていった。
その間にも定食屋の小鉢はキノコ、さつまいも、サトイモ、大根、レンコン、カブ、かぼちゃ、菜の花、フキノトウ、タラの芽とゆっくりと変わっていった。
常連たちが新しく常連になったコウの素性を聞いたらしくぽつぽつとアンズの耳にも届いてきた。
「結構いいとこに勤めてるらしいよ」
「放蕩者の坊ちゃんのお付きらしいじゃないか」
「振り回されてりゃ大変だな」
「付き合う方はたまったもんじゃねぇよなぁ」
曖昧に笑うコウにそれ以上追求しないのも、あまり深く物事を考えるのが苦手な常連たちのいいところだ。
もちろんアンズも追求しないし、コウが話したいときだけ軽く話すようにしている。
「ああ…おいしいですね…フキノトウ…青臭くて苦いのがおいしいなんて考えたことがなかった」
「きっと体が欲してるんですね」
「…こういう苦みの強いものに合いそうな酒があるはずなんですが…思い出そうとしても思い出せなくて…」
浴びるほど飲んでいたのに思い出せないのは、味わいもせずただ飲んでいたからだ。
「酒も…ちゃんと味わえばよかった…」
そうポツリと呟くコウに常連たちが指でお猪口をもち、くいっと飲む動作を見せる。
「一緒に行くかい?」
「いえ…お誘いはありがたいのですが…」
コウが丁寧に断って、申し訳なさそうにすれば、別の常連が言った。
「ま、飲みすぎは体も頭も壊すからな」
「気が向いたときでいいよ」
「お猪口一杯だって、いいんだから」
「…いずれお付き合いください」
コウの丁寧な言葉に常連たちは「おうよ」と答えて、連れ立って飲み屋に行ってしまうのをアンズは店の外に出て見送った。
「また、お待ちしております」
アンズの声に対して、常連たちの返答が店の中まで響いたのであった。




