10話 オーバードーズ/ヒロイズム(上)
朝はレイモンドにとって辛いもの。
まず悪夢から覚めて、そして辛苦に満ちた変わらない日々が今日も始まると、そう思うのだ。
「おはよー……あれ、叔父さんが料理してるの珍しい」
「ホットケーキだ。食べるか?」
「食べる食べる!やったね」
だが今日は違う。
学校が休みならば、レイモンドは1日中家に居たって良い。
時間の全てを好きに使えて、何かに怯える必要も備える必要も無い。
そんな1日の始まりはご機嫌に、叔父さんの焼いたホットケーキを食べるところから始まった。
「よぉし出来た。デカいバターと沢山のメープルシロップで召し上がれ」
「うわぁ美味しそう。今日なにかあったっけ?」
「別になんでもない日に美味い物食ってもいいだろ?自分から進んで良い日に変えていかなきゃな」
なるほど、と頷きながらホットケーキを頬張り、レイモンドの頭の中では今日のスケジュールが組み上げられる。
今日を良い日にする為に。
「良い日、かぁ」
「ああ。今日は何をするんだ?」
「学校休みだし、友達に会いに行こうかな」
「それは良い日だ。間違いない」
レイモンドが友達と呼ぶ相手はただひとり。
スマホに登録された連絡先の、叔父さんではない方。
ドラッグを使用していない間は通話をする訳にはいかないが、それでもレイモンドの通話履歴はルミナスの番号がズラリと並ぶ。
数少ないが、それが全て。
「叔父さんも今日は休み?」
「いや、今日は夜番だ。このあと昼に寝て、夜には出る」
「そっか、お疲れ様。いつもありがとう」
「ん?なんだよ嬉しいな。そっちこそお疲れ……何か欲しい物でもあるのか?」
「えぇ!?違うって純粋な感謝だよ!」
「ああそう……俺がレイモンドくらいの時は、感謝の言葉なんて欲しい物がある時にしか言わなかったもんだからな……レイモンドは偉いよ」
偉い、と言われてレイモンドはむず痒くなり、何度も椅子に座り直して落ち着かない。
そして飲み込み慣れない言葉に対し、身体は少し拒否をする。
「偉い……僕なんか、全然」
「そうか?まあ、誰しも理想の自分があるもんな……ところで本当に欲しい物ないのか?」
「無いよ!……あぁ、いや、うん」
「なんだ、言ってみるだけ言えばいいさ」
「じゃあ、新しいリュックサックが欲しいんだ。えーっと、ほら!最近物騒だから錠付きの、ナイフとかでも切れないやつ!」
物騒である事は嘘ではない。
ただレイモンドにとっては、リュックサックを奪われたり傷付けられる可能性が日常に、それも高い確率で存在するのだ。
更には中に見られたくない物を隠しているとなれば、普段から肌身離さず持ち歩く事を徹底した上で、更なる備えもしておきたかった。
「ほぉー、防犯意識が高くて関心だな。任せろ、同僚に聞き込みして、警察官が信頼する最高のリュックサックを探してくる」
「ありがとう……でもその、金銭的に僕は負担じゃない?」
「負担じゃない。誤魔化しとかじゃなく、使う暇がなくて貯まってばかりの金だからな。寄付してもいいが、それよりは甥っ子の為になるように使うのが1番納得出来るし、そうしたいと思える」
叔父さんの反応は上々。
警察官として窃盗事件と関わる事も多々ある為、それに甥が巻き込まれてほしくないと思うのは当然の事。
レイモンドはその善意を利用する噓を吐いた事に罪悪感を抱きつつも、やはり安心が手に入るのは嬉しいのだ。
今日はレイモンドにとって良い日だ。
レイモンド自身がそう決めた。
午前中は課題をこなして、午後の叔父さんが夜番に備えて眠った頃にレイモンドはレイになる予定。
部屋の奥、そう簡単には見つからない隠し場所に仕舞い込んだケースを取り出し、中身のバイアルを取り出した。
「もう半分も使ったんだ……あと何回分かなって……数えるのも怖いや」
端から取り出していったケースの中身は、おおよそ中間の地点にまで空きがある。
ケースを開けた時に中から溢れる、薬液が放つ青白い光も、レイモンドがこのケースを拾った時よりも幾分頼りなくなっていた。
「はぁ……このまま続けて、僕は特別になれるのかな。今はまだ、きっとお母さんは許してくれない。もっと、良い存在にならないと」
そうして、レイモンドはその為の手段を手に取る。
青白い薬液を注射器で吸い上げて、もうすっかり慣れた手つきで静脈を探し当てて針を当てがう。
僅かな痛みも、薬液を押し込む恐ろしさも、既にレイモンドの頭には存在しない。
あるのはただ、この先にある素晴らしいもの。
「僕はこの薬で悪い事はしない。人を助ける……良い事をするんだ。それが1番納得出来る使い方で、そうしたいと思う使い方」
自分に言い聞かせるようにそう言って、手段それ自体の是非からは目を背ける。
針が僅かな抵抗を突き抜けて肌を刺し、静脈に届いて薬液を注入すれば、あとはもう考える必要はない。
ただ血流に従って身体を這い上がる青白い光を眺め、脳にまで到達したそれが脳細胞の隅々まで染み渡り、身体を作り変える超常の力が発揮されるのを待つだけだ。
「っぐ……!う、が……」
身体が作り変えられる奇妙な感覚には既に慣れたレイモンドだが、それでも口を突いて出てくる声を殺そうと必死に手で押さえ込む。
部屋の隅でうずくまり、そのシルエットを変化させる様子はまさしく変身。
それを終えたレイモンドは、蛹から孵るようにゆっくりと立ち上がり細くしなやかな肢体を伸ばす。
「んん……あぁ、身体が軽くて、頭もシャキッとする」
こうして生まれるのがレイとしての姿。
レイモンドの望む、特別な存在。
それを確かめるべく、レイは今日も手作りのヒーロースーツ……スーツとも呼べないような、ダクトテープを巻き付けたパーカーという粗末な格好で街へ跳ぶ。
「もっと、もっと……人助けをしないと。残り半分なんだから、これで許されなかったら僕は……」
テレポートという移動の自在を獲得し、地を歩く凡人の頭上を跳びまわるレイではあるが、その実際のところは強迫観念に雁字搦めの無法者。
「まだ足りない。お母さんはきっとこれくらいじゃ許してくれない」
ただ母親に見てほしい、怒っているのなら許して欲しい。
そんな思いを抱き続けて今日もレイは跳ぶ。
幸か不幸か、この街の治安は良いとは言えない。
レイの望む人を助ける自分、というものを叶えるのには最適な場所。
とにかく多く移動して、人目の届かない裏路地などを覗いてみれば1日1回は何かしらの事件が見つかった。
「こんなんじゃ駄目だ……!僕は全然変わってない!まだ足りないんだ、もっと人を助けて悪人を倒さないと……っ!」
だがレイは満足しない。
強い強い自己否定によって生じた心の穴は、そう簡単には埋まらなかった。
「でも、はぁ……それにルミナスを巻き込むの、良くないよね……」
違法な薬品を使う事、個人の判断で暴力を振るう事。
目的の為にそれらを許容するレイではあるが、それでも罪悪感を覚えるものもある。
唯一の友人を利用する事などは、その最たるものだった。
「今日も居るかな、ルミナス……」
いつもの屋上に着地して、僅かな期待を胸に見慣れた姿を探す。
無機質な屋上で、明るいルミナスを象徴するようなピンクの髪はよく目立つ。
それを求めて周囲を見回し、レイは不意に顔を顰めて立ち止まる。
「あれ、パーカー臭いヤバいかも?あー……いやまだ!はぁ、叔父さんにバレないように洗濯するタイミング、なかったんだよなあ……」
ひとりごちるレイは、せめて今出来る事をとパーカーをはたく無駄な足掻きをひとつ。
身嗜み──と呼ぶ以前のものではあるが──を気にする程度のものもある。
そうして身支度をし、見慣れた背中を見つければ不安は無くなったように笑顔で、手を振り駆け寄るのだ。
「おはようルミナス!」
「おぉーこれはレイではありませんか〜丁度良いところに来たねぇ」
「え、何?事件?」
「事件も事件。なんとなんとぉ〜見てよこれぇ!」
そう言って、勿体ぶってルミナスが取り出したのはチョコレート。
カラフルな小粒のチョコレートがパッケージに描かれたそれは、レイも食べた事のあるもの。
とはいえ、今ルミナスが見せているそれを取り出した紙袋には、溢れんばかりに同じものが詰め込まれている。
「この量は何……?店なの?」
「ここに来る前に寄ったお店ですっごい安かったの!だから家族の分も買おうと思って、沢山買ったらねぇ!期限が近かった〜……」
「そりゃ安いんだから、安いなりの理由あるでしょ。どうするのこれ」
「一気に食べたらウチのお顔にニキビが出来ちゃうよぉ。だから、レイにも分けてあげよう〜」
「あ、ありがとう。そんなに要らないよ」
ルミナスは紙袋から豪快にチョコレートを掴み取り、レイのパーカーのポケットへどんどん捩じ込む。
「分けてあげよう〜」
「2つか3つでいいよ」
「分けてあげようねぇ〜」
ポケットがリスの頬袋のように膨れ上がった頃にようやくルミナスは手を止め、自分の紙袋からチョコレートをひと袋取り出し、食べ始めた。
レイもそれに倣ってポケットから取り出したひと袋を開けると、中からチョコレートをひと粒摘み上げ、口に放り込んだ。
「こんなに食べ切れるかな……」
「いけるって〜ウチならいけるねぇ」
「ルミナスはお菓子よく食べるんだ」
「兄弟が居るからねぇ〜早く食べないと、ウチの分がなくなっちゃうの」
「ふーん。大変だね」
サクサクと、チョコレートを噛み砕き口内で溶かすレイは他人事のようにそう言った。
(姉さんとそういう喧嘩した記憶、全然無いや)
レイにとって姉とは、遠い存在。
特別な、理想とする存在であるが為に、肉親であれ心理的な距離がある。
「ホント大変なんだよぉ。ウチにはお兄ちゃんが居るんだけどねぇ、ウチのものすぐ食べちゃうし、物は散らかすし、冷蔵庫閉める時乱暴だし……パパもそう!男の人ってみんなそうじゃない?」
「確かに、大きい音を立てるからビックリするよ」
「学校の男子もなーんかエッチな物見て大騒ぎするし、苦手かも〜」
それは些細な、日常に対する愚痴だった。
チョコレートを口の中で転がしながら、ちょっとした悪口をスパイスとして使った日常会話だ。
だが、ルミナスの意図するところとは別に、その放言がレイに火を点けた。
「そうだよね!男っていうのは加害的で、邪悪な性欲を滲ませた愚かな存在なんだよ!僕がこれまで倒してきた犯罪者もみんな男だったし!お母さんが言ってたんだ男に産まれた事それ自体が悪で罪で人を傷付けるんだって!だから僕はその罪を──」
「ちょちょ……なん、どうしたのレイ!?」
「ルミナスもそう思わない!?」
「いやそこまでは思わないかなぁ……」
「……そうなんだ」
「いやっあの、ねぇ〜」
レイはただモソモソとチョコを噛み、先程までの熱が嘘のよう。
ルミナスはただただ困惑して、当たり障りのない事を話しかけてみては、上の空のレイに素っ気ない返事を返されるばかり。
「レイは〜えと、男の人が苦手なんだねぇ」
「うん。お母さんが言ってたんだ、悪い存在だって」
「レイ自身もそう思っているのかなぁ?」
「そうだよ。だから僕はそれとは反対の良い存在になりたいんだ。特別な力で悪人を倒す女の子……それがお母さんの欲しい子供だから」
ルミナスの質問への答えに迷いは無く、レイは心からそう信じている言葉をありのままに発していた。
例えそれが心への深い傷跡として刻まれたものだとしても、レイはその傷跡をなぞり、何度でも同じ答えを迷いなく口にするだろう。
「思ったより闇深いなぁ……」
「なに?」
「なんでも〜そういえば、今日はこれから天気が荒れるんだってぇ。早めに帰りなお嬢さん、酷い天気じゃ犯罪者も外を出歩いたりしないよぉ」
あからさまな話題逸らしではあったものの、レイは特に気にせず「そうなんだ」と短く返してスマホを見る。
効果時間にはまだ残りがあり、普段ならばまだパトロールを続ける時間。
「まだ少し、時間があるんだ。パトロールしていこうかなって」
「いやいやぁ、風邪をひいたら台無しだよ〜?早めに帰って、今日は身体を温めてねぇ。何かあったら、メッセージ送るから、ね?」
「……じゃあ、そうするよ」
力無く笑うレイは、そのまま姿を消す。
一瞬にして、屋上はルミナスのひとりぼっち。
だがチョコレートを共有する相手の居ない孤独の中で、かえって吐露しやすいものもあった。
「あ〜……さっきの質問、好奇心混じってたかもなぁ……」
ルミナスが後悔と共に溢した言葉と共に、空も雨粒を零し始めた。
陽はまだ高く、1日は長い。
だが分厚く暗い雲が太陽を覆い隠し始め、遠くから風が唸りを上げて迫っている。
ヒーロー達の暗く長い1日は、まだ始まったばかり。