1話 日常/オリジン
ごく一般的なマンションの一室。
他の部屋でもそうであるように、その部屋でも朝食の準備が行われている。
ベーコンと卵を焼く弾けた音がフライパンの上で鳴り、トースターはタイマーで時間を刻んでいた。
焼き上がった分から皿に移し、テーブルへ運ぶのは顔に幼さが残る少年。
ブラウンの髪の毛に付いた寝癖を左右に揺らしながら、少年はテキパキと慣れた様子で準備をし、2人分のコップへ冷蔵庫から出した牛乳ボトルを傾けて──
「あ。ひとり分しか無かった」
毎日の決まった食事を準備出来なかった事に悔しさを滲ませながら、少年はボトルを捨ててフライパンの様子を見る。
焼き上がるにはまだ時間が掛かると見て、少年はテレビへと視線を向けた。
漫然と付けていたテレビでは朝のニュースをやっており、テレビの中では犯人を追い詰める警察官の勇姿を、ヘリから捉えた様子が流れている。
『昨夜未明、ダウンタウンにて発生した強盗事件の犯人は車で逃走。1時間に渡る逃走劇の末、警察との銃撃戦に発展しました』
テレビの中で映画さながらに、銃を撃ち合う警察と犯人の映像に少年が視線を奪われていると、その背後から不意に声が掛かった。
「おはようレイモンド」
「うわっ!忍び寄らないでよ叔父さん……」
「お前は小心者だな。もっと度胸を付けないと」
大柄で優しげな笑みを浮かべた男は少年──レイモンドの叔父。
彼の着るピシリと決まった警察官の制服を見て、レイモンドは少し残念そうな顔をする。
唯一の共に食事を摂る相手、それが朝食も摂らずに仕事へ行ってしまうと理解してしまったから。
だが、僅かな希望に賭けてレイモンドは返答の分かりきった問い掛けをしてみるのだ。
「朝食は食べないの?」
「テレビでもやってるだろ?面倒が多いから早く来いって言われてるんだ。ああ、牛乳だけは飲んでいくよ。叔父さんみたいになりたかったら沢山牛乳飲まないとな?」
テーブルに一杯だけの牛乳を飲み干し、レイモンドの叔父はウインクをひとつして足早に去ってしまう。
残されたレイモンドは、少し焦げ臭い匂いを漂わせ始めたベーコンを慌てて取り上げ、丁度良い焼き加減のトーストと共に朝食のテーブルに着く。
2人分を前に溜め息を吐きながらモソモソと食べ始め、テレビは変わらずニュースを流し続ける。
『銃撃により警察官一名が負傷したその時、現れたのは我らがヒーロー!ケイナイン!』
画面の中では銃撃を行っていた犯人が、まるで間のフィルムを抜いたかのように一瞬で銃を取り上げられて拘束される様子が映し出されていた。
それを行ったのが、一瞬前まで画面に存在していなかった犬のマズルを模ったマスクを着けた女性なのだと、アナウンサーもレイモンドも全ての視聴者も理解している。
『高速移動能力を持つケイナインは、普段は隣町で活動を行うヒーローですが、警察官の人命を守る為に迅速に駆け付けたそうです。これこそまさにヒーロー!』
レイモンドは朝食を口に詰め込みながらも、テレビに映る荒い画質のヒーローに目を輝かせていた。
画面の中で派手な動きがあったわけではない。
ただ一瞬で犯人を制圧し、ゆっくりと負傷した警察官に寄り添っているだけの姿。
それでもレイモンドはその姿に、羨望の眼差しを向けていた。
『ここでHyperhuman Emergency Repression Organization──H.E.R.O.よりお知らせです。政府公認の治安維持組織H.E.R.O.ではヒーローとして活躍する超能力者から、後方支援まで幅広い人材を募集中。養成校では必要なスキルを──』
「あれ!?もうこんな時間!?」
決まり文句を言い始めたアナウンサーに、現在時刻を察したレイモンドは慌ててトーストを口に詰め込む。
喉が詰まりかけて慌ててコップを手に取るが、叔父さんが飲み干した分で牛乳は尽きていたので必死に胸を叩いてなんとか飲み込み……慌ただしく学校へ向かう準備をする。
寝癖を直し、歯を磨き、叔父さんのお下がりのパーカーを着て、リュックを背負って家を出た。
始業開始の時間まで余裕はあるが、それでもレイモンドは急いで学校へ向かう。
徒歩で登校可能な距離のハイスクールへ、走るとまではいかない早足で信号待ちの時間をもどかしく思いながら。
「急がないと……時間が被っちゃう」
周囲には疎にレイモンドと同世代の少年少女の姿が増え始め、歩道を歩く殆どを占めた頃、レイモンドは学校の敷地内へと到着した。
「良かった……」
少し額に汗を滲ませながら、周囲を見回して安堵の息を漏らす。
始業にはまだまだ時間があるというのに、焦った様子の生徒はレイモンドのみ。
にも関わらず、こうも焦る理由とは……まさに今、レイモンドの背後に居た。
「おいおい!朝から邪魔なのが居ると思ったらレイモンド・クロスじゃないかぁ?」
「何キョロキョロしてたんだい?ヤケチンくーん?」
「てか何?挨拶もナシ?せっかく挨拶してやってんのに?」
3人の男は自分達こそが世界の中心だと言わんばかりの態度でレイモンドの背を乱暴に突き飛ばし、そうせずとも通れる道を開ける。
その乱暴さに理由は無く、ただ萎縮するレイモンドを面白がっているだけ。
レイモンドもただリュックの肩紐を握り締め、恐怖を必死に飲み込んで力無く笑う。
「お、おはよう……」
「声ちっさ!親に捨てられたレイモンド君は挨拶も出来ないのかな?」
「てか、こんなチンコ火傷したキモチン野郎と暮らしたいヤツなんて居ないって!」
「ヒーターにでも突っ込んだのか?モテない童貞君は大変だなぁ」
大声で喚く3人に囲まれて、しかしレイモンドは何も出来ない。
周囲の生徒からは小声で訝しげに、好奇の目線と共に何かを言われているが、レイモンドは耐えるしかない。
何故ならばレイモンドには逆らう力が無いからだ。
体格で劣るレイモンドは、既に反抗すれば何をされるかを経験として理解している。
既に逆らおうと思う精神力すら奪われて、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしか選択肢を持っていない。
「おいなんか言えよ。会話する気あんのかぁ?」
「あ、ご、ごめんライアン君……」
「てかマジ?コイツ、ライアンの名前覚えてたんだ?」
「俺、さっきライアンがヤケチン君の名前呼ぶまで忘れてたわ」
レイモンドをからかい、好き勝手に笑う。
レイモンドはこれが嫌だったのだ。
朝食を2人分片付けた分の時間で、この3人と登校時間が被ってしまった事はアンラッキーな出来事と言えるだろう。
だがしかし、これはレイモンドの日常だ。
それも、まだ始まったばかりの。
からかいはレイモンドと出くわす度に行われ、時に身体の接触を伴う直接的なものも。
恐怖から身体を曲げて俯きがちなレイモンドだが、殴られれば痛みに耐えようと、より一層縮こまって歩く事になる。
このような状態になった理由は些細な出来事。
偶然、内向的なレイモンドがターゲットになり、そのレイモンドを憂さ晴らしや退屈凌ぎのオモチャとして扱っていると、ふざけて脱がした下着の下、股間に火傷の跡があった。
それを恰好の餌食と捉えられたのがレイモンドの運の尽き。
それが今日まで続くレイモンドの暗い学校生活の始まりだった。
そんな苦痛に満ちた時間を過ごし、レイモンドにとっては救いとなる下校時間。
なるべく早く解放されたいと、朝よりも余程早く駆け出して学校から逃げ出す。
ライアンらレイモンドを虐める連中も、わざわざ校外まで追うような事はしないので、レイモンドはやはり校外に安らぎを求めていた。
別に趣味がある訳ではない。
ただ帰り道は気が楽で、遠回りしながら帰るだけの事。
「帰りに牛乳買わないと……どうせ叔父さん仕事だし、遠くの店行こうかな」
少しばかり帰宅が遅くなろうとも構わないと、レイモンドは気ままに歩き出す。
建ち並ぶ低層ビルの陰を歩き、それなりに発展した都市を行く。
そうして辿り着いた店で牛乳を買い、涼しい季節だからとそのまま手にして帰宅ルートへ。
「他にも何か買うものあったっけ?……いや大丈夫な筈……どうだっけ──」
買い忘れの不安から、レイモンドは俯きがちに歩いていた。
つま先を見ながら、ブツブツと呟いて。
それ故に正面から迫る人影に気が付かなかったのだ。
向こうもまた注意散漫で、しきりに背後を確認しながら走っていたものだから、互いに避けられるものも避けられない。
当然のように2人は激突し、両方地面に倒れてしまうのは予見出来た事だ。
「うわっ!──っ痛……あっ!す、すみません!」
痛みと衝撃に僅かな間怯んだレイモンドが、慌てて不注意の謝罪をした頃には、走って来た人物は既に走り去った何者かになっており、レイモンドはそれが男か女か、背格好すら分からないままだった。
「はあ、いつもの店に行けば良かった……あれ?」
だがしかし、レイモンドが倒れたすぐ側に、去った何者かが残したケースが落ちている。
見た目にはなんの特徴も無い、中身を守る事だけを考えたそのケースを、レイモンドは落とし物ならばと当然の親切心で手に取った。
そして手に取り、悩む。
「これ何も書いてない……中身、見ていいのかな」
連絡先などあれば手掛かりになっただろう、しかし無いのであれば中身を改める他に方法が思いつかないレイモンドはケースを開けて……その中身に息を呑む。
「これ、薬?でも青く光ってて、凄く変だ」
プラスチック製の小さな容器が幾つも入ったケースの中は、容器に収められた液体の放つ光で満ちていた。
明らかに普通ではないその液体は、医薬品を詰める容器に入っているのだからレイモンドの脳内で高らかに警鐘が鳴り始める。
「これ、これ……叔父さんに教えなきゃ。分からないけど、良くない気がする……!」
レイモンドは臆病さの中に勇気を持って、そのケースをリュックサックに隠してその場を去った。
相手も自分の事を覚えていないかもしれない、でも顔を見られたかもしれない。
そんな恐怖の中で、しかし胸中には高鳴るものもある。
「これで、僕も少しはヒーローみたいに……!」
大それた英雄的な行動ではなく、市民としてのささやかな行動。
ただそれだけだと自覚しつつも、レイモンドにとっては心を大きく弾ませる行いであり、幾らかの期待を持てた。
「これで僕は悪い子じゃなくなるんだ……そしてお母さんに……」
願望を小さく口にしながら、足運びも期待に満ちていたのだろう、普段よりも早く家までの距離を移動して、弾む声色で帰宅を知らせる。
「ただいま叔父さん!……って、そりゃ仕事してるよね」
しかし返ってくる声は無く、レイモンドは落胆に肩を落としてダイニングへ向かう。
リュックサックを肩から下ろし、ここならもう安全だと力を抜ききって。
「あれ、叔父さん帰ってるんだ」
ダイニングテーブルには、朝には無かった紙束が所狭しと広げられ、その内容を無防備に晒していた。
「うわ捜査資料?良いのかなぁこんな──」
見てはいけないと、レイモンドは咄嗟に顔を背けた──背けようとした。
しかし、広げられた資料の一部が目に入り、それがどうしても気になってしまったのだ。
見覚えがある、と。
「時限能力獲得ドラッグ……これって」
資料には見覚えのある容器、そしてそれが裏社会で流通し始めた新型のドラッグである事を説明する文章。
それらを一度目にしてしまったからには読まずにはいられず、レイモンドは吸い込まれるようにして視線を走らせる。
「注射で……使用すると超能力を獲得……ごく僅かな数が発見?」
リュックサックの中に入っている物の重要性、そして危険性を知ってしまい、レイモンドは目眩を覚えて後ずさる。
平凡な少年が持つにはあまりにも重い。
持つ腕が震える程に。
そうして慄く時間は長くは続かず、聞こえてきたトイレを流す音、そして扉を開いて近付く足音で、レイモンドは平静を幾らか取り戻すのだった。
「レイモンド?どうした?」
「いや、別に……叔父さんがそんな所に見ちゃダメそうな紙を広げるから困ってたんだよ」
「おお、スマンスマン。ちょっと忙しくなりそうでな、着替えを取りに来たんだ」
「今日の夕飯は?」
「ひとりで食べてくれ。叔父さんも適当に済ませるから」
それじゃあ、と資料を纏めて去っていった叔父さんを見送り、レイモンドは安堵と共に背に隠したリュックサックを下ろした。
殆ど反射的に、無意識に庇ってしまったその中身へと、レイモンドは早鐘を打つ心臓を抑えながら手を伸ばす。
「これで……僕もヒーローみたいに」
レイモンドはケースの中の青い光を覗き見て、ひとり呟く。
高揚に口の端を吊り上げながら。