第6章 矛盾する誓約
モスクワは沈黙を纏っていた。
空は灰色、街路樹は葉を落とし、歩く人々の表情には冬の無関心が宿っていた。
戦争の記憶が凍土の下に押し込められ、街全体が「平常」という仮面を被っている。
氷室拓也は、国家戦略局と外務省が共用する政府迎賓館の一室にいた。
EASO——東亜安全保障機構。すでに創設されているその枠組みに、日本が正式加盟する。
だが、その過程は“承認”ではなく、“許容されるかどうか”の問い直しだった。
加盟国の一つ、ロシアは明言していない。
だが、水面下での了承がなければ、条約の信頼性は根底から揺らぐ。
——制度は、作るより、黙認を得るほうが難しい。
氷室がここに来たのは、賛同を得るためではない。
反対しないという沈黙を、制度の背後に付け加えるためだった。
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迎えたのは、アレクセイ・スコルピノフ。
ロシア外務省東アジア局の局長代理であり、大統領府・国家戦略局付の外交顧問。
元・駐中国大使館の安全保障担当。現在はロシアの東方戦略の最前線にいる。
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「EASOの条約本体については、我々もすでに署名している。
だが、日本が“正式加盟”する段になって、ようやく本音を問う必要が出てきた」
「本音、ですか」
「日本はアメリカとの安保体制を保持したままEASOに加わる。
それを“多軸外交”と呼ぶのは自由だが、我々には“二重属属”にも見える」
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部屋の空調は静かで、厚いカーテンが外光を遮っている。
スコルピノフの声は穏やかだが、その言葉には含意があった。
「我々はNATOが何をもたらしたかを知っている。封じ込め、軍拡、代理戦争。
そして、ウクライナで起きたことが、それを証明した」
氷室は黙って聞いていた。
「EASOが“均衡の枠組み”であるというなら、それを実証するのは日本の役割だ。
アメリカと接続したまま“独立性”を担保する。そんな離れ業が成立するかどうかを、見極めさせてもらう」
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反論はしなかった。
制度を弁護すれば、その瞬間から信用を失う。
氷室は条文を起草したわけではない。
だが、その条文の継ぎ目や解釈の余白を繋ぎ合わせて形にする実務の責任者だった。
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会談の終盤、スコルピノフがグラスの水を傾けながら静かに言った。
「君は制度の中に、意図を隠す人間だ。だから訊く。
——制度に、耐えられるのか?」
「耐えるのは制度ではありません。社会です」
「ならば、君の国はそれに耐える覚悟があるのか?」
即答はしなかった。
それは、東京でもまだ答えの出ていない問いだった。
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ホテルへの帰路、車窓に流れる街並みには、再建された集合住宅と取り残された廃屋が交互に現れる。
戦争は終わった。
だが「終わった」とは誰も言わない。
それが、ロシアという国だった。
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夜。ホテルのラウンジ。
氷室はひとり、グラスの水を前に、資料をめくっていた。
EASO条約の運用補足案と、各国代表が添えた修正意見の控え。
その中に、スコルピノフの筆致で記された一文がある。
第29条 補足提言:
「加盟国は、協調の枠組みにおいて、自国の社会的断絶・情報環境・歴史的摩擦の波及に配慮するものとする」
制度とは、武力の直前にどれだけの言葉を置けるかで評価される。
スコルピノフの言葉は、制度が戦争を遅らせるための装置でしかないという、冷めた見方だった。
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氷室は胸ポケットから、小さなカードを取り出した。
紬が10歳のときにくれた、たった一行の願い。
「せかいがへいわになりますように」
それは、どの条文にも、どの会議記録にも記されていない。
だが氷室は、その言葉の余白にこそ制度の意味を残そうとしていた。
「答えじゃなくても、前提にはなる」
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そう呟いたとき、エレベーター前ですれ違った通訳官の女性が、躊躇いがちに尋ねた。
「あなたは……その制度の中で、生きていくつもりですか?」
氷室は数秒だけ黙り、こう答えた。
「たぶん、生きられない。
でも、俺の娘の言葉が、そこに居場所を持つなら、それでいい」
彼女は静かにうなずいて、エレベーターに乗り込んだ。
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部屋に戻った氷室は、私的控えの資料に一行だけ書き添える。
備考(覚書):制度は抑止だけでなく、記憶の保管庫でもあるべきだ。
「誰の言葉が消されたか」を忘れない仕組みこそ、持続する秩序の核である。
モスクワの空はさらに深く灰色に沈んでいた。
過去の戦争も、制度の構造も、そこで静かに凍っている。
氷室は紙を胸元に戻し、目を閉じた。
「耐える制度じゃなく、残る制度を——」
その言葉は記録には残らなかった。
だが、それを口にせずに制度の隙間に忍ばせた者がいたことだけは、確かだった。
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