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第5章 無言の調整会議

霞が関の曇天は、春の訪れをまだ許していなかった。


永田町の議員会館では、その日、EASO条約に関する非公開ブリーフィングが行われていた。


参加者は、超党派の若手議員数名と、政府系シンクタンクの研究員たち。

いずれも安全保障分野で一定の影響力を持つが、あくまで“表に立たない層”だ。


報道関係者は一切排除されていた。

この場は「理解促進」ではなく、「空気の計測」のために用意されたからだ。


氷室拓也は、局長の陰に控えながら、質疑に備えた補助資料のタブレットを操作していた。

発言することはない。だが、彼が関わった補足文が、今まさに“政治の言葉”として試されていた。


「この“将来加盟に関する調整条項”——24条ですね。

どの国を想定して書かれたんです?」


ある若手議員が問いを投げた。

語調は柔らかくも、本質に踏み込んでいた。


局長は控えめに微笑んで応じた。


「特定の国とは限りません。

安定と整合性を重視するEASOの理念に則った表現です」


だが、別の議員が切り込む。


「中国が主導する枠組みに、日本が深く関与することで、

アメリカとの信頼関係にヒビが入るのでは?」


氷室はわずかに視線を上げた。


この問いは、過去ではなく未来を縛るものだった。


さらにもう一人の議員が、手元の資料をめくりながら続けた。


「12条……“他の軍事同盟との整合性”という文言。

これ、日米安保との矛盾を抱えたまま進むんじゃないですか?」


局長の口元がやや固くなる。


その瞬間、補佐官の端末が氷室の補足案を受信した。


「12条は“努力義務”にとどめている。

他同盟との二重加盟を禁止するものではなく、調整の余地を残す“弾力的文言”として機能する」


それは、氷室が数週間かけて練り直した注釈のひとつだった。

彼は条文そのものを書いたわけではない。

だが、“どう解釈されるか”の導線には深く関与していた。


——外交とは、制度の使い方を設計する仕事だ。


会議後、廊下に出たところで、同行していた内閣官房の補佐官が氷室に声をかけた。


「今日の議員たち、わかってるんだか、わかってないんだか……」


「“わかってないふりをしてる”のか、“わかりたくない”のか。

どっちにしても、政治の質問は“責任の所在”を探ってるだけだ」


氷室は淡々と答えた。

この国の制度文書は、解釈されるために存在する——それが宿命だった。



その夜、NHKを皮切りに各局が一斉に報じた。


“政府、アジア版NATOに事実上加盟へ”

“EASO条約、日本が多国籍軍事枠組みに参加か”

“日米安保との整合性に懸念の声”


永田町では、水面下の反対が徐々に可視化されつつあった。


左派・リベラル政党は、「専守防衛に反する」「戦争法案の延長」として反対を明言。

中道系野党も、「アメリカとの信頼に影響を与える」として疑義を呈した。


与党内でも、選挙戦を見据えた慎重論がくすぶっていた。


すべての論点が、氷室の端末に「内部情報報告」として集積されていく。



翌週、通常国会が召集された。


総理大臣の施政方針演説では、「多軸的安全保障」「地域主導の防衛対話」などの言葉が並び、

EASOという名称は避けつつも、条約提出への明確な意思が示された。


「我が国は、平和を他国に委ねるのではなく、自らの意志で守る。

そのための制度設計と対話を、今ここから始めたい」


傍聴席。氷室は静かにその光景を見下ろしていた。


“制度設計”——その言葉には、彼が書いた解釈ガイドラインの一節が引用されていた。


だが、それは彼の“本意”ではない。



午後、国立国会図書館の裏手にある中庭で、氷室はひと息ついていた。


ベンチに腰かけ、スーツの内ポケットから青い紙を取り出す。


「せかいがへいわになりますように。」


紬が10歳の誕生日にくれた、たった一行の願い。

この紙は、北京でも、ソウルでも、平壌でも、彼の胸にあった。


そこに現れたのは、内閣官房副長官の坂東だった。


「氷室さん、政治ってのはね、“決断したように見せる技術”なんですよ」


「外交は?」


「“迷いの余地を残す技術”ですかね」


坂東は皮肉っぽく笑う。


「“戦略的自律”って言葉、総理が明日の答弁で使うそうですよ。

氷室さんの報告書から“それっぽい”って引っ張ったらしい」


氷室は首を横に振った。


「俺は“選択肢の保持”と書いた。

“自律”なんて、入れた覚えはない」


「でも、“そう読めた”なら、それで十分なんですよ。

制度ってのは、使われることで意味が変わっていくんです」



夜。帰宅した氷室は、灯りをつけず書斎の椅子に座った。


首都高のライトが滲み、部屋の中はぼんやりと青く染まっていた。


「誰のための制度か。

 誰の声が、まだ条文になってないか——」


条文とは、声を形式に変える作業だ。

その形式に、祈りを刻めるかどうかは、運用する者の意思にかかっている。


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