第3.5章 記録されない国
北朝鮮側、平壌郊外の共同管理エリアに朝霧がかかっていた。
氷室拓也は、統一準備委員会の視察団の一員として、公式スケジュールをこなしていた。
案内されたのは、旧党庁舎の転用施設、住宅の再開発区域、保育・教育センターなど。
随行するのは韓国側職員と北側の警備担当。
どの施設にも、案内板と撮影可能範囲があらかじめ指定されていた。
現場には一切の混乱はなく、整然とした“進行中の平和”が演出されていた。
施設案内中、何度か氷室が踏み込もうとした質問は、
通訳を通した瞬間に角が取れ、別の意味に変換された。
「住民の再配置に関する手続きは?」
「現在、段階的に進行中です。安全確保が最優先です」
「思想的再教育に関する統一方針は?」
「理念の共有には時間が必要です。委員会で調整されています」
発せられるすべての言葉が、制度のための言葉だった。
氷室もそれを理解していた。
制度に従うふりをして、制度の形を変えていくのが、自分の仕事だった。
—
その夜、平壌と開城市の間に設けられた中立宿舎の一室。
韓国側代表団と共に滞在していたセリム博士が、部屋を訪れた。
廊下には監視カメラがあったが、部屋の中は“私的空間”とされていた。
とはいえ、完全な自由があるわけではない。声のトーンにも慎重さがにじむ。
窓の外は真っ暗だった。
北朝鮮の夜は、いまだに街灯がまばらで、都市の輪郭すら見えない。
セリム博士は静かに口を開いた。
「昼間、展示で“空白”を感じましたか?」
「ああ。丁寧すぎる沈黙は、だいたい何かを隠してる」
氷室が答えると、セリム博士は小さなファイルを取り出した。
「これは、あなたには見せないほうがいいかもしれません。
でも、見せずにいるのも、違う気がして」
中には、数枚のスキャン画像があった。
それは、「青い紙の革命」当時に収集された未公開資料の写しだった。
「これ、どこから?」
「委員会の中にも、こういうのを“残したい”と思う人はいます。
私個人としては、記録を制度の外に置いておくことに、意味があると思ってる」
氷室は画像をじっと見つめた。
くしゃくしゃになった紙、鉛筆のかすれた文字。
そこには、こう書かれていた。
밤에 걷고 싶습니다
夜に歩きたい
이름을 고르고 싶습니다
名前を選びたい
노래를 큰 소리로 부르고 싶습니다
うたを大声でうたいたい
セリム博士が言った。
「“革命”って言葉は使わないほうがいい。
あれはただの……小さな声でした。誰にも聞かれなかったけれど、確かにあった声」
「制度には入れなかった?」
「制度が追いつけなかっただけです」
—
部屋の照明がやや暗くなった。節電タイマーのせいだった。
窓の外、誰かが通り過ぎる足音だけが聞こえた。
「私は、“制度”を信じたい。でも、こういう声が制度の底に沈むのは、もう見たくない」
「だから……見せたんだな」
氷室はそう言って、ファイルを閉じた。
セリム博士はうなずいた。
「あなたが書いている“仕組み”の中に、
こういう声が最初から居場所を持っているような、そんな制度なら、私は賛成したい」
氷室は何も言わなかった。
ただ、手元のペンをゆっくりと置いた。
—
翌朝、帰国前の荷造りを終えた氷室は、手帳の片隅に一文を書き足していた。
「制度は、声なき者を覚えている必要がある」
そしてそれとは別に、いつもの青いカードを取り出す。
娘・紬が遺した、あの言葉。
「せかいがへいわになりますように。」