第3章 分断の境界で
ソウル行きの高速輸送機が、仁川国際空港に滑り込むように着陸した。
空は一面の薄曇りだった。
タラップを降りた瞬間、肌が風を覚える。
北京の重厚な秩序とは異なる、どこか“動いている空気”。
自由の名のもとに揺れ続ける気配と、それがいつか壊れるかもしれないという不安。
氷室拓也は、目を細めながらその空気を吸い込んだ。
外務省代表団の随行員としての訪問。
表向きは経済安全保障協議。
だが、実際の目的は——統一コリアの設計図をめぐる、水面下の腹の探り合いだった。
ソウル郊外にある安全保障研究施設の地下フロア。
エレベーターが深く潜るたび、通信が絶たれていくのがわかる。
案内役の韓国側官僚が、声を潜めて言った。
「本日は、大統領府ではなく、特別管理区域での面談となります。
一部、北側の動きが活発化しておりまして……」
“動き”——
その言葉の意味は、党内部の権力調整か、あるいは軍の再編。
いずれにしても、北は“誰も支配していないのに支配されている国家”になりつつあった。
防音扉が開くと、そこに立っていたのは、統一準備委員会の政策主任、ユン・セリム博士だった。
外交官から政策分析官へ。
そして、今や統一構想の心臓部に最も近い女。
冷静で、静かで、それでいて鋼のような視線を持っていた。
「ようこそ、氷室さん。
ここまで来るのに、何年かかりました?」
「こっちはもう老眼が始まってるよ。
長く生きてるぶん、図々しくなった」
表情は動かないが、セリム博士の目がわずかに笑った。
会談が始まると、まずは一通りの資料が提示された。
統一交渉の進捗、北朝鮮側の体制変化、地域秩序との整合性——。
セリム博士が語る。
「現在、北は正式な国家元首を持っていません。
最高指導者の急逝から三年、朝鮮労働党による合議体制が続いています。
一党独裁体制は形式上維持されていますが、カリスマの喪失は隠せません」
氷室は頷いた。
「後継者が指名されていなかったのは、想定外だったろうな。
ただ、あの国にとって想定外は、いつも始まりだ」
少しの沈黙。
そしてセリム博士が静かに言った。
「始まりは……もっと前かもしれません。
“青い紙の革命”を覚えていますか?」
その言葉に、氷室の眉がわずかに動いた。
5年前の出来事。
平壌の裏路地に、無数の小さな青い紙が貼られていた。
それぞれの紙には、まるで子どものような文字が並んでいた。
밤에 걷고 싶습니다
夜に歩きたい
이름을 고르고 싶습니다
名前を選びたい
노래를 큰 소리로 부르고 싶습니다
うたを大声でうたいたい
暴力ではなかった。主張ですらなかった。
ただの、「願い」だった。
「あの時、党は紙を剥がし、貼った者たちを粛清しました。
でも、その願いだけは、誰にも消せなかった。
“カリスマの死”は、革命じゃない。
でも、“声を上げたこと”は、社会をゆっくり変えます。
今の北は、“静かに泣いた者たち”の上に立っている」
氷室は静かに息を吐いた。
「なるほど。
幻想じゃなくて、沈黙の延長線にある現実——か」
しばし沈黙のあと、会話の流れが変わる。
だが、その場で唯一、意味を持つ問いを口にしたのは、氷室だった。
「北は、どこまで知っていますか?
この条項の存在を、です」
室内に静寂が落ちた。
セリム博士が、やや声を潜めて答える。
「“知らないふりをしている”のかもしれません。
もしくは、“知った上で、何もしない”のか」
「それが一番、厄介ですね」
「だから我々は、“何も決めないでおく”という決定を続けているのです」
セリム博士は、手元の資料から一枚の図面を滑らせた。
北朝鮮の軍構造を表す非公式の分析図。
正規軍、非正規部隊、後方支援組織、それぞれが独自に機能している。
「軍は完全には解体できません。
非正規部隊や後方組織は依然として強く、
その存在がEASOの枠組みと整合しない可能性がある」
氷室はすぐに答える。
「“整合しない”んじゃない。
“整合させるよう、文言を作る”んだ。
政治家は希望を語る。外交官は、希望に制度をつける」
会談の終わり際、セリム博士はふと目を伏せ、ためらうように切り出した。
「氷室さん。……もし紬さんが生きていたら、
彼女をこの新しい半島に連れて来たいと思いましたか?」
氷室は答えなかった。
胸ポケットの内側に指先を添えた。
そこにあるのは、小さな、青い、紙。
紬が10歳の誕生日に書いた、たった一文の願いだった。
「せかいがへいわになりますように。」
それは、平壌の路地裏に貼られた“青い紙”と、同じ色だった。
—
その夜。
宿舎のデスクに向かった氷室は、ノートにこう記した。
「北は沈黙の国だ。
沈黙が制度となり、記憶が粛清され、声が姿を消す。
それでも、人は願う。
願いは制度の外からやってくる。
制度の内側にいる俺たちが、それを受け止める言葉を作るしかない」
ペンを置いた氷室は、スマートフォンの未読通知を無視し、ただ深く息を吐いた。
—
翌朝。
帰国のための車に乗り込む直前、セリム博士が静かに言った。
「青い紙に願いを書いたのは、子どもたちだけじゃありません。
あなたと同じ世代の男が、
『うまれてからずっと黙っていた。だから、いま書く』と、残した紙もありました」
氷室はわずかに目を細めて言った。
「黙っていたやつが願うと、重いんだよ。
祈りってのは、言葉の裏側に黙ってる時間があるからな」
車が発進し、ソウルの朝の光の中を滑っていく。