第1章 影と命の間
霞が関の空は薄く曇っていた。
永田町と外務省庁舎をつなぐ道路を、自動運転の省庁用車両が無音で滑っていく。
建物の外も中も整いすぎていて、逆に何かが破綻する前の静けさを思わせた。
氷室拓也、46歳。
外務省総合外交政策局・国際安全保障政策室の室長補佐。
今や東アジア安保の最前線にいる一人だ。
執務室のモニターには、EASO(東亜安全保障機構)の条約草案と付帯文書が次々に表示されていた。
日中同盟を軸にしたこの軍事協定は、もはや発足の秒読み段階にある。
日本政府はアメリカとの安保条約を維持しながら、EASOにも深く関与するという“多軸安全保障”を選んだ。
その現場責任者の一人が、氷室だった。
EASOは2031年に中国主導で設立され、すでに13カ国が加盟している。
中国、ロシアを中心に、タイ、ベトナム、マレーシア、ラオス、カンボジアといったASEAN主要国の半数以上が加わっていた。
“アジアの安全保障はアジアで”という大義は、既成事実として現れ始めている。
ただし、朝鮮半島だけは別だった。
韓国も北朝鮮も、いずれも未加盟のまま。
数年前、北朝鮮の最高指導者が急死し、世襲は回避された。
暫定体制として成立した集団指導体制は、表向きには合議制を装いながら、依然として一党独裁に近い。
一方の韓国は、南北融和を最優先とする政権が微妙なバランスの上に立っている。
国内では保守派の反発を受けながら、外圧を避けるためにEASO参加を先延ばしにしてきた。
現在、「統一コリア」構想の下、連邦制による統一を目指す漸進的プロセスが動いている。
その中で、“まだ存在しない国家”を将来的に迎え入れるための条文が必要とされた。
氷室が調整しているのは、その受け皿となる補足条項だった。
「将来的に国家統一過程にある地域体の加盟について、
加盟国による個別協議をもって、柔軟な判断を行うことができる」
誰もがそれが統一朝鮮を指していると知っていた。だが、あえて明記しない。
それが、外交という言語のルールだった。
周囲には「理論派」「実務家」と呼ばれながら、別の呼び方もある。
——“危険人物”。
表向きは温厚で冷静だが、その言葉の奥に熱を隠そうとしない。
彼の本質は“選び取る者”であり、“従属しない者”だった。
そして、アメリカに対してだけは、彼の言葉は常に鋭く冷たい。
部屋の片隅に置かれた写真立て。
そこには、3人の笑顔が写っている。妻の千尋、娘の紬、そして氷室自身。
背景は、メリーランド州郊外の静かな官舎の裏庭。季節は秋、空が青く、落ち葉が風に舞っていた。
氷室が在米大使館で政務官として働いていた当時のものだ。
だが、もうこの世にはいない。
2032年、全米を揺るがせた政変——“三月危機”。
左右の政治分断はついに制度を突き破り、州政府が中央政府の正統性を否認する事態へと発展。
民兵と武装市民が暴徒化し、都市部では一時的な戒厳令が敷かれた。
その中で、外国人の避難は「余力があれば対応する」という指針に後退した。
館内に詰めていた氷室に、軍の連絡が届いたのは、すでに暴動の波が官舎に達した後だった。
千尋と紬は、誰からも守られずに取り残され、消息を絶った。
氷室は静かに椅子に座り、モニターから目を離した。
朝の空気の中にコーヒーの香りはない。ただ、無機質な空調音だけが響いている。
「法に従った結果だと? 公平に扱ったと?
じゃあ俺の家族は、“不平等に生きていた”のか?」
呟きは誰にも届かない。
もう怒りは炎ではない。ただ、残り火のように静かに燃えているだけだった。
そのとき、デスクの端末が低く電子音を鳴らした。
省内のAIアシスタントが、機密指定の通知を告げる。
「機密レベル3。送信者:ジェニファー・スコット。メッセージ内容、暗号化済」
氷室の眼差しが鋭くなる。
ジェニファー——米国務省のアジア局特別政策顧問。
元CIA出身の戦略分析官であり、氷室とは在米時代に幾度も意見を交わしてきた“最も手強い相手”だった。
メッセージを開く。英語で、簡潔に、冷たい言葉が並んでいた。
Takuya, you still have time.
拓也、まだ間に合うわ。
If Japan signs the treaty, we’ll reconsider everything — bases, trade, intelligence.
日本がこの条約に署名すれば、私たちはあらゆることを見直す。
米軍基地、貿易協定、情報共有——すべて。
Don’t let old ghosts make decisions for you.
過去の亡霊に、あなたの決断を委ねないで。
—J.S.
氷室はメッセージを黙って読み終えると、ゆっくりと画面を閉じた。
「その“ゴースト”が俺のすべてだ」
声は低く、誰にも聞こえない。
だがその言葉の重さは、自分自身に深く刺さった。
スーツケースを開く。北京への出張は翌朝。
薄く折りたたまれたシャツの横に、何の装飾もない小さなカードを忍ばせた。
紬が10歳の誕生日にくれた、手書きのメッセージだ。
震えるような字で、ただこう書かれている。
「せかいがへいわになりますように。」
平和。
何百人の官僚が積み上げた文書より、何百機の無人機より、
娘のその言葉は、今も氷室の中で重く、強く、残っていた。
「アジアの安全保障を、アジアの手に戻す。
そのために俺が燃え尽きても、それでいい」
それは決意というより、確信だった。
そしてすでに、外交官という職業の枠を超えていた。
明日から、北京。
世界の秩序を再構成する最後の協議が始まる。
氷室拓也は、写真立てをスーツケースには入れなかった。
それは、もはや荷物ではない。ただの、彼自身の一部だった。
ChatGPTの勉強のために、ChatGPTに指示して書かせたものです。丸投げしているのではなく、アイデアだしや設定などをChatGPTと議論して出力しています。