22話/帝都歴10005年7月、永遠の見習い青年は旅に出る
少し昔、帝都南部にはそれはもう立派な館が建築された。今もその館はあるのだが、子供たちからは幽霊屋敷なんて呼ばれていたりもする。肝試しに行こうとする子供たちを止めようと、親も大変なことだろう。
その館には物騒な男が住んでいる。昔は物静かで、話しかければ少しは応じてくれるような青年だったのだが、今は日常で使うこともないような魔法の研究に忙しいと言っては、誰とも関わらなくなったそうだ。そんなものは表向きの理由に過ぎないことを、帝都の民は誰も知らない。
ジリリリ、ジリリリ。目覚まし時計が煩わしく鳴り響く、午前の七時。徹夜で寝落ちしていた青年は煩わしい時計を叩き割る。
「んん............後で直そう。ご飯、食べるか。」
青年が徹夜していた部屋は、私室とは別の魔法研究のための部屋。床に散らかった魔道書、魔具、いつ暴発してもおかしくないような拳銃等を隅へ追いやり、なんとか足場を作っては部屋の出口となる扉に手をかける。
彼にとって、この世界に存在する音のほとんどは昔から煩わしい。鳥のさえずりも、繰り返し鳴る黒電話も、隣室から聞こえる呻き声も、何もかもが。
そんな声の主のご機嫌取りも、青年の日課。一階に降りてからキッチンで昨晩から温められたミルクをカップに注ぎ、蜂蜜の入った瓶と共に二階へと戻る。呻き声を上げていたそれは館の主の足音に気付き、体が震え上がる。声の主からすれば、その青年はある日から自分をこの部屋に閉じ込めている男という認識だ。
扉の前に立つ。青年は息を整え、ノックした。
「入っていいか?」
「............」
「前にも誤解だと説明したはずだ。あなたには立場というものがあり、今現在の状態を世界に知られるわけにもいかない。知られれば、今戦力のない帝国は滅んでしまう。」
「その妄想に付き合って、三年ぐらいですね。10000年前に残してしまった大切な人たち............私は長い時を経て目覚めてから、一人で過ごしてきただけの人間です。その私を誘拐して、ここに閉じ込めて、何度その話をすれば満足するんですか?」
「............まあいい、入るよ。君が生きてくれないと、お父様が起きたとき悲しんでしまうからね。」
重い扉を開く。内側にかけられた障壁は消え、声の主はその姿を見せた。
まだベッドから起き上がったばかりらしく、髪も服も乱れている。あの日から洗うことなく、ずっと赤いローブ・ヴォラントを身に纏っている女性。その人の名は、月見理愛子。
三年と五ヶ月前に別の女性の体を借り、それから間も無くして不慮の事故で身体損傷。六階のビルから落ちた彼女は、退院したばかりの青年にとっては無惨な光景だった。
何があったのかはすぐに理解した。おそらく、彼女は________............
しかしそれをいくら説明しようと、月見理愛子は納得しなかった。そもそも青年を覚えておらず、この時代に彼女が残してしまったと言っている人も生きているという事実も否定し、ただ泣いていた。
放っておけず、半ば誘拐のような形で館へと連れていったのがすべての始まり。リハビリを続けているナーサリーとセイラは、この事態を受け入れた。帝国の戦力が整うまでは現在の彼女を庇うべきだと判断し、今に落ち着く。
「ミルクをどうぞ。甘さが足りないなら、自分で蜂蜜を足してくれ。飲み終えたらいつもの健康診断を行おうか。それから欲しいものは?」
「............」
「(また黙ってるし。この人って実は面倒な女なのか?資料付きの説明をしても納得しないし、目も合わせないし、なんかムカつくし。)」
「ぬいぐるみ。」
「またぬいぐるみか。分かった、帝都中央に赴いたときに探してくる。君の旦那さんが目覚めていたら、連れてくるよ。」
「どうせ嘘のくせに。」
状況はご覧の通り、芳しくない。彼が徹夜しているのもこれのせいだ。
身体の損傷の回復には成功しても、脳への深刻なダメージの回復は失敗。時々人が変わったように怒り出すと思えば、誰かの名前を泣き叫ぶ。脳の修復も彼女自身が行っているはずなのだが、現在のような状態に落ち着いてしまったということは、あの日彼女は損傷する間際まで何もかも忘れたいと願ってしまっていたのだろう。
ほんの一瞬でもそう願ってしまえば、簡単に叶ってしまう。過去にも複数回そんな事例があったが、どの患者も寿命を迎えるまで記憶を取り戻したくなかったそうだ。
その絶望的な状況を変えるために、青年は、ツキミは立ち上がった。
「別に君の信用とか、信頼とかはどうでもいい。それでも僕自身が決めたことを捨ててまで君を引き取ったという事実は忘れるな。僕はもう、誰かの悲しみも怒りも受け止めたくないんだよ。面倒だから。」
「............意味が分からないです。」
カップと瓶を片付け、診断の結果をまとめるために青年は部屋を出る。扉を閉める一瞬まで、彼女はこちらに目もくれない。
そう。青年は重荷を背負ってしまった。気持ちよくない朝を迎えてしまうのも、眠れない日々が続くのも、原因はすべて彼女にある。心の傷を取り除くなんて都合のいい魔法を何度研究したところで意味はないのだが、彼の中に芽生えたものが諦めるなと抗議している。ゆえに彼は、止まりたくても止まれなかった。
それが今現在の青年、ツキミの現状。セイラから不老の術を学んでから彼の身体の加齢は止まり、思考も停滞気味。他国へ行きたくとも、現状を考えればそんなことすらできないのは分かりきっている。キッチンでカップを洗っているときも聞こえてくる彼女の泣き声に、少しだけ、ほんの少しだけ疲れを感じた。
「ほんの少しだけの付き合いの人間を、なんで僕は............」
あれからずっと見つけることができない答え。
何故自分は、ただの他人を救おうとしているのか。その疑問の度に思い出すのは、師と呼んだ彼女が見せた幻想。暗闇に包まれた場所に光を灯した、美しい世界。ただの下級魔法でも誰かを救うことができると道を示した、勇敢で強かった師の瞳。
納得はいかないが、きっとそれが答えなのだろう。案外あんな下らないことが、誰かのそうしたいと思った行動の基となっているに違いない。その考えと共にツキミは今日まで生きてきた。
諦めたくなってもそれを許さず、次の段階へ進むためにあらゆる手段を選ぶ。今日もそれを繰り返すだけ。受話器を手に取り、いつもの番号にダイヤルを回す。しばらくすれば受話器の向こうからは、いつもの声が聞こえてくる。
「もしもし、セイラ。............ようやく同じステージに立てたようなものなんだから、敬語は使わなくたっていいだろ。もうあの時と同じ間違いをすることだってない。それよりも、パスポートは出来上がったかな。それから、イザ............理愛子の引き取り手の情報。子孫とは名乗っているけど、その経歴から防犯意識まで全部調べないと安心できないし。うん、うん............うん。そうだよ。」
いつまでも彼女を理由に、進むことはできないと言い訳してはいけない。彼の小さな決意は、確かにその背中を押した。
「僕は世界を旅してくる。もっと多くの魔法を知ることができたら、あの日誰の力も借りずにナーサリーを止めることができた。もう君たちの手を煩わせるような真似をするつもりはないよ。今度は僕が、あの神を殺してみせる。君たちは理愛子の自殺願望を、止めてくれ。」




