89 凍て付く氷花の宿命だと、言い聞かせていたのに
「セルリアーナ、お前が手を汚す理由が無い」
セルリアーナの眼を覆い、照準を遮断した彼の手は次第に霜が張り氷になる寸前だった。
「どうしてでしょうか」
「……セルリアーナ」
氷魔法に触れれば、危険が伴う。魔力過多であるセルリアーナは己の魔力が尽きることはまず無い。
右手から放たれる魔力に触れると、ラルシュの発動した魔装ごと、腕は忽ち氷を張り始めた。
それでも彼は全く退けようとはしない。
「おやめください。わたくしを止めるのは、この世の悪を……解き放つのと同然────」
「違う。お前が、やることじゃ無い」
カリュプスが大きな黒渦を作り、どんどん四肢を黒く染めて行く。墨の様に消え去り、まるでブラックホールに飲み込まれた様な。
そんな不可思議な闇魔法を無詠唱で行ったラルシュは、こう語り掛ける。
「魔力残債は消せないだろう。お前がやれば幾ら相手が大罪人だろうと、魔力過多や魔力暴走事件を裁判で出されたら厄介だ」
「こう言う罪人は、緩い司法で裁かれて十年ちょっとで前科持ち炭鉱夫になって世に出て、また繰り返しますわ。芽は摘まないと、世の為にはなりませんことよ」
「どうせ悪人は不味いご飯食べようが公正の余地は無い。だが、これは証言台に立たせる為に喋れる程度の状態が必要だ」
「それでは手足や生殖器官は必要無いのでは? 無体を働こうとした、病気持ちが蔓延させても困りますわ」
「必要無い物は処理させるつもりだ。────双頭の狗、餌の時間だ」
尻尾を大きく振った双頭の狗は飼い主に忠実に、餌の時間を堪能した。シャーベット上になろうと、先程まで血の通った肉の味は劣化していなかったらしい。
美味しそうに涎を垂らして、誘拐犯の男の分厚い四肢に鋭い歯が皮膚に食い込む。
「い、いやだあああアッ、! あ、ッギ、ぎぃやああぁあっ!!!!」
「な、な……ッアタシの、腕……ッなんで…………」
「要らないだろう? 俺は下衆が女子供を薄汚い奴等に売り捌いている奴等に同等の痛みを与えるだけだ」
心が動かない。血が飛ぼうが這いずって命乞いされようが。
無体を働き、女子供を売買して稼いで飲む酒が美味いと嘲笑った人間の末路なんてどうでも良かった。
足元が凍っている。ラルシュは肘まで霜が上がって来ているのに、セルリアーナの頬を撫でた。
「や、……ッやめて下さい」
セルリアーナは己の体を恐怖心から無意識に抱いて、背を向けた。ラルシュは距離を取りながらその場から逃げ出そうとするセルリアーナを追い掛ける。
「……待ってくれ、セルリアーナ」
ばさ、と葉っぱがしなる音がする。警邏隊が声を張り上げて、燃え盛る家の消化活動を懸命にしている。
それでも救われなかった誰かの声が同時にあると、所詮はゲーム内のモブには人権一つ転がっていない。ヒロインが幸せになる為の物語だから。
中心から外れた彼女達へ救済措置は無い。そんな無情さをセルリアーナは体感したのだ。
ラルシュが眉を顰めてセルリアーナを引き留めるのは、ゲームから逸脱した招かざる存在になりたつある。
彼の選択肢がカリュプスとの約束から遠去かるのも、運命が定めたものだろうか。
セルリアーナは背を向けたまま、訴え掛けるラルシュをただ、受け入れることを拒むしか無かった。
「嘘だ、あんな悪意を持った発言は撤回させてくれ」
「ラルシュ様、どうして此処に来てしまったのですか。多くの目があります、早く身を御隠しに────」
「お前を巻き込みたく無かったんだ」
「良いのです、そもそも本当のことですから!」
自嘲気味にセルリアーナはせせら笑った。
「わたくし、この瞳は見る人を凍らせる冷酷なサファイア。物理的にも数々、殿下に近付く方達へ暴虐を繰り返してきましたし」
「────セルリアーナ、聞いてくれ」
「今更わたくしが品行方正に努めようと、無駄なんでしょうから」
「セーナ」
ぎゅうと長い腕がセルリアーナを閉じ込めた。
「本当は青くて澄んだ瞳が俺の汚れた心を一瞬で……、この世にこんな綺麗なものがあるんだと思ったのは、生まれて初めてだった」




