73 どうか、わたくしを遠去けないで
(……ここで迂闊に手を出してしまえば、二代公爵のベンブルクを敵に回すことになるわ。でも、でもでも! どうしろと言うのよ?! ラルシュ様を見捨てろってこと?!)
ベンブルク公爵家の正当な後継者は若くして、力量も人望もある。
それに逆算すれば、確か公の場で発表された年齢ではラルシュが二十二歳。二歳違いの弟に家門を明け渡したのだろう。
「ベンブルクの力は王家にも匹敵する。あのババアから生まれた次男はまともだが、あいつの足を引っ張りたく無い」
「ラルシュ様は……、何も悪く無いのに」
「生まれる前から、存在が悪き物だと知っていたら何をするか分かるだろう?」
「そ…………れは」
言葉に詰まった。つまり、誕生させなければ良いと言う究極論に至ることをカリュプスは揶揄した。
望まぬ妊娠ならば分かるが、胎内の化物だと認識する赤子の分別など出来るはずも無い。
「だから俺ともう関わるな。厄災を撒き散らす悪行の塊は、自然と周囲を不幸の渦に貶める」
「ラ、ラルシュ様…………?」
「カリュプスの影響力は計り知れない、他人を不幸にするのが仕事でもあるのだから」
スキル・認識阻害・隠密を普段から使っているのは、公爵家の長男はあまり表立って顔が知られていないのもあるのだろう。
王家に大昔謀反を働いたとされ、未来永劫忠誠を捧げると共に王家の守護を影で暗躍。代々暗殺や諜報に特化した人材が一代ずつ生まれ、その人間が亡くなる若しくは新しい器の選定が成された場合。
次のカリュプスが誕生する。最早、呪いの産物とも言えよう。
「わたくし、こう見えても王国内で指折りの魔力量を持つエスメラルディ侯爵令嬢ですのよ?」
「……ああ」
「暗殺だとか毒殺未遂も過去にありましたし?」
「…………ああ」
「高慢卑劣な悪女に盾突くなど百万年早いですわ。だから────」
お願い、わたくしを拒まないで。
セルリアーナが手を伸ばそうが、遠い場所にラルシュがいることを悟った。
手作りのパンや不恰好のお菓子の差し入れを何度持って来ようが、拒絶せず食べてくれる。第二王子殿下との関係性が冷え切って、更には王国の婚姻政策を王族自身が無碍にして、マイカと逢瀬を重ねても。
監視対象だから、と言って傍に居てくれたラルシュの存在は唯一無二だった。
「エスメラルディ侯爵令嬢、手を離してくれないか」
ラルシュが冷淡な口調で、セルリアーナを突き放す。これが正しい行いであることは重々頭では理解していた。
けれども最後の最後までセルリアーナは抵抗をする。
「わ、わたくしは…………」
闇が深い。どんなことを言っても、もう彼には声が届かないのだとセルリアーナは悟った。
カリュプスが見せてくれた、過去の器である人々も。縛りで深くは明かせぬが、ラルシュは一つも語らない。
「…………いや」
「困る」
「嫌、です」
「手を離して欲しいと、言っているんだ」
「今この手を離したらラルシュ様は、もっと遠くへ行ってしまいますから、嫌です」
「分かるか、ベンブルク公爵家長子たるラルシュ・ベンブルクの命を────貴族社会における、命令を否定する気か?」
身分を笠に着る物言いは、一番したく無いのはラルシュであるのに。
彼はセルリアーナを危険から遠避ける為に敢えて、冷酷に振る舞う。
「…………お願い…………、わたくしを遠去けないで」
悲痛なセルリアーナの掠れた声は、小さく消えて行く。
「…………警告、だ」
カリュプスの継承者は、心を閉ざすどころか他者と関わることを避ける。深く関係性を構築してしまえば、最後は決して良い結末に到達しないことを流れる血が覚えているのだ。
深々と被らされた外套は、セルリアーナの視線を遮る。ラルシュの革手袋に包まれた大きな手は、裾を掴んだか細い指先を拒む。
「さあお前は元いたあるべき場所に帰るんだ」
背中を押されて、セルリアーナはその冷たい手が決別を意味していたことを揶揄しているかの様にも思えた。
粉々に砕け散った、ヒルダの守護石がセルリアーナはどうしてか手放せなかった。もう持っていようと意味も成さないのに。
セルリアーナは滲んだ視界の中で、破片だけになったヒルダの守護石をポケットから出して、小瓶に詰め込んだ。
キラキラと雨上がりの陽光で照り輝いており、ひどくその明瞭さが残酷だと思った。
「最初から間違っていた。俺と出会ったことが────」
この世に生を与えられたのならば。
何者にでも、なれるはずだ。




