68 その悴んだ小さな手を握りたかった 後編
「俺が生まれてきたから、父さんはお屋敷から追い出されて……あんな嫌なことしてお金を稼いでる」
カリュプスとまだ会話が出来ていないのか、それともカリュプスの存在に気が付いていないのか。ラルシュはただ、掌に息を吐いて暖を取る。
炊き出しは貧困層が集まるこの街には、無いようだ。古い服を身に付けた人々は、何日も風呂に入っていない様で不潔だったし、誰もが俯いている。
「そこの旦那ァ、今夜はどうだい?」
「乞食が温かい飯にあり付けると思ってんのか?! とっとと働け役立たずが!!」
「キャアアアッ!? 何するのよ?! 離して!!」
スラム街に相当するのか、掘立て小屋が立ち並んで、何処かしらで悲鳴と怒号が響き渡る。露出の多い女性は、恐らく娼婦なのだろう。
身なりの良さそうな男性を中心に声を掛けて、家の中に消えて行く。
家を持たぬ浮浪者は支柱の無い崩落寸前の、屋台の店主に縄で打たれながら仕事をする。
一方で鞄を奪われそうになった女性は金切り声を上げるが、路地裏にそのまま引き摺られて行く。何がこれから起こるのか、明白だった。
暴力と恫喝、陵辱の傍ら性を売る人々が棲まう小さな世界は温情の欠片も無く、優しくはなかった。
そうやって、日銭を稼ぎ一日を生き抜くのだ。
「女の人を可愛がってあげる、仕事……」
逆も然り。見目の整った男性は、女性を相手にした商売をすることもあるらしい。
特にラルシュの父親は、誰もが見惚れる美丈夫と言える。酒で酔っていようが、女性をもてなす手技はあるのだろう。
「ああ良いよなあ、あそこの家の男娼は。女相手にして金貰ってんだから、顔が良けりゃあ未亡人のヒモにだってなれんのによお」
「駄目だ駄目だ、あれは厄災をばら撒くガキがいるから橋から落として殺すか売っ払わないと年増の貴族ですら無理だべ」
「貧乏籤引いたんだなあ、子連れが流れ着くくらいだ。とんでもねえことしたんだよ」
「此処じゃ犯罪者や賎民、迫害されて逃げ延びた訳ありばかりの集まりだからな」
ひそひそと耳打ちする大男達は、幼いながらも現状把握が出来る聡明な少年だった。道は真ん中を歩かず、端を擦り抜けて行くが他人の家の扉前は通らない。
ラルシュの黒髪はフードで隠れているものの、父親譲りの見目はケダモノの欲の捌け口に成り得るので、連れ込まれぬよう細心の注意を払っている様子だ。
「父さんが仕事の時は、外に出てないと。邪魔だって、追い出されるから」
古く二人の重さには耐え切れぬベッドの軋む音、色香を仄めかす吐息。甘ったるい潤滑に使う香油と、艶かしいヴァニラの香り。
全部、遠去けてくれるのは父親としての優しさや矜持であると信じたかった。
「寒いけど、父さんの仕事を邪魔しちゃいけない」
独り言をブツブツと、ラルシュは呟いていた。腹の虫は先程から泣き喚いていたし、寒さで何か思考を張り巡らせていなければ意識を保てないからだ。
極寒の中で意識が遠のけば、低体温症になり生命の危機に及ぶ。あっという間に死へ向かう。
「女の人、帰ったら……あのパン温め直そう。薪はこの間拾ってきたし、大丈夫。火を起こすのちょっとは慣れてきたんだ、今日も出来る」
己を鼓舞させて、ラルシュは只管待った。
冷たい風がびゅうびゅうと肌を打ち付けても、体を丸めて熱が逃げないようにするラルシュが痛々しかった。
弱音を吐かず、ただ父親の仕事を待つ献身的な姿が親の愛情を欲しがる子供を、すっかり大人のエゴで隠れ切っている。
「まだ、かな……出てきて来ないから支度に時間、かかっているのかも」
それはそれは夜明けまで。陽が漸く昇ると、欠伸をした女性が家から出て来た。
じろりと目々つけて転寝しそうだったラルシュへ「気味悪い」と唾を吐き捨てた。
「何見てんのよ。可愛く無いガキね、とっととくたばれば良いのにさ。穀潰しが……」
セルリアーナは回想中、とにかくジタバタと両脚を淑女らしからぬ般若面でバタつかせて怒り狂っていた。
父親の暴挙も勿論だが、子供に対しての扱いが粗悪であった。子供は生まれる場所を決められぬし、好きで忌避色を授かったわけでもない。
不遇を超越した凄まじい生存戦争は、子供にとって酷だ。
「ふっざけんじゃないわよあの女ァ!! 子供になんてことすんのよ私の可愛いラルシュ様にッ!! 今度会ったら馬糞顔面に満遍なく塗ったくって、髪もパックしてやるんだから!!!!」
しかしセルリアーナの声は届かない。
どうしてこんな酷い環境下に、ラルシュがいるのだろう。
王家の監視役として、カリュプスは守護に当たる存在であるのに。子供へ底辺を這いずる生き方をさせるのは、教育者として、大人の責任を放棄している。
やっと自宅に入ることが出来て、ラルシュはテーブルで酩酊状態の父親に駆け寄った。静かな軽い足音が、歪んで湿気を含み膨らんだ床が軋む。
酒瓶は既に中身は空っぽで、ラルシュはハッと我に返って汲んであった水を欠けたコップを持って行く。
真っ赤に染まった、虚な瞳がラルシュへ向いた。突っ伏された頭が上がると、それは誰もが振り向く美貌の男性がいたのだ。
「ラルシュ」
「父さん、お水…………」
「寒かっただろう。少し暖炉にいなさい」
「大丈夫だよ。父さんこそ、お仕事……そ、の……大変だったでしょう? ベッドで休んだ方が良いよ」
親子の会話は、何処かギスギスとしている。普段は暴力的で気に入らぬことや、機嫌を損ねれば虐待を繰り返す父親。髪を振り乱して、怒りを暴発させる肉親をラルシュはまだ労っている。
真ん丸い黒眼をジッと、父親が見詰める。伸ばされた手に、ビクリと怯えるがラルシュは恐怖のあまり身動きが取れなかったらしい。
頬を撫でられて、おずおずと上目遣いで「父さん?」と尋ねる表情が、セルリアーナは幼子の目線でしか見れなかった。
「カリュプスを宿したお前を、連れ出したのは搾取され王家の駒になり未来永劫囚われるならば、義理の祖父との約束を果たさねば」
セルリアーナは、貴族家から追放されてスラム街に流れ着いた父親がカリュプスの全貌をまだ子供に伝えてないことを知った。
カリュプスは次世代の器が誕生した瞬間移住する。自我を持つ眷属であるはずなのに、未だに露悪的に登場せず沈黙を続けている理由も不明だった。
もしかすると、カリュプスに干渉出来る年齢はある一定の条件が満たされなければ意思疎通が出来ぬ誓約があるのかもしれない。
「────とうさん?」
ぼそりと呟いた言葉は、酩酊して虚な瞳で漸く成し遂げるべく物を思い出したのか。
ラルシュには露入りの言葉となった。
「これしかお前を守る方法が無かった、憎むのなら俺を恨んでくれラルシュ」
蝋燭の灯火がフッと消える。




