ダイヤモンド
『今日のクロークチャンネルは~?!
社員みんなが慕う来栖社長にインタビューです!』
パソコンの画面の中で、見慣れた女性が身振り手振りで会社紹介をしている。
暗闇の部屋に、動画の背景や演出の光色が彩られていく。
「またそれ見てるんですか?先生」
アシスタントの真理さんがコーヒーを持って来るがてらに部屋の明かりをつける。
突然のまぶしい電気の光に、思わず目を細めた。
「もう!電気くらいつけてください!」
「うーん…、まぶし…」
「あ、来栖隼人じゃないですか!今をときめくイケメン若手社長!」
「…」
「かっこいいですよね~、先生も来栖隼人好きなんですか?」
純粋な目で見てくる彼女に、すぐ返答できなかった。
好き、という言葉で表現していいのか、わからなかったから。
「…」
プツン、と動画のタブを消す。
甲高い声が突然消え、静寂がつつみこむ。
「暇つぶしで見るのに、ちょうどいいだけ。」
「何も消さなくてもー。」
彼女もバツが悪そうにしていたものの、それ以上は追及しなかった。
『あれ』から、私は彼に会っていない。
恩人の叔父にも、最低限しか会わないようにしている。
私が、私たちが、彼らの家庭を壊してしまったのだ。
もう近づける権利など、会える権利など無いのだから。
高校を卒業した私は、左腕の障害もあり、思うように就職ができなかった。
障害者雇用も考えたが、何気なく書いたファンタジー小説を、考えなしに出版社に送ってみたら、あれよあれよという間に書籍化、本屋大賞受賞、シリーズ化、ドラマ化と進んでしまい、自分でも追いつけないところまで来てしまった。
その後も何気なしに書いたものが怖いくらいに売れるもので、執筆活動も命がけである。
そんな私のアシスタントを真理さんがしてくれるようになって早1年。
慣れたようにコーヒーや菓子を運んでくれるだけでなく、不自由な左腕を持った私の執筆活動等のサポートまでしてくれるのだからありがたいことこの上ない。
「それより、今日約束があったはずだけど、何時だっけ?」
「もうそろそろですよ。先生もついにグッズ販売ですかあ、嬉しいなあ」
「私はあんまりうれしくない…普通に恥ずかしいし…」
「何言ってるんですか先生!先生の小説にピッタリの絵柄にイラスト!繊細な細工の栞とかアクリルスタンド!他にもいろいろ欲しい物ばっかりなんですから、完売間違いなしですよ!」
ネガティブ思考になってしまう私に、真理さんは懲りずに熱烈のアピールをしてくれる。
まぶしすぎて、また目を細めた。
「…ということで、販売に協力いただく、株式会社クロークの担当者さんです。」
今日はグッズ販売に向けての話し合い、とのことだったが。
動画で何度も見ていた、あの彼女が、目の前にいることに言葉を失った。
「クロークの髙野です!お会いできて光栄です先生!」
「…、いえ…、こちらこそ…。」
「先生、クロークチャンネル登録してるし、毎日見てるくらいですから、びっくりしたんじゃないですか?」
「…わかってて、図りましたね。」
「え?!そうなんですか?!嬉しいですー!!」
隣に座るマネージャー、渡部さんは意地悪い笑みを浮かべている。
どうやらこの場にクロークが来ることを知らなかったのは自分ひとりだったようだ。
…まあ、この話し合いの場も、私ではなくほぼほぼ渡部さんが決めてくれるのだが。
「では髙野さん、よろしくお願いいたします」
「もちろん!何だか女子会みたいで、いい案が浮かんできそうです!」
「…(部屋に帰りたい…)」
話し合いは白熱し、私が眠気に負けて真里さんに助けを求め、ようやくお開きとなった。
その後も髙野さんと渡部さんと何度か会議(拷問)を重ねた。
真里さんが大絶賛していたグッズたちの生産もひと段落し、いよいよ販売に向けて動き出そうとしていた時だった。
「次回は社長もこちらへ訪問させていただければと思うのですが、先生、ご挨拶させていただいてもよろしいでしょうか?」
――、それは、ダメだ。
帰りたいしか頭になかった私の心臓がはねた。
不安と恐怖が一機に体を襲う。
「いえ、結構ですよ」
「え?先生どうしたんですか?」
「も、もしかして、何か社長が粗相を…?!」
「…いえ、わざわざ社長に来ていただく必要はありませんから。お忙しいでしょうし。」
今の私に会っても、気づかない可能性の方が高い。
しかし、可能性があるというだけでも私は耐えられなかった。
彼に、会う勇気がなかっただけだけど。
あの時私は彼を身勝手に守った。
守ったつもりだったが、その後の生活が本当に彼の望むものだったかはわからない。
どちらにしても、家庭を壊した私を今でも恨んでいるに違いない。
そんな彼と対峙することが、恐怖でしかない。
先ほどまでと態度が違う私を見て、2人は慌てた。
結局挨拶は後日という約束をし、その日は解散した。
「どうしたんですか、先生」
「…」
「今まで何かしてくれた人に対しては必ず挨拶はされてこられたじゃないですか」
「…」
「来栖隼人と、何かあったんですか。スキャンダルとかなら今知っておかないと後でフォローできなかったりするので教えてほしいのですが」
「それは絶対に、ありえないです。
…あの人に、恨まれこそすれ、私は…」
どうしてクロークだとわかった時から断りを入れておかなかったのだろう。
結局渡部さんにこうして要らぬ心配をかけてしまうのなら、いっそ話してしまおうか?
…何を話せというのか。
そう考えた矢先、左腕が『忘れるなよ』と言うようにしびれ始めた。
「…っ」
「!先生、痛むんですか」
「…、大丈夫です。とりあえず、また明日、よろしくお願いします。」
「…わかりました。明日、ちゃんと話を聞かせてくださいね」
そういい残して渡部さんは帰っていった。
今日は真理さんもお休みのため、がらんとした家中に静寂がたたずむ。
「…」
パソコンをおもむろに開き、動画サイトを立ち上げる。
登録チャンネルから動画が選択され、再生される。
『今日のクロークチャンネルは~?!社員みんなが慕う来栖社長にインタビューです!いやあ、今日もかっこいいですね!社長!』
髙野さんが嬉しそうに、彼に向って進んでいく。
何度も見た、彼の登場だ。
『ありがとう。これでも社長だからね。身なりには気を遣ってるよ。』
懐かしいのに少し低くなった声。
優しそうな、それでもまっすぐで強い瞳。
スタイルも良く、カチリとしたスーツが細身の長身を引き立たせている。
姿を見ただけで、涙がじわりとにじむ。
少しの間でも、この人の義妹でいられたことが誇らしい。
…半面、そのことが彼の汚点になってしまうことが、悲しい。
私と母がもっとしっかりしていた親子だったら。
彼と義父を巻き込まずに、穏やかな家庭が築けていたら。
まだ彼のそばにいられただろうか。
…髙野さんのように、彼のそばで、彼のやりたいことの手伝いが、できただろうか。
『その胸ポケットに刺さっているペンも素敵です~!』
私が誕生日プレゼントで贈ったペン。
しかし特定の店で量産されているものだから、もしかしたら別の人からもらっただけで、私のプレゼントは開けずに捨てられただけかもしれない。
『ああ。プレゼントでもらったんだ。』
『そうなんですか!え、そ、それは、彼女さんだったり~?!』
…でも、それでも、直接真実を知ることがないのなら。
私からのプレゼントを大切にしてくれていると、甘い夢がみられるのなら。
『彼女じゃないけど、大切な女性からね』
「…っ、…兄さん…」
なんて幸せな夢だろう。
現実では、もうこう呼ぶこともかなわない。
だって私はもう妹なんかじゃない。赤の他人なのだ。
父にも母にも自ら縁を切り、兄との関係も自ら断った。
断たれるのが怖かったから、自分から切ったのだ。
自分で望んだことだけど、やっぱり気になって。
叔父から、会社を立ち上げたことを聞いていたが、動画サイトにチャンネルを作ったと知った時から、毎日欠かさず動画を開くようになった。
画面越しなら、貴方に会えるから。
幸せそうな貴方を、邪魔せずに見られるから。
昔から家族にいい思い出なんてなかった。
幼い頃に父は別の女性と浮気して家を出ていった。
それ以来母は身なりに執着するようになった。
その母にいいように使われた私は、修学旅行やお金がかかることは行かせてもらえなかったし、高校生になったら自分で稼げるようになれと言われてバイトを強要された。
料理や掃除も、小学生の時からさせられた。
万引きをするように脅された時もあったが、意気地なしの私は結局できず、母のサンドバックになった。
そんな母が再婚すると聞いて、私は、「ようやく解放される」と思った。
「母のご機嫌取りを代わりにしてもらおう」「家事なんかしなくていいんだ。ようやくたくさん遊べるんだ」と、新しくできる家族に対して、身代わり程度の感情しか持てなかった。
そんな最低な私に、兄さんは、優しく接してくれた。
一緒に遊んでくれた。機嫌が悪い母から私を守ってくれた。
今まで満足にほめられたことないこんな私を、笑顔で撫でてくれた。
ゲームをほめてくれたから、うれしくてたくさん練習して。
そんな指にタコを作った私を、心配して「大事にしな」と怒ってくれた。
…それが適当に返事されているのは、薄々わかっていた。
兄さんの本質は、一緒に過ごしていくうちに嫌でもわかったから。
『優しくて、だけど他人に興味がない』兄さん。
それでも、私は兄さんの言葉に、態度に、どうしようもなく救われた。
あの時間が、今でも私にとってかけがえのない宝物で。
貴方の元気そうな姿をこうしてみられたことが、かけがえのない喜び。
『え、そのクリップについてる緑の石って、もしかして!』
『うん。…「愛の宝石」、ともいうんだっけ』
ペンに口づける仕草は様になりすぎて、コメント欄がピンク色であふれかえっている。
誰だ誰だと、送り主の特定を始めようとする者も少なくなかった。
(もし、本当に、あれが、
私があげたものだったら、よかったのに…―――)
《ピンポーン!》
「!」
戯言がよぎった途端、インターホンが鳴った。
だれかとモニターまで向かい、覗きこんだが誰もいなかった。
すると、ドアの鍵がカシャンと開く音が聞こえた。
「…?」
真理さんはいつも来るときにチャイムを鳴らしてから鍵を開ける。
しかし時刻は22時をすぎている。
こんな夜中には来ないはずだ。
「っ!」
しかし確実に近づいてくる足音に気づいた瞬間、恐怖が訪れる。
怖いのに体が動かない。
確実に不審者だと身構えた、その時だった。
「…、陽葵」
シャツだったためか、動画の中で見るよりラフだと感じた。
軽く息があがっていて、綺麗な肩が上下している。
頬には一筋の汗が伝い、彼の整った輪郭がなぞられる。
画面の向こうで、見ていた人が、
今、目の前にいる。
「…にい、さん…?」
そう、そこに立っていたのは、紛れもない来栖隼人だった。
「な、なんで…?」
「…渡部さんがついさっき、挨拶来てくれて。先生の、…陽葵の写真、みせてもらって。」
どうやら渡部さんだけで先に挨拶に行ってくれていたようだ。
しかしそれがわかっても、目の前の現実を飲み込むことができない。
「高野が絶賛してた雨宮先生が、まさか、陽葵だったなんて。
写真見て、陽葵だって、すぐわかったから、事情話して渡部さんに鍵借りてきたんだ」
「…どうして…?」
私だと知って、それでも会いに来てくれた…?
いや、でも事情って、どこまで、どんな風に話したの?
冷や汗がじわじわと滲み、足は恐怖と僅かな喜びに震える。
後ずさりながら彼と距離を置こうとすると、逆に距離を一気に詰められた。
「!?」
「陽葵…っ」
気づいた時には力強く抱きしめられていた。
ぶわっと包み込むベルガモットの香り。
咄嗟に離れようとすれば、逆に腕の力を強められた。
「っ、に、兄さ……っ?!」
「陽葵、ひなた。会いたかった。やっと、やっと見つけた…」
「ま、待って、兄さ」
「待たない。もう離さないよ。…まだ細いままなんだね、ちゃんと食べてないの?あの頃だって、最後の方は今より細かったよね…。本当に、ほんとにごめん…」
「まって、ま、お、追いつかないから…っ」
わし、と大きく華奢な手が私の頭をなで、反対の手が頬をすべる。
近くでその瞳に見つめられて囁かれれば耐えきれず、何とか離れようと必死に体を突っぱねた。
それでも離そうとしない彼の背中をたしたしと右手で叩けば、ようやく少し離してもらえた。
いつもの強い瞳が、縋ってくるように見える。
混乱する私を他所に、その視線は左腕へと向けられる。
「…、そっちの手は、全く動かない?」
「…?」
背中をたたく右手とは反対に、左手はだらりとぶらさがっている。
その姿に兄は違和感を覚えたのか、と仕方なく答える。
「…全くじゃ、ないよ」
寂しげに見つめられ、優しく手首から二の腕へなぞるように撫でられる。
人から触られるのを極端に避けていたところだったのも相まって、驚きに体がビクリとはねた。
「っ?」
「ごめん、痛む?」
「い、いたくは、ないけど…びっくりして」
「痺れは?」
「…今は、ないよ」
話せば話すほど歪んでいく綺麗な顔。
動画で見ていた姿が、今目の前にある。
何もかもに慣れず、心臓が飛び出てしまいそうだった。
「…陽葵、改めて、謝らせてほしい。」
「…?」
手をゆっくりと、しかししっかりと握られる。
「俺、…俺は、あの頃何も知ろうともせず、お前が、…引きこもりのゲームオタクになったんだと、思って。自分だけ楽になろうとした」
「…」
「お前が、俺のこと、必死に守ろうとしてくれたの、ちょっと考えたら、ちょっとお前のこと見ていれば、すぐにわかることだったのに」
瞬間、すべてを察した。
話すなとあれほど言ったのに。
話せばこの人は、こうして自分を責めてしまうと、知っていたから念を押したのに。
「違う!!」
違うの兄さん。
お願い、そんな顔しないで。どうか謝らないで。
「私たちが、悪かったの。ただそれだけなの。兄さん達と、家族にならなければ、あんなことにはならなかったんだよ。謝るのは、私とお母さん。兄さんとお義父さんが悪いことなんて、ひとつもない。」
「陽葵、」
「だから、謝らないで。私、本当に幸せだったの。辛くて苦しくて、生きてる中でいいことも楽しいこともなかった私に、兄さんたちはあったかく接してくれた。当たり前の幸せを教えてくれた。…それを、お母さんが壊した。私も、止められなかったの。」
「陽葵…」
「私は、兄さんに幸せになって欲しかった。こんな私たちのせいで、未来を諦めてほしくなんかなかった。だからああして動いただけ。
…他にいい方法なんて、きっといくらでもあったんだよ。私が無知で、幼稚で、あれしか思いつかなかった。誰かに相談すれば、お母さんがそもそも再婚するって話をしたときに、私が止めてれば…」
「それは違う!」
「っ、違わない!!」
兄さんの優しい否定を、突き返す。
「…陽葵…」
…そんな目をしないで兄さん。
兄さんはただ、幸せになってくれればそれでいいの。
私の事なんて気にしないで。
どこかで笑って暮らしてくれれば、私はそれで、それだけでいいんだよ。
「…兄さんへの挨拶を断ったのは、兄さんに合わせる顔なんてなかったから。私と一緒だった時間なんて、兄さんの人生にとっては汚点だもん。…あんな生活してたなんて知られたら、会社にも、兄さんの今後にも影響出ちゃうでしょう」
「…」
「兄さんが幸せになってくれるなら、私はそれだけで嬉しいんだ。それ以上なんて望まないし、…それにもう、妹じゃないし」
「…」
口にすればするほど惨めになる。
そう、私はこの人とは赤の他人。
こうして『兄』と慕うことも許されないほどの他人。
この人の家族には、なれなかったのだ。
「会いに来てくれたの、嬉しかった。
私のこと、覚えててくれたことも、本当に、うれしい。
またこうして話せて、よかった。
これからも応援して、ます。来栖社長。」
名残惜しい気持ちを振り払い、兄と慕った人に笑って背を向けた。
携帯を取り出し、渡部さんを呼び出そうと通話ボタンを押す。
…いや、押そうとしたが、
後ろから来た手に携帯を奪い取られ、ボタンを押すことはできなかった。
「っ?!」
「……そうだ。もう俺はお前の兄じゃない」
耳元でささやかれたさっきまでとは違う低い声に、ビクリと心臓が跳ねる。
当たり前の体格差に、身動きが取れずそのまま動けなくなってしまった。
「…」
「俺は会社の社長で、お前は小説家。もう家族でも何でもない。」
「…そう、ですね」
「でも、
それでも俺は、もう一度、…お前と家族になりたい。」
「…え…?」
耳元で聞こえた泣きそうな声。
顔を見れば、そこには見たこともない兄の、涙目の笑顔があった。
「俺は、またお前と一緒に、家族としてそばにいたい。叔父さんから陽葵のこと聞いた時からずっと思ってた。陽葵と会えなくなってからも、陽葵にまた会えないかってずっと探してた。こうやって会えたのだって、偶然だけじゃない。俺はお前に会いたかった。ずっと、探してたんだ。」
「…?」
「陽葵。もう一度、一緒にいよう。兄妹には戻れなくても、『別のかたち』でもいいから、そばにいさせてほしい」
ずっと、私を探してくれていた?
どうして、なぜ、こんな私を?
疑問だけが頭をかけめぐり、隼人からの提案を処理することができなかった。
「また一緒に買い物行ったり、ゲームしたり…。一緒に過ごしたいんだ、陽葵と。」
その一言を聞いた瞬間、一気に現実に引き戻される。
「…ご、ごめんね。もう、…ゲームはできなくなっちゃったんだ」
「!っごめん!陽葵…」
「ゲームもできないし、買い物だって…しばらく外にも出てない。あの時の引きこもりと同じように見えて、隠れてやってた家事もできなくなった。家政婦さんがいてくれるから今生活できてて、私、もう…」
「違う!昔のようじゃなくたっていいんだ!」
「…違わない。もう、ほとんど自分ひとりじゃ何もできないんだよ、私」
そう、動かないのが左腕だけでよかったが、それでも生活に支障がないわけではない。
あの頃のように料理や掃除はできないし、洗濯物も干すことはできないため乾燥機を使っている。
動画で彼が話していた、[理想の女性]の姿には、私は到底なれそうもない。
「私が一緒にいても迷惑になるだけだよ。一緒にいるメリットなんてない」
「陽葵」
「ゲームどころか、日常生活だってやっと。小説も手書きなのは、片手のタイピングよりも手書きの方が早いから。今の時代と逆光してるよね。でも、自分で招いたことだから。」
「…」
「兄さんも、そんなに悪いと思うならもう私のことなんてもうほっといてよ。完璧な兄さんと一緒にいるなんて、今の私には無理だよ。みじめになるだけ。…もう、他人なんだから…っ!」
「陽葵…?」
この人には優しい突き放しは通用しない。
自分の気持ちなど、最早どうでもよかった。
体のどこか遠くで、悲鳴に似た叫びを放っている部分があるけど、そんなこと無視してでも、この人の幸せを守りたい。もう傷つけたくなんかない。
「もう、家族ごっこは、たくさん。
私は家族向いてないんだよ、もう誰もそばにいてほしくないの。
…来栖社長にはわからないですよ。わからなくていいんです。あなたは普通の幸せを、普通に受け取って生きていってください。それが私の願いです。もう、お願いですから帰ってください。」
再び隼人に背を向けて歩き出す。
しかし、隼人は静かに後ろから陽葵を抱きしめた。
「っ?」
「…そんなこと、思ってもないくせに。もう、俺に隠し事するな。」
「…お、思ってる!」
「じゃあなんで泣いてるんだよ」
ぽろぽろと、頬に伝う雫。
泣くな、涙でるな、平然と、平然としていたいのに…!
「お前がクロークチャンネルを見てくれてたの、聞いたから知ってる。俺のこと、忘れないで気にかけてくれてたんだろ。」
「…」
「また、俺を自分から遠ざけようとしてるんだろう。…動画、俺の写ってたやつも見たなら、俺がどれだけお前に会いたかったか、伝わらなかったか?」
強制的に向き直され、再び視線を交わされる。
すると、スッと胸ポケットに刺さっていた『それ』を抜き取った。
「…ぁ…」
「プレゼント、ありがとう。大切に使ってる。俺、あの時本当に何も要らなかったから適当にボールペンって言ったのに、覚えてくれてたんだな。お金もあんなに、本当にありがとう。今のクロークの設立資金に使わせてもらったよ。陽葵からもらったお金で立てた会社だから、これまで大事にできたんだ」
見覚えのあるそれは、動画で見た時よりも、ずいぶん使い古されていた。
持ち手のところの塗装は擦れて禿げてしまっており、エメラルドや銀メッキの光沢も霞がかっている。
それでもきちんと使えているというのだから、よく手入れをしてくれているのだろうと伝わってくる。
「…~っ…」
「陽葵。お前以外に大切なもの、ない。会社よりも、何よりも。」
ゆっくりと腕に囲まれる。
自分とは違うぬくもりが、心臓の鼓動が、伝わってきて、涙が止まらない。
「…にいさん…」
「もう、兄じゃないんでしょ?」
「!っ、ご、ごめんなさい…」
「ちがう。…隼人、って呼んで」
「そ、それは流石に…」
「なんで?もう兄弟じゃないのに兄さんは変だろう?」
「そ、そうだけど」
「苗字は一緒だったろ。…陽葵、お願い。」
そう言われてしまえば呼ばざるを得ない。
おずおずと呼べば、誰もが見惚れる眩しい笑顔で見つめ返された。
「は、…隼人、さん」
「んー、さんは嫌だけど。…まあしばらくはいいかな。」
「呼び捨ては無理だよ…もう妹じゃ、ないんだし…」
そう話したのも束の間、頬に柔らかい感触があたる。
リップ音が聞こえるまでキスされているとわからなかった。
「?…、?」
「ふふ、困ってる。…やっぱり想像してた反応より何倍も可愛い」
「今、何…」
《ピンポーン!》
チャイムが再び鳴り、今度は何個かの足音と話し声が玄関から聞こえてきた。
抱きしめられていた腕から力が抜けていき、解放される。
「あ!感動の再会、できたんですね社長!」
「先生、勝手してすみませんでした」
見慣れた2人の顔を見て、ほっと肩の力が抜けた感じがした。
気がつかないうちに緊張していたのだと実感する。
自然と彼女たちの方にさっと身を移す。
「え、社長もそんな顔するんですね」
「…うるさいよ」
「先生、よかったですね」
「…」
次の日から、高野さんと一緒に一会社の社長が毎回付き添って陽葵の家に来るようになった。
「陽葵、今日は駅前のチーズケーキ買ってきたよ」
「い、いいよ毎回…」
「駄目だよもう少し食べないと。本当はご飯をもう少し食べて欲しいんだけど」
毎回差し入れと称して食べ物を持ってくる兄さん、もとい隼人さん。
そのたびに真里さんに何かしらのお返しを、会議の間に買ってきてもらっている。
ここ1ヶ月間そのルーティンが染み付いてしまっていた。
社長なのに、週に何度もここにくる時間を確保していることに戸惑いと不安が拭いきれなかった私は、高野さんにそれとなく聞いてみたが、「いいんですよ。あの人、最近は先生に会うために仕事してるみたいで。ちゃーんと元気ですから。
あんな風な笑顔になれるのは、先生の前だけなんです。ぜひ会ってあげてください、先生さえよければですけど!」と笑顔で返されてしまった。
「は、隼人さん、会議終わりましたよ」
「うん、終わったね」
「次の仕事が、あるのでは…?」
「無いよ。今日はこれで終わりだから、陽葵と一緒にご飯食べようと思って」
「?」
「はい、準備できてますよ先生!来栖社長の分も用意しましたから!」
「??」
最近は真里さんまで隼人さんの味方である。
私のお手伝いさんなのに、とふてくされながら、目の前の料理に手をつける。
「陽葵、食べにくいだろ。ほら」
「じ、自分で食べられるから…!」
何故か隣に座ったと思ったらそういうことか、と思いながら、差し出されたフォークを拒否する。
片手だけだと箸の方が楽なため、今日は洋食だったものの私は箸で食べていた。
「ほら、貝とか食べにくいだろ。取ってやるから」
「(いつも殻は外してくれるのに!絶対わざとだ真里さん!)…だ、大丈夫です。真里さんに」
「さっき帰ったぞ」
「え?!」
いよいよ真里さんは私よりも隼人さんのお手伝いさんなのかもしれない。
いつもだったら片手でできる範囲のところまでサポートしてくれるのに、隼人さんとのスキンシップを促進してほしいと訳のわからないことを言い出してから、隼人さんが来るたびにこういった嫌がらせをしてくるのだ。
「ほら、ひーなた?」
ニヤニヤしながら頬杖をつくその姿に、ぐうの音も出ず。
おずおずと差し出されたものを口に入れたのだった。
「陽葵、あのさ」
「?」
「一緒に住まないか?」
巷で話題の宇宙猫のような顔になった私に、隼人さんは食器を洗いながら続けた。
「陽葵と今日一緒にご飯食べて、楽しかったんだ」
「…楽しい?」
「うん、もっと、陽葵と一緒にいたくなった」
全て片付けをしてくれた彼は、手をさっと洗って笑顔で振り返った。
「もちろん、俺だけだとカバーできないところはたくさんあると思う。だからあのお手伝いさんは継続でお願いしようとは思うんだけど、家は変えたいかな。ここの家、陽葵が住みやすいとは思えないし」
「…」
確かにただのマンションの一室であるこの部屋は、広さこそあるもののバリアフリー対応ではない。
しかし真里さんがフォローしてくれれば特段気にすることもなかったので、今まで引っ越そうと思ったことなどなかったのだが。
「陽葵は、俺のこと、どう?」
「…どう、って?」
「一緒にいても、いい?」
腰を抱かれて優しく抱きしめられる。
まるでドラマのようだと思いながら流れに身を任せていると、ちゅ、と頬に口付けられた。
「っ!隼人さん…」
「ふふ。嫌じゃなさそうでよかった」
「まだ何も言ってません」
「陽葵が嫌だって言わない限り、俺はやめないことにした」
「初耳です」
「お前からもらったお金も返せてないままだし。渡部さんにお前のスケジュールは聞いてるから、今度どこらへんに引っ越すか考えよう」
強引な提案に、どうしても腰が引けてしまう。
正直彼と一緒にいる時間は心地が良くて、彼がいなくなれば、寂しいという感情は当然に出てくるだろう。
「…」
「…陽葵」
先程までのからかうような目から、真剣なまなざしに変わる。
ずっと見ていられなくて、横に目線を外した。
「…自信、ない」
「…」
「また、だって、…ようやく、つかんだ幸せなのに…っ、また、私のせいで…!」
「陽葵」
「怖い、怖いんだよ…、もう、私は、兄さんに返せるものなんてな」
「陽葵」
横に向かせた顔を向き直される。
幼子をあやすように、大切に言い聞かるように、彼は私に声かけてくれる。
「俺はお前のおかげで、愛情を知った。誰かを愛して、誰かに愛されてっていうことの喜びを、陽葵が教えてくれたんだ」
「…、に、いさ…」
「それに、もう、兄弟じゃないよ、陽葵」
やさしいぬくもりが、おでこに、頬に、戸惑うように唇に落とされる。
「…今度こそ、俺が幸せにしてあげたいんだ、陽葵。一緒に暮らそう」
ずっと求めていた言葉。
夢にまで見た、理想の幸せ。
涙で視界がみえなくなっても、彼の笑顔だけは、はっきりと見えた。