50.馬乳酒
「……もう私が口を挟んだところで何がどうなるとも思わんが、一つだけ教えてくれ」
わたしの部屋にやってきたヘルムートは、神妙な顔つきで言った。
「殿下はいったい、ハロルドとサムエリ公、どちらを選ぶつもりなのだ? ていうか、この複雑極まるドロドロ愛憎劇に、ライラを巻き込むのだけは勘弁してほしいのだが」
「なに言ってるの、ヘルムットー?」
ヘルムートはしかめっ面で言った。
「おまえ、知らんのか。……もう宮廷中で噂になっているぞ。レーマン侯爵家の青い宝石を身に着け、ハロルドとダンスをしたにもかかわらず、昨夜は、その……、サムエリ公が殿下の許を訪れたと」
ヘルムートの言葉に、わたしとマイアは顔を見合わせた。
「たしかに昨夜、サミーリ公爵様がいらっしゃいましたけど」
「来たの、ずいぶん遅い時間だったよねー」
「そうなのか!?」
ヘルムートは仰天してわたしを見た。
「え、待て。サムエリ公は、殿下の部屋の結界が壊れたから、様子を見に行ったんだよな?」
「夜這いに来たって、クラース卿がそう言ったよ」
「えええ!?」
ヘルムートが飛び上がり、わたしとマイアから一歩、後ずさった。
「えっ、え……、そそれで、どうなっ……、いや、待て、待て待て心の準備が」
「それがねー、クラース卿、簡易結界を張ったら、すぐ帰っちゃったんだけど」
「あっ、あー、そうか、そうだよな」
あーびっくりした、と息をついたヘルムートだが、
「でも、帰る時、『誰の夜這いにも応じるな』って念押しされたの。クラース卿って嫉妬深いのかな」
ヒィッとヘルムートが悲鳴を上げ、両頬に手を当てた。
「ええ!? そ、そんな……、殿下はまだ、十六歳だよな!?」
「もうすぐ十七歳だよ!」
「それにしたって!」
ヘルムートは頭を抱え、叫んだ。
「最近の宮廷はどうなっておるのだ! いや、ハロルドは昔からだが……、まさかサムエリ公まで! 私が十六歳の頃なんて、魔術書だけが友達だった! 誰かとまともに話をすることすら、稀だったのに!」
ずるい! と叫ぶヘルムートに、わたしとマイアは首を傾げた。
「えー、誰とも話さないって、なんでそんなことになったの? 地下にでも潜ってたの、ヘルムットー?」
「たしかに謎ですわね。誰かに監禁でもされていたのですか?」
十六歳なら、誰かを口説いたり口説かれたりしてるよね、とわたしとマイアが言うと、
「おまえらなんか滅びろ! 爆発してしまえ! 大っ嫌い!」
なぜかヘルムートが絶叫し、拗ねてしまった。
別にヘルムートが機嫌を損ねても問題ないけど、マイアとクラウス卿がいなくて寂しかった時、ヘルムートが慰めてくれたんだっけ、とわたしは思い出した。
「セレース、悪いけどローナ男爵夫人を呼んできてくれる?」
わたしはセレスを使いに出し、マイアは控室から馬乳酒を入れた革の水筒を持ってきて、ヘルムートに渡した。
「どうぞ、ヘルムットー様。草原土産の馬乳酒ですわ」
「さっぱりしておいしいよ!」
ヘルムートは荒ぶるのをやめ、渡された革の水筒をしげしげと眺めた。
「あ、ありがとう……」
ちょっと照れくさそうに礼を言うと、ヘルムートはソファに座り、革の水筒に口をつけた。次の瞬間、
「すっぱ!」
ヘルムートが座ったまま、飛び上がった。
「すっぱ! にが! ななんだこれ!?」
「馬乳酒だよ。おいしくない?」
咳き込むヘルムートから、わたしは革の水筒を受け取り、一口飲んでみた。
口に広がる爽やかな酸味と苦み。懐かしい味だ。
「うん、おいしい」
マイアも一口飲み、頷いた。
「いつもの味ですわね。ヘルムットー様、お気に召さなかったのでしょうか」
わたしとマイアに見つめられ、ヘルムートは、咳き込みながら「ええ……?」とうろたえたような表情になった。
「い、一応聞くが、これは嫌がらせでは……、なさそうだな、うん」
ヘルムートはもごもごと口ごもりながら言った。
「そ、その、せっかくの土産にこんなことを言うのは失礼かもしれんが、私は酸っぱいものが苦手で……」
「えー、ヘルムットー、いつも飲んでるお茶だって酸っぱいじゃん」
「あれは酸っぱいとは言わない! 後味爽やかスッキリ酸味と言うのだ!」
ヘルムートが謎のこだわりを滔々とまくしたてている間に、セレスがロウィーナ男爵夫人を連れてきてくれた。
「まあ、ヘルムート様。また殿下にご迷惑をおかけしていたのですか?」
「ちっ、ちがあう! これは、あれだ、さっき殿下に酸っぱくて苦いやつを飲まされて」
「馬乳酒だよ。ローナ男爵夫人も飲みますか?」
マイアから革の水筒を渡されたロウィーナ男爵夫人に、ヘルムートが慌てて立ち上がった。
「待てライラ! それ、ほんとに酸っぱいぞ!」
こく、とロウィーナ男爵夫人の喉が上下する。
「あああ、大丈夫かライラ!? 酸っぱいし苦いだろ!」
大丈夫? 大丈夫? とロウィーナ男爵夫人の周りをぐるぐる回るヘルムートに、わたしは半ばあきれて言った。
「馬乳酒は、草原では赤子でも飲んでるぞ。そんなに大騒ぎしなくても」
「だってほんとに酸っぱかった!」
「……懐かしい味ですわ」
水筒から口を離し、ロウィーナ男爵夫人がにっこり笑って言った。
「子どもの頃、父から草原のお土産に、馬乳酒をもらったことがあります。肉料理の後などにいただくと、口の中がさっぱりしますわよね」
「うん! そう、そう!」
「二日酔いの時にお飲みになってもよろしいかと思いますよ!」
ロウィーナ男爵夫人とわたしとマイアが盛り上がっていると、「ウソだろ……」とヘルムートが引きつった表情を浮かべた。
「慣れるとこの酸味や苦みがクセになりますわよ」
「慣れない!」
即答するヘルムートに、ロウィーナ男爵夫人がくすくす笑った。仲いいんだなあ。
「まったく、草原には驚かされることばかりだ」
「ええ、嬉しい驚きですわね」
「嬉しいっていうか……」
ヘルムートは微妙な表情になり、部屋を見回すとため息をついた。
「さて、結界を張り直すか。まったく、よくもここまで粉々にしてくれたものだ」
「あ、ヘルムットー、待って」
ちょうどいい。ロウィーナ男爵夫人もいることだし、とわたしは口を開いた。
「ねー、ローナ男爵夫人、お願いがあるんですけど」
「なんでございましょう、殿下」
「無茶なことは言うなよ」
ロウィーナ男爵夫人とヘルムートに見つめられ、わたしは言った。
「昨夜、ラジラスの氏族と連絡をとったんです。それで、そのうちバルドから、三年前の事件について情報がもらえると思うんですけど」
「……は?」
ヘルムートが目を丸くしてわたしを見た。ロウィーナ男爵夫人も驚いたような表情を浮かべている。
「それで、バルドと会う場所を提供してもらえればなって思って」
「ハァアア!?」
ヘルムートがうるさい。
わたしは顔をしかめ、ロウィーナ男爵夫人の返事を待った。




