34.幸せの黄色い蝶
「レーギョン様、これどうぞ!」
レギオン様は豪華な寝台に横たわっていた。
顔色が悪く、熱があるのか瞳は潤んでいる。
日の光も堪えるほどレギオン様の病状は悪化しているらしく、カーテンは閉め切られ、ほのかに灯る魔道具の明かりだけが薄暗い部屋を照らしていた。
それでもレギオン様は、わたしの差し出した花を見て微笑んでくれた。
「草原の……、花だね」
「ご存じでしたか」
「調べたんだ」
レギオン様はゆっくりと寝返りをうち、横向きになってわたしを見た。それだけの動きがずいぶんと大変そうで、わたしは胸が詰まる思いがした。
戦で負傷し、こんな風に寝返りもままならない人たちを、草原でたくさん見た。
その人たちは、すぐ死んでしまった。
「あなたの……、世話係の、……なんと言ったかな」
「ローナ男爵夫人ですか?」
「そう、彼女」
レギオン様はかすかに笑って言った。
「カーチェ、僕は……、あなたのことが知りたくて、あなたの世話係……、ロウィーナ男爵夫人に、草原のことを教えてほしいと頼んだんだ。夫人は、珍しい本をたくさん持っていてね……、草原の、変わった風習や……、花と星と風……、いろいろ、知ることができたよ……」
「この花も?」
わたしはレギオン様の枕元に、小さな黄色い花を一輪、置いた。
「ああ」
レギオン様はそろそろと手を伸ばし、黄色の花弁にやさしく触れた。
「三年前の、あの茶会」
レギオン様は独り言のように言った。
「あの時……、メイドは、真っ先に僕の前に茶器を置いた。僕の好きなお茶で……、身分から言っても、一番先に僕へお茶を差し出すのが当然だった。だから……、何も疑わなかった。毒見の者も……、いたしね……」
「陛下」
わたしはレギオン様の目を覗き込んだ。
わたしと同じ、淡い青の瞳が潤み、ゆらゆらと揺れている。
陛下は息を吸い込むと、真っ直ぐにわたしの目を見つめ返した。
「僕は茶器を手に取った。……けどその時、僕の目の前を、小さな黄色い蝶が横切ったんだ。僕は、それに気をとられて……、お茶を飲まなかった。僕は無作法にも席を立ち、その蝶を追いかけた。でも、すぐにその蝶を見失ってしまった。僕は、母上に呼ばれて席に戻った。母上とサムエリ公爵夫人は……、お茶を飲みながら歓談していた。僕もようやく一口、お茶を飲んだところで……」
けほけほ、と力なくレギオン様が咳き込んだ。
「陛下、手を」
わたしはレギオン様の手を握り、前にもしたように、力を流し込もうとした。でも、まるで力を通す道が壊れてしまったように、ちっとも力が流れていかない。
「……思い出したんだ。あの後、たくさんの人間に聞かれた。誰か、何か不審なものを目にしませんでしたか、と。でも僕は、何も答えられなかった。……サムエリ公爵夫人は、声もなく倒れた。母上は毒に喉を焼かれ、血を吐きながら必死に僕の命乞いをした。僕が覚えていたのはそれだけだった。でも……」
レギオン様の瞳が、鮮やかに輝いた。
「一つだけ、思い出したんだ。……あの蝶……、あの黄色い蝶を追って四阿を出て……、その時なにか……、知らない香りがした。一瞬だけ……」
「レーギョン様」
「何の香りか、それさえわかれば……」
「大丈夫です、レーギョン様、大丈夫です」
わたしはレーギョン様の手を握り、言った。
「レーギョン様の知らない香りがしたのですね。必ず、クラース卿に伝えます。ヘルムットーにも」
「うん……」
レギオン様は握られた手をみつめ、つぶやいた。
「……ごめんね。もう、力を受け取ることもできないみたいだ」
「大丈夫です」
わたしはバカみたいに同じ言葉をくり返した。
自分はバカじゃないって、そうヘルムートに言ったけど、間違いだった。わたしは大馬鹿だ。
大丈夫であるはずがない。レギオン様は、もうすぐ死ぬのだ。わたしは何もできない。
死にゆく人を何人も見てきたのに、レギオン様になんと言えばいいのかわからない。
レギオン様は、わたしの剣を捧げた、大切な主なのに。
「陛下、わたしに何かできることはありませんか」
「あるよ」
レギオン様は熱に浮かされた瞳で、わたしをじっと見て言った。
「結婚しよう、カーチェ」
「陛下」
「なるべく早く。……あなたに、この国を司る権限を移譲しなければ」
わたしが言うより先に、レギオン様に言われてしまった。
本当に、わたしは役立たずだ。何もかもレギオン様に押しつけてしまっている。
こんなに小さな、今にも消えてしまいそうな命で、それでも必死にレギオン様は生きているというのに。
「はい、わかりました」
即座に頷くと、レギオン様はじっとわたしを見つめた。
「……あなたは、まるであの時の黄色い蝶のようだ。初めて会った時から、ずっとそう思っていた。……僕を助け、幻のように消えてしまった、手の届かぬ美しい存在」
「手は届いていますよ、ほら」
握った手に力を込めると、レギオン様は微笑んだ。
その微笑みは、ほの暗い部屋を照らす魔道具の明かりを受けて、溶けてしまいそうなほど儚く見えた。




