22.復讐の理由
しばらくクラウス卿は無言だった。
聞こえなかったのかな、ともう一度言おうとした時、
「……ここは人が多い。移動しましょう」
クラウス卿はそう言うと、わたしの手を引き、ダンスを楽しむ人たちの間を縫うように進んでいった。大広間の右手にある窓を開け、バルコニーに出ると、クラウス卿はわたしを振り返った。
大広間の熱気が嘘のように、外の空気は冷えていた。月明かりに照らされたクラウス卿は、まるで命のない彫像のようだった。
クラウス卿は、かすれた声で言った。
「……誰がそのようなことを?」
その声を聞いた時、ああ、そうなんだ、とわかった。
クラウス卿は、復讐のために、わたしを草原から連れてきたんだ。
そのためにわたしとレギオン様を結婚させ、わたしに王位を継がせようとしたんだ。
「ヘルムットーが言っていました。クラース卿はわたしを復讐の道具にしている、それが気に入らない、って」
「……彼らしい」
クラウス卿は顔を歪めた。
「殿下」
繋がれた手を、ぎゅっと握られる。わたしを見つめるクラウス卿の瞳は、燃えるようだった。
「初めてお会いした時、殿下は私に『妻はいるか』とお尋ねになりましたね」
「はい」
「……私の妻は、三年前に死にました。殺されたのです」
「殺された?」
わたしは驚き、クラウス卿の言葉をくり返した。
そんなバカな。サムエリ公爵家ほどの高位貴族の配偶者が暗殺されたなら、草原にも何らかの知らせが入ったはずだ。でも、覚えている限りでそれはない。
三年前、ベルガー王国で何かあっただろうか。
たしかその頃、レギオン様の母親、レティシア王太后が崩御されたけど、あれは病死だったはずだし。
「そうです。三年前、こともあろうに王宮の……、陛下とレティシア王太后との茶会の席で、私の妻は殺されました。陛下は辛くも一命をとりとめられましたが、レティシア王太后と私の妻は……」
ハッと力なくクラウス卿は笑った。
「どれほど貴族派に侮られていたのか、よくわかる話です。王宮で……、私の執務室と目と鼻の先で、彼らは国王弑逆を試みたのです。実際、それはあと一歩で成功していました」
「レティーシャ王太后は、病死だったと伺いましたが」
「……対外的には、そう発表せざるを得ませんでした。しかし、宮廷で知らぬ者はいません」
「襲撃にあったのですか?」
「毒を使われました。……毒見の者は、事前に自分の分だけ解毒薬を渡されており、護衛の騎士も買収されていました。毒に苦しみ血を吐きながら、王太后は、子どもだけは助けてくれと、騎士に懇願されたそうです。私の妻は……」
クラウス卿の声が震えた。
「妻は、もともと体が弱かった。毒を使われ、助けを乞うことすらできず、すぐ亡くなったと。……そう、騎士が証言するのを聞きました」
クラウス卿の説明に、わたしは、ベルガー王国にきてからずっと抱えていた疑問が氷解するのを感じた。
「だから、ベルガー王国の貴族ではなく、わたしを選んだんですね」
「そうです」
クラウス卿は、感情を抑えるように大きく息を吐いた。
「信頼できる貴族は、ごくわずかしかいません。誰が貴族派に通じているか、未だにすべてを把握できていないのです。決して次の王を貴族派の傀儡にしてはならない。……だから、殿下を選びました」
そうか、とわたしは頷いた。
だから、草原からわざわざわたしを連れてきたのか。逆に言えば、それだけベルガー王国の貴族は信用ならないということだ。
「……私に失望されましたか?」
考え込むわたしに、クラウス卿が小さく聞いた。
「王国の安定のためと言いながら、私は自分の復讐のために、殿下を利用したのです」
「クラース卿」
私はクラウス卿の顔を覗き込んだ。
クラウス卿はわたしの視線を避けるように目を伏せた。
「もっと早く……、最初からすべて、お話しすべきでした。初めて殿下にお会いした時に、すべて」
わたしはくすっと笑った。
「それは無理ですよ。最初に会った時、わたしはすぐ、クラース卿に愛人になってほしいって言ったじゃないですか。クラース卿、びっくりして何も言えなかったでしょう?」
「……それは……」
わたしはクラウス卿を見上げ、はっきり言った。
「クラース卿が何を考えていても、わたしの愛人候補だってことに変わりはないです。……それに、わたしがこの国の女王となるには、クラース卿の力が必要です。クラース卿は、わたしにとって大切な人です」
クラウス卿は、なぜか傷ついたような表情を浮かべ、わたしを見た。
どうしてだろう。
クラウス卿を大切に思っていると、そう告げたのに、どうしてそんなに悲しそうなんだろう。クラウス卿を慰めてあげたいのに。
「クラース卿、奥さんが亡くなって、可哀そうだって思います。……父上は、母上が亡くなった時、ずーっと泣いていました。夜がきて、また朝になっても、ずっと。泣いて泣いて、目が溶けるかと思うほどでした」
「殿下……」
「クラース卿も、泣きましたか? 夜も昼も、目が溶けるほど」
クラウス卿は悲しそうな表情で、小さく笑った。
「エルドリッド王は、先代の女王陛下を深く愛しておられたのですね」
「もちろん! 父上は、毎日、母上の話をしますよ。愛してる、愛してるって、毎日言ってます。今はもう、泣かないけど」
「……先代の女王陛下は、お幸せな方だ」
クラウス卿はつぶやくように言った。
「私は……、妻の死を知った時、こう思ったのです。陛下がご無事でよかった、と」
クラウス卿はわたしの手を放した。わたしの視線を避けるように横を向くと、クラウス卿は独り言のように言った。
「妻とは政略結婚でした。……私は、妻とうまくやっていこうと努力しているつもりでした。サムエリ家の女主人として屋敷を差配する権利と、その地位にふさわしい名誉を保証し、それで義務を果たしたつもりで……。妻の実家とは家格の釣り合いもとれている。中立派だが、私との婚姻によって国王派に鞍替えするとの確約も得た。……政治的に……、必要な人だから……」
クラウス卿は顔を歪め、バルコニーの手すりを激しく叩いた。
「妻は、私のせいで殺されたというのに! ……あの茶会、あれはそもそも私が言い出したことです。レティシア王太后は、怯えておられた。少しでもお慰めできたらと、珍しい茶葉を取り寄せ、私は妻に頼んだのです。茶会の準備をしたから……、王太后を力づけ、お慰めしてくれと……」
「クラース卿」
「亡くなった妻の墓に花を供えようとして、そこで初めて私は気づきました。私は、妻の好きな花ひとつ知らない。……妻を尊重し、うまくやっていこうとしたなどと、呆れた話だ。私が妻と交わした会話は、すべて必要なことばかり。他愛もない、無駄だと思われた話はひとつもしなかった。何ひとつ……」
クラウス卿は大きく息を吐き、わたしを見た。
「私には、エルドリッド王のように妻の死を嘆き、泣く資格などないのです。……私にできるのは、ただ復讐だけです」




