認められる思想
いらっしゃい。
例えば、世界が異様なほどに間違っているならば。
例えば、世界が求める結末が何も掬わないならば。
例えば、世界を左右する考えに賛同できぬならば。
我らが変える。
それこそ、我々に与えられた存在意義である。
我々の思想が、我々の熱意が、我々の歩みがこの世界に変革を齎せると確信している。確信者が、ありとあらゆる場所で未熟な者たちに反骨精神を植え付けるべく演説を行う。
「変革!改革!政権交代!」と革命家に賛同するべきは今だと訴える。
その変革によって齎されるのは誰かの失態と革命家から名ばかりの台頭者が矢面に立つ。結局は比べることすら億劫になる程の誤差である。利益を貪っている堕ちた為政者の席に誰が座るか、市民が、平民が、民衆が、“利己的であることを肯定する”限り、その代表者もまた利己的であることに変わりはない。
自分第一主義に傾倒する群衆から1人の代表者を選んでもその人が利他的である事はあり得ない。
群衆の意識、国民の価値観の変容…各個人が他責思考な利己主義であることを辞めることが、民主主義の最適解である。自責の出来る利他主義こそ最も確実で簡単な方法である。
ーーー
「…我々は以下のことを提言します」
為政者に求める要求はあれど、国民は無関心。
為政者たる代表は、凡その思想までも国民の意志を反映する。
国民が他責を正当化し、利己的であること。
国民が認める“頑張らなくても良い”及び“嫌な事はやらなくて良い”という風潮によって“努力の欠如した成果物を以て品質の程度が低い事を指摘されることを拒絶する暴利”が発生している。それは、“向上心を持たなくても良い”という思想が蔓延している証左である。偏に工夫をやめ、苦労を避けることに正当性を見出す感情論である。根性論の対極に存在する。
己の態度の低さを容認する社会作り。
ゆえ、その代表者たる人物は帰属意識も低い。
ゆえ、為政者は国民の意思を反映して政治を行っている。
ただ、利己的に単に自分第一に国を動かす為政者を許容する社会思想であり、それは平時から国民一人一人が怠慢と個人主義を称賛、賛美するからである。
そして、利他的である事を強要する社会を嫌がった三十年間が、そして今日も衰退の一途を辿っているのは既に国民の個人主義を利己主義を他責思考を賛美した結果である。
それに対する杜撰な理解と肯定的な姿勢が自己犠牲の権化である政治家、為政者を殺してきたのである。
為政者であるという色眼鏡を取っ払って“その人”を観察すれば、なんて事はない。大衆に紛れれば見分けも付かない思想と感情と帰属意識が見て取れる。
国民が政治家に変容を求めるより先に、国民のその思考を変えることのほうが先である。
「我々は己の至らぬ事柄に無関心であるばかりか、他者の欠点を自身も抱えているとは考えない。否、立場によって求められる事柄に関して、尚政治に関して、民主主義においての投票権を持っている限りは“為政者”として振る舞うことを本来は求められている」その認識の欠如が“為政者の代表者”が腐敗している単純な問題である。
「我々は常に為政者としての立ち振る舞いを国民として示さねばならない」
ーーー
家畜の造り方ってどんな方法があるかな?
「…わかんない」
家畜を造るには刺激を減らしてあげるんだ。
「刺激…?」
そう、叩いたり殴ったり可能な限り暴力を控えるといいんだ。
「…暴力はダメなの?」
暴力を受けると脳が刺激されて、現状に不満を抱いちゃう。
「…不満がダメなの?」
家畜として大人しくして欲しいからね。現状に不満を抱かせないようにしないとね、変化を望んで努力しちゃうから。
「刺激がないと大人しくなるの?」
刺激がない状態が慢性化するとね、それが当たり前になるから、刺激的な事を億劫に感じるようになるんだ。
「…家畜ってどんな状態なの?」
ただ生きてるだけだよ。
「何のために…?何のために生かすの?」
家畜を飼育する人の利益になるから生きてるのさ。
「…例えば?」
豚とか牛とかは、分かりやすいよね。
「うん、食糧になるよね」
そう、例えば人間なんかもそうだね。
「え?人間も?家畜になるの?人は食えないよ?」
面白いでしょ、帰化した政治家の食い物になるのさ。
「…?」
うん、また今度この話はしようね。
ーーー
沈み切った先で、身動き一つ取れない。
気が遠くなるほど時間の流れを感じ、遂に意識を手放した。
お疲れ様でした。
お疲れ様でした。
独り言。
要するに、国民は甘党で甘い言葉が大好きなので、苦い思いをしながら甘い言葉に酔っていますっていう状況なので国民一人一人、各々が先ずはそこから抜け出そう。という単純な話です。
まずは個人の問題。全体で考えるから途方もないけれど、先ずは個人の意識を変える事。それだけ。




