確実な不覚。
いらっしゃい。(過去は振り返らない主義…これぞまさにご都合主義の系譜)
もうどうすることもできない。
全ては一時の迷いであった。
人を救うには、自らの意思で救われる側に回る覚悟が必須であり、その意味を理解する知性と勇気を備えてなければただ転落するのみである。
転落後に、何を望むかなど明確である。その選択に悔いが残るならば、人を救うにはまだ早い。
「救う」という行為には相手に対する評価を再確認する必要性がある。特に、「時は金なり」という格言に基づき、その労力に見合うだけの価値を再度、明確に相手に感じる必要がある。
そして「救う」という行為こそ、相手を赤子と接するが如く慈悲深き態度でなければならない。
言葉も知らない…汚物も処理できない無知蒙昧な問題児を、その精神性の未熟を許容しつつ厳しく接する態度でなくてはならない。窮地に追い込まれた人物は恥など持ち合わせてない。
どれほどの異端児であってもその見苦しい現状がまさに「助けを求めている」という証左に他ならない。
責任能力を相手に問うなど、後悔の種でしかない。相手に道徳を求めるのは、蚊に人間性を期待することと同義である。
「誰かを救う」ならば「蚊に自由に血を吸わせ、過ぎ去っていく姿をただ見守る」という姿勢と精神的余裕が必要不可欠である。が、その覚悟なくして誰かを救ってしまえば蚊を不快に思って嫌悪し恨むに違いない。一度ならず2度までも…。
その恨みが募ればやがて、殺意へと変貌する。
恩を仇で返されるというのは、報復を決意させるに充分な理由となる。
浅ましくも確実に相手はその恩に報いるという行為を、諸々惜しんで苦に思い、やがて苦痛を感じる。
相手は、苦痛の根源たるを自身に「無い」と断言するばかりか、恩人たる人物に「恩着せがましい」と仇を見出すのである。
…。
………。
相手に同情し、相手の口車に乗って、相手の思惑に従うならばそれは「救い」とは言わず「愚行」と評するに値する。
相手に同情せず、相手の口車に乗らず、相手の思惑を蹴り、後日改めて相手と交渉し、妥協点を模索できるならば、そこには有志と慈悲を見ることができる。
衝動的かつ、稚拙な理解と幼稚な判断からなる決断を思いとどまるというのは難しい。
「後から思えば…」などという後悔の根源はその突発的かつ盲目的な確信に対して間違いであると思い止まれない思考と感情の未熟と経験の不足にある。
相手に対して湧き出てくる同情に近しい感情群は日を置いてなお湧き出てこない限り、その場の雰囲気にただ呑まれただけの勘違いである。
ーーー
1人の死が歴史的遺産となる。
或いは、無能の死に世界が過剰となった結果とも。
以下、遺言書。
「さして、私は何に成らねばこの世から排斥されるのか。
この世界に、私が産み落とされた清涼な理由を求めるが、その理由もまた私の人生から見出せばならぬのでしょう。
私とて愚鈍な存在であることを自覚してますので、どうか人生の導き手を私にお与えになってください。
その対価たるは、その成果物と致しましょう。
否、今世の終わり次第、この身をご自由にお使いください。
新しきを求めるにしては、手放すは全て古きであると思わないでください。傲慢たる人物と評さないでください。
傀儡すら演じられない真性の欠陥ではありますが、お許しを。
身勝手などと断ずるには余りにも酷でありましょう。
私は生粋のエンジと自負しております。
どうか、排斥せずにおいてください。
この懺悔より、我が生涯の反省をこの身の上に刻みましょう。」
お疲れ様でした。
(後悔するたびに思う。「浅はかな…」かの御仁の口癖(?)が後悔を塗りつぶす勢いで胸を締め付ける。愚かと知りつつ己の思考回路を徹底して排斥できない愚かな理性と、そこに居座って後悔を生産する感情に抗えない「自分の意識」のなんたる無力なことか。過去に戻れるならばいっそのこと、自分の思考回路を排斥することに奮起するだろう。)




