韓国戦3
スタジアム中から聞こえる肌を振るわせるような悲鳴と絶叫が多分に含んだ大音響を聞きながら、ヴェッセルは小さくガッツポーズをする。
試合終了五分前と言う時間帯に追いつき喜ぶ我がチーム韓国代表。それを見てすぐにヴェッセルは浮かべていた笑みを消し、意気消沈している相手チーム──日本代表を見る。
(ふむ、さすが我が韓国と同じW杯の常連チーム。瞳や表情に力はありそうだ)
二点差から、しかも後半四十分になろうかという所で追いつかれたのは──守り切ろうとしていたことも考えて──流石に精神的ダメージは大きい。
だが堂本や井口、そして現日本代表のエースである小野たちベテランや海外組の顔つきは守り切ろうとしていた先程よりも凛々しく、鋭くなっている。
これはあれだ、たとえこのまま引き分けに持ち込もうとしても先程のような守備一辺倒ではなく、こちらに隙があれば容赦なくそこをついて勝ち越し点を決めると決めた表情だ。
(浮かれるのはこのぐらいにした方がいいな)
ヴェッセルはファンとチョを呼び、気を引き締めるよう強く言う。チームキャプテンと歴戦のベテランは即座に頷き、今だ喜んでいるメンバーの元へ駆け足で向かっていく。
それを見て心中で笑ったヴェッセルは、苦渋の表情で天を仰いでいる日本代表の背番号17番──シュウスケ・ヤナギへ視線を向ける。
(君は素晴らしい選手だ。だが、まだ若い)
全盛期、世界最高のDFだったヴェッセルは当然日本代表の最重要危険人物を彼だと認識していた。最終予選三試合連続クリーンシート、アジアでも最上位の堅固さを誇る韓国代表の守備だが彼は一人でそれを切り崩せる力を持ったプレイヤーだからだ。
(まさか前半だけで3失点するとはな)
ヴェッセルの予想では──もちろん韓国イレブンに対して言ってはいないが──前半二失点は覚悟していた。そしてその片方か、もしくはどちら感は必ず彼が関与することも予測してはいた。
だが彼はヴェッセルのプランを覆した。想定以上に厄介な選手だと認識させられた。
(だがそれゆえに君をよく見ることができた。おかげで君や日本代表の弱点がよりはっきり分かったのだから、これも怪我の功名と言うべきだろうか?)
二点差を追いつけたのは偶然でもまぐれでもない。日本代表とヤナギの弱点を容赦なくつき、アンを中心とした攻撃陣がいかんなく力を発揮した結果だ。
シュウスケ・ヤナギ。改めて言うが彼は素晴らしい選手だ。世界最上位と言われるスピードとワールドクラスに達したドリブル、そして日本人ではあまり見られない高いシュート精度も持つ。視野も広く長短のパス精度も高い。ポジショニングの取り方やオフ・ザ・ボールもアジア圏内ではとびぬけていると言っていいだろう。
能力だけを見れば間違いなく現アジアNo1ストライカーであるアンを凌いでいる。これがまだプロになって二年も経っていない若者だと言うのだから末恐ろしい。
しかし、しかしだが彼はまだ若い。18歳という少年だ。そして若き天才ゆえの傲慢さ、未成熟さも各所で垣間見える。
(球離れが悪い。そして何より自分の武器を過信しすぎている)
彼はまずボールを持ったら──当然事前にできるかどうか確認してだが──前を向き、自分でボールを運ぼうとする。もちろん悪いことではないが、日本代表と言うチームにいる場合、それが不味いこともある。
特にカウンターの時がそれだ。スピードを生かして敵陣を進む彼に周囲のメンバーがついていけないのだ。結果敵陣に進んだ彼はカウンターを防ごうとする複数の面子を相手取らなくてはいけなくなる。
もっともそれらをあのスピードとドリブルで突破できる自信と実力がある故の選択なのだろうが、守る側としては彼一人に集中すればいいのだからとてもやりやすい。隙があれば複数で囲みボールを奪い、そうでなければ遅らせ、味方が戻ってくるのを待てばいいのだから。
(味方の動きを把握したスピードの使い方ができるようになればさらに厄介な存在となるが)
少なくともそれができるようになるのはしばらく先だろう。代表戦が少ないと言うこともあるだが、彼のそれの成長を阻害しているのは彼が所属しているロート・バイエルンだ。
日本代表と違いほぼすべてのポジションに世界基準の選手を揃えているビッククラブ。それ故にシュウスケ・ヤナギの動きに合わせることやフォローもできる。しかし日本代表にそれを合わせられるのはオノを含んだ数名だけだ。故にヤナギは日本代表の移動スピードに合わせることに苦労するだろう。
そしてヤナギが持つ弱点、それは彼のドリブル突破はほぼ必ず相手が先に動いた──もしくはヤナギが動かした──後、そのDFの動きとは逆方向に動くことだ。もちろんスピードに任せて強引に抜くこともあるが、難敵や強敵と対した時は殆どがそのパターンだ。
それらは決して間違ってはいない。DFの重心移動の逆をついて動くのはドリブル突破の常套だ。しかしいくら速いとはいえパターン化されていれば対策の打ちようはある。先程のキムがそうしたように。
(見事な罠だったな、キム)
先程のキムに対してひじ打ちをしたシーンの前のことだ。キムはわざと彼より先に動きヤナギのドリブル突破コースを誘導させた。そしてヤナギは素直にそこへ移動した為、キムは突破された直後に即座に反転してチャージを仕掛けることができたのだ。
もっともこの方法が誰にでも出来ると言うわけでもない。ヤナギに匹敵するスピードや動きが可能なプレイヤーに限定はされる。そしてそうしたとしてもあのスピードとアジリティで反応されてディフェンスを回避される可能性もある。それを踏まえて考えるとやはり彼はとんでもない選手ではある。
(だがこの時間でヤナギを止めたことは大きい)
歯を食いしばり韓国イレブンを凝視するヤナギ。負けん気の強さは出てはいるが今まで散々翻弄していた相手に止められたショックは表情から消えていない。
間違いなく残り時間のプレーに影響はある。これも若さと言うべきだろう。
そして当人も自覚があるのかわからないが、実は今日の彼は得点と同じく失点にも関与している。
しかも後半の二失点にだ。そしてそれこそが日本代表が未だ改善できていない、実力者ばかりにボールを集める悪癖によるものだ。前回のW杯のグループリーグで小野に集まりすぎたボールを対戦相手に狩られていたように。
「あと一点だ!」
「こうなったら勝ち点三を取ってこい!」
勢いづいたスタッフの声と主審のホイッスルの音が耳に入る。そして両チームの選手が再びピッチの上で激しく動き始める。
当然ながら前に出る韓国に対し日本も陣形を上げる。それを見てヴェッセルは少し眉根をひそめる。先程のままなら逆転する可能性がより高かったが──
(やはり侮れないと言う事か)
ボールを回し前に出る日本。先程とは一転したその動きに戸惑う韓国だが、ファンにアンの海外組やチョたちベテランが怒鳴り声のようなコーチングを飛ばしすぐさまチームを引き締める。
両チーム正面からのぶつかり合い。しかしホームであり技術に関して韓国より上回っている日本は押しつ押されつつもボールを韓国ゴール前へ運んでいく。
韓国の右サイドから上がるボール。ジャンプしたチョがクリアーするも、そのこぼれ球をヤナギが拾う。
大きむ右足を振りかぶるヤナギの正面をホンが塞ぐ。だがヤナギはシュートフェイントで彼を突破、前に出る。
ペナルティエリア数メートル先まで近づいた柳へファンが突っ込み、その後ろからキムが虎視眈々とボール奪取を狙う。ファンがわざと右に重心を傾けヤナギに突撃し、やはりヤナギは緩急を効かせたフェイント後、空いた左側へ動く。
キムが飛び込んで来るのを見てヴェッセルはもらったと思ったその時だ、何とヤナギは急減速する。そして左にパスを出す。
(まずい!)
ボールの行く先に走りこんでいるオノを見てヴェッセルは組んでいた腕の力を強くする。ゴールからの距離はおよそ25メートルほど。しかし彼ならばミドルを撃ってくる──
だがヤナギの出したパスはオノにすんなりと通らない。疲労がここに出たのか軌道は乱れており小野はボールを収めるのに僅かに外に開く。
そしてその僅かな遅れで動いていたキムがギリギリ追いつく。距離をつめミドルを撃とうとしたオノに対しスラィディングを放つ。
キムの伸ばした足と小野が振り下ろした右足がボールを挟んで激突する。そしてその一瞬後、小野は姿勢を崩しペナルティエリアに倒れこむ。
(さすがのフィジカルだ!)
間一髪の危機を防ぎ起き上がったキムに賞賛の言葉を送るヴェッセル。小野がピッチに倒れ込んでいるがそれを気にすることもなくキムは前線にいるもう一人のキムへロングパスを送る。
正確なロングボールが敵陣に残っていたKチャンに送られる。それにいち早く反応していたKチャンはイグチとの競り合いに勝ちボールを落とす。そしてそれを拾ったアンはダイレクトでボールを前に蹴った。
(!)
アンのプレーが何を狙っているのか、蹴った瞬間ヴェッセルは理解した。そして彼の蹴ったボールは大きく伸びて前に出ていた日本のGKの頭上を超える。
アンが何をしたのか気付き慌てて戻る日本のGKだがもう遅い。ボールは一度ピッチを跳ね日本のゴールを優しく揺らした。
「モーイ!!」
逆転弾。韓国の勝利を決定づけるエースの一撃にヴェッセルはたまらず母国語で叫ぶ。
だが視界に入ったそれを見て表情を落ち着かせる。右端に見えているのは先程キムと激突しいまだ足を押さえてピッチに蹲っているオノと、そのキムに怒りの形相で詰め寄っているヤナギの姿だ。
ヤナギの怒りは相当なもののようで味方二人から押さえられている。股間にファンが入り審判も仲裁に来ている。
だがヤナギの怒りは収まる様子を見せず、今度は審判に対して何か言っている。おそらく先程のキムのプレイに対することなのだろうがあれは──ファウルにされる可能性はあるものの──正当なプレーだ。
ヤナギを押さえるのがもう一人増える。だがそれでもヤナギは食い下がらない。そしてさらに彼が何か言うと背を向けようとした審判は彼に振り返り、胸元からカードを取り出す。
「……!」
提示されたイエロー、そして続いてのレッドカードを見て、敵将でありながら思わずヴェッセルは息を呑んでしまった。
◆◆◆◆◆
キムのスラィディングを受け、体勢を崩す小野の動きがやけにゆっくりと見えた。
一回転してピッチに倒れ込んだ小野。すぐに起き上がると思ったが、何故か彼は動かない。
「小野さん…?」
キムがボールを蹴りだすのも気に留めず鷲介の視線は倒れた小野に釘づけとなる。そして彼が右足首を押さえているのを見た瞬間、その姿があの日の英彦に重なる。
「小野さんっっ!!」
何も考えず鷲介は小野に駆け寄る。そしてピッチに膝をつき様子を窺おうとした時だ、今日の試合の中でひときわ大きい悲鳴のような声が周りから上がり、鷲介の意識を揺さぶる。
「こんなときに一体なんだ!?」
苛立ちをあらわにして鷲介は周りを視る。そして驚愕した。
いったい何が起きたのか、つい先ほどまですぐ近くにあったはずのボールが日本のゴールに収まっている。そして項垂れるチームメイトとこれ見よがしに喜ぶ韓国イレブンの姿もある。
逆転された。その事実を鷲介はようやく飲み込む。だがすぐにそばで倒れている小野のことを思いだして立ち上がると、主審に駆け寄る。
「ノーゴールだ。小野さんへのファウルが先だろ!」
日本語のためか首をかしげた主審へ鷲介は怒りのボルテージを上げながらも小野を指差しジェスチャーでキムのスライディングがファウルだったと伝える。しかしどうしたことか、主審は首を横に振るだけだ。
「もっとしっかりと確認しろよ!」
「やめるんだ柳くん!」
主審に詰め寄った鷲介を何故か瀬川が止める。邪魔をする仲間を押しのけ再び詰め寄ろうとするが、逆側から土本が鷲介の体を押さえる。
「いい加減にしろ! 余計なことに時間使っている場合か!」
「余計なことじゃないだろ! 小野さんが負傷したんだぞ!」
「あれは普通に見てもノーファウルだ!」
何故かおかしなことを言う仲間たち。もはや彼らの相手はせず鷲介は再び主審に向かおうとするが、彼は背を向けて鷲介から去っていく。
それを見て鷲介はさらに頭に血を登らせる。
「ちゃんと見てんのか、このヘボ審判!!」
目を指差すジェスチャーをして叫ぶ鷲介。するとこちらを振り向いた審判はどうしたことか胸ポケットに手をやると、二枚のカードを取り出し、それを順々に鷲介に向けて突きつける。
一枚目は黄色、そして二枚目は赤。それを見た鷲介は一瞬唖然となり、しかし次の瞬間、心中の怒りを吐き出すように叫ぶ。
「っっ! ふざけるなぁぁっ!!」
そして審判に詰め寄ろうとしたその時だ、誰かがユニフォームの後ろを掴み、強引に後ろに引っ張る。
いきなり首が圧迫され息が詰まり、さすがに鷲介も動きが止まる。
「誰……だ!」
軽くせき込み後ろを振り向くとそこには厳めしく、そして侮蔑の表情を浮かべた堂本の姿がある。
「退場処分を受けたんだ。さっさとピッチから出ろ。邪魔だ」
見たことがない異様な迫力を見せる堂本に思わず鷲介は怯む。
だが口を開こうとした時、それを見越したかのようなタイミングで彼が言葉をかぶせる。
「小野も担架で運ばれた。ロスタイムとその分の時間で同点に追いつくんだ。ガキの戯言に付き合ってる余裕はねーんだよ」
「何だと!?」
かっとなる鷲介。しかし両肩を土本、瀬川が掴み押しとどめると、彼らもまた厳しい表情で言う。
「堂本の言うとおりだ。さっさとピッチから出ろ」
「退場処分になった君に居座れては試合再開もできないんだよ」
二人より放たれる怒りの気配に鷲介は唖然とする。
だが二人だけではなく周囲にいる仲間からの苛立ちまじりの視線、またスタジアム中から聞こえる戸惑うようなざわめきを聞いて、熱くなっていた鷲介の頭が幾分か冷える。
「……すみません」
奥歯を強く噛み、鷲介は駆け足でピッチを後にする。そして人気のない通路で立ち止まり、衝動的に近くの壁を拳で叩く。
「なに、やっているんだ。俺は……」
先程の自分の行動を思い返し、鷲介は項垂れる。いくら過去の出来事が重なったとはいえ完全に冷静を欠いた行動だ。代表としてもプロとしても弁解が全くできない。
後ろからかすかだが、主審の笛の音とサポーターの無念そうな声が聞こえる。敗戦──。その事実がさらに鷲介を打ちのめす。
「くっそぉ……」
壁に頭を強く打ちつける。痛み、そして悔しさで目の端に涙が浮かぶ。
因縁の日韓戦は最悪の結果で幕を下ろすこととなってしまった──
◆◆◆◆◆
「なんともまぁ、驚くべき結末になったな」
「二点差からの逆転負け。しかもホームで」
「おまけに三位のイラクが勝ったことで三位に後退。んで次はそのイラクとの直接対決。
結果次第では最悪、四位に後退して折り返しか」
自宅のテレビ前で好き放題に言うチームメイトの言葉を聞きながら直康は渋面を浮かべている。
今回、体調不良のため代表を辞退した直康だがその原因は風邪だ。出場したリーグ七節の次の日にかかったのだ。
風邪にかかるのは久しぶりであり今までは薬を飲んで寝ていれば一日、二日で直ったものだったが、日本とドイツの風邪は違うのかなかなか治らず体調を考慮して辞退と言うことになったのだ。
そしてチームメイトたちは日本代表のアジア最終予選の日に限って見舞いと評して直康の家に来ては、今日のように観戦していたのだった。
「日本代表にとって次は何が何でも負けられない試合ですね。鷲介も出場できませんし、さてどうなりますか」
「お前まで他人事のように言うな」
「実際代表じゃない僕にとっては他人事ですよ大文字さん。アンダーはともかくフル代表に選ばれたことはありませんし」
そう言って直康の隣で息をつくのは温和な顔つきをした若々しい日本人の青年だ。
「しかし我らがハンブルク・フェアアインにとってはチャンスではありますね。代表二連戦フル出場に長距離移動の疲れ、そしてこの退場。
鷲介は間違いなく本調子ではないでしょうし、クルトも僕たちの試合で復帰するでしょうけどドイツ代表の試合を見る限りいつもの様子に戻る可能性は高くない。
普段失敗しない分、一度の失敗を引きずりますからね彼は」
そして温和な表情から一転して獲物を狙う狩人の顔に代わる彼。今年ドイツリーグ一部デビューながらも今季のハンブルグ・フェアアイン躍進の大原動力となっている、かつて日本の至宝──
「本調子でない上、チームの中核を多く欠く満身創痍の王者。──狩るには絶好の機会ですね」
そう言って鷹野英彦は目を細めるのだった。