中東の戦い1
「暑い……」
口に出すとますますそう感じられるから極力出さないようにしている鷲介だが、それでも言わずにはいられない暑さを感じている。
W杯最終予選第三戦、オマーン戦を前に現地入りした日本代表。鷲介を含めた彼らの頭上には青い空とギラギラ輝く太陽、そしてその太陽から身を焼くような強烈な輝きが発せられていた。
(この季節のオマーンは最低気温でも三十度ほど……。中東がクソ暑いのは知っていたけど、これほどとは……!)
小学生時代に感じた日本の真夏も暑かったが、今感じているのはそれ以上だ。気温は大差ないはずなのだが──
「鷲介! 行ったぞ!」
大声で呼ばれハッとする鷲介。本村からのパスが向かってきているのを見て、今はオマーンが用意した練習場で紅白戦をしていたことを思い出す。
(いけない、集中集中!)
暑さにかまけている場合ではない。そう思いながら彼からのボールを受け取り前を向く。そこへ赤組の佐々木が立ち塞がる。
佐々木博人。Jリーグフレッシュ広島に所属する選手で、今回不在の直康が代表に招集されるまでは代表において不動の左SBと言われていた選手だ。
自分と同じ白ビブスを着た鹿島にパスを出すふりをして突破しようと鷲介は動く。だがおかしなことにこちらの動きに佐々木が|またついてきている。いつもなら一発で振り切れるはずなのに。
「くっ!」
突破直前で体を入れてくる佐々木。鷲介は後ろに下がりかわそうとするが佐々木の伸ばした足がボールに当たり、こぼれたボールはラインを割る。
「おいおい、ドイツリーグでの好調さはどこ行ったんだー?」
「ぐぬっ……」
からかい混じりに言うのは土本だ。その言葉に鷲介は口をへの字に曲げ、頬から滴り落ちる汗を腕やビブスで乱雑に拭い、ピッチを駆ける。
結局紅白戦が終わるまでの間、直康はもちろん対峙した日本代表メンバーを一対一で抜くことはあまりできなかった。パス、シュートの精度もどういうわけか普段より落ちてしまっている。
「調子悪いな柳。大丈夫か」
練習が終わりシャワーを浴びる中、そう声をかけてきたのは九条だ。
「幾らか体が重いのは感じていますけど、ここまで悪くなる理由が思い当たらないんですよね」
食欲もあるし眠れてもいる。精神的に疲れてもいない。
原因が全くわからずシャワーに打たれながら首をかしげる鷲介。そこへ第三者の声がかかる。
「理由は簡単だよ。環境の激変と疲れが重なったせいだろうね」
隣にやってきた小野が肩からタオルを外してそう言う。どうやらメディアへのインタビューを終わらせてきたようだ。
「疲れって……。体はなんともありませんよ?」
「それは君自身が体調が悪いことを自覚できていないせいだろうね。試合でも活躍できていたから余計にそう思うんだろうけど。
でもそれは無理もないよ。君はプロとなってまだ一年ちょっと。その辺りの微細な違いはわからないさ」
「ユースの時も遠征はありましたけど、こんな状態になったことは初めくらいでしたが……」
「そりゃお前、遠征したって言っても同じ欧州圏内だろう。それに日本で言うなら秋から冬になりかけの気候のドイツから真夏、猛暑と言うべきオマーンにやってきたんだ。
ここまでの急激な気候の変化は経験がないんじゃないか」
「それは……確かに」
寒い場所からさらに寒い場所へ行ったことはある。だが今回のような寒い場所から暑い場所へ行ったことはない。
「さらにアジア圏内に遠征した経験は皆無。未知の経験に体は参ってしまっているのさ」
「でも中神は俺ほど消耗しているようには見えませんけど……」
練習や紅白戦の最中、中神も動きが重そうに見えたが鷲介ほど駄目駄目ではなかった。そう思い訊ねてみると、
「あいつは生まれが外国と言うこともあって気候の変動に幾らか慣れているのもあるけど、君と違ってユース、ジュニアユース時代アジアに幾度か遠征した経験値があるせいだね」
「他のメンバーもいくらか鈍ってはいたがお前たち二人ほどじゃない。昔からフル代表や年代別代表に名を連ねてきた奴らばかりだしな。試合前にはコンディションを整えられるだろう」
確かに鷲介以外の欧州組はもちろん、国内組も普段とさして変わらないように見えた。これが経験の差と言うべきものなのか。
「もしかしなくてもメンバーの中で一番コンディションが悪いのは俺ですか……?」
「そうだね」
即答する小野。九条も頷く。それを見て思わず鷲介はがっくりと肩を落とす。
「ま、とにかく君がやるべきことは長距離遠征への耐性をつけることだよ。欧州でプレイし、日本代表として戦うならこれは必須だからね」
「小野の言うとおり今回はそれに注力した方がいいだろうな。試合に出る以上にな。
それに最終予選で当たる中東勢はオマーンだけじゃない。早めに慣れてもらわんと代表としても困る」
長年代表を名を連ねた二人の言葉に鷲介は力無く頷く。ジークやブルーノを初め多くの人たちから言われていたコンディション調整。自分ではやっているつもりだが、まさかほとんど効果がなかったとは。
「とにかく、少しでも不調を感じたらメディカルスタッフに相談すると良いよ」
「それと今回同室の俺や佐々木とかにな。何かお前に合うリラックス方法を知っているかもしれないし」
「はい、ありがとうございます二人とも……」
三日後に行われるオマーンとの試合、スタメン出場して軽く快勝できると思っていたが今日のような有様ではスタメンはおろか出場さえしないかもしれない。
アジアでの戦い。どうやら思っていたようにすんなりとはいかないようだ。
◆◆◆◆◆
ノートパソコンの画面に表示されている半面のサッカーコート。そこには11個の数字が表示されている。
日本代表のシステム4-4-2の形を成している数字たち。これは明日のオマーン戦に出場するメンバーを表している。
「ふぅ……」
日本代表監督嶋田は大きくため息をつき、座席に背を預ける。決めたスタメンはほぼ従来通りのメンバーだ。
視線をサブにした17に向ける。17番──柳の背番号だ。
「……」
僅かに視線を鋭くしながら日本代表の新星のここ数日の調子を思い出す。初めてのアジア──中東遠征ということもあって当初は本来の6割程度しか実力を出せていなかったが、試合前日となる今日は8割程度だせるまでのコンディションは良くなっていった。
とはいえ他のFWやMFは万全、または9割の実力を発揮できているメンバーが大勢いたため、今回はベンチとしたのだ。もし起用するなら後半、それも二十分頃といったところか。
コツコツと指で机を叩きながら田嶋は今回の予選メンバー選出前に日本サッカー協会に呼び出されたときのことを思い出す。
「柳を可能な限り出場させろ、か……」
小さく低い声が喉から漏れる。指で机を叩くのをやめ、強く拳を握り締める。
『どういう意味でしょうか?』
『言葉通りだよ。彼を一試合でも多く出場させることが代表や彼にとってメリットとなる。
まだ18歳ながらも世界トップクラスのドイツリーグに出場、世界レベルの猛者がうようよいるロート・バイエルンにて活躍している彼は紛れもなく日本人No1プレイヤーだ。
彼のドリブルとスピードがあればアジア予選如き、余裕で突破できるだろう?』
『お言葉ですがアジア、それもW杯最終予選は簡単なものではありません。たとえ彼がいたとしても。
それに彼はまだプロとなって一年余り。代表経験も乏しくアジア遠征経験も──ユース時代でも──ほぼ皆無。アジアでもクラブと同じ活躍ができると計算するわけにはいきません』
『それはこちらもわかっているよ。しかしそうするのが、選手を最大限生かすために力を尽くすのが君の仕事だろう。彼を生かすことが日本代表の勝利につながるのだよ』
『それに君の教え子たちは海外ではパッとしない。特に堂本は最近試合に出れてはいるがシーズンが始まってまだゴールがない。最近の代表の試合でもどうも調子が悪いように見える』
『……! 彼は今まで窮地にこそ輝いてきた男です。調子が悪いのはわかりますが前回の最終予選やアジアカップで追い詰められた日本代表を救ってきたことをお忘れでしょうか!?』
『もちろんわかっているよ。だが柳君の輝きの前ではそれらは色あせて見えるのだよ。世界トップクラスのクラブでプロデビューを果たし、初年で二桁得点を決めた選手が今までいたかね』
『それに何よりも彼はまだ十代。今後の成長次第では世界のサッカー界の歴史に名を刻むレジェントになりうる可能性すらある。日本人初のグローリアボールでさえ夢ではない』
『君は今まで堂本選手を代表のエースストライカーとして考えていたのだろうが現在の実力を鑑みたらもはや日本のエースストライカーは柳君だと言わざるを得ないのだよ。
サポーターたちからもそのような声が多く上がっているし、我々とて同じ意見だ』
『W杯に出場し念願のベスト8、それ以上の結果を出すために柳君を代表の中核とすることは不可欠なのだよ』
『もう一度言う。柳君を可能な限り試合に出場させたまえ。もちろんコンディションには気を使ってだ』
ダン、と机を叩く音がして嶋田はハッとする。そして感じる右手の鈍痛。どうやらあの不愉快な会話を思いだし、自然と体が動いたようだ。
彼らの言うことはわかる。柳は確かに日本サッカー界の至宝であり、順調に成長すれば今後十年は代表の中心となる選手だろう。
だが少なくとも今ではない。早くてもW杯が終わった後の新チームでの話だ。今の代表は小野と堂本を中心としたチームとなっている。途中でそれを変えてしまえばチームが機能不全を起こしてしまう。
スタメン出場させることはあるだろう。厳しい最終予選やW杯本戦で確実に彼の出番はある。だがまだ代表のエースと言う重荷を背負わせるには彼は若すぎるし、未熟だ。まだ彼は育成年代の選手なのだ。
「……私のチームのエースストライカーは堂本だ」
彼は未だ本調子ではないがそれについてあまり心配はしていない。何故なら彼は窮地にこそ力を発揮するからだ。
前回の最終予選でも五戦終了して三位、予選落ちの危機にあった日本代表。しかしその後の全試合、長期の怪我から復帰した堂本はゴールを決めて見事予選を一位通過させ、名実ともに日本代表のエースストライカーとなったのだ。
彼の実力や底力は誰よりも嶋田が知っている。彼ならば四年前と同じく、この最終予選の中で苦戦するであろう日本代表を救いあの時見た輝きを取り戻すだろう。そしてそれはスペインでの活躍にもつながるはずだ。
明日のオマーン戦、堂本はスタメンだ。近年力を上げてきている難敵だが、堂本があの輝きを見せればアウェーであろうと勝利できるだろう。そう思う嶋田だった。
◆◆◆◆◆
「暑い……」
「だなー。中東とわかっていても夜だっていうのにこの暑さ、参るわー」
隣に座る中神が犬のように舌を出す中、W杯アジア最終予選第三戦、オマーン対日本が始まる。
二戦終えた現在、二連勝の日本に対しオマーンは一勝一分けだ。とはいえ残り八試合で両チームともどうなるか、まだまだわからない。
眼前の緑のピッチにて動くボールと両イレブン。ゆるやかに動く日本に対し、オマーンはスタジアムをいっぱいにしたサポーターたちの声援を受け、積極的に動く。
日本のシステムはいつも通り4-4-2で全体的にやや下がり目だ。これは夜だと言うのに三十度以上の気温を考慮し、まず前半は守りを固めカウンターでゴールを狙う戦術をとっているためだ。
さてスタメン、GKはリーグ開始直後怪我から復帰した川上で四人のDFは右から田仲、秋葉、井口、そして今回体調不良で代表に呼ばれなかった直康の左SBには予想通り佐々木が入っている。CBもできるDFの専門家である彼は守備意識が強く今回のように守りを重視する場合、うってつけの人材といえる。
(ま、半面直康さんほど攻撃参加しないしパス精度にやや難はあるけど……)
心中で佐々木を批評しながら鷲介は残りのメンバーへ目を向ける。中盤、ボランチは不動の瀬川に高城。前二人は右に小野、そして左はオマーンの守備陣形を切り崩すため、ドリブラーである土本が入っている。ツートップは最近ベルギーリーグで好調の九条と堂本だ。
そしてホームのオマーン。システムは5-3-2。中東の国々は自国選手が多いのが特徴だがオマーンは少し違う。中東と言えばオイルマネーと言われる潤沢な資金でスター戦を集めているカタールリーグが有名だがオマーンにカタールほどのそれはない。そしてリーグのレベルもそこまで高くなかった。
だがオマーンが近年、アジアカップで好成績を残し、アジア最終予選に残る強豪になったのは実力のある選手が自国に近いカタールやUAEと言った金のあるリーグに多く在籍しそのリーグにいる──ベテランと言うべき年齢になったとはいえスタープレイヤーを切磋琢磨しているのと、カタールらの躍進に負けまいと国がリーグ代表強化に力を入れだしたからだと聞いている。結果、代表はこの間のアジアカップでベスト8、クラブチームもACLの決勝トーナメントの常連になりつつあるそうだ。
そして日本をはじめアジアの強国の主力が欧州各地にいるように、オマーンにもわずかだがそう言う選手はいる。5バックの両側、SBと言うよりもWBと言った方がいいほど攻守にわたって動くその片方──右WBムハンマドはイタリア二部で活躍している選手だ。他に主力かつ欧州で活躍しているのはフランス一部にいるCFのアブドゥルアジーズ、守りの中心である5バックの中央にいるCBのモハメド。彼はドイツ二部でプレーをしていると言う。
ホーム、また同じチームでプレーしている選手が多いからかオマーンの動きやボール回しはスムーズだ。技術的にも日本との大きな差は見られない。
攻めるオマーン、守る日本という構図になるゲーム。しかし日本はしっかりと守備陣形を作り、余裕をもって守れている。オマーンの両WBを利用したサイド攻撃は悪くないが井口たちがきちんと対応しているため決定的なシーンは無く、逆にカウンターで日本の方に幾度かチャンスが訪れる。小野のスルーパスにDFラインを飛びだした九条がシュートを放ってはDFの伸ばした足がゴールを守り、オーバーラップしてきた田仲のセンタリングに堂本が頭で合わせ、飛びついたGKの手に弾かれる。
「あー惜しい。もう少し右だったなー」
前半二十分過ぎ、日本のカウンターからの小野のミドルシュートがゴールポストにはじかれゴールラインを割ったのを見て中神が大仰に騒ぐ。鷲介も「残念」と口に出しながら、この調子なら先制しそうだと思う。
オマーンGKのゴールキックボールが高く空を飛び、一気に日本陣内へ飛ぶ。高城が相手選手と競り勝ちこぼれたボールを土本が拾う。しかしそこへムハンマドが強襲。ファウルと思うような当たりでボールを奪うとすぐさま前線へボールを出した。
「!」
「おお!?」
ムハンマドのDFの裏を取るようなパスに反応したのはアブドゥルアジーズだ。ギリギリの飛び出しでオフサイドは無く一瞬ヒヤリとする。
だが即座に秋葉、井口両CBが挟み込む。それを見てよし奪ったと鷲介が思った時だ、なんとアブドゥルアジーズはそこからシュートを撃った。
(な!?)
井口たちが挟み込もうとしたほんのわずかな合間から放たれたシュート。ペナルティエリア外、ゴールから二十メートル近くから放たれたミドルシュートはジャンプし手を伸ばした川上のキーパーグローブを超え日本ゴール左に突き刺さった。
刹那の静寂、そして次の瞬間スタジアムから歓喜の声が爆発する。オマーンサポーターが大声援を送りスーパーゴールを決めたエースストライカーはチームメイトと共に喜びに打ち震えている。
一方の日本ベンチやピッチにいる小野たちは唖然とした様子だ。鷲介も後ろから来たボールをダイレクトでシュートし、ゴールを決めると言う滅多に見れない見事なゴールを目の当たりにして目を瞬かせる。
「まさかあんなシュートを撃って、しかも入るとは……」
「川上の位置が前に出ていたのもあるけど」
「いや、後ろからのボールをダイレクトって。まぐれでも凄いぞ」
ベンチに座る代表メンバーが賞賛と驚きの言葉を口にする。それを聞きながら鷲介はようやく落ち着き、小さく息を吐き出す。
「スゲーゴールだったな」
「ああ。文句のつけようがない。フランスリーグで活躍しているのは伊達じゃないな」
アブドゥルアジーズがダイレクトプレーやシュートに優れているのは知ってはいたが、まさかあの状況であんなシュートを撃ってくるのは予想外だった。あんなシュートを打ってくるのはサミュエルたちごく一部の世界トップクラスのストライカーだけだ。
エースのスーパーゴールで勢いがついたオマーンはさらに攻めを激しくする。一方の日本は動揺があるのか守備陣形を構築するもやや乱れが生じ、またチェックに行く動きも遅れる。
しかしそれでも井口、そして少し下がった小野がピッチで檄を飛ばし奮戦するとそれに触発されるように皆が調子を取り戻し、前半三十分過ぎに失点以前の状態に戻る。前半ロスタイム直前、カウンターからドリブル突破した土本のパスを九条がダイレクトシュートするがこれは惜しくもDFが防ぐ。そしてDFが蹴り上げたボールに詰めた九条の体あたりボールはラインを割る。
「このまま前半は終わりそうだな……」
予想外の失点はあったものの内容は悪くない。後半は日本も前がかりになり、より激しく動くだろうからチャンスは増えるだろう。
タイムボードでロスタイムが一分と表示されたのを見ながら鷲介が思った時だ、スローインからボールを繋ぎ、それを前に出てきて受け取ったCB、オマーンのキャプテンモハメドからパスが出る。
オマーンのセンターサークルから一気に日本の右サイドに飛んだボールをオマーンの左WBヤアクープが収めドリブルする。もちろん田仲が寄せるがヤアクープは機敏に体を動かし突破すると見せかけて右に切り返すと、ゴール前にボールを上げる。
日本のペナルティエリア内右側に飛ぶボールに合わせようとするアブドゥルアジーズ。しかしマークに付いていた井口も跳躍、ヘディングでボールをクリアしアブドゥルアジーズを吹き飛ばす。
(よし、ボールを佐々木さんが拾った。これで)
前半終了と鷲介が思ったその時だ。主審が笛を慣らし井口と近くに倒れているアブドゥルアジーズの側までやってくると、何と井口に向けてイエローカードを提示し、ペナルティスポットを指差す。
「PK!?」
「んな馬鹿な!」
「シュミレーションだろ!」
鷲介が愕然とする横で日本ベンチからも抗議の声が上がる。当然ピッチ上の日本イレブンも猛抗議するが主審は首を振るだけだ。
日本の抗議に対しスタジアムからブーイングが上がる。だがアブドゥルアジーズがボールをセットするとピタリとその声は止む。
短い助走でボールを蹴るオマーンのエースストライカー。右に飛んだボールに川上も反応していたがそれも空しく、ボールはネットに突き刺さってしまった。
「2点目……」
喜ぶオマーンイレブンとサポーターの歓喜の声を聞きながら、鷲介は小さく舌打ちする。
そして得点と同時に前半終了。オマーンサポーターの大歓声を聞きながら鷲介は日本代表は控室に引き上げるのを見送り、ピッチでアップを始める。
日本の真昼のような暑さを感じながらベンチメンバーと共に体を動かしていると、スタッフの一人が集まるよう呼びかける。そして全員集まったところで彼は口を開く。
「柳、後半から行くぞ。九条との交代だ」
「九条さんと、ですか?」
鷲介は交代に対し驚く様子を見せないながらも首をかしげる。正直後半から出番はあるかもしれないと思ってはいたのだ。
5バックにもなるガチガチに固められたオマーンの守備。あれを一人で切り崩せるのは自分しかいないと言う確信があったからだ。
しかし交代が九条だと言うのはびっくりだ。前半、彼はゴールこそなかったが決定機には絡んではいたし、いい動きも見せていた。一方堂本は調子こそ悪くないように見えたが球離れが悪く、無駄にドリブル突破しようとしてボールを奪取されカウンターを喰らったこともあった。
ともあれ九条との交代は間違いがないらしく、言われたとおり鷲介は控室に戻りユニフォームに着替える。そして苛立ちや怒りが渦巻く控室で監督から指示を受け、他メンバーと共に控え室を出る。
「なんで九条さんが下がるんだよ……」
廊下を歩く鷲介の真後ろから聞こえてきた低い声。振り向けば顔をしかめた土本の姿がある。
「下がるのはどう考えても堂本だろう。監督は何考えてるんだ。柳もそう思うだろ」
同意を求めるように言ってくる土本。異様な迫力の彼の顔を見て鷲介が言葉に詰まっていると、
「いい加減にしろ土本。ここでごねてもしょうがないだろう」
たしなめるように言う小野。しかし土本は彼を睨みつけ、言う。
「お前は納得しているのかよこの交代に。明らかにおかしいだろ」
「堂本さんは中東勢に無類の強さを発揮してきた。今日の動きも悪くなかったしその辺りを監督は期待しているんだろう」
「それなら九条さんだって同じだろ。ったく特別扱いするのもいい加減にしてほしいぜ」
そう言って土本は後ろにいる堂本と高城を睨みつける。
すると彼の視線に気づいたのか、高城がチンピラよろしくな凄んだ表情を向けてくる。どうやら控室で一悶着あったようだ。
「とにかく! 僕たちが何とかするぞ。柳君も頼む」
土本の顔を無理矢理前に向かせ、声を張り上げる小野。鷲介も頷き、彼らと共にピッチに戻る。
スタジアム、そしてオマーンイレブンから漂う余裕の空気を感じながら鷲介の耳に後半開始の笛が響き渡る。
(予想通り守りを固めてきた。両WBはSBの位置まで下がっている……)
システム通り5バックになっているオマーンの陣形を見て鷲介は思う。
(うーん。俺一人はちょっと苦労しそうだな。おまけにこの気温とコンディション……。
だが、ゴールする方法なら、いくらでもある!)
そう心中で呟き、後ろを振り向く鷲介。小野と田仲に視線を向け、彼らが同じく視線を返したのを見ると再び前に走っていく。
後半開始して数分、日本陣内のセンターサークル付近でオマーンから奪ったボールが小野に渡り、その彼から敵陣の真ん中にいる鷲介の元へ鋭いパスが飛んでくる。
良いパスと心の中で思いトラップしてすぐ前を向く鷲介。当然一番近くにいたオマーンの選手が距離をつめてくるが前半彼らの動きは散々見ていた鷲介はダブルタッチであっさりかわし一気にペナルティエリア前に来ては大きく右足を振りかぶる。
視界の隅にいるオマーンキャプテンがぎょっとするのを確認した直後、鷲介はミドルシュートを放つ。手応えを感じたシュートは狙い通りゴール左に飛ぶが、ポストに当たりラインを割る。
(いつもなら入っているはずなんだが……。やっぱりまだ本調子じゃないのか)
軽く頭を抱える鷲介。
「ナイスミドルだ!」
「いいぞ柳! その調子で頼む!」
声をかけてくれる小野、土本に手を振りかえし前を向くと、オマーンのDFラインにいるメンバーが鷲介に視線を向けている。
いつもの驚愕と警戒が混在した目で見られながらも鷲介は気にせずピッチを動き回る。前半とは真逆の展開──攻める日本と守りカウンター攻撃してくるオマーン──となる後半だが、押しているのは日本だ。
状況こそ同じだがオマーンは日本のように選手全員が攻守にわたって動いていない。特に鷲介のいる左WBヤアクープは鷲介のマンマークに付いており、ほとんど攻撃参加をしてこなくなっていたからだ。
(一人か。二人ぐらいつくかと思ったけど、まぁいいか)
しかし鷲介は別に苦労を感じていない。ドイツリーグの対戦相手やRバイエルンのメンバーに比べれば彼のマンマークなど注意する程度のものだし、その気になればあっさりと引きはがせるからだ。
結果としてオマーンの攻撃は右サイド攻撃が主となり、それを読んでいた日本の守りが防いでは攻撃に転じる展開となっていた。
そして後半十分経過したころ、上がってきたムハンマドのパスを土本が足を伸ばしてインターセプト、これを高城が拾い小野、鷲介とボールが素早くつながる。
首振りで確認していたため前に向くこともできたがあえて小野からのボールを収めた後、中に動く。ヤアクープや他のオマーン選手が寄ってきたのを見ると、鷲介は一転して外──右サイドに反転する。
そして鷲介の動きに釣られてオマーンイレブンが中に寄った結果、右サイドにできたスペースに走っていた田仲へパスを出す。
(あいにくだが上手いSBは|こっち(日本)にもいるんだよ!)
田仲祐希。日本代表不動の右SBでありイタリアリーグの強豪NASミランのレギュラーでもある。一番の長所はボジショニングだが、それに次ぐのがそれを生かした無駄がない走りだ。
イタリアリーグの強豪でレギュラーとなり幾多の激闘を経験してきた彼。どの位置で走れば効果的に攻められるか熟知しているのだ。少なくともオマーンの両WBよりは。
中に切れ込んでいく田仲。当然中に寄っていたオマーンイレブンが駆け寄っていくが鷲介もボールを要求しながらゴールに向かって走っているため、どうしても田仲だけに注力できない。また堂本や土本もゴール前で動き、彼らの意識を阻害する。
結果、田仲は敵陣ペナルティエリアの右サイド目前までオーバーラップすることができた。
「田仲さん!」
鷲介は全力加速してマークを引きはがしボールを要求。それを見た田仲からボールが来る。
マイナス方向からのボールをもらおうとする鷲介へ背後から迫る気配を感じる。鷲介は来たボールをダイレクトで横にはたく。ボールを足元に収めたのはマークを振り切った小野だ。
前に出る小野。その彼にムハンマドが距離をつめてきた。だが小野は近くにいる鷲介にパスを出すと中に入っていく。
(歪みができた!)
先程鷲介がそうしたように小野の動きでオマーンDFが何人か気を取られ再構築されかけていた守備陣に乱れが生じる。それを見た鷲介は小野から来た緩やかなパスをダイレクトで右にいる田仲へ渡し、前に走っていく。
小野、そして鷲介の動きにDFが引っ張られ、オマーンゴール前にスペースが生まれる。そしてそこへ中に動いていた小野が右斜めに急転換、やや遅れて鷲介が縦から横の動きに変更して走っていく。
オマーンのペナルティエリアに侵入する鷲介と小野。鷲介は相手ゴール前に、そして小野はエリア右へ移動する。
そして田仲が上げたグラウンダーセンタリング。それを小野が収めるが、そこへムハンマドが体を寄せてきてパスコースを潰す。
しかし鷲介も密着マークされた小野も全く動揺していない。ペナルティエリアに侵入した時、鷲介は一瞬だけ小野と視線をかわし、小野が小さく頷いたのを見たからだ。
そして鷲介はムハンマドが小野についたことによりペナルティエリアの中央に生まれたスペース──先程までムハンマドがいた──へ走りこむ。そして小野は右に体を動かしてムハンマドを惑わし、足元にあったボールを踵で蹴り、鷲介が走りこむスペースへヒールパスを出す。
(ナイスパス、ナイストライアングル!)
見事こちらと連動してくれた小野と田仲に心中で称賛すると同時、完全フリーとなった鷲介は小野からのボールを左足でダイレクトシュート。ボールをオマーンゴール左に突き刺した。
「ナイスゴール!」
「よくやった!」
僅かだがいる日本サポーターの前でゴールパフォーマンスをしている鷲介を小野、田仲が抱き着いてくる。暑さを感じながらも鷲介も彼らに抱擁を返し、言う。
「この調子でお願いします!」
後半二度目のキックオフの笛が鳴り響くのを聞きながら、鷲介はオマーン陣内へ攻め込む。
(わかりやすいな。俺たちがいるところに人数を集中してきたか)
やや右サイドに人員を寄らせているオマーンを見て、鷲介は小さく息をつく。鷲介に小野、田仲と言う右サイドのラインがきれいにつながったことを警戒してのことだろうが、人数が増えたから守備が硬くなると言うほどサッカーは単純ではない。
日本ゴール前でオマーンから奪取したボールが上がっていた田仲に渡る。田仲は小野へパスを出して上がり、小野は寄って来たマーカーをすぐ近くにいる高城にパスを出すふりでだまし、再び田仲が走りこむスペースへボールを出す。
センターラインを超えた田仲。それを見て鷲介は全速で彼に寄っていく。田仲からボールが着た瞬間、後ろにいるオマーンDF陣から突き刺すような視線を感じるが鷲介は一切気にせずダイレクトで左サイドに走ってきた土本へパスを出す。
「ナイスパスだ!」
笑みを浮かべボールを収めた土本は前を向き、進む。オマーン守備網がやや右サイドに偏っていたことと堂本がゴール前にいることもあって土本はそのままドリブルで突き進む。
しかしさすがにゴール前でDFに前を塞がれる土本。だが彼は体を左に揺さぶり突破すると見せかけて中央にパス。マイナス気味のそのボールに小野が走ってきてはダイレクトでヤアクープを引きはがした鷲介にボールを出す。そしてそのボールを鷲介はまたダイレクトで中に出し、それに土本が走りこみ、左足を振り上げようとしている。
が、その土本へオマーンDFが激しいチェックをかける。シュート体勢に入っていた土本は倒され主審が笛を鳴らす。日本のFKだ。
(今回は失敗か。いやゴールまでFKを獲得できたから成功と言っていいのかな)
鷲介が心の中で言っているのはトライアングル。三人でボールを運ぶ、サッカーにおける基本中の基本と言うべき攻め方のことだ。一点目は田仲、小野と協力して。そして今は土本、小野と三人で形成したのだ。
いくら人数をかけようが、どんな守り方をしようが意志疎通をかわした三人がこれを作り上げた時、相手の守備に歪みと隙を生み、切り崩すことができる。もっとも相手の対応がこちらの動きを上回っていなければの話だが。
そしてオマーンは間違いなくこちらのトライアングルの構築スピードに対応できない。いや正確に言えば鷲介たち、ワールドクラスの選手が作りだすトライアングルに対応できないと言った方が正しい。
オマーンの守備は上手く強い。だがそれはあくまでアジアレベルを超えていないものだ。その上の領域にいる鷲介たちのトライアングルに対処できないとは当然ともいえる。
ペナルティエリアの正面で得たFK。ボールのそばに立つのは小野と倒された土本だ。どちらもFKは上手いが、代表では小野が蹴ることが多い。
(やっぱり小野さんだろうか)
壁の一部となりながら思う鷲介。そして主審の笛が吹かれ小野が、そしてやや遅れて土本がボールに向かっていく。
しかし小野はボールに付せず通り過ぎる。そして直後、土本が小野の後ろから姿を見せボールを蹴る。土本の効き足で蹴られたボールは低空を飛びゴール右ネットに突き刺さった。
「っしゃああ!!」
同点に吠える土本。見事なゴールに鷲介は笑みを浮かべ仲間に囲まれる彼の元へ走っていくのだった。