オオトリ杯1
『日本! 日本!』
周囲から湧く日本コールを聞きながらかすみは両手に持ったカップを落さないようゆっくりと階段を下りる。
日の丸フラッグがいくつもふられ、日本代表のレプリカユニフォームの色を着たサポーターの色で染まった観客席。ここはソルヴィアートスタジアム。Jリーグの絶対王者、ソルヴィアート鹿嶋のホームスタジアムであり収容人数は国内で三指に入る52000人だ。
そんなスタジアムは試合開始三十分前と言う事もあってすでに満員となっている。9割、いや9割5分が青色で埋め尽くされ、残り5分は水色と対戦相手であるアルゼンチンのフラッグが視界の左隅に見えている。
「裕子。買ってきたわよ」
「あ、かすみ先輩。ありがとうございます!」
日本コールを繰り返していたポニーテールの女性が振り向き、かすみの差し出した紙コップを笑顔で受け取る。彼女は花城裕子。かすみの大学の後輩だ。
「はー生き返ります。助かりましたかすみ先輩」
なみなみと入っていた紙コップの中身を裕子はすぐに空にしてしまう。まぁ席についてずっと声を張り上げて喉が渇いていたのだから当然だと言えば当然だが。
「さてさて、最終予選に挑む我らが日本代表はどんな戦いをするんでしょうかね。
相手はあのアルゼンチンとはいえビックネームのほぼ全員を招集していない二軍。対する日本は小野選手を初めベストメンバーが揃った布陣。ぜひとも勝ってほしいものですけど」
まず先日発表された日本代表。大きい変更はなかった。そして今日の布陣も今まで通り4-4-2でスタメンはGKに川上、DFは右から田仲、秋葉、井口、大文字。中盤のダブルボランチは瀬川と高城、前は小野と柿崎。そしてツートップは堂本と九条という常連が名を連ねている。
サブにはこれまた本村たち常連が多く名を連ねる中、新戦力も入っている。三月に代表デビューを果たした従弟の鷲介にソルヴィアート鹿嶋の至宝である中神、イタリアリーグ二部で活躍する兵藤とU-20日本代表から抜擢された松岡だ。
ちなみに鷲介、中神と同じU-17フランスW杯メンバーの藤中はU-23オリンピック代表の方に選出されている。
「まぁそう簡単にはいかないでしょうね。二軍で国内組が多いとはいえ将来有望視されている若手や代表候補に名を連ねている実力者ばかり。
そして”ゾディアック”の一人とフル代表不動のスタメンも一人いるメンバー。厳しい試合になるのは間違いないわね」
そう言いながらかすみはバックからスマホを取り出し、アルゼンチンのメンバーを確認する。
二軍とはいえ猛者ぞろいのアルゼンチンの面子の中で特に警戒すべき選手は三人。アルゼンチンの陣形3-4-3のスリートップの中央にいるファブリシオ・ディ・パボン。イタリアリーグ、サンプドリアFCに所属するストライカーだ。
二人目はボックス型の中盤の右にいるペドロ・アマージャ。前回のW杯にも出場しており、スペインリーグ三強の一つ、アシオン・マドリーに所属するワールドクラスの選手だ。
そして最後の一人が鷲介と同じ”ゾディアック”が一人、”ゾディアック”No1ドリブラーと呼ばれるアルゼンチンサッカー界の神童、ミカエル・アルマンド・レオンだ。
他にもかすみがよく知っているのは先日鷲介がドイツリーグ最終節で戦ったレヴィアー・ゲルセンキルヒェンのティト・アイマールにソルヴィアート鹿嶋所属のダミアン・ディアスだ。両名ともスタメンに名を連ねている。
「それにしてもペドロにミカエル。アルゼンチンが世界に誇るビックネーム二人を親善試合に出すなんて。よくAマドリーやアルゼンチンサッカー協会が許したものね」
メンバー表を見た時思ったことを口にするかすみ。正直親善試合で日本相手に彼らほどのプレイヤーが来ることなどほとんどありえない。
最終予選を控えている日本としては現状の戦力が──二軍とはいえ──南米の強豪相手にどこまで通じるか確認できるのでありがたいのだが。
「それなんですけどミカエル君が熱望したそうですよ。なんでも同じ”ゾディアック”である柳くんと対戦したいとごねたとかなんとか」
バックからタブレットを取り出し操作する裕子。そしてこちらに差し出し、表示された記事を見る。
「『”若獅子”ミカエル。日本との親善試合メンバー入りを熱望。狙いは同じ”ゾディアック”であるシュウスケ・ヤナギと対戦すること……』」
アルゼンチンメディアの記事なのか、スペイン語で記された文面をかすみがややぎこちなくゆっくりと口にする。大学でスペイン語を第二語学後として選択して一年余り、流暢にしゃべることはできないがゆっくりなら文章も理解でき、コミュニケーションが取れる程度の会話はできる。
「四月終盤ぐらいでしたっけ。ミカエル君が柳くんに注視しているっていう噂が出たのは。確かスペインメディアに出演した時、そう言っていたそうですよ」
そう言って再びタブレットを操作する裕子。表示されたそれもまたスペイン語でスペインメディアがミカエルにインタビューした時のものだ。
「『”ゾディアック”は全員注目しているが特にロナウドにマルコ。そしてつい先日A代表に初召集されたシュウスケ・ヤナギには強いライバル心がある』……」
「名前が挙がった全員、”ゾディアック”のドリブラータイプですね。ミカエル君もそうですけど。
彼は自分と同タイプの選手──ドリブラーに異様な執着と敵愾心を抱くっていう記事を見たことがありますけど、これを見る限り本当っぽいですねー」
裕子が呟いたその時だ。わっと観客席が湧く。
ピッチを指差してるサポーターのを見て、その先を見れば、両チームの選手がピッチにやってきて試合前の練習を開始する。
「彼の試合やプレイ動画を見た限り、私としては鷲介と大差ないと思っているけど裕子はどう思う?」
「うーん、残念ですけどやっぱりミカエル君の方が上ですね。総合力としては大差ないと思いますけどドリブルに必要なスキルが全て世界トップクラスですからね彼は。ドリブラーとして評価するならたぶん世界でも10指に入るんじゃないでしょうか」
中学、高校共に女子サッカー部に所属していた裕子の言葉を聞き、かすみは件のミカエルに視線を向ける。
記録通り身長は高くない。170センチというサッカー選手にしては小柄と言うべき体だ。顔つきも幼さがの色が濃く残っており一見普通の高校生──いや中学生にも見える。
だが年下と感じるのはそれだけだ。選手としての動きやボールさばきは両チームの中でずば抜けて上手くとても十代の少年のものではない。
そして何より年齢にそぐわないのは彼の目だ。強烈な自負が込められたその瞳は常にぎらぎらと輝いており、まるで抜身の刃物のような印象さえ感じとれてしまう。さながら獲物と闘争に飢えた若獅子とでもいうべきか。
「日本代表は彼を止めるのは……厳しいかしら」
「一人では至難、二人がかりでようやく止められるってところでしょうか。もっともペドロ選手たちの協力があればそれ以上の脅威になるでしょうけど」
練習中の合間に幾度となく鷲介の背中へ視線を送るミカエルを見て、思わずかすみは喉を鳴らすのだった。
◆◆◆◆◆
「ミカエル? 何をしている。ロッカールームに戻るぞ」
試合前のアップが終わりロッカールームへ引き返す中、ペドロは足を止めているミカエルに声をかける。
「……あ、すみませんペドロさん。すぐ行きます」
振り向き駆け寄ってくるミカエル。共に並んで入場ゲートに歩いていくが、その途中でもミカエルの視線は横──対戦相手の日本代表を見つめている。
いや、正確に言えば日本代表そのものではない。背番号17番、シュウスケ・ヤナギを見ているのだ。
「あーあ。せっかくこんな東洋の島国まで来たのに一番の楽しみがベンチとか。やる気がなくなるなぁ」
廊下に入り不満アリアリの声を出すミカエル。彼が言っているのはシュウスケ・ヤナギがスタメンではないことだ。
「大体おかしいですよ日本の監督は。なんでヤナギがスタメンじゃないんですかね。あいつがチームの中でずば抜けているってのは素人でもわかる事でしょう」
「確かにその通りだが彼はまだプロになって一年弱、代表デビューしたのは三ヶ月も経っていない。さすがにいきなり自国のフル代表のスタメンとすることはできなかったんだろう」
あと今まで起用してきた選手を慮るのもあるだろうが、と心中で付け加えるペドロ。
しかしアルゼンチンの天才は吐き捨てるように言う。
「関係ないですよ。時間も経験も。強い奴は強くて弱い奴は弱い。できる奴はできてできない奴はできない。
ヤナギはこのオレと仮にも同格とみなされている奴です。W杯で片手で数える数度しか決勝トーナメントに行ったことがない、グループリーグ敗退常連の弱小国に突然変異で誕生した怪物だってのに」
怪物という言葉にペドロは無言で、しかし小さく頷く。まだ足りない部分はあれどあのスピードとドリブルは世界のサッカーレベルに照らし合わせても十分通用する。
いや、彼の使い方と状況によっては格上であるチームさえも敗北させるだけのものだろう。ミカエルと並び称される理由は十分に分かる。
「普通に代表に名を連ねるだけの雑魚共とは違う、オレと同じ世界のサッカー界の歴史を変える可能性を秘めた奴なのに。それを凡人の尺度で測っているんでしょうか。
オレのようにさっさとチームの中心選手にすれば強くなるってのに、日本の監督は馬鹿ですか」
「おい、誰が雑魚だって?」
ロッカールームに入ったペドロたち──いやミカエルへそう凄んでくるのはアンヘル・ルジ。近年の代表メンバーの常連だ。
「偉そうなことをべらべら喋っていたが何自分が代表の中心のように思っていやがる。お前だって初召集されたのは昨年の秋、そして招集されるのは二度目だろうが。
実力は認めてやるがオルテガさんがいる以上お前が中心になることはありえないんだよ」
今回招集されなかった──というよりもサッカー協会がしなかった──代表の絶対的エースを口にしてふんぞり返るルジ。そんな彼をミカエルは刃物のような鋭い双眸で見つめ、言う。
「それが凡人の尺度だって言ってるんだよルジ。オルテガさんは凄いがオレがあの人を超え代表のエースになるのは時間の問題──まぁおそらくは次のW杯だ。
それとなれるなれないじゃない。──なるんだよ、オレは」
傲岸不遜に言い放つミカエル。そして彼は190近い長身のルジを見上げ、しかし視線は下に──見下すような目つきで彼を見て、言う。
「あの人がいる限りオレが中心になることはありえない? そんなメディアやサポーターと同じ考えに捕らわれているからお前は代表のベンチ要員なんだよルジ。
今回招集された若手や二軍メンバーで構成されたチームでもベンチとはな。まぁ雑魚らしいポジションだけどな」
「テメェ!」
顔を真っ赤にして掴みかかってくるルジ。しかしミカエルは軽快な動きでそれをかわし、腰を低くする。
「やめろ! 試合前だぞ!」
互いの目つきに殺気が宿ったのを見たペドロはすぐさま両者の間に割って入る。そしてそれに周囲のメンバーが続き、二人を接触不可能な距離まで離す。
「ミカエル、口が過ぎるぞ! サッカーはスタメンとサブ両方が揃って一つのチームだ。どちらかが上と比べるのは不毛なことだ!
ルジに謝るんだ!」
「……はーい。──すみませんでしたルジさん」
ペドロの叱責にミカエルは不満顔を浮かべるもそれをすぐに消し、チームメイトに体を押さえられているルジへ頭を下げる。
しかしルジの怒りの気配はあまり弱くならない。何故なら言葉は棒読みな上、態度からは微塵も反省の気配がないからだ。
とはいえ形だけとはいえ謝罪されたルジは試合前と言う事もあってか小さく鼻を鳴らし、ミカエルから離れた場所へ移動する。
(まったく。ミカエルの奴は……)
監督のゲームプランの説明が始まりそれを聞く中、小さく息をつくペドロ。ミカエルとペドロは幼馴染であり、彼にサッカーを教えたのもペドロだ。
最初の頃は素直で可愛かったのだが実力がつくにつれて増長し、今ではこれである。もっとも普段から誰に対しても俺様と言うわけではない。相手──自分よりも明らかな強者や敬意を抱ける方たちへの態度や口調はまともなではある。それ以外の態度が今のように酷いのだが。
「ご苦労さん」
「ありがとう。ダミアン」
Jリーグで活躍する顔なじみに慰められ、試合前に感じた精神的疲労が少しだけ回復するペドロだった。
◆◆◆◆◆
「さーてと、どんな試合になるかなー」
隣で小さく中神が呟くのを聞きながら、鷲介は主審による試合開始のホィッスルが吹かれ、日本ボールでゲームが始まるのを見る。
ボールを回すポゼッションサッカーで攻め込む日本に対し、アルゼンチンは最初一定の距離を保ちながら選手たちは動き、守備陣形を構築、変動している。
そしてボールや選手が一定以上の距離を超えるとすぐさま間合いを詰めてくる。複数ではなく一人だがその動きは速く、ディフェンスも上手く、そして荒い。
南米の選手たちは反則ギリギリの荒いプレイをすることが多いことで有名だ。そして南米有数の強国であるアルゼンチンもその例に漏れないようだ。
(ラモンの奴を思い出すぜ……)
昨季最終節に存分に味わったレヴィアー・ゲルセンキルヒェンのチリ代表の荒っぽいディフェンスを思い出す鷲介。眼前では体とボールの間にぶつかるように入ってきた選手にボール奪取されかけていた柿崎が、ギリギリのところでフォローに来た瀬川にボールを戻している。
ボールを収めた瀬川は前線へボールを蹴る。そのボールに堂本が走りDFと競り合い何とか落とす。やや乱れた軌道のそれに真っ先に駆け寄った九条がエリア外からミドルシュートを放つが、アルゼンチンDFが素早く前を塞いだためボールの軌道はゴールより大きく外れ、ゴールポスト頭上を越えてしまう。
ぱちぱちと拍手する日本代表サポーターを見て、鷲介は思わず半目となる。攻めて枠内に飛ばしてから拍手しろよ、と心中で思いながら。
試合が開始され五分が経過し、ようやくアルゼンチンの攻撃だ。GKからのロングキックを井口とファブリシオが競り合いボールがこぼれる。それを高城が拾おうとする前にティトが足元に収める。
「気をつけろ! そいつのドリブルは厄介だぞ」
先日対戦した経験がある直康が叫ぶと同時、ティトはドリブルで前に出る。小刻みに足とボールを動かし高城を翻弄した彼は左を突破する。だがそこへ田仲が間髪入れずボールを奪いにやってくる。田仲特有のポジショニングを見極めたインターセプトだ。
しかしティトは間一髪左サイド──日本の右サイドに上がってきた味方へボールを渡すとゴールへ向かって行く。サイドを走るアルゼンチンの選手に秋葉が距離を詰めていくが、彼は左右に体を振って秋葉のマークからわずかに外れた一瞬、左足でセンタリングを上げる。
ゴール前に上がったボールに川上とファブリシオが走りこむ。早かったのは川上だがリスク回避を最優先としたのか、パンチングでボールを弾き飛ばす。
日本陣内の左サイドへ飛んだボール。しかしボールはペドロが拾いラインを割らない。そしてペドロはすぐさまパスを出す。
「!」
日本のペナルティエリア近くに出たペドロのボールに走っていくのはミカエルだ。彼は直康が来ているにもかかわらずそのボールをダイレクトでシュートを放つ。
きき足の左足で蹴ったボールは弧を描いて日本ゴールの右に向かうが、曲りが足りなかったのかポストに当たりゴールラインを割る。
「やるなーミカエルの奴。シュートスピードこそなかったけどゴールの隅を狙ったコントロールシュート。あと数センチ右に曲がっていれば入ってたな」
頷く鷲介。ペドロのパスは決して遅くはなかった。それをダイレクトで合わせしかもゴールの隅を狙うとは。
川上から繫ぎ小野にボールが渡る。彼からのコーチングでボールを回し前に出る日本代表だが、その攻撃を悠々と待ち構え、時には猟犬のように襲いかかるアルゼンチンの守備に日本代表は攻めあぐねている。
それを指揮しているのはソルヴィアート鹿嶋所属のダミアンと、Aマドリーのペドロだ。
「ダミアンさんはともかくペドロさんもさすがだなー。”バランサー”なんで言われるだけのことはあるよ」
「そうだな」
中神の言葉を肯定し、鷲介は改めてペドロへ目を向ける。”バランサー”とはペドロの字であり名の通りバランスを取る人を意味する。
攻撃に傾倒しがちな南米でも特にアルゼンチンは攻撃や攻撃的選手に力を入れている。その数だけを言うならばブラジルと並び世界でも一、二を争うと言ってもよく、CBにSBさえも攻撃に傾倒しがちだ。
そんなアルゼンチンの中で異質ともいえるのがペドロだ。彼は攻守にわたりバランスのとれたオールラウンダーでチームや味方が攻撃に注力しすぎてバランスが崩れないよう自ら動き、そして味方へコーチングをしてチーム全体をコントロールしている。それ故に影の司令塔、チームコンダクターなどとも呼ばれていたりもする。
そのペドロが操っているアルゼンチンを日本代表は、小野は何とか切り崩そうとする。だが彼から生まれた、作ったチャンスもペドロの指揮とアルゼンチンの守備の前に実を結ぶ前に摘まれてしまっていた。
「くっそー、ダミアンさん。それに追いつくか―!」
小野のスルーパスをスラィディングでカットしたダミアンを見て中神が唸る。
Jリーグで活躍するダミアンだが、その動きは国内や欧州で活躍する他の選手たちに比べて遜色ないどころか際立っている。最初見た時も思ったがやはり厄介な相手のようだ。
そして攻撃では徐々にアルゼンチンの動きや反応が早く、鋭くなっていく。前半十五分から二十五分の十分間の間に四度ゴールに迫られ三回のシュート──うち二回は枠内──を撃たれる。
攻められはじめた日本は井口を中心して陣形を築き守る。だが僅かな綻びをペドロは見逃さず味方へパスを供給し、日本の守りを揺るがし、穴をいくつも作っていく。
そして迎えた前半三十分、九条からボール奪取したダミアンが前方へロングパス。日本の左サイドにいたペドロは難なくそれを収め中央にパス。それをミカエルが受け取る。
ペナルティアーク正面にいるミカエルはゴールに背を向けており井口と秋葉の二人が後ろにいる。だが彼は振り向くとドリブルを開始する。
(いくら何でも流石に無謀だ)
井口たちとの距離は一メートルもない。また井口たちはお互いがベストな距離感を保っており、どちらかが突破されてもすぐにフォローに行ける状態だ。また川上も先程のミドルが頭にあるのか前に出ている。
あの状態では鷲介でもシュートまでは行けるだろうがゴールするのは厳しい。そう鷲介が思うのと同時、ミカエルは左に動き秋葉もそちらへ体を寄せる。
奪われる。そう鷲介が思ったその時だ。ミカエルは何の前触れも見せずいきなり体を右へ水平に動かし、秋葉を突破。井口が体を寄せるがそれに全く堪えた様子もなくペナルティエリアに侵入すると同時にシュート。振り切った左足から放たれたボールは日本ゴールネットを揺らした。
「な!?」
「うぇ!?」
中神と同時に驚愕する鷲介。そしてゴールを決めたミカエルは数少ないサポーターの前に行くと両手を大きく広げる。ミカエルがゴールを決めた時に見せるパフォーマンスだ。
わずかなアルゼンチンサポーターは母国の麒麟児のパフォーマンスに狂喜し、彼の名前と故国の名前を連呼する。
「今のは……」
「動きからするにたぶんダブルタッチだね。でも何だよ、あの滑らかすぎる動きは……」
中神の言うとおりミカエルのダブルタッチは滑らかすぎる──あまりに自然ともいえるものだった。
フェイントを仕掛けるときは誰しも多少は体に前触れがあるものだが、それが全くなかった。いや皆無であるはずはないがそれを鷲介と中神、そして対峙した秋葉たちは感じ取れなかったのだろう。
(俺のとはまるで違う……)
アジリティに任せた鷲介のダブルタッチはミカエルのそれよりも速いが、フェイントをかける前兆がわかりやすいと以前ブルーノから指摘されたことがある。そして合宿中にやったダブルタッチは突破こそできたものの、井口たちはすぐさま反応、反転してきた。
だがミカエルのダブルタッチはそれがなかった。それだけでミカエルのボールを扱う技術が鷲介より確実に上だという証明だ。
ミカエルの衝撃的ゴールで先制したアルゼンチンは前に出て攻勢を強めていく。そして先制された日本は動揺があるのかボール回しが消極的であり、逃げ腰だ。
「うわっ! 何でそこでカットされる!」
中神の言うとおりインターセプトされた場所が悪すぎる。日本陣内中央にいた高城から右サイドに出したボールを下がってきたティトが奪取してしまう。
その直後、前線にいたアルゼンチンの選手たちが猟犬の如く動き出す。あるものはティトへボールを要求し、また別の選手は日本ゴールに向かって走り出す。その動きにさらに日本が動揺し守備陣形が大きく揺らぎ乱れる。
ボールを奪ったティトは一番近くに寄ってきたペドロにボールを出す──素振りを一瞬見せると前を向き、上がっていく選手へパスを出す。左サイドを走るその選手は日本の動揺が収まる間を与えずすぐさま逆サイドへボールを蹴る。
斜め右に飛びだしたボールにミカエルが駆け寄っていく。しかし直康も距離を詰めており両者のスピードから換算するとボールに追いつくのはおそらくほぼ同時。
「大文字、奪いにいかなくていい! 守備が固まるまで時間を稼ぐんだ!」
監督の指示が飛び、走っていた直康のスピードが落ちる。そしてミカエルはボールを収め、直康と対峙する。
両者が睨みあったのは一瞬、ミカエルは右サイドを駆けあがり、直康もそれについていく。鷲介が思った通り二人の速度に大差はない。
隙があれば中に切れ込もうとするミカエルに対し直康はポジショニングを修正しながら一定の距離を保つ。そして二人が右サイドのコーナフラッグの近くまで来たときミカエルは左──日本ゴール方向に反転し、突撃する。
「飛び込むな!」
監督の指示通りゴールへドリブルを始めたミカエルにやはり直康は飛び込まず一定の距離を保ちながら下がる。そして彼の元へようやく味方──瀬川が駆けつける。
だがその時、ミカエルはさらに前に出る。そしてそれは直康の間合いを侵食しており、直康は動かざるを得なくなる。
「直康さん!」
鷲介が声を上げて十秒の間にそれは行われた。動いた直康をミカエルはマシューズフェイントで惑わし左から突破、直後距離を詰めた瀬川をダブルタッチでかわしてペナルティエリアへ侵入するとシュートを放つ。
ミカエルが放った低空のシュートは立ちはだかった井口の股を抜き、再び日本ゴールに白と黒の球体が突き刺さった。
「……!」
再びサポーターの元へ行くミカエルを鷲介は驚愕の眼差しを向ける。マシューズフェイントとダブルタッチの連続フェイント。その少しの綻びも見えない見事な連動に声もない。
「おいおい、今までの大人しさはどこ行ったんだよ」
中神も頬をひくつかせてミカエルを見つめている。
ミカエルの立て続けの得点に日本は動揺を抑えきれない。小野や井口、堂本たちが檄を飛ばすも動揺する彼らのメンタルが動きに如実に表れてしまう。
そして前半ロスタイムに入った直後だ。小野からのボールを敵陣センターサークルで受けた柿崎がトラップミスをしてしまい、それを敵に奪われてしまう。
何としても三失点を防ごうと動く日本。だが水色と白のイレブンは敵陣へ疾走、また早く細かいボール回しで日本の守りを翻弄。あっという間に日本のピッチ深くに攻め込む。
「ミカエル・レオンへのマークは絶対はずすな!」
怒鳴り声まじりの監督の指示が飛ぶ。今日2ゴールのミカエルは直康がマークに、そして近くに瀬川がいる。
日本陣内の左サイドへボールを受け取ったペドロ。彼は迫る高城を味方とのワンツーでかわし中央へ移動、日本ゴールに向かう。前に出たペドロに日本サポーターから悲鳴が上がり、アルゼンチンサポーターの応援の熱が再び高まる。
下がってきたファブリシオへパスを出すペドロ。井口が距離を詰めに行くがファブリシオはペドロのパスをスルーしてしまう。驚く井口の左を通過し、ペナルティエリアに転がったボールに飛び込んできたのは先程エリア外にいたミカエルだ。
「何としても守れ―!」
大きく右足を振りかぶるミカエルの正面に間一髪、直康が回り込む。
だが安堵したのは一瞬だった。ミカエルの右足はシュートではなくパスを選択。ペナルティエリア左を転がるボールへミカエルと同じく外に開いていたティトが猛スピードで駆け寄りダイレクトシュート。
ミカエルに気を取られすぎていた川上はそれに全く反応できず、ボールは三度日本ゴールに叩き込まれた。