プロは厳しい
「空が青いなー……」
そよそよと風が吹く、公園のベンチに背を預けながら鷲介は呟く。9月中旬の今日、ここミュンヘンにはまだ夏の暑さが残っており着ている服も半袖だ。
ぼんやりと空を眺め、口を開けている鷲介。その口にいきなりホットドッグが突っ込まれた。
「ほが!?」
「せっかくのデートなのになーに黄昏てるの。私といるのはそんなに退屈なのかな~鷲くん」
そう言って鷲介の口に入ったホットドッグから手を離したのは、長い烏の濡羽色の髪を腰まで伸ばしたした少女だ。
彼女は日和田由綺。ギムナジウム──日本における中高一貫校に近い教育機関──に通う学生だ。
鷲介とは小3からの付き合いで鷲介がドイツに移住した一年後、医者である父親の仕事の都合で鷲介と同じくドイツのミュンヘンに移住、再会した。そして色々あった結果、恋人と言う関係になっている。
「別にそんなことはねーって。ただ休日にのんびりと空を眺めていただけだろ」
「そうですか。さすがプロのサッカー選手はお疲れですね~。昨日もチームはしっかり勝って開幕からの五連勝をキープしたもんね。──鷲くんは出なかったけど」
「ぐっ」
「リーグ戦出場は三戦目まで。その後、CLを含めた四戦連続出番なし。柳選手、今の気分はどうですか?」
「最悪だよ!」
マイクよろしくホットドックを突き付けてくる由綺に鷲介は怒鳴る。しかし彼女は全く悪びれた様子もなく隣に座り、ホットドッグをかじる。
「そんなにがっくりこなくてもいいと思うけどなぁ。ロート・バイエルンでスタメンを張るのが並大抵じゃないことぐらいわかってたことでしょ?」
「まぁそうだけどよ。スレイマニさんを見ていると、な」
四戦連続ベンチとなった鷲介の代わりに出場しているのはセルビア代表のドラガン・スレイマニだ。チーム随一のテクニシャンでありドリブラーだ。そもそも鷲介がリーグ開幕戦を含めスタメン出場できた二戦は彼が昨季末、負傷したことが大きい。
二戦目は3-1、三戦目は2-0と勝ってはいるものの鷲介個人の内容は決してよくはない。体のキレは悪くなくドリブル、スピードは通用はしてはいる。だがそれ以外の点が未熟なためか幾度となくチャンスを潰し、またそれによってチームにカウンターの危機に陥らせたこともあった。
一方スレイマニが復帰した後はどの試合も三点以上の得点を重ねており内容もとてもよかった。彼自身のプレイ内容も怪我から復帰したばかりだというのに文句のつけようがない。
「ただただベンチで試合を眺める。ユースに入ってすぐに味わった苦行だが久しぶりに、それもトップ昇格直後にくらうとまた格別に効くぜ」
「じゃあどうするの? 早速冬に移籍する?」
「馬鹿言うな」
全く戦力として見られていないのであればそれも選択しなければならないが、ベンチにいた試合の中、監督からアップを始めるよう声を掛けられている。戦力として見られている以上そう易々と移籍することなできるはずもない。
それに鷲介はあの赤いユニフォームを着てサッカーがしたいのだ。試合に出れるならどこでもいいというわけではない。
「じゃあしばらく我慢しつつ、いつでも試合に出れるよう準備をしておかないとね」
そう言ってホットドッグを食べ終えた由綺は口を拭くと、鷲介の腕に抱き着いてくる。間近で感じられる甘い匂いと体──というかFカップの豊かな胸の感触に鷲介ドキマギし、
「お、おい。近いって」
「そうだね。キスできるぐらいに近いね」
表情をひくつかせる鷲介とは対照的に彼女は全く動じた様子を見せずさらに身を寄せてくる。艶やかな唇が視界に映り、さらに心音が高くなる。
「ひ、日和田。その、なんだ、当たってるぞ」
「当たってるんじゃなくて当ててるんだよ。あと日和田じゃなくて由綺、でしょ」
動揺して苗字で呼べばむっとする由綺。鷲介は慌てて名前で呼び直すと彼女は笑顔を浮かべて、
「で、どうですかなFカップおっぱいの感触は?」
「お、おおおおまっ。そ、そういうことを平然口に出すんじゃない!」
「失礼だね、鷲くんだから口にしてるんだよ? 他の人の前じゃあ絶対に口にしないよ。好きな人の──鷲くんの前だから言うの」
にっこりと笑顔を浮かべて由綺は言い、さらに体を押し付けてくる。
さらに顔が熱くなる鷲介。ふと視界に入ったホットドッグ屋の店主。彼は生暖かい視線を向けてサムズアップしてくる。
はっとして周囲を見渡せば彼と同じようにニコニコ、にやにやと言った笑みを浮かべている者たちがちらほらいる。
「と、とにかく離れてくれ。こ、こういうことはだな、そう、人のいないところでやるからいいのであって恋人と言う関係だとしてもそう易々とやるべきではなくいや俺としてはやってもいいんだがそのFカップおっぱいを楽しむのはやはり人前では抵抗があるというか」
ストーブよろしく過熱する鷲介の頭。その時、強い風が吹き鷲介の頭に紙切れ──否、新聞が飛んでくる。
「ねぇ鷲くん。鷲くんはこれに出ないの?」
鷲介の頭から新聞を取った由綺が、一面を見せる。そこには10月、フランスにてU-17ワールドカップが開始されること、そしてそれに参加するドイツ代表メンバーの記事が載っている。
「U-17ワールドカップか。日本から話は来てないな。それに俺は予選も参加しなかったからな」
U-17ワールドカップの予選であるAFC U-16選手権に鷲介は参加しなかった。いや、正確に言えば参加できなかったのだ。
日本サッカー協会から招集されてはいたがその直前のリーグ戦で怪我をしてしまい、辞退したのだ。
「ま、日本にはテツや、かの天才中神君がいるから別に問題ないだろ。決勝トーナメントぐらいには行くんじゃないのか?」
「あれ、知らないの? 中神君は参加しないよ。Jリーグの試合で怪我したから」
「え、マジ? そっか、大変だな」
鷲介が軽く返すと、由綺はやや沈黙してから、問う。
「鷲くんは出たくないの? U-17ワールドカップに」
「興味が無いと言えば嘘になるけど、そこまではな。それに隆俊も選出されなかったし」
代表候補に残った幼馴染の名を口にする鷲介。
「それにドイツユースリーグ、欧州ユースリーグでほとんど無敵状態だった俺が今更U-17の大会に出る意味もあまりないだろ。それよりもロート・バイエルンで試合に出る方がよっぽど大事だ」
鷲介はそう言い切ると新聞紙を適当に丸めて、近くのゴミ箱に放る。
弧を描いでゴミ箱に向かう紙屑。しかし入ろうとした瞬間、再び風が吹き紙屑は横にそれ地面に転がる。
「……」
鷲介は何だかやるせない気持ちになり、立ち上がると紙くずを拾い、ゴミ箱に入れた。
◆◆◆◆◆
緑のフィールドをボールが走る。さながら草原を疾走する狼のように速い強いパスが鷲介の足元へ収まる。
「っと……」
この速いパス回しに慣れてきたとはいえ、完全とは言えない。トップチームに上がってから一番強く実感するのはRバイエルンの皆は基礎のレベルが非常に高いことだ。
ボールを蹴る。止める。サッカーの基礎中の基礎だがその一つ一つが正確な上速い。Rバイエルンユースでは技術では三番手だった鷲介だが、トップチームではせいぜい普通レベルだ。
トラップしてすぐさまゴールへ向くが、その前に立ちふさがるのは褐色の肌をもつ男性だ。こちらをみてニヤニヤとバカにするような笑みを浮かべつつも瞳は真剣で、隙がない。
「ホラ、ボーっとしてるんじゃねぇぞ」
そう言って男性──ブルーノ・レブロンが距離を詰めてくる。鷲介は即座に右へかわすがそれを予期していたのか、彼は鷲介が加速する前に体を当ててくる。
(くっ……!)
ぐぐぐと押される鷲介。DF陣の中では屈強と言うほどの体はしていないブルーノだが、体の当て方や動きを阻害する技術には長けている。
奪われる寸前半歩後退して何とかボールをキープ、パスを要求してきた同じチームのメンバーへボールを渡すと、すぐさまゴール前に走る。
Rバイエルンほどのクラブともなればレギュラーとサブの実力に大きな差はない。サブ組はやや手間取りつつもボールをキープしながらゴール前へ運ぶ。
そしてサブ組の動きでレギュラーメンバーの守備陣が乱れ、できたスペースへ鷲介は走り込む。そこへグラウンダーのセンタリングが放り込まれ、鷲介はダイレクトで合わせようと右足を振りかぶるが、
「させねーよ!」
シュートする寸前で再びブルーノが接触してきた。それに耐えて強引にシュートしようとするが相手は流石の百戦錬磨。鷲介のバランスを崩してボールを奪取してしまう。
「まだまだだなぁ」
奪ったボールを他の選手へパスしたブルーノがほくそ笑みながらピッチに転んだ鷲介へ手を指し伸ばす。鷲介はその顔にいらっとしながらも「どうも」と短く礼を言う。
どういうわけか知らないがこの男ブルーノはやけに鷲介に絡んでくるのだ。こうして練習中の紅白戦──対峙するポジションが近いとはいえ──はもちろん、ランニングや基礎練、ミーティング中でも近くに座ったりしてくる。
とはいえその行動からは悪意と言ったものは感じられない。好意とからかいが入り混じったもののようだ。だが鷲介としては彼のことはあまり好きではない。なんとなくだが半人前扱いされているような気分になるからだ。
「鷲介、監督が呼んでいる。着替えたら部屋に来てくれとのことだ」
練習が終わりロッカールームへ引き上げようとしたところで鷲介はアシスタントコーチにそう言われる。
ジークやブルーノらと会話を交わしながらシャワーを浴び着替え、監督室へ赴く。
「失礼します。監督、話ってなんですか」
監督室のデスクに座っている初老へ鷲介は声をかける。白髪と金髪が入り混じった彼はトーマス・シュトルム。ロート・バイエルンの監督だ。
「今日の昼、日本サッカー協会からこれが届いた。見なさい」
唐突に彼はそう言って一通の封筒を机に置く。封が明けられたそれの中身は日本サッカー協会から鷲介へのU-17ワールドカップの招集状だ。
「ずいぶん唐突ですね。もうとっくにメンバーは選出されたと思っていました」
「いい機会だ鷲介、ぜひ参加しなさい」
トーマスの言葉に鷲介は沈黙。わずかにまなじりを下げて口を開く。
「……監督、正直に言わせてもらえばあんまりモチベーションが上がらないんです。
もちろんU-17とはいえ代表に選ばれたことは嬉しいです。俺の目標の一つが日本代表になる事ですから。
でも今はRバイエルンを優先したいって気持ちが強いんです。招集辞退、できませんか」
かつてと違い今ではU-17、19でも招集されれば基本参加せざるを得ない。しかし相応の理由があれば事態はできる。
つまり何かしらの理由をでっち上げるからそれを日本サッカー協会に伝えてほしいと言う事だ。
正直選手として言ってはいけない言葉だが、かつての間柄のためか、そんな愚痴にも近い弱音が鷲介の口からこぼれたのだ。
言った瞬間鷲介も「ああ、これは軽く説教来るなー」と思ったが、トーマスは「ふむ」と頷いて椅子に背を預けると、予想とは違う温かく落ち着いた声で言う。
「君の気持はわからんでもない。だがこの経験は必ず君の糧になる。
代表と言う立場でサッカーをすることの意味を少しは感じ取れるだろうし、そして何よりまだ見ぬ世界のライバルや将来のA代表のメンバーになるかもしれない仲間と出会うかもしれない。
たった一月の大会だが、それらはこのままサブとしてRバイエルンのベンチでくすぶっていては決して得られないものだ。参加する価値は間違いなくある」
「……俺はサブですか。相変わらずトーマスさんははっきり言いますなぁ」
ため息まじりに鷲介が言うとトーマスは柔和な笑みを浮かべる。
「言うべきことははっきり言う。たとえそれがどんなことでもだ。それが私のポリシーだと言う事は君もよく知っているだろう?」
「そりゃーまぁ。あなたがRバイエルンユースのコーチ時代に散々ずけずけと言われまくりましたからね。──まぁそのおかげで成長して今トップチームにいられるわけですが」
元ドイツ代表FWであり現Rバイエルンの監督であるトーマスだがコーチの資格も持っており、鷲介がRバイエルンユースに入った当初、彼からの指導を受けたのだ。
そしてその教えは鷲介のサッカーに強く根付いており、根幹をなしていると言ってもいい。
鷲介は一度目を閉じ、思う。自分のこと、U-17のこと、Rバイエルンのこと、師の言葉を。
十数秒後、視界を開き、小さく息を吐いて、鷲介は言う。
「では我が恩師の言葉と俺の心に従い、フランスに行ってきます。ガンガンゴールを決めてきますよ」
バイエルンへの未練は多分にあったが初めての──ユース年代とはいえ──代表としての試合への高揚感と師の言葉が、そして何より試合に出たいという欲求がそれをわずかに押し切った。
「うむ。活躍を期待しいているよ。──まぁ君がチームを離れるのは大一番のあとだが」
「大一番?」
「おやおや、我がRバイエルンの次節の相手がどこだが忘れてしまったのかい?」
そう言われて鷲介は首を傾げ、しかしすぐハッとする。
次節ドイツリーグ第六節の相手、それはRバイエルンと同じ五連勝しているチームであり、リーグやカップ戦における最大のライバル。レヴィアー・ドルトムントだった。