悩むベテラン
「──捻挫。早くて十日。大事を取れば二週間と言ったところだね」
診察室でカルテを書きながらそう言うのは眼鏡をかけた痩せた中年男性だ。年齢は四十代だが医者らしく相応に苦労しているのか、黒い髪には幾分か白髪が混じって見えている。
彼は日和田昭雄。今鷲介たちがいる病院の医者であり、苗字の通り由綺の父親だ。
ハンブルク・フェアアインのチームドクターと同じ診察結果を聞いて鷲介は小さく、そして後ろにいる直康が大きく安堵の息を吐く。
「柳君、君が若いと言う事と相応に体がしっかりしていたこと、そして体が自然と衝撃を逃がすよう動いたこともあるんだろう。以前の怪我でも同様の理由で長期離脱にはならなかったからね」
「今週の試合は欠場。状態によっては来週もですか」
「万全を期すならばあと一週間は加えて診ておきたいのが医者としては本音だよ。
特に捻挫は癖になる可能性もある。出来る限り早く復帰できないかと言われたから答えたがね」
ぼやくように鷲介が言うと昭雄はじろりと半目を向けてくる。それを見思わず「は、はい」とかしこまった返事を返す。
(相変わらず怖いな)
昔はもうちょっと温厚なように思えたが、ここ最近──というか由綺と付き合い始めてから少し態度がきつくなったように感じるのだ。由綺は気のせいじゃないかと言ってはいたが──。
「とにかく、少しでも早く治りたいのであれば私の処置をしっかり行いチームドクターにもこまめに診てもらいなさい」
そう言って昭雄はテーピングを初めてとした処置が書かれた紙を手渡してくる。鷲介たちは礼を言って頭を下げ、診察室を後にしようとした時、昭雄が言う。
「ああそれと、由綺に一言経過を伝えておきなさい。心配していたからね」
「はぁ……」
思わず生返事をする鷲介。チームドクターからの診察結果を伝えた時、彼女はいつもの調子で「しっかり治してね」と言っていた。
心配というほど気にしているようには思えなかったのだが。そう思ったこちらの心情を読んだかのように昭雄の表情が平坦なものになり、鷲介は「わ、わかりました」と慌てて返事を返し、部屋を後にした。
「まぁなんだ。色々と大変だなお前」
「恋人の父親って皆、ああなんですかね……」
思わずぼやく鷲介の肩を直康が微苦笑し、励ますように叩く。いくらかこちらの苦労を知っているような顔だ。
「ま、とにかく大事じゃなくてよかったな」
「試合中結構動けていたからそこまでのものじゃないとは思っていましたけどね。腫れもないし激しく動かなければ痛みもそこまで酷くありませんから」
「素人の判断は危険だぞ。試合に集中していて痛みが感じず、試合後重症と判明した話はいくらでも聞くからな。しっかりと守ってくれている両クラブに感謝しておけよ」
病院の廊下を歩きながら話す二人。ヴァイス・ツィーゲKの試合の翌日である今日、何故わざわざ鷲介がロート・バイエルンの専属医の一人である昭雄が働いているミュンヘンの病院にやってきたのか。
それは直康が言った通り両クラブが鷲介がレンタル移籍時に交わした契約によるものだ。レンタル中もし何かしらの負傷があった場合、必ずRバイエルンに連絡し、また専属医の誰かに状態を確認させるという──。
「直康さんもわざわざすいませんね。つき合わせちゃって」
「気にするな。俺自身もお前の怪我は気にはなるし監督からも付き添うよう言われた。何よりマルクスさんから時間がある限り面倒を見てくれと頼まれているからな」
鷲介の代理人であるマルクスは欧州にいる日本人選手と多く契約しており、直康もその一人だ。
「ところで予定通りハンブルクに帰っていいのか。家に寄ったりはしないのか」
「いやー、この程度の怪我で帰るのもですね。飛行機のチケットももったいないし、家に帰って異母妹が見たら大騒ぎしたあげく泣き出すかも知れませんからね」
今日の朝怪我について電話したとき聞いたのだが、昨日の試合で鷲介が倒れたのを見てリーザは大騒ぎし、泣き出してしまったのだと言う。
そして今日電話をしたときも「だいじょうぶ? いたくない? いたいいたいする?」と繰り返し訪ね、心配する継母に似た反応だった。
鷲介個人としては家に帰って心配している両親や可愛い異母妹に会いたくはあるが、プロとしての立場で考えるとそれよりも一日、一秒でも早く治すためハンブルクFの寮に帰って安静にするべきだと思うのだ。
「大文字さん? どうしたんですか」
「なぁ、あそこにいるのってセザルさんと監督じゃないのか」
「え? ……そういえば似ているような」
タクシー乗り場に向かう最中、似たような後姿を見る。
声をかけるべきか考えているとこちらの声が聞こえたのか、松葉杖をついている男性とその隣にいる人が鷲介たちの方へ振り替える。見えた顔は直康の予想通りの二人だった。
「よぉ直康。柳」
「おや二人とも。偶然だね。
いや、柳君はこの病院に来るはずだからそうでもないのか」
温和そうに微笑む監督。
「お二人とも、なぜここにいるんですか」
「そりゃあもちろん怪我の治療のために決まってるだろ。おかしなことを聞くな」
「大文字さんと俺が不思議に思うのはなんでわざわざミュンヘンまで来ているかってことですよ」
鷲介がそう言うとセザルが口を開く前に監督が言う。なんでも知り合いの名医にセザルの脚を診てもらいに来たとのことだ。
「ところでその子は? 監督の孫ですか」
セザルの診察結果──鷲介と同じ捻挫。全治三週間──を聞いた後、鷲介は訊ねる。松葉杖をつくセザルの右側にリーザよりやや年上──小学生になるぐらいの少女がいるからだ。
「セザルさんの娘だ」
「ええっ!?? セザルさんの!? 嘘! 似てねぇ!」
「失礼だろバカ!」
直康の言葉に鷲介は思わず声を上げ、直後直康に頭をはたかれる。
しかしそう思ってしまうのは無理もない。褐色でちぢれ毛なセザルと違い、その幼女は白い肌に金髪碧眼、腰まで伸びた髪はストレートと言う似た要素が全くないからだ。
頭を叩かれた鷲介も失言だったと思いセザルの怒鳴り声を警戒するが、当人は苦笑するだけだ。その様子から言われ慣れているようでそれ以上の反応は見せない。
だがほっとしたのはつかの間だった。幼女は眉を吊り上げこちらをきっと睨んでいる。どう見ても怒っている。
(まずい)
ぶわっと冷や汗をかく鷲介。優しく「ご、ごめんねー」と声をかけるが少女はぷいっと顔をそむけてしまう。
「ぐぬ……」
「あーあ、フランの機嫌を損ねちまったなぁ」
唸る鷲介を見て、セザルは愉快そうに笑い声を上げるのだった。
◆◆◆◆◆
「なぁ柳、ウーゴについてどう思うよ」
病院近くの喫茶店にて、セザルの左に座る彼の娘フランシスカがフォークでケーキを切り分け──というよりも解体しているようなカチャカチャが響く中、唐突にセザルが言う。
「ウーゴさんですか? どう、とはどういう意味ですか?」
「選手としてだ。率直に言ってくれ」
いつになく真面目なセザル。鷲介はここ最近の彼の試合中の姿を思い浮かべ、言う。
「……パスが上手く運動量が豊富。堅実かつ的確なプレーをする守備的選手でしょうか」
「お前の認識はいくらかは正しい。だが完全じゃない。──あいつはそれに加えて俺に似た攻撃性、積極性も持っている。FWばりに前に出てくることもあるしミドルシュートもよく撃つ」
「いや嘘でしょうそれ」
即座に返答する鷲介。ウーゴのポジションはDMFであり、中でもより守備的な選手だと言える。試合中は中盤の底、もしくはDFたちの位置を常に彷徨っておりインターセプトなどの守備方面に奔走している。
時々前線やサイド、セザルがいるトップ下へパスを出す時もあるが攻撃と言うよりも攻撃につなぐためのボールと言ったものがほとんどだ。ゴール前に来ることはあるがミドルを打っているところは一度もなく、CKの時でさえコーナー付近、もしくはカウンターに備えているのかペナルティエリア外に姿を見るのだ。セザルが言うような一面を持っているとは思えない。
鷲介の否定にセザルだけではなく彼の右に座る監督、さらに鷲介の左にいる直康も渋面となる。その反応に鷲介が不思議に思った時だ、セザルがややためらいがちに口を開く。
「柳、あいつがかつてハンブルクFにいたこと、そして今現在移籍したチームからレンタルで出戻ってきていることは知っているよな」
「一応は。その辺りの事情はまぁ色々と調べて知ってはいます」
そう言うとセザルはテーブルに置いてあるコーヒーに口をつける。
そしてカップを置き、小さく息をつくと口を開く。
「あいつは俺が言うのもなんだが、実力も才能もある奴だ。17でハンブルクFのトップチームデビューし、二年後にはA代表選出とデビューを果たした。
ハンブルクFでも結果を残し一年半前、ヴァレンティーアFCに移籍するぐらいだからな」
ヴァレンティーアFCとはスペインリーグの強豪チームの一つだ。常に中位、上位を定位置にしておりここ数年ではCLに幾度も出場している。
今季も確か例年通りリーグでは上位をキープ、一昨年出場したCLではグループリーグで敗退──レヴィア・ドルトムントと同じリーグだった──したものの最後まで突破を争っていた。
「だけど移籍したヴァレンティーアFCでは期待されていたほどの活躍はできずチームも成績不振。またシーズン途中で交代した監督と衝突した後の後半戦は常にベンチ、またはベンチ外の状態が続いたんですよね」
昨季のヴァレンティーアは当初こそ例年通り勝ち点を重ねており今年も上位、上手くいけば優勝争いにも絡む可能性すらあったのだと言う。
しかしシーズン途中で監督が突然の辞任。はっきりした理由こそ分からなかったが選手起用に関してクラブ幹部たちと揉めたのが有力とされている。
そして次の監督はレギュラーやメンバーを幾人か入れ替え、それにウーゴは含まれていた。突然の監督交代とメンバーの入れ替えに混乱したチームは調子と勝ち星を落とし続け、結果降格争いに加わりこそしなかったが12位と言う近年稀に見る低い成績となった。
「まぁな。──だがな、もう一度言うがな、あいつは実力も才能もある。本来の実力が出せていればヴァレンティーアでもレギュラーを獲得することは難しくはないし、ハンブルクFでも勝ち点を取りこぼすこともずっと減っていたはずだ」
何故か不機嫌そうな顔になったセザルの言葉に監督と、そして直康が同時に頷く。
「あいつが今のようになったのは慣れない異国のリーグでの過度のプレッシャーに加えて交代した監督と合わなかったことが原因だ。結果としてスランプ状態となり、それでも少しは取り戻してはいるが、本調子には程遠いのが現状だ」
「珍しい話ではないですね。移籍したチームで順応できない、またチームメイトや監督とそりが合わずスランプとなる。──それで、どうしてそんな話を俺に?」
ウーゴとは同時期にチームにやってきた関係と言う以外の接点はない。嫌いではないが好きではない、完全なビジネスパートナーというような間柄だ。
「いや何、あいつが立ち直るのに一役買ってもらいたくてな。日本人は義理と人情に厚いからな。協力してくれないか」
「……正直に言いますけど俺にそこまでの余裕はありませんよ。ウーゴさんの境遇には同情しますがさっき言った通りサッカー界では珍しくない話です」
鷲介は今年がプロ一年目でありその上ハンブルクFで相応の結果を残さなければならないのだ。残念ながら他人の面倒を見ている余裕はない。
「大体ウーゴさんと仲がいいのはセザルさんじゃないですか。あなたがすればいいのでは?」
「お前に言われるまでもなく色々と考えたに決まってるだろ。あいつは同じ国で生まれ同じクラブで育ちデビューした大事な大事な後輩だぞ。
昨日のヴァイス・ツィーゲKの試合前にも、本来のプレイをしてみろとは言った。だが試合の通りだ」
お手上げといった風に肩をすくめるセザル。確かに前節でも前に出てくることは殆どなく、シュートも0本だった。
「友人や監督から散々指摘されているのにプレイスタイルを戻さない。何か理由でもあるんですか」
「あいつがいうにはヴァレンティーアに戻った時のために今のプレイスタイルに磨きをかけたいからだと言っているが、それが嘘だってことぐらいは分かる」
「じゃあそれを──」
「追求しろって話になるよな。だができるかよ。似たようなことを一度言ったことはあるが、その時のあいつはいじめられて逃げ場を塞がれた子供みたいな顔になるんだぜ。
さすがの俺もそんな状態のウーゴを問い詰めるほど鬼にはなれねぇよ」
悩ましげに眉根をひそめるセザル。そんな彼を見たフランが「パパ大丈夫?」声をかけている。
「ヴァレンティーアの関係者から伝え聞いた話だが前監督から相当な目にあわされていたらしい。パワハラじみたことも言われていたとか。
逆に今季から指揮している新しい監督はウーゴを見込んでいて起用してくれてはいたんだけど、前監督からの横暴ともいえる指導に参ったメンタルは回復せずプレイスタイルも守備的に変質。前半戦はスタメン出場は結局0。途中出場が何度かあったという状態だった」
ウーゴの前半戦の状態を語る直康。
鷲介は注文したオレンジジュースの残りを飲み干し、訊ねる。
「なぜ俺なんですか。直康さんはもちろん、顔見知りは他にもいると思うんです。移籍してきたばかりの、しかもプロ一年目の若造に頼むようなことではないと思いますが」
「だからお前なんだよ。ウーゴの昔を知っている奴はもちろん、あいつを励ましていた。だが現状変化がない。
となると外部からやってきた事情を知らない、なおかつ若く勢いのある人間に任せてみようと思ったんだ」
「君をうちのチームに移籍させたのはそう言ったところを期待していた面もあるんだよ。トーマス氏からはいろいろ話を聞いていたし、あとウーゴだけじゃなく、ガブリエルのこともあったからね」
「それにお前が結果を残しRバイエルンに戻りたいのなら、ウーゴの奴を元に戻すのは間違いなく近道だぞ。本調子になったあいつと俺がいれば中位の相手にも簡単に負けはしない。
もちろん俺たちも今まで通り協力はする。だから出来うる範囲でいい。力になってくれないだろうか」
そう言ってセザル、そして監督が頭を下げる。さすがにこれを見て鷲介は目を丸くする。
一選手のためにチームの主力と監督がここまでする。それに驚き、しかし次第に納得もする。
セザル、そしてウーゼ監督もハンブルクFでプロになり、数々の成果を残してきた人間だ。故にどうしても同郷というべきウーゴのことが気にかかるのだろう。
ウーゴ一人に肩入れしすぎだとは思わなくもない。だがここまですると言う事はウーゴにはまだスランプから復帰する見込みがあると言う事なのだ。さすがに見込みのない人にここまでするとは考えにくい。
また鷲介としてはウーゴ本来の実力が気になる。一昔前まで世界の強豪国の一つであるポルトガル代表の中核を担っていたセザルがここまで言うのだ。彼の言うとおりの実力ならば本来の調子を取り戻した彼がいれば自分はもちろん、チームにとっても力になるのではないだろうか。
「…………。わかりました。但しセザルさん、あなたたちも今まで通りお願いしますよ。
あと大文字さんも協力してくださいね」
「ああ。ウーゴについては俺も気にはなっていたしな」
ポンと鷲介の肩に手を置く直康。味方が増えてよかったと喜ぶセザルたちを見ながら、鷲介はどうしたものかと心中でため息をつくのだった。
◆◆◆◆◆
肌を刺す冷たい空気と晴れやかな陽光を感じながら、鷲介はピッチと直った足の状態を再確認する。ドイツリーグ第24節、ハンブルクFとアウリポリス04との後半戦開始直前のことだ。
(よし、思った通りいけるな)
少しの痛みもない左足を見て、鷲介は小さく笑みを浮かべる。捻挫は診断通り十日余りで直り一昨日からチーム練習に合流できた。毎日にしっかりとチームドクターに診てもらい処置をしっかり行っていたからだろう。
昨年──U-17W杯アジア予選を辞退した時のように一月近くチームを離れることがなかったことに安堵しながら、ベンチで眺めていた今日の試合のことを思い返す。現在リーグ8位であるアウリポリスをホームで迎えての今日の試合、現在スコアは0-0。
順位こそ8位と15位と離れてはいるがチーム力にそう大差のない両チーム。納得の結果ではある。もっとも内容的にはハンブルクFがやや押されておりあわや得点と言うようなシーンも相手側の方が多かった。
(相変わらず空中戦が弱いところを狙われるし、攻撃陣も今日はぱっとしていないからなー)
前半、決定的場面でシュートを外したレネはもちろん、他の面々もどうも動きが鈍い。
そしてウーゴ。彼は再三監督やセザルから言われたのが少しは効いているのかセザルの代わりとして左SMFにいるためか、攻撃に絡んではいる。
ただし相変わらずシュートは撃たない。いいパスは出すが、シュートを撃てるといったところでもパスを出してしまう。しかもパスを出しても問題ない場面なのでケチもつけにくく、監督やセザルからももう少し積極的に行けと言う控えめな言葉しか出なかった。
(本当、以前とは別人のようだ)
セザルより頼まれた後、ウーゴが移籍する前の試合映像を見て、鷲介は目を丸くした。
ポジションは今と変わっていないDMFだが持ち前の豊富な運動量で中盤を自在に動いてはディフェンスやインターセプトをし、そして積極的に前線に顔を出してはミドルシュートを撃つ場面がいくつもあった。現在のような中盤の底や、最終ライン近くで敵を待ち構えている彼とは全く違うスタイルだ。
セザルが言うとおり、当時の彼は今の彼よりも凄かった。守備力に関していえば現在が上回っているが、攻撃力は比べるまでもない。セザルのようなドリブルが得意と言うわけではないが彼に匹敵する正確無比な長短のパスと前線への飛び出し、そして正確なミドルシュートは素晴らしい。あの彼が今いればチームの攻撃力アップは確実だ。
(どうすればあの彼に戻せるのか……)
セザルと監督からの依頼の後、鷲介は直康と協力してウーゴとの時間を持つことに務めた。彼の意識の改善、もしくは問題点をどうにかするにはまず彼がどんな人間であるのかを自らが知る必要があったからだ。
そしてここまで付き合いわかったことは彼はレネやセザルのような人間とは対極というべき温和で控えめない性格だということだ。そして責任感も強い。
彼本来のポジションであるDMFはチームにおける攻守の要であり、黒子的立場として目立つこともあまりない。まさしくウーゴ・メレンデスと言う人間にぴったりのポジションだと言える。
──ではそんな彼を元に戻すにはどうしたらいいのか? その問いにはわからないと答えるしかない。むしろ以前のプレイスタイルが彼の性格と違いすぎて、以前の方がおかしかったのではと思うほどだ。
「どうしたんだい鷲介、ため息をついて。……もしかして足に何か異常でもあるのかい?」
「い、いえ。なんでもありません」
悩みの当人に声を掛けられ、鷲介は声が上ずる。眼前に立つウーゴは鷲介よりやや高く、少し焼けた肌に黒髪と茶色の瞳を持っており一見すると鷲介と同じアジア人にも燃える風貌だ。
「そ、それよりもウーゴさん。俺は問題ありませんからどんどんパスをください。あとフォローをよろしくお願いします」
「うん。もちろんだよ」
笑みを浮かべて頷くウーゴ。純粋な気合に満ちたそれを見て鷲介はセザルたちが何も言えなくなる気持ちがよくわかる。
(フォローっていうのは攻撃面の意味も含んでいるんだけど、何かわかっていなさそうだな。
でもこんな無邪気な顔をした人にトラウマを抉るようなことは言えないよなぁ)
それに状況が状況である。さすがに後半が始まろうとしている今、トラウマを刺激して悪い影響でも出たらシャレにならない。
アウリポリス04の選手に審判たちがピッチにやって来るのを見ては鷲介は自分のポジションに戻り、そして後半が開始される。
「うおっ、危ない……」
開始直後、いきなりハンブルクFゴールに放たれたヘディングを見て鷲介は肝を冷やす。右サイドからの長いロングボールに合わせたヘディングシュートはゴール左のポストに当たってラインを割ったが、ボール二つ分右にあれば枠内だった。
ヘディングを放ったのはアウリポリス04のツートップの左、フレディ・ケルヒェンシュタイナーだ。190を超える長身でヘディング、そしてオフ・ザ・ボールの動きに優れており今日の前半にあった二つのビックチャンスにも長身を生かしたヘディングによるパスで絡んでいる。33歳と言う選手としてはベテランだが一昔前まではドイツ代表の常連だった人、やはり侮れない。
そしてそのボールを供給したのは右SMFのカリム・リュパン。フレディと同じベテランであり34歳。しかしこちらも過去、フランス代表に幾度も選出されている危険人物だ。特にロングボールの精度は両チームの中で随一と言っていい。
「ボールを!」
相手の攻撃の中核を担う二人にいきなり先制パンチを食らったことに鷲介はかすかに苛立ちながら、ボールを要求する。敵陣のセンターサークル右にいた鷲介は足元に来たボールを上がってきたガブリエルに返すと身を翻して右サイドへ走っていく。そして直後、ガブリエルからボールが帰ってくる。
(さて、行くか!)
ボールを奪いに来た相手DFを高速シザースでかわし前に出る。最初と言う事もあって──9割程度のスピードと緩急で──全力は出さなかったが足に痛みがないことを確認すると、即座にトップスピードに移行し右サイドを駆けあがる。
あっという間にペナルティエリアの右にやってくる鷲介。ゴール前から、そして後ろからアウリポリスの選手が近づいてくるのを感じながら彼は叫ぶ。
「レネ!」
その声に正面から近づいていたDFの動きがわずかに遅くなり、彼の視線が鷲介の視線の先──ペナルティアーク方向へ向く。
それを確認すると同時に鷲介は緩めていた速度を再びトップに切り替える。そして再び近づいてきたCBをスピードで強引にかわすと同時に左足でシュートを放った。
弧を描いでゴールに向かったシュートは残念ながらポスト左に激突し、ラインを割る。頭を抱える鷲介だが、心中では喝采の声を上げていた。いつも通りプレイしても問題ないとはっきりとわかったからだ。
(ガンガン行くぜ!)
それからのゲームは本調子となった鷲介によってハンブルクFがやや優勢となる。ウーゴやガブリエルらとパスを回し、幾度も右サイドを突破し、相手DFを抜き去りシュートを放つ鷲介。こちらの勢いに触発されたのが他の選手も前に出ては攻撃に参加し、彼らと連動して鷲介も動き、パスを出す。
だが相手もさすがにそう易々とゴールは許さない。右SBのスコットランド代表、レイフ・ヘンドリーと左CBのコートジボワール代表エリック・ボカたちが守備を固めあと一歩と言うところで何とかハンブルクFの攻撃を防ぐ。
また点が入らないのは前線へ上がってくる人数──というかウーゴが上がらないのも理由の一つだ。注意してみれば彼が上がらないためボールを奪取しても前に上手くボールが運べず精度を欠いた、強引ともいえるパスをインターセプトされたりカットされている。
攻撃においてもフレディにカリム、そして左SMFのU-23アルゼンチン代表キリ・アルダがドリブルでハンブルクFの守備網を斬り裂こうとし、それをガブリエルたちが奮戦して何とか防ぐと言う展開が続く。
「ウルリクさん!」
相手からインターセプトしたのを見て鷲介はボールを要求。センターサークルのど真ん中でボールを受け、しかしすぐに上がってきていたサイードへパスをし、上がる。
ボールをもらったサイードは間をおかずレネに、そしてそのレネも相手DFに寄せられながらも左サイドへオーバーラップしてきた直康へパスを出す。こうもトントンとボールが回るのはアウリポリス04が攻めに転じていたところでウルリクがボールを奪ったからだ。
(ここだ!)
左サイドを駆けあがる直康にハンブルクFサポーターが歓声を上げる。それを聞きながら鷲介は相手ゴール前にできた守備網の穴へ疾走する。
「直さん!」
左サイドの直康と視線が合うと同時に鷲介は声を上げてペナルティアークの左側にできたスペースへ飛び込む。直後直康から地を這う速いボールが放たれ、そのスペースへ来る。
グラウンダーセンタリングのボールスピードと軌道、自分の位置。そしてGK、DFの位置。それらを一瞬で把握し、即座に答えを出した鷲介は全力で走りこみ、ボールを奪おうとしていたCBより早くボールに触れ、
「おおっ!」
直康からのボールにダイレクトで合わせる鷲介。聞き足の右足に蹴られたボールは狙ったゴール左下にはいかず浮上したが、アウリポリス04のゴール左上のネットに突き刺る。
「鷲介! よくやった!」
「ナイスパスです直さん!」
サポーターの歓声の中、待望の先制点に抱き合う日本人二人。後半21分、ようやくホームのハンブルクFが均衡を破った。
◆◆◆◆◆
タイプアップの笛が鳴り響き、ハンブルクFの選手たちが喜びの声を上げるのをセザルはベンチで見ている。アウリポリスとのゲーム、結局柳が上げた一点を死守したハンブルクFの勝利で終わった。
(まったく、大した小僧だよ)
ガブリエルに肩を抱かれている柳を見て微苦笑するセザル。見事なオフ・ザ・ボールの動きに得点もそうだが、それ以上に今日の彼は──後半だけとはいえ──良くチームに溶け込んでいた。
いや順応してきていると言った方が正しい。味方がどうするのか考えるより早く動いている。もちろんまだ甘いところはあるが、最初に比べればハンブルクFと言うチームに馴染んできている。
そして他の面子も柳と言う突出した実力者に適応でき始めている。特に仲がいいガブリエルや直康らとはよどみなくボールを回せている。いい傾向だ。
サポーターから声援で迎えられている17歳の少年を見てセザルは笑みを浮かべ、しかしすぐに眉根をひそめて鷲介の隣にいるウーゴへ視線を向ける。
この試合もいつもと同じだった。効果的なパスは出してはいたが前に出ようとせず、シュートを撃とうとしなかった。フリーな状態な上、前が空いていた時にさえもだ。
(何とかならないものか)
視線を右膝に移し思う。今のウーゴは悪くない選手ではあるが、それはハンブルクFというクラブのレベルに見合わせた場合だ。彼が今いるヴァレンティーアFCのような強豪として見れば物足りない、見合ってないと言わざるを得ない。
(出来れば今期中、俺がスパイクを脱ぐ前に、何とかできればいいんだが)
そう心の中で呟き、手術跡が見える右膝をさする。そして悩ましい顔つきを消して喜びながら帰ってくるチームメイトを笑顔で出迎えるのだった。