天才
12月24日。クリスマス・イブ。世間的に、そして世界的にも恋人たちや夫婦、または恋人未満の関係の男女の仲が進展する日として周知されている。
鷲介も恋人を持つ一人として、遅れて帰国した由綺とクリスマスデートを楽しんだ。地元の懐かしいところはもちろん新しい、または行ったことがない場所へ赴き、心身ともに楽しんだ。
そして三時を過ぎた辺り、隆俊とかすみ二人と合流してJRに乗る。千駄ケ谷駅に到着し歩くこと数分、目的地が見えてきた。
(ここが日本サッカーの聖地、国立か)
眼前に見えるスタジアムは国立。これは通称で正式名称は国立神宮競技場。20世紀中期に作られたスタジアムでサッカーの他には陸上競技やラグビーなど、またコンサート会場としても使用される。しかし一般的にはサッカーの聖地として知れ渡っている。
なにせここでは幾多のサッカーの名勝負が繰り広げられ、多くの国際試合も開催されている。元々高校サッカー選手権の準決勝、決勝、日本一のクラブを決める全日本サッカー大会 皇杯の決勝が毎年行われていたが今ではそれに加えてユースのプレミアリーグの決勝の舞台ともなっているからだ。『サッカーといえば国立』、そんな言葉さえ生まれるほどだ。
十数年前に改修したスタジアムは国内最大の規模を誇り収容人数も随一だ。そしてここで今日、皇杯の決勝が行われる。対戦するチームはどちらもJ1の強豪であり今年も最後まで優勝を争った両チーム、東京都をホームとする東京エストレヤと茨城県鹿島を本拠とするソルヴィアート鹿嶋との一戦だ。
「どっちが勝つかねぇ。今年のリーグ戦はソロヴィアートの一勝一分けだったが」
「勢い的にはエストレヤか? 準々、準決どちらも快勝と言っていい出来だったが。一方のソルヴィアートはどっちもPK戦までもつれこんでいたし体力的に不安だな。日程的にもエストレヤ有利だし」
「馬鹿だなー。そりゃあソルヴィアートは主力が怪我やら移籍やらでメンバーが欠けていたからだろ。その状態で準々、準決のJの上位クラブとの戦いに勝ってきているんだぜ。怪我人が復帰する今日の試合、ソルヴィアートが勝つだろ」
「そりゃあ単純な戦力で言えばソルヴィアートだろうが、そんな単純な方式で成り立つもんじゃないだろ。エストレヤが優勝することだって十分あり得るぜ」
周囲の人々から聞こえてくるサッカー談義を耳にしながら競技場へ入る。チケットに指定されていた席につき腰を下ろすと、ピッチではすでに両チームの選手がウォーミングアップ中だ。
「お、テツの奴はスタメンか」
東側にある電光掲示板には東京エストレヤのスタメンとサブの名前、そしてフォーメーションが映し出されている。
システムは3-5-2のダブルボランチ型だ。テツはその左DMFで出場するようだ。瑞々しい植物を思わせる鮮やかな緑色のユニフォームを着た彼の姿が確認できる。
東京エストレヤ。Jリーグが始まってからずっと一部にとどまり続けているクラブで成績も常に上位が多い強豪クラブの一つ、そしてJリーグの初代チャンピオンでもある。今季の最終順位は四位、ACLのプレーオフ権を獲得している。
ここ十年ではリーグとACLを1度だけ制覇している。欧州とのつながりが強いクラブで所属している外国人選手もヨーロッパ出身者が多い。
主力はCMFのウクライナ代表のデニス・カリニチェンコとツートップの左の元オランダ代表マルク・デ・ベールが筆頭に上げられ、それに続くのがオーストラリア代表でありチームのパサー、ハリーバーンズと最近はA代表入りも噂されている左SBのU-23日本代表海原一樹、そしてマルクとコンビを組む日本代表のFWでもある平浩介といったあたりだろう。
「鹿嶋の方は噂通り、彼も出るみたいだね」
「”天才”中神君ね」
西側の電光掲示板にはエストレヤと対戦するソルヴィアート鹿嶋のスタメンとサブの名前、そしてフォーメーションが見える。
システムは昔と変わらない伝統的な4-4-2のボックス型。そして件の中神は右SMFとして出場するようだ。鹿嶋のユニフォームはロート・バイエルンと同じ赤だが、Rバイエルンよりも色素がやや薄くところどころに白い線が入っている。
ソルヴィアート鹿嶋。エストレヤと同じくJリーグが始まってからずっと一部にとどまり続けているクラブの一つであり強豪。そして国内、国外のタイトル保持数は他のクラブを圧倒、今季もJリーグ優勝を果たしておりこれで三年連続の優勝だ。
ここ十年は鹿嶋の時代と言われるほど各チームと圧倒し続けている鹿嶋。リーグ優勝は7回、皇杯は6回、リーグと皇杯の勝者がシーズン直前に戦うスーパーカップでは6回、そしてACLを四度優勝しており、その長い間続く強さからJリーグの覇者、または絶対王者として日本はもちろんアジアに広く知れ渡っているという。
その強さの秘密として挙げられるのはJリーグ創成期にチームの主力だった元ブラジル代表や南米の選手たちの厳しい教えがチーム内に浸透しているからだと言われる。そしてそのレジェントたちを招いたことでできたブラジルをはじめとする南米のサッカー強国とのパイプがあり、チームには常にすぐれた南米の選手が在籍している。
現在も例外ではない。鹿嶋のレギュラーであり今日のスタメンにも名を連ね、南米トリオの愛称で知られるブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの現役代表選手たち。左SBのアルゼンチン代表のダミアン・ディアス、右DMFのブラジル代表レアンドロ、ツートップ右FWのウルグアイ代表セルヒオ・レコバが鹿嶋の強さの核だと言う。
もっとも他の選手が彼ら三人におんぶ抱っこと言うわけではない。日本のA代表はもちろんU-23、U-20等年代別代表も多く輩出している鹿嶋はスタメン全員が現役、もしくは元代表だ。特に注目するべきは十年近く代表に選ばれ続けているCBの金城康弘と最近海外への移籍を噂されている現役代表の左SMFの本村恵次、今季Jリーグ得点王ランキング三位だった左FW、日本代表でもある沢村新之助だ。
(Jリーグの絶対王者。アジア最強とも言われるチーム。さて、どんなサッカーをするのやら)
「藤仲くんは調子よさそうだね」
隆俊の視線を追うと、軽快な動きのテツの姿が見える。心なしか以前よりも体つきがよりたくましくなり、また動きがシャープになったように思える。
親友の言葉に鷲介は「そうだな」と相槌を打って視線を反対側へ向ける。狙いは鹿嶋の至宝、”天才”中神だ。
「ん??」
しかし鹿嶋側のピッチに目を向けて鷲介は思わず疑念の声を発する。どうしたことか南米トリオであるディアスとレアンドロが何やら揉めている。
周りの仲裁にも耳を貸さず激しく言い合う二人。セルヒオ、そして中神が両者の中に強引に割って入り何やら言い含めると、両者はようやく収まった。
「おいおい、試合前に喧嘩かよ。大丈夫なのか……」
鷲介が呟いたその時だ、近くのサポーターも呆れた、しかし落ち着いた声で会話をしている。
「まーたやってるのかあの二人。今年で四回ぐらいか?」
「ACLも入れたら六回だったと思うぞ。仲悪いことで有名だからなあの二人は。練習でも罵り合いやぶつかり合いは日常茶飯事って言われるぐらいしてるし」
「以前はクラブや日本サッカー協会から罰金喰らったはずなのに。こりないといかなんというか……」
「でもまぁ試合になるとそれが不思議に思えるぐらいの連携を見せるからよくわからん。その辺はプロってことなんだろうけどなぁ」
「まぁ何にせよいつも通りってことで。我らが鹿嶋の強さもいつも通りだろうさ」
サポーターの声音には一切の驚きがない。言っている通り、あれは鹿嶋にとって本当に大したことがないのだろう。
そしてピッチを見れば再びあの二人が──近くにセルヒオと中神がいる──何やら話している。しかし先ほどの険悪な雰囲気は欠片もなく、意見交換し合うプロの姿だ。
そして言葉をかわし終えた二人は頷き、互いの肩を叩く。これで仲直りかと鷲介は思ったが、再び両者は叩かれた方と叩いた腕を指差して口論を始め、その間に中神たちがすぐさま割って入る。
「……大丈夫なのか?」
再び呟く鷲介。そして両チームはフォーミングアップを終えてロッカールームに引き上げる。そしてそこからは何事もなく決勝のセレモニー、選手入場が続く。
そしてピッチに散っていく両チームの選手。主審の笛が鳴り響きエストレヤボールで決勝が開始される。
ボールを自陣へ下げていくエストレヤに対し、ソルヴィアートはいきなり前がかりになる。SBが上がり、FW二人が猟犬のようにボールを追いかける。
強襲と言ってもいいソルヴィアートの動きにエストレヤは多少の動揺は見せるがそれでもボールは失わない。そして幾度かのボール回しの後、センターサークル付近にいる──本来の位置から前に出ていたテツにボールが渡る。
「お」
テツの出したロングパスを見て鷲介は声を上げる。ソルヴィアートの上がっていた右SBの裏にできたスペースへ放たれたボール。それをマルクが追いかける。
ピッチを長く転がっていくボールとぐんぐんと距離を詰めるマルク。なかなかに足が速い。そしてコーナーフラッグ付近で何とか拾うが、そこへ戻ってきた鹿嶋のSBが距離を詰める。
(ペナルティエリア内や付近に両チームともに選手は少ない。後ろに走ってきている味方と敵が一人ずつ。俺ならボールを奪いに来た選手をかわすが──)
そう鷲介が思ったのと同時、マルクはフォローに来た選手へパスを出す。ボールを受け取ったのはエストレヤの司令塔、ハリーだ。
彼に対しボールを奪いに行くソルヴィアートの左DMF、元日本代表の原田。遠慮なく体をぶつけて奪取しようとするが長身のハリーはチャージを受けながらもバランスを崩さずパスを出す。
ハリーの出したボールはフィールドを斜めに飛びソルヴィアートのペナルティアークへ向かう。そこにいたのはデニスとレアンドロだ。
両チーム主力同士のマッチアップか。そう思う鷲介だがデニスはそのボールをスルーしてしまう。それを見てレアンドロは一瞬足が止まり、そしてスルーされたボールに向かっているのはエストレアのもう一人のFWである平だ。
しかし彼がシュートを撃つことはなかった。なぜならば彼の動きにきっちりとダミアンが合わせており、シュートを撃とうとした彼から強引にボールを奪ってしまったからだ。
(上手い!)
ダミアンのボール奪取に鷲介は舌を巻く。素人が見れば荒々しいインターセプトに見えるがプレイ自体は笛を吹く余地がない正当なものだ。ブルーノのそれを思わせる技術だ。
ボールを収めたダミアンはすぐさま前にパスを出す。ボールを受け取ったレアンドロは前を塞いだハリーをワンツーでかわし、さらにダイレクトで木村へ渡す。
南米トリオに継ぐ実力者である木村へ即座にエストレヤの選手が囲む。一方の木村は彼らを相手にせず、すぐさまフォローに来た彼にボールを渡す。
「中神……」
自陣のセンターサークル付近でボールを受け取った中神へ注目する鷲介。彼はボールを受けるとすぐ近くまで迫っていたエストレヤの選手をまた抜きであっさりとかわしてしまう。
(やるな)
中神の動きを見て鷲介は心中で唸る。簡単に見えるプレイだがボールさばきにボディコントロール、どれも抜群だ。
一人かわした中神はドリブルで前に出る。敵陣のセンターサークルを超えたところで二人に囲まれる中神。しかし後方から右SBの馬場、左からは本村がフォローに来ている。
「右か左か、どちらに出すのかな」
隣で呟く隆俊。しかし中神はフォローに来ている味方に気が付いていないのかなんと正面にいるエストレヤの選手へ向かって行く。
天才が無謀と言うべき突撃をした瞬間、彼を囲んでいたエストレヤの二人の選手が一気に距離を詰めたその時だ、左に切れ込んだ中神から右へボールが出る。
「ラボーナ……!?」
かすみが眼鏡の奥の瞳を大きく見開く。彼女の言うとおり中神が左に切れ込んだ──右足を左に踏み込んだ瞬間、左足が鞭のようにしなり、ボールを右にはたいた。
勢いはないが正確な軌道のボールを馬場が受取り、パスを出した中神はすぐさま前に出る。ボールを受け取った馬場はしばし前に進むも中神へボールを返す。
その中神へテツがマークに行くが、中神はゴールへ背中を向けるとダイレクトで右へパスを出す。そしてそのボールを本村がこれまたダイレクトでパスを出す。
本村が放ったDFラインを貫くようなパスに真っ先に反応するセルヒオ。パスと同時にペナルティエリア内に侵入した彼もまたダイレクトでシュートを放つが、そのボールはGKが伸ばした手に当たりネットは揺らさない。
すかさず沢村が詰めてくるがそれよりも先にエストレヤのDFがこぼれ球を大きくクリアーし、ボールはラインを割る。
「やるな」
「うん、見事なダイレクトプレーの連続だったね」
中神たちのダイレクトプレーに観客からは感嘆の声が漏れ、鷲介と隆俊も賞賛する。
その後の試合展開は互角、一進一退といった感じで続いていく。個人技とショート、ダイレクトパスが目立つソルヴィアートに対しエストレヤはショート、ロングパスを巧みに組み合わせた組織、複数での攻防を見せる。
両チームともに攻めては守り、ゴールチャンスを作っていく。両チームの主力は見事に躍動し、またテツと中神もいいプレイを魅せては観客を沸かせる。
だが徐々にソルヴィアートがエストレヤを押し始める。随所随所で好プレイを連発してはシュートを枠内に放っていく。逆にエストレヤはシュートを撃つまで行くも枠を外れる、または防がれカウンターの危機を招くことが起きている。
しかしそれでもエストレヤのDFたちとテツが奮起してソルヴィアートの攻撃を防ぎ、その芽を摘み続ける。確実にU-17W杯よりも強く、賢くなったテツのプレイを見て鷲介は笑みを浮かべるが、前半三十分近く、中神がそれを上書きするような輝きを放つ。
CKのクリアボールをクリアし、前に蹴りだしたソルヴィアートのDF。そのボールに中神が寄っていき、同時に近くにいたエストレヤの選手が奪おうと迫る。
中神が足元に収めようとした瞬間、チャージをしようとするエストレヤの選手。しかし彼はそれをまるで見切っていたかのようにあっさりとかわす。
「上手い……!」
「ああ、上手いな。中神の奴、本当に、上手い」
今の中神はエストレヤ陣内に背中を向けていたにもかかわらず、背後から来ていたエストレヤの選手をかわした。それもボールを左足の内側──前足部と中足部辺り──に当てて軌道を逸らし同時に鋭く反転してだ。
まるで後ろに目があるかのように見えるその反応の理由は分かる。首振りだ。彼のそれは他の選手に比べ回数が非常に多い。また試合の中で随所に見せていた視野の広さに加え反応速度も理由の一つだろう。
更にドリブルを開始した中神へ海原が迫る。中神はスピードを緩め鷲介も良くやるシザースをすると左に切れ込む。
流麗なシザースだ。しかし海原はその動きに惑わされずしっかりとついてきており、ボールを奪うべく足を伸ばす。
だが中神の動きは止まらない。またしてもそれを予見していたかのようにボールを右にはたく。軽く叩かれたボールは海原の股を抜き、右へ流れる。
右へ動く中神へ、しかし海原も食い下がる。すぐさま反転して体を寄せようとする。だがそれでも、中神の動きが一歩速い。彼は体を寄せられる直前、右足でボールを蹴っており、そしてそのボールは再び海原の股を抜き左サイドへ飛ぶ。
「鷲くん、今の……!
「連続のまた抜きだな。それよりもチャンスだぞ」
驚愕の声を漏らす由綺に鷲介はぞんざいに答えてピッチを注力する。中神の出したボールはオフサイドに引っかからず、そしてそのボールを飛びだした沢村が左サイドで足元に収め、駆けあがる。
エストレヤ陣内にいるのはGKとDFが二人だけ。両チームの選手が一斉にエストレヤ陣内に流れていく。
サイドを駆けていく沢村にエストレヤのDFが迫る。しかし彼はDFを十分ひきつけ、パスを出す。そのパスを本村はダイレクトに──引き付けられたDFによってできたスペースへ飛び込んだセルヒオへ出す。
「決まったな」
鷲介が言った通りになった。最後のDFとGKが慌てて動くがもう遅い。ペナルティエリアに侵入したセルヒオの放ったシュートは、易々とエストレヤゴールのネットを揺らした。
◆◆◆◆◆
「ふう、すっきりした。さてさて、後半はどうなるかなぁ」
トイレから出てきてハンカチで手を拭きながら隆俊は言う。
前半が終わりスコアは1-0。とはいえ先制点の後、エストレヤはソルヴィアートに押されっぱなしだった。もちろんテツたちエストレヤも反撃に出ようとしていたが先制点と言う起爆剤を得たソルヴィアートの勢いがそれを押しつぶし、圧倒していたのだ。
とはいえ追加点を取られなかったのは見事だと言える。特にテツたち守備陣はもちろん前線の選手たちも激しいプレスをかけて失点を防いでいた。見事な団結力だった。
「ま、エストレヤも今季リーグ四位の強豪。このままずるずると負けるとは思えないが──……ん?」
出すものを出した後、喉の渇きと空腹を覚えて売店エリアに向かった時だ。なにやら売り場の一角に人ごみができている。
合間から覗き込めば店の正面で何やらスマホをいじっている老人がいる。くすんだ金髪とやや丸っこい体躯が特徴の初老ぐらいの男性だ。そしてその男性を周りの人たちが迷惑そうに眺め、店員はどうすればいいのかわからないといったような顔つきだ。
スマホをいじっていた男性は手を止めると再び店員に向かって話し出す。ドイツ語だ。しかし当然店員は二十代ぐらいの日本人であり、言葉がわかっていないようだ。
周りの人間も言葉がわからないのかそれとも通訳する気がないのか動かない。鷲介は小さく息を吐くと隆俊に断りを入れ、強引に中に入ると老人のそばまで行く。
『どうしたんですか?』
『……! おお、君、ドイツ語が喋れるのかね!?』
鷲介に振り向き、大きく目を見開く老人。まるで救世主に会ったかのような表情だ。
『まぁそれなりには。それでどうしたんですか?』
『うむ、小腹が空いて何か買おうとしたのだがいざ会計となったときにスマホの翻訳アプリがおかしくなってしまっての。困っていたのだよ』
『なるほど。ちょっと待ってください』
鷲介は店員に老人が購入した金額を訪ね、老人から許可を得て彼の財布から小銭を取り出し、渡す。そして一緒にその場を後にする。
『本当にありがとう! 助かったよ』
『いえ、気になさらないでください。異国で言葉が通じなくなった時の不便さはよく知っていますので』
安心させるため鷲介が微笑み、サングラスをを少し傾けたその時だ。老人の瞳が訝しげなものとなる。
その反応に鷲介が瞳を瞬きすると、老人は声を小さくして問う。
『……君、もしや”黒鷲”、シュウスケ・ヤナギかね?』
愛称で呼ばれ、思わず鷲介の表情が引きつる。
『やはりそうか! おお、我が故国ドイツサッカーリーグの至宝たる君に出会えるとは! こんなことがあるものだ!』
『あ、あのすいません。ちょっと声を落としてください。ばれたらヤバいことになると思いますので……』
慌ててサングラスをかけて声をひそめる鷲介。
『うむ、すまない。つい興奮してしまってな。
おっと、私の名前を言っておらんかったな。これは失礼をした。ヨアヒム・マイヤーだ。よろしく』
ヨアヒムと握手を交わす鷲介。そして彼は先程購入したフランクフルトが入った袋を開けると一本、こちらへ差し出してくる。
流れ的に断るといった選択は無いため受け取り、咀嚼する。そして同じようにヨアヒムも口にして『日本のソーセージも中々だ』とコメントする。
『ところでシュウスケ、君は後半どうなると思うかね』
『前半通りならソルヴィアートの完勝でしょう。組織力はともかく、ソルヴィアートの個人能力とそれを生かすチームとしての力はエストレヤを圧倒してるといってもいい』
Jリーグのチームのほとんどがそうだが、組織が個を動かす戦術を取っている。これはリーグに突出した個を持った選手がいないこともあるのだろうが、長年代表やクラブでもそう言った戦い方をしているため、その戦い方が正しい──というよりも強くなりやすいといった考えが浸透しているのだろう。
しかし前半見た感じソルヴィアートは海外のクラブでよくある個が前提の組織だ。もちろん海外トリオといった個人能力に長けた選手がいるためそう言った戦い方ができるかもしれないが、彼らの影響かチーム方針か、ほかの日本人選手たちからも強い個の力や意志が感じられる。
すなわち最初から”仲間と共に行う”というものではなく”まず自分でやってみる”といったプレイや判断が見られるのだ。そしてそれがチームに強く溶け込んでる。個を土台としたチームとして両チームを比べると、まさしく若者と大人といってもいい差がある。
『個人能力を生かしてチームを動かす力と意識が違いすぎます。個人能力、戦術だってソルヴィアートが上回っている。
ソルヴィアートが油断する、もしくは退場者でも出るなどアクシデントでもない限り、PK戦にもつれ込むことはあっても真っ向からの負けは無いでしょう』
『エストレヤにゴールは生まれないと?』
『セットプレーや前半以上の強い組織力によるプレーが見られれば得点する可能性は十分ありますが、まぁそうなるとしても機会は少ないでしょう。またはカウンターの時ぐらいじゃないですかね。──ま、さすがにエストレヤもそう簡単に想像通りの展開にはしないでしょうけど』
『ふむ。──ところで君と同じ年の二人、フジオカとナカガミがどうかな?』
『二人とも十分チームの一員となっていますね。……正直武者修行に出る自分としては羨ましくもあり妬ましくもありますが』
自分と同じプロの両雄。その実力とチームとの融和は思った以上だった。
特に初めて見る中神。彼の個人技は同年代の中でも飛びぬけている。個人技、テクニックだけならばあのミュラー以上だ。プロになり、Jリーグ最強チームの一員となったのは伊達ではないようだ。
「とはいえまだまだ目に付くところもありますね。特に中神選手ですがフィジカルが異様に弱いしパワーもない」
テクニックタイプにありがちなパワーがなくフィジカルが弱いと言う弱点を中神も例外なく抱えている。それでもプロの試合でそれなりに戦えているのは相手DFからのあたりをいなす技術に長けているからだ。
もっともそれは鷲介ほどではない。現に今日の試合でもチャージなどでボールロストしていたし、競り合いであっさり負けていたところもあった。簡潔に彼を表現するならばテクニックに極振りした選手と言うべきか。
それに正直、”天才”と言われているほどのプレイは見られていない。U-17の合宿では自分に匹敵するとまで言われていたが、今のところそのようには思えない。
『一方のテツ──藤中選手はU-17W杯に比べて強く逞しくなっていますね。Jリーグでも問題なくやれています。来シーズンには完全にレギュラー奪取しそうですね』
以前と変わらぬ攻撃的守備でソロヴィアートのパスをインターセプトし、また空中戦の競り合いでも負けていなかった。攻撃参加時のパスの精度に裁きも一段と鋭く、正確になっていた。
『ふむ、それでは後半、楽しみに見てみるとしようかね』
鷲介は頷き、ヨアヒムと共に客席へ戻る。意外にも両者とも同じバックグラウンド側の席でヨアヒムの席は鷲介たちより六段下といった当たりだ。
席に着地したヨアヒムは隣の人とこちらを指差して話している。その人、四十代ぐらいの日本人男性はこちらを振り返ると頭を下げてくる。
鷲介も会釈を返し、口をチャックするジェスチャーをする。日本人男性は小さく笑んで頷き、同じジェスチャーを返してきた。
「何やってるんだい?」
「帰るときに話すよ。──さて、後半の始まりだな」
怪訝な表情の隆俊にそう答えると同時、後半が始まる。選手交代は特になく、また両チームとも序盤は静かな展開だ。
だが徐々にエストレヤが前に出始め、後半十分近くからエストレヤの各選手たちの動きが激しくなる。ソルヴィアートの選手へ常に複数でプレッシャーをかけ、ボールを追う。
それをいなしカウンターを狙おうとするソルヴィアートだが、エストレヤは敵はもちろん、味方選手の距離を縮める。それにより複数でボールを奪いに行き、またかわされてもすぐにフォローが入る。またこぼれ球にいち早く反応する。
俗にいうプレッシング──ゾーンプレスだ。そしてそれが見事に効いている。当然前線にいるセルヒオたちは連係プレーや個人技で突破しようとするがエストレヤの激しく、そして的確なタイミングのプレスによってボール運びと動きが鈍くなる。裏にボールを出しても海原のラインコントロールでオフサイドになってしまう。
そしてエストレヤの攻撃も組織的な、しかし前半よりもより激しく、鋭さを増す。テツも幾度も上がっては効果的なパスを放ち、また枠内に向かっているミドルシュートを撃つ。
だが、しかし、ソルヴィアートの守備陣は最後の一戦を超えさせない。その主な理由は南米トリオのディアスとレアンドロの奮起のせいだ。
「あ、またレアンドロ選手がカットした」
「今のをシュートブロックするんだディアス選手……」
「二人とも守備範囲が異様に広いわね。さっきからどこにでも現れてない?」
ディアスはRバイエルンのブルーノに似たスタイルだ。パワー以上に技術や読みを生かしたディフェンスやカバーに入ってはエストレヤの決め手となる瞬間を潰している。また左サイドが主戦場のはずの彼だが、由綺が言うとおり真ん中、そして中盤にも度々姿を見せては敵チームへ迫ってくる。
レアンドロはテツの上位互換な上、スタミナが豊富のようだ。前半からも激しく動いており後半はそれ以上に動きているものの、動きに一切の衰えがない。スタミナだけならばロビンに匹敵するんじゃないだろうか。また彼もディアスと同じく中盤と最後尾など、どこにでもやってくる。
ともあれその二人を主軸としたソルヴィアートの守備にエストレヤの勢いは少しずつ削がれていく。エストレヤの動きが鈍っているのではない。彼らの全力をレアンドロ達が受け止め、いなすだけの実力を見せているのだ。
そしてそれと共にエストレヤの動きや勢いは鈍り、ソルヴィアートの反撃が鋭くなり、回数も増えていく。特にゾーンプレスに押されていた中神やセルヒオたちが躍動し、後半二十分を過ぎるあたりから試合の流れは完全にソルヴィアートに傾いてしまう。
「チャンスだ」
インターセプトしたレアンドロからのボールを受けてドリブルをする本村。味方と連動しながら素早く、無駄のないパス回しで敵ゴールへ迫る。
湧き上がる鹿嶋サポーターの歓声を浴びながらペナルティエリア手前まで来た本村に再びボールが入る。すぐさまエストレヤの選手がチェックに行くが一瞬早く、本村からセンタリングが上がる。
右サイドから斜めに上がるボールに飛びつくセルヒオはDFを振り切ってヘディングを放つ。しかしGKのパンチングとそれによって軌道を変えたボールがバーに当たり、バウンドして左サイドへ流れる。
それを拾う中神にテツが行く。中神が浮いているボールを処理しようとしたときのチェックだ。
(これは奪われるか)
近くに味方もおらず一番近い沢村の側にはDFがいる。もし中神にテツ並みのフィジカルがあればキープし、その間に味方のフォローを待つという手も打てただろうが、彼の細い体ではそれも無理だ。
今日何度目かのテツのボール奪取。そう鷲介が結論付けたその時だ、中神のプレイを見て鷲介は大きく目を見開く。
「なっ!?」
バウンドしたボールを左足でトラップした中神。直後テツが迫るが彼はその動きを読んでいたかのようにボールを左足で後ろに上げ、反転する。
かわされたテツが再び向かおうとするが、中神は一度バウンドしたボールに追いつき、それをダイレクトでペナルティエリアへ出す。
急反転した上でのダイレクトプレーにも関わらずボールはエリアの中にふわりと上がり、それをセルヒオが再びヘディング。伸ばしたキーパーの手をかわしたボールはゴールネットを揺らした。
「なんていう技術だよ……」
鹿嶋サポーターの歓喜の叫びを聞きながら、鷲介は呻く。自分にあんなプレイはできるだろうか。思わず自問し、しかしすぐに不可能という結論になる。
もし鷲介ならば確実に一度トラップしてからセンタリングを上げていただろう。もしダイレクトでやっていれば間違いなくボールをふかしていた。間違いない、技術だけならば鷲介よりも上だ。
待望の追加点に沸く観客とは正反対に再開された試合のソルヴィアートは一転してペースを落とす。しかしそれは疲れや余裕、油断と言ったものではない。
攻めに集中するエストレヤの攻撃を全員で守り、また鋭く的確なカウンターを繰り出す。確実に守り、勝つためのペースの調整だ。
そしてそれが実に様になっている。メンバーのだれもが慣れた、落ち着いた様子で自陣を守る。まさしく百戦錬磨、王者と言うに相応しい戦いぶりだ。
堅固かつ、しぶといソルヴィアートの守りにエストレヤは時間がないことの焦り、そして疲労による単調なミスで攻撃の目がつぶれていく。テツもいい感じのパスやミドルを放ってはいるものの味方と合わない、またボールを収めたチームメイトがボールを取られる、またDFに当たり弾かれてしまっているなど決定的な仕事はできていない。
エストレヤの監督もメンバー交代に攻め方を変えるなど手を撃つが、それに対してソルヴィアートも同様に対処してくる。結果、エストレヤがソルヴィアートのゴールネットを揺らすまでには至らない。
そんな状況が続き時間が後半四十分辺りになった時だ、エストレヤの迂闊ともいえる雑なパスをレアンドロがインターセプトすると、彼はすぐさま近くの味方へパスをだし、試合開始時と変わらないような動きで走り出す。
レアンドロの上りにソルヴィアートの面々が一気にカウンターのために動く。ショートパスを繋ぎ、ボールはエストレヤ陣内のセンターサークルの右側にいた中神へ向かう。
彼の逆、左サイドでは沢村が手を上げながら斜めに走っている。オフサイドにならないようパスを出せばビックチャンスだ。そう鷲介が思ったその時だ、中神は向かってきたボールに対して大きく右足を振り上げる。
(今パスを出したら思いっきりオフサイドに引っかかるぞ!?)
そう心中で鷲介が突っ込むのと同時に中神はボールを大きく蹴り上げた。同時にオフサイドを取るべく動くエストレヤのDF。
しかしパスかと思っていたボールは高く空を浮かび上がり、なんとエストレヤゴールに向かって行っている。しかもGKは前に出ている。
すぐさま反転するGKだが、遅すぎた。彼が振り返り走り出すのと同時にボールはゴール手前でワンバウンドし、ネットにやんわりと収まったからだ。
「……なるほど、”天才”と言われるだけのことはあるわけだ」
歓声と拍手喝さいのサポータに向かって両手を広げる中神を見て、鷲介は呟く。今日見た17歳という若さで日本人離れしたボールさばきにタッチ、そして今のシュート。”天才”と呼称されても不思議ではない。
そして彼と鷲介がいればU-17W杯を制覇できたという話も単なる妄想で片づけるべきことではないことも理解した。もし彼がいればイタリアはもちろん、優勝したスペインやカールのドイツとさえ対等に渡り合えただろう。自分ほどの輝きや才能はないだろうが、それに匹敵するものは持っている。
中神の止めの三点目が入り、勝負は決した。エストレヤは攻めてはいるが勢いはなく、そしてソルヴィアートは先程同様攻防に手を緩めない。ロスタイムもほとんどなく試合終了のホイッスルが国立に響き渡った。
◆◆◆◆◆
「気持ちのいい若者でしたね」
「うむ」
人ごみに紛れていく柳鷲介とその友人たちの姿を見送りながら新村和人は言い、隣にいるヨアヒムは頷く。
ソルヴィアート優勝で終わった皇杯。試合後、ヨアヒムから事情を聞いていた和人は早々とスタジアムから去っていく柳を捕まえ改めて礼を言った。
17歳と言う事もあってまだ少年に近い顔立ちだった彼だが纏う雰囲気や態度はプロそのもの。態度や言動には品格があり、Rバイエルンと言う世界トップクラスのビッククラブの教育は流石だと言える。
(プレイスタイルといい、彼を思い出すな)
そう和人は思う横、ポツリとヨアヒムがある人物──”彼”の名前を口にする。それを聞き、和人はわずかにしんみりとする。
ヨアヒムが口にした名前は和人の友人であり彼の甥だ。鷲介ほどではないが十代でビッククラブからプロデビューを果たし、たぐいまれなスピードとドリブルを持っていた。
そしてドイツ代表に選ばれるほどの実力者ではあったが、交通事故で亡くなった。まだ23歳と言う若さでだ。
「和人。彼は日本代表に選ばれるだろうか」
「え? ……そ、そうですね。日本のマスコミに関係者たちはすぐにでも招集するべきだと声を上げていますけど」
「和人はどう思うかね」
「六月のオオトリカップには呼んでもいいと思います。さすがに三月のW杯二次予選は時期尚早ですけど」
実力、才能が飛びぬけているのは事実だ。だが彼はまだ十七歳と言う少年でありプロとなって一年も経っていない。ひとまずはドイツでクラブに集中させるべきだと思う。
「トーマス君たちクラブや日本代表監督が羨ましく、妬ましく思うよ。あれほどの才能を側に置い、指揮できるのだから」
「あはは。でしたらヨアヒムさんもまた監督業に復帰されてはいかがです? そうしたら彼を指揮できる可能性が出ますよ」
監督業を引退した彼がたまに素晴らしい才能を持った若手を見て監督に復帰しようかなどと言うときがある。もちろん本気でないとわかっている和人はいつものように冗談交じりな言葉を返す。
しかしいつもならやんわりと復帰しないと言うヨアヒムが何も言わない。その態度に訝しく思い視線を向け、ぎょっとする。ヨアヒムの灰色の瞳に真剣な色があったからだ。
「私も年を取った。監督業からも離れて長い。Rバイエルンクラスのクラブは無理だろう」
「え、ええ。そうですね」
「だが日本代表なら可能性はあるかもしれないな。逆オファーでも出してみようか」
静かな、しかしはっきりとしたヨアヒムの声音に和人が表情を引きつらせる。
まさか本気なのか。そう思ったその時、ヨアヒムはこちらを振り向く。そこにあったのはいつもの彼の温和な表情だ。
「ふふふ、冗談だ。さぁ帰ろう」
いつもの優しい光が宿ったヨアヒムの灰色の瞳を見て和人は安堵し、彼と共に歩きだすのだった。
◆◆◆◆◆
「ごちそうさま」
一月二日。口の中にある最後の餅をしっかり咀嚼し、鷲介は両手を合わせる。そして膳を片付けると改めて荷物をチェックし、忘れ物がないかを確認するとバックの中に収めていた小さい袋を取り出し、異母妹へ渡す。
「リーザ、お年玉だぞ~」
「おとしだま~」
お年玉袋を手にして走り回る異母妹の姿にほっこりと和みながら時間が来るまで祖父や祖母たち家族と語らう。
そしてあっという間に出発の時刻となり、玄関のチャイムが鳴る。外にはマルクスが手配したタクシーがやってきているのを見ると、鷲介は改めてリビングに行き、皆をぐるりと見渡す。
「それじゃあ行ってくるよ」
「うむ。しっかりとな! 毎試合しっかりと録画しておくぞ!」
「怪我をしないよう注意しなさいよ」
祖父や従姉たちが言葉をかけ、最後に父と継母、そしてリーザが言う。
「ま、頑張ってこい」
「何か困ったことがあったらすぐに連絡してね」
「にぃにぃ、いってらっしゃい!」
父と拳を合わせ、母と抱擁をかわす鷲介。リーザはどこで覚えたのはほっぺのキスをし、鷲介もお返しをする。
家族や親族の暖かい空気にほんの少しだけ名残惜しさを感じるも、それを振り切って鷲介は家を出てタクシーに乗る。
一時間ちょっとして空港に到着するとさっさと出入国審査や手続きを済ませ、ターミナルで時間を潰す。そして出発時刻が間近に迫り立ち上がろうとしたその時だ、いきなり視界を塞がれる。
「だーれだ?」
「由綺だろ。……見送りには来ないんじゃなかったのか?」
両目を塞いでいた柔らかい手をゆっくりと外し振り向けば、むくれた様子の彼女がいる。
「今日は確か親戚同士の集まりがあったんだろ。どうしてここにいるんだ?」
「兄さんが気を利かせてくれたの」
笑顔だが迫力がある由綺。どういうわけか怒っている彼女に鷲介はにたじろぐ。ふと彼女の後ろを見れば茶髪のイケメン──どこか不真面目そうな──で長身痩躯の男性がニヤニヤしながらこちらへ手を振っている。
日和田修一。由綺の兄だ。ああ見えてもドイツでは人気のあるモデルだったりする。
何故か近寄ってこない彼を不思議に思いつつ、鷲介が手を振りかえすといきなり顔面を由綺に掴まれる。
「お、おい。いきなりなんだ」
「鷲くん、つれないぞ。わたしは、怒っています」
「つれないって……。いつも通りだと思うんだが」
鷲介がそう言うと半眼になる由綺。頬を押さえる手の力が少し強くなる。
「鷲くんは最低半年、ハンブルグで暮らすわけです。わたしもいろいろ忙しいからいままでのように頻繁に会うこともデートもできません。でも鷲くんはいつも通り。つれないです」
「??? ちょくちょく電話はするって言ったしスマホでも顔は見れるだろ?」
「サッカーの試合をTVで試合を見るのとスタジアムで見るのとは違うよね?」
そう言われると返す言葉がない。まぁそこまで言われると彼女が何を言いたいのか、おぼろげだがわかってくる。
「……年末、十分に時間を使ったと思うんだが足りなかったのか?」
半年寂しい思いをさせること、また自分も寂しくならないようクリスマスや年末の空いた時間はできる限り彼女に付き合い、様々の場所にデートに行ったのだが。
「十分すぎるぐらいだったよ。でも足りません」
支離滅裂な回答に鷲介がどう答えたらいいのか困っていると、頬を膨らませていた由綺は苦笑し、いつもの柔らかい笑顔になり、言う。
「半年はこうして面と向かう機会も少ないから、いってきますぐらいは聞きたいな。そして行ってらっしゃいぐらいは言いたいんです」
「……」
先日別れるとき言ったと思うんだが。口から出そうになったその言葉を鷲介は飲み込む。
彼女の言うことは理屈が通っていないようで通っている。今日、自分が家族や親族に挨拶をしたように彼女もしてほしく、そして彼女もしたいのだろう。
「由綺」
「はい」
「行ってくる。俺としては半年で戻るつもりだが最悪一年かかるかもしれないが、その時は許してくれ」
「待たせた月の分だけデートしたら許します♪」
そう言って目を閉じ、顎を突き出す彼女。鷲介は一瞬躊躇するも彼女の体を抱き寄せ、唇を合わせようとする。
しかし唇が合わさろうとした時、彼女はするりと動き鷲介の懐に入り込むと抱き着いてくる。
「ゆ、由綺?」
「由綺エネルギーを注入中です。そして鷲くんエネルギーを補給中です」
からかうような、しかし優しい由綺の声。鷲介は苦笑し、すぐさま同じように抱きしめる。
周りから好奇の視線が注がれるが無視して、彼女の温もりを記憶に刻み込む。しばらくして体を離し、何も言わず唇を合わせる。
「じゃ、行くな」
「うん。いってらっしゃい」
いつもの見慣れた、しかしほっとする由綺の笑顔に安堵して鷲介は背を向け、ターミナルのゲートを通り、指定された座席に腰を下ろす。
(やっぱり帰ってきて正解だったな)
今回の帰国、正直少し迷っていた。後半のシーズンに備えて帰国せずドイツで自主トレを続けていようとも考えていたのだ。
だが故国での親族、親友との再会。そしてテツに中神、同年代の日本人が活躍する姿は鷲介の心身を癒し、力をくれた。
(俺も、負けていられないぜ)
そっと唇を指でなぞり、由綺の笑顔を思い出す。改めて半年でRバイエルンに戻る思いを強くするのだった。