里帰り
「ただいまー」
買い物袋を手に家に入る鷲介。12月下旬、来年まであと少しと言った今日のミュンヘンは日本よりずっと寒く、慣れたとはいえ鷲介も風邪をひかないよう上着とマフラーに帽子、手袋としっかりと防寒している。
扉を閉め帽子や手袋を外したその時、リビングの方から男の悲鳴が聞こえてくる。
「ぬあーっ! やられたー!」
「よっし! 勝ち越しだ!」
子供のようにはしゃいでいる声を聞いて鷲介は嘆息し、リビングを覗く。すると予想通りテレビの前で父空也とジークの二人が必死の形相でゲームをしている。
プレイしているTVゲームは『ワールドサッカーK』。WFUA──世界サッカー協会公認、協力の元販売されているサッカーゲームでありゲーム内のチームや選手は全て実名だ。
よほど集中しているのか父たちは鷲介が帰ってきたことに気が付いていない。そして父達の側にいる妙齢の女性二人も鷲介に気づいた様子はなく、彼らを応援している。
一人はもちろんサーシャ。そしてもう一人はサーシャと同じ金髪で波打った長い髪を持ち、そしてサーシャとは対照的に活発な雰囲気の女性はセレスティーヌ・ブラント。ジークの妻だ。
「空也さん、左サイドチャンスです」
「あなた、ここを防げば一気にカウンターのチャンスよ!」
さて、ジークはともかく何故その奥さんまでいるのかというと、鷲介の継母であるサーシャとセレスティーヌは幼馴染であり今もなお付き合いがあるのだ。
叔父のライナーは二人を「もの静かでしっかり者の妹と明るく元気な、そして少し馬鹿な姉」と評していた。その言葉通り二人は──血の繋がりはないがとにかく──実の姉妹を思わせるほど仲がいいのだ。
ということでドイツに移住してからというもの、月に一度は必ずと言っていい頻度でこのように遊びに来る。そしてたまにこのように大人げなく騒ぐのだ。
自分よりずっと年上だというのにここまでゲームに熱中できる大人たちを見て鷲介は思わず天を仰ぐ。もしこんなジークの姿をファンが見たら何人かはひきそうだ。
ともあれ彼らの邪魔をしないよう静かに自室に行っては上着などを片付け、次に買ってきた物を冷蔵庫などにしまう。そして和気藹々としている大人たちに再び帰宅の挨拶をする──父たちからぞんざいな返事が返ってきた──と、お菓子を持って子供部屋へ行く。
「あ、鷲くん。お帰りなさい」
子供部屋には由綺にリーザ、そして異母妹と遊んでいる男の子の姿がある。彼はヴィンフリート、ジークの息子でリーザと同い年だ。
「にぃにぃ~」
「おかえり~」
飛び込んでくるリーザと、それを真似してくるヴィンフリート。鷲介は慌てて菓子を入れた皿を置き、彼らを抱き留める。
遊ぼ、遊ぼ、とせがむ子供をくすくすと笑う由綺と二人で相手をする。時折部屋まで響いてくる大人たちの声を聞きながら本を読んだり積み木をしたりなど、何も考えず戯れる。
(こういうこともしばらくできなくなる。しっかり堪能しておかないとな)
膝の上に乗って甘えてくる異母妹に本を読みながら思う鷲介。この暖かさが、そしてこの場所がすぐ近くにあったからこそ今の自分がある。
しかし最低半年はこういうことも気安くはできなくなる。だからしっかり味わっておこう。強くそう思いながら可愛い異母妹と同僚の息子と戯れる。
その後ゲームに誘ってくる父やジークの相手などもし、夕方前に由綺も帰宅する。夕食の用意をする父と母、泊まっていくブラント一家の母セレスティーヌはヴィンフリートとリーザと共に風呂に入る。
そして残った二人──鷲介とジークは言い合わせることなく鷲介の部屋に集まった。互いの年末の予定などを話し、そして自然と話はお互いのことに行きつく。
「明日発表だったな。レンタルのことは」
「そうですね。そういえばジークさんもレイ・マドリーから移籍の話がありましたけどやっぱり断ったんですか」
「まぁな。結構な金銭を積まれたが俺はロート・バイエルンで満足しているし移籍する理由もないからな。
しかしレンタル先をハンブルク・フェアアインにしたか」
ハンブルク・フェアアイン。ドイツリーグ一部に所属するチームで、数十年前までは上位、時折優勝争いにさえ絡んでいたチームだったが現在は古豪と呼ばれており一部の下位、中位を行った入り来たりしているクラブだ。
「わかっているとは思うが状況は厳しいぞ。お前以上にハンブルクFがだ」
「前半最終戦も負けて、確かこれで引き分けを挟んで六連敗でしたっけ。順位は15位」
ドイツリーグ一部のチーム数は18チーム。二部に降格するのは17、18位。16位は入れ替え戦の結果次第で二部降格となる。つまりハンブルクの今季の成績は降格ライン一歩手前と言ったものだ。
ちなみにRバイエルンは二位。一位のレヴィアー・ドルトムントとは勝ち点僅か一の差がついている。
「本来のメンバーが組めていれば例年通り中位から降格争いをしない程度の下位だったんだろうが主力の怪我と移籍。それが複数ときているからな」
昨季十位で終えたチームから現在四名ほど主力がいなくなっているのだ。うち二人は怪我で長期離脱で残り二人はシーズン前に移籍。
特にチームの大黒柱である元ポルトガル代表のセザル・パトリシオの離脱が一番影響をもたらしているという。今シーズン途中に怪我をし、彼が離脱した後のハンブルクFの戦績は一勝一分け六敗だ。
「シーズン前に移籍してきた選手も期待されているほどの結果を出せていないそうですからねー」
「まぁそんなチームで確かな結果を出せば来期にはRバイエルンに呼び戻されるだろう」
「そうじゃなかったら一年間いるのは確実ってことでしょう。監督やマルクスさんからも言われましたよ」
鷲介のハンブルクFへのレンタル契約は基本一年。しかし活躍次第では首脳陣の判断で半年で引き戻すと言う。
「U-17W杯後、お前のプレーは一段とキレを増した。だがまだフルタイム出場すればへとへとになるなど、体力調整には難がある。注意しろよ。怪我にもな。それと──」
鷲介は頷き、ジークとの話を続ける。そして彼が風呂に入りに行ったところでU-17、そしてその後の自分のことを回顧する。
日本がベスト8で敗退したU-17W杯の優勝チームは大方の予想通り、ゾディアックを要する優勝候補の一つ、スペインだった。日本に勝ったイタリアは準決勝でそのスペインと当たり1-0の敗戦。
そしてカールのいるドイツは準決勝で同じ優勝候補でありゾディアックランキング二位、ミカエル・レオン率いるアルゼンチンと激突。
カールとミカエル、両チームのエースがここに我有りと言わんばかりの獅子奮迅の活躍をした試合はU-17決勝トーナメント至上最高の大量スコアとなった。結果は5-4でドイツの勝利、カールたち二人ともハットトリックを達成した。
そして決勝のスペインとドイツは2-0でスペインの完勝という結果に終わった。というのも準決勝のアルゼンチンとの戦いでカールは試合終盤、負傷退場しており決勝を欠場した為だ。当然セバスティアンたちが奮起するもランキング4位のラウルがいる万全のスペイン相手に勝つことはできなかった。
MVPはスペインのラウル。得点王はカールとミカエルの二人。アシスト王はこれまたスペインのラウルが獲得した。
ゾディアックのための大会と言われたこの大会は言葉通り、最後まで彼らが主役となり幕を下ろしたのだった。ちなみに鷲介は9ゴールで得点王ランキング三位、カールとミカエルのすぐ下だ。
「またしてもラウルの奴に持っていかれたか」
U-17W杯の特集が組まれた雑誌の表紙にでかでかと映っているラウル・エルナンデスを見下ろし、鷲介はため息をつく。彼に屈する、優勝を持っていかれるのはこれで三度目だ。
そして机のPCを立ち上げると記録されているドイツリーグでの自分のゴールシーンを見る。大会後チームに合流した鷲介の状況は多少の変化はあった。今まで後半途中からだった出場が後半開始、またはスタメンの時もあった。もっともリーグ、国内カップ戦だけ、また相手が下位限定だった場合のときのみだ。欧州最高峰の舞台であるCL出場はできていない。
それでも出場した試合ではそれなりの結果は出した。8試合出場して3ゴール1アシスト。大会に出る前の試合を含めてば合計して5ゴール3アシスト。デビューしたばかりの新人と比較をすればよい成績と言えるだろうがカールたちがそれ以上の好成績を上げているため、まだまだと思ってしまう。
「テツたちも中々いい調子みたいだし、羨ましい限りだ」
テツたちU-17日本代表の主力メンバーは大会後、誰もが順調にサッカー選手としてのキャリアを積んでいるとと言っていい。
まずGKの宮野は所属しているJ1の札幌オウルのユースからトップに昇格。今季の最終戦、正GKの負傷によりJ1デビューを果たし、見事無失点で切り抜けデビュー戦を勝利で飾った。
Jリーグの絶対王者たるソルヴィアート鹿嶋ユースに所属しているDFの遠藤は宮野のようにトップ昇格こそなかったがトップチームの練習には幾度も参加しているらしく、来期は昇格するのではないかと噂されているという。
MFの志村がいる清水学院は高校、Jリーグのユースチームが戦っている最高峰の舞台、プレミアリーグイーストで最後まで優勝を争い結果二位。FWの細谷のいる国雲高校もプレミアリーグウエストで三位だった。ちなみに両チームとも選手権予選は当然勝ち抜いており予選において細谷は得点王を獲得している。そして両者ともにJリーグのチームが接触を図っているのだと言う。
そしてテツこと藤中鉄一は大会後順調に出場機会を増やしておりチームの勝利に貢献。また終盤スタメンだったベテランが負傷、代わりと言うようにスタメンに抜擢されるとゴールやアシストを決め、結果所属チームの東京エストレヤはリーグ三位の好成績と来季のACL──プレーオフからだが──出場権を獲得した。
「俺も負けていられんな」
鷲介はそう呟きながらPCを操作し、モニターにマルクスが用意したハンブルクFのシーン集に目を向けるのだった。
◆◆◆◆◆
「ただい」
「おお、我が孫よ! 良く帰ってきた~!」
玄関先にいた祖父と祖母へ挨拶の言葉を言おうとした鷲介を遮って、和服を着た恰幅のいい老人が鷲介に抱き着いてくる。
白髪ながらも肥えた、しかし肥満と表現するほどではない体格と初老と言う年に似合わない元気さが満ちているこの男性は種田総一郎。鷲介の祖父だ。
「半年振りだがずいぶん見違えたのう。男子三日会わざれば刮目して見よというがまさにその通りじゃな。立派な一人前の男の顔になっておる」
「あ、ああ。ありがとう」
祖父のオーバーリアクションはドイツに移住してから帰省するたびの恒例行事とはいえ、相変わらず慣れない。遠慮なく頬や体をべたべたと触れてくる祖父に鷲介は離れたいのを我慢する。
「おお! リーザ! おじいちゃんじゃぞ~!」
鷲介の足元にいた異母妹を高く抱き上げる祖父。いきなりの行動に泣き出すかと思ったがリーザはきゃっきゃと喜びながら「じーじ、じーじ」と総一郎を指差して言っている。
たかいたかいをして嬉しそうな祖父にされて喜ぶリーザ。玄関前でじゃれ付く二人を前にどう止めたらいいか鷲介が迷っていると、小柄な初老の女性が祖父を嗜める。
「あなた、ご近所に迷惑ですから騒ぐのはそれぐらいにしてください。──半年振りね、元気そうで何よりだわ鷲介」
「祖母ちゃんも以前と変わら無くて安心したよ。……ただいま」
「ええ、おかりなさい」
柔和に微笑むその人は祖母、種田凛だ。身長は150もない小柄な女性だが、ぴしりと立つその姿勢から人として女性としての強さが感じられる。
車を止めてきた、また積んでいた荷物を持ってきた父と継母、そして叔父ライナーもやってきて鷲介たちはようやく眼前の一軒家──種田家に入る。ちなみに継母サーシャの両親はすでに亡くなっており、帰国前に墓参りを済ませている。
荷物を片付け手洗いを済ませ、鷲介が真っ先に向かったのは一回の奥間にある仏壇だ。撥で鈴を鳴らし、リーザと共に手を合わせ頭を下げる。
この仏壇に祀られている人物こそが鷲介の実母、祖父祖母の娘である種田さくらだ。仏壇中央には亡くなった当時、二十代半ばの若々しい姿の写真が飾られている。
(ただいま、母さん。俺は今でも元気にサッカーを続けているよ)
穏やかな母の笑顔を思いながら鷲介は心中で母に近況を語る。そして父たちがやってきたのを見ると腰を上げてリビングへ。
するとテーブルには祖母が用意した緑茶に数々の和菓子。間違いなく叔父の店で作られているものだろう。
「鷲介よ、いいものを見せてやろう!」
リーザと共に懐かしい味の和菓子をつまんでいると、どたばたと足音を立てて祖父がやってくる。
アルバムのようなそれを開く祖父。中身を見て鷲介は目をぱちくりさせる。中に入っていたのは新聞や雑誌の切り抜きを収めたもので、そしてそのどれもに鷲介のことが書かれている。
「もしかしてこの中身、全部俺の記事なのか?」
「そうじゃ。儂がコレクションした! 当然サッカー雑誌のものもあるぞ」
そう言った祖父が指を指すのは鷲介が日本にいた時愛読していたサッカー専門誌『フットボールマガジン』の記事だ。日付はつい先日のところから見るに最新号の記事のようでU-17杯とドイツリーグ前半戦での総評が載っている。
もちろんそれだけではなく他の専門誌も記事も添付されている。
「『プロデビューの初年度、それも十七歳という年齢の成績を考えれば十分に合格点だ。しかし他のゾディアック達、特に近いポジションの選手らと比較すれば物足りないと言わざるを得ないだろう』。
なるほど、日本の記者のサッカー眼もレベルが上がっているようだな」
「こっちの記事は大絶賛してるなぁ。『来年のW杯最終予選招集も十分考慮できる成績と実力。日本サッカーの至宝と言っても過言ではない』ね。我が息子ながら凄い評価だな」
仏壇から戻ってきた両親と叔父も混ざり、祖父が作ったアルバムと鷲介のリーグやU-17W杯の試合、ゴール映像をまとめたものをテレビで見る。
正直恥ずかしかったが楽しげな家族の雰囲気に水を差すような真似はせず、大人しく大人の会話の肴となる。
「おお鷲くん! 久しぶりだね!」
「夏に会ったばかりでしょ父さん。夏以来ね鷲介」
夕方頃になり種田家を訪れたのは叔父──母さくらの兄──である種田颯太とその娘かすみだ。祖父そっくりの雰囲気の叔父は創業者である祖父の後を継いで地元の和菓子屋『大餡』の社長を務めている。
そして叔父とは対照的に大学生である娘のかすみは淡々としている。知的な瞳と相貌、すらっとした160を超える長身。クールビューティと言う単語が擬人化した雰囲気を放っている。
しかしこれが彼女の素であることは長い付き合いからよくわかっているので何も言わない。彼女は鷲介の隣に座ると持ってきたバックから色紙を取り出し、差し出してくる。
「サインを頼まれたの。お願いするわ」
きらりと眼鏡を輝かせて言う従姉に思わず鷲介は苦笑するも、差し出された色紙を受け取りペンを走らせる。
彼女の要求が始まりとなったのか叔父颯太や祖父も同様に色紙を渡してくる。社員から頼まれたものや社内や店内、そして家の中に飾るらしい。
三人から渡された色紙の数は数十枚となっているが特に苦ではない。プロになってからはもちろんユース時代からも熱心なサポーターから何十回もサインを求められたことはあるし、マナーについてもクラブ他ジーク達先輩から叩き込まれている。
(サポーターの声があってこそのクラブでありサッカー選手、だったよな)
合間合間に菓子をつまみ、話をしながら鷲介は積み上がった色紙一枚一枚に丁寧にサインを書く。そしてそれが丁度終わるころ夕食となり、久方ぶりの純和食と祖母の温かく美味な料理を堪能する。
「そういえば聞いていなかったけど休みはいつまでなの?」
「今日を入れて一週間は日本にいる予定かな。その後はドイツに戻ってレンタル先のクラブに合流する予定だ。父さんたちはもうちょっと長かったと思うが」
鷲介はかすみにそう答えて視線を父に向ける。父が口にした滞在日程を聞き、颯太が眉根をひそめる。
それも当然だ。両親たちは年始五日までいるが、鷲介は年明けすぐにドイツに戻るのだから。
「昨年と違ってずいぶん休みが短いね。日本で年を越さないのかい?」
「プロですからユース時代に比べれば休みは短くなります。それに少しでも早く合流してチームの雰囲気などを掴むなど、シーズン後半戦に万全に備えたいのでしょう。彼のレンタル先は結構な危機的状況ですからね」
和食を堪能しながら颯太にそう言うライナー。元プロ選手であり現在もスカウトマン──業界の彼の言葉に日本の叔父は残念そうな顔つきながらも頷く。
現在リーグ途中のウインターブレイクではあるが、プロである鷲介が冬休みのような長い期間休むわけもない。特にチーム状況が悪いところは休み期間を短縮するといったこともある。
「まぁハンブルクFには知り合いもいますしチームに馴染むのはあまり難しくないと思いますよ」
大仰に心配する祖父に不安そうな颯太や祖母を励ますように鷲介は言う。事実、レンタル先のチームの中でハンブルクFに決めた理由の一つが顔見知りがいるのと同じ日本人──現役の日本代表──がいるというものだ。
「バンバンゴールを決めますから、楽しみにしていてください」
鷲介は周りを見渡し、にかっと笑みを浮かべた。
◆◆◆◆◆
「やぁ鷲介。今日は早いね」
「お前さんはいつも通りだなぁ」
借りているスポーツジムの扉が開き、鷲介と同年代ぐらいの少年が姿を見せる。短く刈り上げた髪と人懐っこい雰囲気の少年だ。
彼は鈴村隆俊。鷲介が小学校に入って最初の友人であり共にサッカーを始めた親友だ。また鷲介が日本にいる間所属していたサッカークラブ『サンライト赤翼SC』では共にレギュラーとして活躍し、全日本ジュニアサッカー大会やU-12デザフィアンテカップではチームの上位入賞に尽力した。
鷲介ほどではないがサッカー選手として非凡な才を持っていた彼は全日本ジュニアサッカー大会のあと、Jリーグ1部の横浜グランマールのジュニアユースにスカウトされ、今現在そのユースチームのレギュラーとして活躍している。ちなみにU-17日本代表候補に選出されたが落選している。
「さて、今日も始めるとするか」
ジャージ姿の二人に向かってそう言うのは同じくジャージ姿のライナーだ。手元にはRバイエルンのフィジカルコーチが用意した、隆俊がクラブのフィジカルコーチと相談して作ったフィジカルトレーニングメニューが書かれている。
この資料があるのも帰国前、連絡を取り合っていたからだ。鷲介と隆俊はドイツへ渡った後もPCや電話などでこまめに連絡を取り合っており、正直なところ離れていると思ったことがあまりないほどだ。
資料とライナーの指示の元、始まるトレーニング。一つのメニューにかける時間は短いが種類が多いトレーニング。インナー、そしてアウターマッスルを程よく鍛え、寒い冬の空気の中にある鷲介たちの体を熱くする。
二人は無駄なお喋りは無く黙々とトレーニングメニューを消化していく。一時間だけだったが、長時間のフィジカルトレーニングが体に悪影響なこと、短時間で集中した方が効率がいいことを共に熟知しているためだ。
「それじゃあ俺は先に帰っているからな」
「うん。今日もありがとうライナーさん」
排気音を鳴らして遠ざかっているライナーのレンタル車を見送ると二人は同時に歩き出し、どこにでもいる若者らしく他愛ない話を続ける。
そして歩くこと20分ちょっと、鷲介の眼前に目的地が見えてきた。赤翼スポーツ公園競技場だ。
入り口で利用券を購入し、管理人に一言告げてロッカールームへ。用意していたスパッツにTシャツに着替えてグラウンドに出る。
人工芝のピッチでは小学生ぐらいの少年たちがボールを追っている。どうやらゲームの最中らしい。そして彼らを見守る大人が三人。
数年前と変わらぬ顔ぶれに鷲介は小さく笑みを浮かべ、彼らに近づく。そしてこちらの足音に気が付き振り返った彼らの内二人は大きく目を見開く。
「鷲介! 隆俊!」
大きな声で鷲介たちの名前を呼んだ毛深いあごひげを生やしている男性は犬塚賢介。サンライト赤翼SCのコーチだ。
「……ああ、そういえば今日来るんだったね」
四角い眼鏡をかけ、淡々とした口調の痩せ細った男性は猿谷和巳。賢介と同じコーチだ。
「久しぶりだね、二人とも。元気そうで何よりだ」
三人の中で唯一驚かず、そして一番若々しく温厚そうな雰囲気の彼がサンライト赤翼SCの監督、羽鳥雅彦だ。三人の中で唯一元プロでありJ1にいたこともあるという。
「お久しぶりです皆さん。ところで練習はもう終わりですかね?」
「ああ。このミニゲームで最後だよ」
改めてピッチに目を向ける。大人のゲームで使われるフィールドを半分に分け、その片面で16名の少年たちがちょこちょこと動き回っている。それを見て鷲介は懐かしさに目を細め、思う。
(ここが俺のサッカーの始まりだったな)
鷲介がこのクラブに入ったのは小学三年生になる直前だ。最初はJリーグの下部組織のチームに入りたいと生意気なことを父や祖父に頼んでいたが、家からも近く地元のクラブと言う事でここに入ったのだ。
正直なところ落胆はしたが、数日も経たないうちにそんな気持ちは吹き飛んで行った。監督の練習は決して優しくはなかったが、それ以上にぐんぐん上達する自分が嬉しく、そしてサッカーが愉しく思えてきたからだ。
ボールを追う少年たちを見ながら、鷲介は思う。かつて自分もああだった。いつか自分のようにプロになるのだろうか。そして味方、もしくは敵チームの一員として出会うのだろうかと。
少年たちがボールを追っているのを見ているとあっという間に練習は終わり、少年たちは監督である羽鳥の元へやってくる。何人かが自分たちの素性に気付いたのか大きく目を見開いているが、羽鳥の教育がしっかり行き届いているのか声は上げない。
「今日は前もってお知らせしていた通りスペシャルゲストを招いています。赤翼サンライトSCのOBの二人、横浜グランマールユースの鈴村隆俊選手とRバイエルンの柳鷲介選手です」
羽鳥の言葉に少年たちは2つの反応を見せる。鷲介の素性に気が付いていた少年らは、即座に立ち上がると鷲介の元へ駆け寄ってくる。そして気が付いていなかった少年らはぽかんとし、しかし先に駆け寄っていた少年たちに遅れを取るまいと走ってくる。
「ほ、本当に柳選手ですか!? うわー、ほ、本物だ!」
「すっごい太い脚。これがプロの体ですかー!」
「サ、サイン、サインください! ええっと、このTシャツにお願いします!」
わらわらと群れてくる少年たちへ鷲介は微笑しながら対応する。こういう場面は過去に幾度かあったので対処にも慣れているのだ。
しかしすべての子供たちが最初に鷲介に寄ってきたわけではない。特に高学年と思われる少年たちは最初に隆俊の元を訪れている。
「お久しぶりです鈴村さん」
「最終節の試合、惜しかったですね! 来季もこの調子ならプレミアリーグイーストの優勝は狙えるんじゃないですか?」
「前に教えてもらったトラップのコツでトラップが大分上手くなりました。ありがとうございます!」
隆俊は少年たちへ目線を合わせ彼らの話一つ一つを聞いては頷いている。相変わらずの面倒見の良さを見て鷲介は微かに頬を緩ませる。
クラブのOBとしてたまに練習を見に来ているというのは話には聞いていたが、思った以上に慕われているようだ。
「さてと、せっかくわがクラブの偉大なるOBがやってきたのです。最後に我々監督コーチとクラブOB合同チームと対現役の赤翼サンライトSCのメンバーとでミニゲームを行いましょうか」
監督の提案に少年たちはびっくりするが、即座に子供らしい元気のいい「はい!」という返事が返ってくる。
というわけで鷲介たちと現役赤翼サンライトSCとのミニゲームが始まる。子供たちに対して鷲介たちは五人だが現役のプロ選手と元プロ選手、現役のユース選手に高校、大学で結構有名だった二人が加わったチーム。本気を出せばひとひねりだろう。
とはいえ当然そんな大人げないことをするはずもなく、全力で来る子供たちの気概を奪わない程度に力を出してプレイをする。もちろんサブを含めた全員を相手にする。
(昔と変わってない。いい雰囲気だ)
子供たちはレギュラー、サブどちらも一つ一つのプレイに対して真剣だ。鷲介たちの動きに何度翻弄されても食らいついてくる。
一つのプレイに全力を尽くせ。このクラブのモットーだ。鷲介のサッカーに強く根付いているそれを彼らもしっかりと受け継いでいるようだ。
「あ、あの柳選手、聞きたいことがあるんです」
ミニゲームが終わりクラブが用意していたボトルに口をつけていると、眼鏡をかけた少年が声をかけてくる。
背丈や雰囲気から見るに小学五年、六年と言ったところか。先程のミニゲームではレギュラーチームに入っており、鷲介のマークの一人だった。
「俺に答えられることなら答えるけど、何かな?」
「どうやったら柳選手みたいにプロサッカー選手になれますか」
その質問に鷲介は目を丸くする。そして一拍間を置き、思わず少年を凝視する。
「あ、あの。どうかしましたか? それとも僕、何か悪いことを」
「ああいや、そうじゃなくてね。ごめん、なんでもないんだ」
慌てる少年に鷲介は安心させるように微笑む。凝視してしまったのは一瞬、ほんの一瞬だけだが彼が過去の自分に見えたからだ。
「えっとね、プロになるには色々な要素があるけど大事なのは2つ。まず自分がどうありたいかをイメージし、その方法を常に考えることだね。
そしてもう一つが当たり前のことだけどプロに成る為の努力を怠らないことだ。これはサッカーだけじゃなくいろんな面での努力が必要だよ。
例えば将来海外に行きたいと考えているなら少しずつでいいから言葉の勉強を始める、またはその国について知っておくとかね」
ふんふんと真面目な顔で頷く少年。気付けば周りにいる子供たちもこちらを凝視している。
「それとこれだけは言っておくよ。──たとえ今俺が言ったみたいなことをしてもプロになれるわけじゃない。むしろなれない人の方が圧倒的に多い」
少年の顔が凍りつくが、鷲介は続ける。かつて自分が言われたことを。
「でもそうしなければ、努力を続けなければ決してなれない。プロになった人は誰もが相応の努力をしたし、今もし続けているのだから」
「柳選手もですか……?」
「もちろん。俺は今の現状に少しも満足していない。だからレンタル──武者修行に出るのさ。より強くなって理想の自分になる為にね」
きかっと笑みを見せる鷲介。そこへ雅彦がやってきて言う。
「おやおや、あのやんちゃ坊主だった君が少しはプロらしいことを言うものだね」
「雅彦さん……」
「南くん、先程の金言にもう一つ付け加えるなら、周りの人々の協力も必要だよ。クラブの監督やコーチはもちろん家族のもね。
何かわからないことや困ったこと、相談事があれば遠慮なくするといい。”プロ”サッカー選手は一人ではなく、大勢の人がいて初めてなれるのだからね」
優しく少年の頭を撫でる監督。昔、鷲介もやられたそれを見て微笑する。
(昔の俺もこんな感じだったのかね)
まだ鷲介がこのチームにいたころ、監督の知り合いのプロサッカー選手がやってきたことがある。
彼は今日の自分たちのように当時のメンバーとボールを追いかけてくれた。プロとしての対応も素晴らしかった。
そして彼に自分は眼前の少年と同じような質問をしたのだ。──そして先程鷲介が語ったことを言ってくれたのだ。
(あの人に会えるとすればA代表の試合か、CLかだな)
ちなみに件の人物は現役であり、世界トップレベルのストライカーとして欧州のクラブで名を馳せている。
「あ、あの柳さん。おれもききたいことが!」
「僕も!」
先程のように群がってくる子供たち。ほぼすべてのクラブの子供たちに囲まれてしまった鷲介は思わず監督たちと親友らに救いの視線を送る。
しかし彼らはニヤニヤと笑みを浮かべるだけで動こうとはしない。それどころか、隆俊はこんなことを言う。
「みんなー、次いつ会えるかわからないから聞きたいことは聞いておくといいよ。鷲介くんはなんでも答えるって言っていたから、ばんばん質問しよう」
「隆俊! おまっ」
「ファンサービスもプロの仕事だよ。頑張りなさい柳”選手”」
「監督ー!」
選手の部分を強調して言う雅彦に、鷲介は非難の声を上げるのだった。