予期せぬ逢瀬
大変申し訳ありません。予約投稿をし忘れていました。
それでは最新話、ご覧ください。
「ふぅ……」
「つかれたー」
太陽が中天に輝く空の下、大きく息を吐く由綺とその隣で背伸びをするリーザ。
くたくたといった様子の二人だが、それは由綺たちだけではない。彼女らの周りにいるマルクスに柳夫妻、由綺の母親の恵と兄光昭も似たり寄ったりだ。
とはいえ無理もない。何せここにやってくるまで半日近い時間を要したのだから。
斜め後ろに見える駅はペルージャ中央駅。今由綺たちがいるのはイタリアの中央に位置する都市の一つ、ペルージャ。
ミラノやローマなどに比べたら小さい地方都市なここにいる理由はただ一つ、この都市をホームとするイタリアリーグ一部ペルージャFCのホームスタジアム、スタディオ・レナード・アルベルトにてイタリアW杯のグループリーグ第三戦、日本対イタリアが行われるからだ。
周りを見れば日本サポーターはもちろんイタリアサポーターの姿がどこかしこで見られる。そして彼ら──特にイタリアサポーターからは熱気のようなものさえ感じる。
混雑しないようローマ行き一番の飛行機に乗り列車も指定席でやってきた由綺たちが消耗したのも、もしかしたら彼らの熱意に当てられたせいなのかもしれない。
「さて、とりあえずさっさとホテルに行こう。いつまでもへばっていたらスリに会う可能性もあるからな」
「そうだな。疲れを取るのはホテルにチェックインしてからでも遅くないしな」
マルクスの言葉に光明が同意し、由綺たちはタクシーで予約したホテルへ移動。
が、そこでトラブルが起きた。市内にもかからわず渋滞に巻き込まれ、到着予定時間を大きくオーバーしたのだ。
「明日の試合のせいでしょうな。ペルージャFCの試合がある日や土曜市がある時はよく渋滞するんです。
ですがこれほどの渋滞は滅多にありませんね。おそらくイタリア中から駆け付けたサポーターのせいでしょう」
明日の天気を言うような口調に隣に座る光昭が頬を引きつらせる。
由綺も試合会場があるペルージャについて調べていた時、そう言う事情があるのは知っていたが、その混雑ぶりは予想以上だ。
結局、普通に移動すれば三十分で到着するはずが、倍以上の時間がかかって到着した。
チェックインにも少し手間取り予約した部屋に入ったのは四時近く。部屋に入るや由綺は荷物を置くと、ベットに体をダイブした。
「由綺、だらしないですよ」
母の苦言も耳を通り抜ける。
(あーふかふかで気持ちいい……)
本当ならペルージャ市内を観光するつもりだったのだが、今となってはそんな気は微塵もない。
このまま眠りにつきそうになっていたその時だ、突然由綺の携帯から着信音が鳴り響く。
名残惜しい気持ちを振り切って由綺はベットから体を起こし、バックに入れてある携帯を手に取る。
着信欄を見て軽く目を見開き、小さく息を吐いてから電話に出た。
「もしもし」
「ハイ由綺。久し振りね」
遠慮のない陽気そうな呼びかけ。
電話の主は友人であるクラーラ・フェスタ。兄と同じモデルをしているイタリア美人だ。
しかし彼女はあのイタリアの”ゾディアック”、サルバトーレ・マリオの恋人という顔もある。
「久しぶりですクラーラさん。どうしたんですか」
「んー、そろそろホテルにチェックインしたかなって思ってね。その様子だと渋滞に巻き込まれてへとへとかしら」
「いえ大丈夫です。それで、一体何の用ですか?」
「もしよければ少し会えない? 私も今ペルージャにいるのよ。”センプリチェ”っていうバール(喫茶店)にいるから」
クラーラの誘いに由綺は少し悩むが、せっかくの機会だし了承する。
念のため兄と一緒に指定されたバールに向かう。彼女がいるのはタクシーで移動した街の外れにある小さなバールだ。
店内もお客が十数名程度しか入れない狭さだが、内装は素朴で温かく、菓子類の甘い香りが漂っている。
「あら由綺。その人は」
「こんにちはクラーラさん。こちらは前に話した兄の光昭です」
「ああ、私と同じモデルをやっているという……。初めまして、クラーラよ」
「光昭だ。妹が何かと世話になっているようだな」
店内の奥の座席にいたクラーラを発見し、挨拶をかわす日和田兄妹。
二人が席に座ってすぐ、たった一人のウェイトレスが小皿を運んでくる。
運ばれてきた小皿にはカップケーキぐらいの大きさの菓子が乗っていた。
「これは確か、ミニョンですか?」
「その通り。これならクタクタでも食べられると思っていくつか注文しておいたの」
そう言ってクラーラはバールのメニュー表を由綺に手渡してくる。
ミニョンとはイタリアのバールでよく見るミニケーキだ。フランス語で、「小さい、小型の、かわいい」の意味で種類は非常に多い。
クラーラが注文したそれを口にしながら由綺たちも自分たちの分の菓子やエスプレッソなどの飲み物を頼む。
それらを食しながら雑談する由綺たち。しかしある程度腹が満ちたところで由綺が訊く。
「ところでクラーラさんも明日の試合を観戦なさるんですよね」
「もちろんよ。何せ明日の試合は我がイタリアにとって重要な試合なのだから。
いちサポーターとして駆け付けないわけにはいかないわ」
そう言って笑顔から一転、真剣な顔になるクラーラ。
まるで今から真剣勝負をするような表情だが、そうなるのも無理はない。
グループリーグ第二戦が終わった現在、一位はイタリア、二位は日本、差にはカメルーン、四位はウルグアイ。
しかしこの順位は最終節でどうにでも変化するほど差がない。
その理由は第二戦にある。イタリアはカメルーンと対戦し結果は2-2の引き分けだった。
つまり順位こそ首位なイタリアだが実際はイタリアは勝ち点4、日本、カメルーンが2、ウルグアイが1という状態であり、どのチームもグループリーグ突破と敗退の可能性があるのだ。
(クラーラさんたちから見れば、歯がゆいでしょうね)
死の組と言われているグループAはその呼び名通りの混戦状態となっている。
だが、それでも総合的に見ればイタリアが頭一つ抜けているのは自他ともに認める事実だ。
どのポジションにもワールドクラスの選手を擁し、サブメンバーも優秀な選手ばかり。何より母国開催という最大のアドバンテージがあるのだから。
だというのにウルグアイ戦はかろうじての勝利、カメルーン戦に至ってはまさかの引き分けという結果だった。
由綺たちもイタリアがカメルーンと引き分けたことは驚いた。イタリアにもいくつか問題はあるものの、カメルーンは日本戦の最後で退場した”ゾディアック”、パトリック・ミラが出場不可という大きなマイナスがあったからだ。
しかしそんなカメルーン相手にイタリアは引き分けてしまっていた。
「これまではホームということもあって油断していたんでしょうね。
でも流石にこのような状況なら我がアズーリも本気になるでしょう。
由綺には申し訳ないけど日本にはこのペルージャで大会から去ってもらうことになるわ」
すでに勝利を確信したようなクラーラの言葉。
思わず由綺はむっとし、何かを言おうとするがそれより先に兄が口を挟んだ。
「そいつはどうかね。日本は二戦連続とはいえ内容はとても良かった。
ゴール数も二戦で8ゴール。今のイタリアが、鷲介率いる日本の攻勢に耐えられるかな」
にやにやと笑う兄の言葉にクラーラは不愉快そうに顔を歪める。
錚々たるメンバーを要している優勝候補の一つでもあるイタリア。しかしチーム状況は少し、いやかなり悪いと由綺は思う。
その最大の理由は大会前に主力メンバー数名が負傷しているからだ。
守備の要でありチームキャプテンを務めるロベルト・バレージ、現役世界一と言われるGKのジャンルイジ・ドニ、バッジョと共に不動のストライカーと言われているエミリオ・フェラーラの三人だ。
ウルグアイ、カメルーン戦の苦戦も彼ら三人が欠場したことを要因として挙げるメディアもいる。
「確かに日本の攻撃力は凄まじいわ。でもオノを欠く日本が最終戦でそれが十全に発揮されるかしら」
反撃と言わんばかりのクラーラの言葉。
彼女の言う通り、ウルグアイ戦で負傷退場した小野は検査の結果、イタリア戦は欠場が決まっていた。
怪我自体は軽度だが大事を取って決勝トーナメント1回戦まで休み、戻ってくるのは準々決勝と報じられている。
「それに欠場していた三人は日本戦にはメンバー入りすると監督が明言しているわ。
イタリアはベストメンバーが揃う可能性があるのよ。W杯のを制することさえ可能なあのメンバーに、日本は耐えられるかしら」
「その割にはジャンルイジたちは練習時間は短いみたいだな。映像を見たが調子も上がっていないように見える。
あの様で今の鷲介たちを止められるのかねぇ」
「そう言う日本もエースである小野を欠いて動きに精彩を欠いているように見えるわ。練習の時も士気が上がっていないように見えるし、ご自慢の攻撃陣は本当に機能するのかしら」
「問題ないな。覚醒した中神らがいれば十分すぎる。きっと鷲介と一緒にイタリアのカテナチオを粉砕してくれるさ」
「こちらにもバッジョが、当代最高のファンタジスタがいることを忘れていないかしら。彼のファンタスティックなプレーに日本の守備陣が混乱する姿が目に浮かぶわ」
お互い微笑みながらうっすらと額に青筋を浮かべるクラーラと光昭。
他サポーターと同じく試合前だというのに大いに盛り上がる(?)二人に由綺は小さく息を吐き、漂い始めた険悪な空気を払しょくするため新たに注文しようと声をかけようとした時だ、
「すみません。注文お願いします」
「こっちもだ! 早く来てくれ!」
二方向から同時に声が上がる。それを聞き思わず由綺はそちらへ目を向ける。
二つの声の発生源であるお客は小さく素朴だが品の良い店内の隅の席に座っている。一組は帽子をかぶりサングラスをかけた長い黒髪の短い金髪の男性二人。もう一組も同じくサングラスをした陽気そうな青年と正面に座り頭を痛そうにしている真面目そうな男性だ。
「……ん?」
「まさか」
突然聞こえる疑惑を帯びた二つの声。
兄とクラーラを見れば前者は長い黒髪の短い金髪の男性たちに、後者は陽気と気真面目な二人を見つめている。
「二人ともどうしたんですか」
「由綺、お前あの二人の声──特に金髪の男の声、聞き覚えがないか」
「え? ……兄さん、それは考えすぎですよ」
兄が何を言いたいのか由綺はすぐに察し、しかし苦笑して否定する。
先程由綺が反射的に振り返ったのは注文した金髪の男性の声の声が鷲介に似ていたからだ。
が、すぐにこんな所にいるわけはないと考え直した。グループリーグ最終戦を明日に控えた今日、日本代表のエースである鷲介が外を出歩くなど考えられないからだ。
「今の馬鹿そうな声。マリオに似ているわね」
「クラーラさんも気にしすぎです。いくらマリオさんでも大事な明日の試合を控えているのにバールに来るなんて真似はしませんよ」
「いやするわよあのバカは。というかこんな状況だからこそ気分転換でもするやつよ」
そう言ってクラーラは椅子から立ち上がり、陽気な青年たちが座る席に歩いていく。
対面に座る真面目そうな男性に明るい口調で一方的に話しかけている金髪の青年。近づいてくるクラーラに気付き、そして固まった。
(ええー……)
怒気すら漂わせるクラーラとそれを見て大いに狼狽える二人組。
どうやらあの様子を見るに彼女の予感は的中したようだ。
「由綺、行くぞ」
「え、ちょっと兄さん」
驚き呆れる由綺の声に止まらず兄が席を立ち、黒髪と金髪二人の席へ。
慌てて兄を追った由綺は、こちらを振り向いた金髪の男性と目が合う。
そして、確信した。
「鷲君」
「あ」
間の抜けた声を発し身じろぐ金髪の青年。
それと同時にサングラスと金髪の青年の髪がずれてその下から黒髪が露出し、ずれ落ちたサングラスから見えた瞳は由綺がよく知る鷲介のものだった。
◆
「さて、場所も移動したことだし聞かせてもらいましょうか。
どうしてこんなところにいるのかしら」
両腕を汲み、見下すような傲然とした態度のクラーラ。それを前にサングラスを外したマリオとアドリアーノは身をすくめている。
「俺にも聞かせてもらおうか鷲介。兵藤選手と二人で一体何をやっているんだ」
呆れを隠さない兄の態度。変装を解いた鷲介と兵藤はちょっと怒ったような表情を浮かべている。
六人がいるのは”センプリチェ”近くにある教会の裏手だ。マリオらを見つけたクラーラは問答無用で二人を連行し、由綺たちもそれに続くことになったのだ。
「明日は大事な、とても大事な試合なのよ。のんびりとスイーツを食べている余裕があるのかしら」
「聞いてくれクラーラ。確かに僕もそう思った。明日は母国のプライドと歴史、何より応援してくれているイタリア国民全てを喜ばせるか悲しませるかの瀬戸際の試合だと。
でもだから、そうであるからこそ、気分転換もまた必要だと思った。──だから”センプリチェ”にやってきて英気を養おうと思ったんだ」
「へぇ、そうなの。ところで何を注文しようとしていたのかしら」
「トルタサケルだね! 最近売りに出されたばかりの新作と聞いて、いてもたっていられなくなったんだ!」
「完全にケーキ目当てじゃないのー!」
「いへへへへへへへ!」
「お、落ち着けクラーラ! マリオの頬がもげる!」
眉を吊り上げたクラーラがマリオの頬を引っ張り、それを慌てて止めに入ろうとするアドリアーノ。
そう、マリオといたもう一人の青年はRバイエルンユースで鷲介と同期であり、U-17W杯にて対戦したアドリアーノ・ヴィエラその人だ。
U-17W杯当時、二部でプロデビューを果たした彼だが現在は藤中や兵藤と同じペルージャFCに所属。
今季はリーグ戦で10ゴール10アシストと言う見事な成績を残しており、そのためかイタリア代表に大抜擢されていた。
「非常に不愉快ですが俺たち二人もマリオらと同じような理由ですかね。
最後の練習もミーティングも終わり最終節を明日に控えた今日、決戦前の息抜きをしようと思って」
「そんな話をしているのを偶然聞いた俺が”センプリチェ”に連れてきたんです。
”センプリチェ”の菓子類はどれも美味しく特にチョコレートを使ったものは絶品。ここ二戦の疲労も取れるというものです。
──まぁ実際そうなるかどうかはわかりませんが。気分的に癒されます、俺は」
「確かに。さっき食べたチョコレートのミニョンは美味しかったよな。濃厚なのにさっぱりしていて」
満足そうな笑みを浮かべる兵藤に鷲介も頷く。
「……もし素性がバレた時のリスクは考えなかったのか」
「それは問題ありません。”センプリチェ”はペルージャにあるバールの中でも小さく素朴なお店。
試合前に俺もやってきますが騒がれたことはほぼありませんし。アドリアーノがマリオと一緒に来たのもそのあたりが理由でしょう」
「父さんが務めている店やグスタフの実家のような店は本当に助かるよなぁ」
「事情は分かったけど鷲君、そろそろマリオさんたちを助けてあげない?」
由綺の言葉に鷲介はもちろん兵藤もイヤな顔をするがしぶしぶと言った様子で頷く。
そしてアドリアーノと協力してクラーラとマリオを引きはがした。
今まで頬を引っ張られ続けていたマリオは赤くなったそこを何度もさすった後、キッと眉を吊り上げてクラーラに言う。
「ひ、酷いじゃないかクラーラ。いくら君でも少しやりすぎだと僕は思うけど僕の迂闊な行動が君の気分を損ねたんだねごめんなさいでも決戦前に気分転換は必須だと思うからこのぐらいで勘弁してくださいお願いします」
夜叉のような雰囲気を放つクラーラに放ったマリオの怒りの言葉が即座に謝罪と言い訳へ変化する。
それだけで二人の関係がどのようなものか、察せられるというものだ。
「マリオ、こう見えても私は心配しているのよ。イタリア以上にあんたのことを。
ここ二戦のやらかしでで散々メディアから叩かれているでしょうあんたは」
息を吐き、そこで始めてクラーラは眦を下げる。結局のところ、彼女の怒りの原因はそれだ。
二戦を終えて1勝1引き分けのイタリア。ギリギリと言うべき試合展開となったその二試合の最大の理由とされイタリアメディアを騒がせているのが、マリオだ。
どのポジションでもこなせるマリオはバレージ達守備の要を欠いている今大会、DFとして出場していた。そしてウルグアイ、カメルーンどちらの試合でも失点に大きく絡んでしまっていた。
ウルグアイ戦の2点目だ。同点に追いつき勢いが増したウルグアイの放つカウンター。アルベルトが出したピンポイントパスマリオはインターセプト、すぐに近くにいた仲間にパスを出した。
が、そのパスをペドロが飛び出して奪い、オフサイドにならないギリギリのタイミングで飛び出したフェデリコへパス。フェデリコのシュートは防がれはしたがこぼれ球をアルバロに押し込まれてしまったのだ。
そして次のカメルーン戦の1点目。これがマリオが批判されている最大の要因と言ってもいい。
イタリアは前半で2点取っており、後半20分まで2-0を維持していた。しかしカメルーンのGKサロモンが放ったイタリアゴール付近まで飛んだ超ロングパス。
それをマリオはクリアーしようとしたが、なんと彼は落下地点を見誤りそのボールを近くにいたサミュエルに搔っ攫われ、彼にゴールを許した。
ウルグアイ戦と違い、言い訳の余地が一切ない大チョンボ。試合終了後サポーターからは凄まじいブーイングを浴びせられていた。
「いつも通りな姿を見て安心はしたけどいつも通り過ぎるわ。心配した私が馬鹿みたいじゃない……」
クラーラの思いが痛いほどわかり、思わず由綺は頷く。
そしてクラーラの今の姿が珍しい光景なのかマリオは目を丸くしている。が、すぐに表情を彼は改める。
マリオは笑顔になると両腕を広げ、クラーラを優しく抱擁する。
「ははは、ありがとうクラーラ」
「何で笑顔でお礼を言うのかしら……?」
「僕にとって最も身近な君がそう思っているってことは、他の皆もそう思っているだろうからね」
そう言うマリオの顔を見て、由綺ははっとする。
クラーラを抱きしめている状態で見せた嬉しさと申し訳なさが同居した表情。
これを由綺もよく知っている。鷲介が試合でやらかした時に見せる空元気と言うべき顔だ。
いつも通りに見えたマリオ。だがやはり二戦での失態は心身ともに堪えていたようだ。
「僕もいろいろと思い悩んではいるよ。でもこの状況でそれを口に出すべきじゃない。それを面に出せばいろんなものが台無しになってしまうからね。
すべては明日の試合──いや、この大会が終わった後に話すから、その時はきちんと聞いてほしいな」
「マリオ……」
抱擁を解いて至近から見つめて言うマリオに、クラーラは口を開きかけるが閉じ、そして今度は彼女からマリオを優しく抱きしめる。
慰めるように励ますように、クラーラがマリオの背中をポンポンと叩き、二人は離れた。
「わかったわ。その代わり残りの試合、全力で頑張りなさいよ。
そのために必要なことはまぁ、目を瞑ってあげるから」
「ありがとうクラーラ。君は最高の恋人だ」
多少の不満はありつつもしょうがないというような顔のクラーラにマリオが微笑む。
どうやら仲直りはすんだようだ。そう由綺が思っていると、
「やっぱり流石のお前も多少は堪えていたみたいだな。
まぁ無理もないか。どちらの試合でも失点に絡んでいるわけだし」
二人の間に漂い始めていた暖かな空気を吹き飛ばすような発言をする鷲介。
彼は挑戦的な、戦意に満ちた笑みを浮かべ、言う。
「そして残念だが明日の試合は気落ち程度にすませる気はないぞ。──もう俺に敵わないと思うぐらいのトラウマを植え付けてやるからな」
まるで今試合中のような顔になる鷲介に由綺はもちろん、クラーラもわずかに怯えるような顔になる。
そんなクラーラをマリオは優しく横に置き、微苦笑して鷲介と対峙する。
「怖いなぁ。今の君なら本当にそれができてしまう可能性があるからね。例えアズーリが万全な状態だとしてもね」
試合前だというのに気弱な発言。もしサポーターやチームメイトに聞かれていたら大騒ぎだろう。
マリオは鷲介に向けている表情を穏やかなものに変える。微風のように穏やかな、朝日のように暖かな落ち着いた顔。
「でもそうなったとしても、最終的に勝つのは僕たちイタリアだよ。
明日の試合を見る全てのイタリア国民のため、僕の大事な大事なアモーレであるクラーラのため。
僕らアズーリは一切手を抜かず、全力で君たちを叩き潰す」
だが鷲介を見つめる彼の眼差しは表情とは全く違う。凄絶、勇猛と言うべき光に満ち満ちている。
そんなマリオに見つめられて鷲介も表情をより厳しくする。それを見て思わず由綺は一歩後ずさり、兵藤とアドリアーノが緊迫した顔になる。
今まさに戦いを始めそうな二人の”ゾディアック”。だが二人は同時に笑みを浮かべ、揃って歩き出す。
「おいマリオ、鷲介、どこへ行くんだ」
「”センプリチェ”に戻るんだよ。来たばかりであそこの菓子を全然堪能していないからな」
「思う存分食べてしっかりと英気を養わないとよ。──明日の試合に勝つために、ね」
アドリアーノにふり向かず答える鷲介とマリオ。
歩いていく二人を見て兵藤とアドリアーノ二人が同時に肩をすくめる。
「やれやれ。気分転換のためにわざわざ外に出てきたのに」
「全くだ。まるで意味がなくなったな」
二人の言葉に由綺は思わず頷く。
ライバルとの出会いにすっかり火がついてしまったのだろう。二人の雰囲気は試合中のそれだ。
「私たちも行きましょ」
「そうですね。こうなったら二人が食べ過ぎないようしっかり見ておかないと」
「そうね。食べ過ぎでコンディションを崩したなんて、目も当てられないことにならないようにね」
かつてヨハンの誕生日パーティで起こった一幕が脳裏をよぎり呟く由綺にクラーラは首肯。二人の後を追うのだった。
◆
「それじゃあね鷲介」
「明日、スタディオ・レナード・アルベルトのピッチで会おう」
「チャオ」
夕闇の影が覆い始めたペルージャ市街の中、マリオ達三人は背を向け立ち去っていく。
それを見送り由綺は改めて腕時計で時間を確認。時計の針は午後五時を過ぎている。
(鷲君たちもそろそろ帰るかな)
マリオと鷲介がケーキを貪り食う──大食い競争一歩手前のような光景──様を見ている中、兵藤がホテルの門限が六時と言っていた。
正直名残惜しさはあるが明日の大事な試合を控えている以上、これ以上一緒にいるのは良くない。
由綺はそう思い別れの挨拶をしようとしたその時だ、
「さて、それじゃあ俺たちもそろそろ」
「悪い柳。ちょっと買うものがあったことを思い出した。
30分ぐらいしたら戻るからこの近くを適当に散策していてくれ」
「兵藤?」
「由綺、俺もちょっと古着屋に足を運ぶ。
本当は試合後にでも寄ろうと思ったがすぐ近くみたいでな。鷲介と一緒にぶらついていろ」
「兄さん?」
唐突な兵藤と兄、光昭の言葉に由綺はもちろん鷲介も目を丸くする。そして二人はこちらが静止する間もなく逆方向に分かれていってしまった。
置いて枯れたように立ち尽くす二人。少しして鷲介が呟く。
「これは気を使われたか」
「だね」
嘆息する鷲介の横で由綺は微苦笑を浮かべる。兄の発言は全く寝耳に水だ。
「とはいえせっかくだ。どこかに行くとするか」
「30分でこの辺りで行けそうな場所あるかな」
デートをするには短すぎるし時間帯も遅い。
由綺はスマホの画面で周辺を確認すると、
「アウグストゥスの門ぐらいしかないかなぁ。……行ってみる?」
「せっかくだし行くか」
鷲介の言葉に由綺は頷き、彼と共に歩き始める。
5、6分ほど歩き到着したアウグストゥスの門。通称エトルリア門は夕方ということもありライトアップされている。しかしそれを見て由綺はあんぐりと口を開けた。
「はー……」
ペルージャを調べる最中チェックはしていたが、間近でみる門の大きさと迫力は写真のそれとはまるで違っていたからだ。
紀元前2世紀に造られたというのに目にして思うのは巨大、堅固、頑強と言った単語ばかりだ。
そしてこれを見て自然に由綺は明日対戦するであろうイタリアのことを連想してしまう。
負傷者が戻ってくると言われているイタリア。その堅固な守備はイタリア代表に名付けられた”カテナチオ”という字に相応しいものだ。
はっとして隣の鷲介を見ると、彼もいつにない厳しい視線をエトルリア門に向けている。
おそらく明日の試合で相対するイタリア代表の守備陣とそれを構成する幾人もの難敵を想像しているのだろう。
「明日は厳しい試合になる」
ぽつりと鷲介は呟く。
「俺たちのいるグループAはどの国も決勝トーナメント進出の可能性を残している。
イタリアは一番有利な立場だが、それも薄氷だ。明日の試合は打てる手はすべて打ってくるだろうな」
鷲介の静かな声を由綺は黙って聞く。
そしてそれが終わったところで由綺は彼に向き直り、問う。
「鷲君」
「何だ」
「勝ってね」
普通なら励ましたり労わりの言葉をかけるところだろうが、あえて由綺はこう言う。
今の鷲介──覇気と戦意に満ちた表情を浮かべる彼にはこういった方が効果があると思ったからだ。
そして鷲介もまた由綺に向き直り、笑みを浮かべる。
強い自負に満ちた笑み。それを見て由綺も微笑む。
「勝負に絶対はない。だが勝つために死力を尽くすさ。
小野さんがいないというマイナス点も英彦さんがカバーしてくれそうだし、俺も万全のコンディションで臨めそうだからな。
相手がイタリアだろうがどこだろうが、負ける気はないな」
カメルーン戦とウルグアイ戦。フル出場したこの二試合で鷲介は消耗したらしく、ウルグアイ戦後の二日ほど全体練習に全く姿を見せなかった。
ただしっかりと休養を取ったかいはあったのか、練習場に姿を見せた鷲介の動きは──TVの映像越しだったが──由綺がよく知る調子のいい鷲介の動きだった。
そんな彼を見て由綺は安心し、そして今日会って改めて胸の内に会った不安は奇麗さっぱり解消された。
「それに勝たなければ俺たちは自力での突破はない。
もし引き分ければカメルーンとウルグアイが引き分けた上、カメルーンの総得点が俺たちを上回らない限り決勝トーナメントには行けないからな」
最終節どちらも引き分けた場合日本とカメルーンが勝ち点3で並ぶ。だが総得点では日本が2点上回っているため決勝トーナメントへ行ける。
しかし仮に日本がノースコアで引き分け、カメルーンとウルグアイの試合が3-3などで終われば逆転でカメルーンが決勝トーナメント進出ということになる。
可能性としては低い。だがこの組ならばそうなっても不思議ではない。
「それに三戦連続での引き分けなんて御免だ。いい加減しっかりと勝たないとな」
そう言って鷲介は再びエトルリア門を見据える。
先程と同じ勇ましい表情の鷲介。由綺が惚れた男の顔。
それを見て由綺は鷲介の顔を掴むと背を伸ばす。
「──」
鷲介の右頬にそっと唇を触れ、すぐに離れる。
目を丸くした鷲介に由綺はいらずらっぽく笑い、人差し指で鷲介の唇をなぞる。
「ここには試合に勝利したらね」
由綺の言葉に鷲介は苦笑する。してやられたというような顔だ。
しかし次の瞬間、彼は距離を詰め、由綺の唇を奪う。
突然の行動に驚く由綺だが、すぐに目を閉じて彼に寄り添い、背中に手を回す。
久しぶりの口づけはとても長く感じられる。そしてそれに由綺は己の想いを注ぎ込む。
ゆっくりと唇を話す二人。軽く一息ついた鷲介はいたずらが成功した子供のような顔で言う。
「悪いな由綺。前借りだ」
「仕方ないなぁ」
由綺は柔和に微笑み、もう一度恋人と口づけをかわす。
彼の勝利を、無事を願って。
リーグ戦 24試合 18ゴール10アシスト
カップ戦 3試合 3ゴール4アシスト
CL 10試合 18ゴール4アシスト
代表戦(三年目)2試合 3ゴール1アシスト
W杯 2試合 5ゴール1アシスト
 




