遠距離恋愛が始まるその前に
その日僕は空港行き電車の二列シートに座り、外の流れる景色をぼんやりと眺めていた。
隣の窓側席では、もうすぐ旅立つ彼女がうたた寝している。
少し傾き始めた日の光が、彼女の髪を優しく光らせていた。
そんな彼女を見ながら、僕はあの時のことを考えていた。
内定の連絡、就職活動の終わり、遠くの地へ行く決断、つまり遠距離恋愛が始まることが決定した時を。
彼女にはどうしても叶えたい夢があって、その一つだけをずっと以前から追いかけて、こだわって、目指してきた。
だからこそ僕自身も、彼女の背中を押してあげなければと思った。
「やっと内定をもらえたんだけれど、すごく遠いの。どうすればいいかな?」
そんなこと決まってる。
やっと手にした夢の実現を、僕が邪魔するわけにはいかない。
何より、彼女を祝福してあげたかったし、彼女が長い就職活動でもがき苦しむのを終わらせてあげたかった。
「とりあえず、内定が一つ出たから地元の会社も受けてみたら?」
しかし僕の口からは自然と個人的願望が流れ出ていた。
「えー! やっと長い就活地獄から抜け出せると思ったのに!」
「すみません冗談です。そこで決まりで大丈夫です。よくがんばったね。マナおめでとう!」
あの時、遠距離恋愛の始まりが決定付けられた。
「瞳、実はけっこう茶色かったんだね」
ふと目を覚ました彼女が僕のほうをじっと見て言った。
日は、より西の方に降りてきたみたいだ。
「そうなんだ。地毛もちょっと茶色いし、全体的に色素が薄いのかも」
僕はそう言いながら、髪の毛を軽くつまみ上げた。
「私のほうが髪も瞳も黒かったんだね。初めて気付いた」
そう言って、彼女は頭を僕の肩にのせてまた眠りについてしまった。
本当、よく寝るな。
ちょうど付き合い始めてから二年が過ぎた。
今までもよく、隣でうたた寝してたっけ。
僕はそんな彼女の寝顔を横から眺めているのが好きだった。
そんな彼女の横で、数日前の最後のデートを思い出していた。
大きなアーケード商店街で、ひたすら食べ歩きながらおしゃべりしていた記憶が蘇った。
「今日は食べたいもの全部食べてまわろう」
「ぜいたくー!」
彼女は目を輝かせながら楽しそうに言った。
「マナの夢が叶ったお祝いも兼ねているからね」
「ありがとうございます」
「やっぱり最初のデートで神社にお参りしたのも効いてるよね」
「しっかり願いごとを書いてきたからね」
「私の頑張りもありましたけどね!」
「はいはい、よく頑張りました」
そんなおしゃべりをしながら、あの日僕たちは楽しい時間を過ごした。
そういえばあの神社にもお礼参りしに行かなくちゃな……。
そのうちに、電車は終点の空港駅に到着した。
空港は、大勢の旅行者や見送りの人たちで賑わっていた。
「とりあえずまだ時間あるから、ちょっとぶらぶらしてご飯でも食べようか」
「うん」
二人で空港の案内板を見て、どこに行こうか考えた。
「そういえば私、未だに台湾ラーメンって食べたことない」
「あれ、そうだったの? それならそれにしようか。でもあれけっこう辛かったよ?」
「大丈夫。私辛いの得意だから」
「なにその自信」
「得意だから!」
自信満々で彼女が答えたので、さっそく僕たちは早めの夜ご飯を食べることにした。
「辛ーい!」
やっぱり、台湾ラーメンは辛いもの好きな彼女にもじゅうぶん辛かったみたいだ。
「だから言ったじゃん。そしたら、口直しにソフトクリームでも食べようか。僕も何か飲み物ほしいし」
「うん、食べる食べる」
それから僕たちは展望デッキのベンチに座り、ソフトクリームを食べた。
三月の海風はまだ少し肌寒い。
「遠距離恋愛なんて、耐えられるかな」
と、僕はちょっと甘えたことをつぶやいてみたら、彼女はあっさりとこう答えた。
「遠距離恋愛が長続きしにくいのは、女性よりも男性が先に寂しさに耐えられなくなって、新しい恋に走っちゃうからなんだって」
「新しい恋なんてしませんよ」
「だって友だちがそう言ってたよ。ふふふ」
と、彼女は笑って言った。
「でも遠距離にもさ、メリットというか良いこともきっとあるよね」
僕はこれからの日々にせめてもの希望を持って言った。
「例えば?」
「例えば……なかなか会えない分、会えた時は今までより幸せな時間を過ごせる、とか」
「それから?」
「それから、次に会える日を目標に日々をがんばれる」
「それから?」
「あとは、一人でいる時間を充実させて、お互いに自立した人間になれる……とか?」
僕は考えついただけのメリットを述べた。
インターネットで得たような情報も入っていたけれど。
「じゃあ、近いうちに必ず会いに来てね。まずはそれまでがんばるから」
と彼女が言ったので、
「うん、来月には会いに行けるようにするよ」
そう答えた僕もまずはそれまでがんばらないと、と思った。
「待ってる」
「それまではメールと電話だね」
「それも待ってる」
展望デッキを通り抜ける風が二人の顔を撫で、髪を揺らした。
ふと僕は彼女に言った。
「いつかこっちにまた戻ってきたらさ」
「うん」
「そしたら……またいつでも好きな時にデートしようよ」
「休みのたびに会いに来てくれれば、これからいつでもデートできるよ」
「行けるか!」
「えー、来てくれないのー?」
「物理的かつ経済的に大変厳しい提案です!」
やれやれ、どれだけ遠いと思ってるんだ。
”いつか”……それが本当にいつのことになるのか、僕たちには知る由もなかった。
そして彼女はちらっと時計を見た。
「あと十五分で行かなきゃ……」
「よしよし、がんばれよ」
僕は彼女の頭を撫でてあげた。
しばらくはこんなこともできなくなるんだな……。
そう思うと途端に激しい寂しさに襲われてしまいそうになった。
「うわーん、行きたくなーい!」
「今更なに言い出した!?」
「やだー!」
「やれやれ、もう少しの間こうしててあげるから元気出して」
本当はもっと気の利いたことを言ってあげたかった。
検査ゲートの前で彼女がスプリングコートを脱いでいる間に、僕は彼女の荷物を預かって、その隙にバッグに手紙をすべりこませた。
彼女には気付かれなかったようだ。
想定していた通り、この旅立ちの瞬間、送り出す瞬間、まさに今のこの瞬間に伝えられる言葉は限られてしまう。
手紙に気持ちを写しておいて良かったと思った。
「じゃあ行ってらっしゃい。元気でがんばるんだよ。いつも応援してる。」
「うん、ありがとう。行ってきます。」
せめてもの挨拶として、というか気持ちを込めた自分なりの精一杯の愛情表現として、ハグをして送り出した。
「行ってらっしゃい!」
「行ってきます!」
検査ゲートを抜け、一度だけ彼女はこちらを振り向き手を振った。
今までデートをしても、別れ際に振り向くことなんてなかったから少し意外だったけれど、僕はもう一度手を振り、彼女の後ろ姿をずっとその場から見守っていた。
彼女はいつあの手紙に気が付くだろうか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
マナへ
たまには手紙でも書いてみようかと思います。
まずは、夢の実現本当におめでとう!
僕たちが付き合うずっと前からマナが夢のためにがんばってきたこと知ってるから、内定が出た時は僕自身もとても嬉しかったです。
一緒に神社にお参り行った時に、神様にお願いした甲斐があったね。
これから遠距離恋愛がスタートするけれど、ちゃんと会いに行くからね。
僕は遠くからいつも応援してます。
夢のためにしっかりがんばれ!
いつまでもマナのことが大好きです。
行ってらっしゃい!
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
行ってらっしゃい。
がんばれ。
さよならではないけれど、またいつも一緒にいられるようになるその日まで……。
そして僕は今、少しの願いと少しの切なさを胸に電車の窓から夜空を見つめている。
完