1:裸足の恐怖と世界の歪み
体がぐるりと回る感覚を得て、鷹は地面に叩きつけられた。
「……ってて……」
自分の部屋のフローリングの床に、ではない。
草の鮮烈な香りが立ち込める草原に、である。
――んな馬鹿な。
跳ねるように上体を起こすと、視界には見渡す限りの大草原が広がっていた。
夢であるかどうかは背中の痛みが確かめるまでもなく教えてくれる。
かといって、これがどういう状況か理解もできない。
家から外に弾き飛ばされた、という生易しいものではないようだ。
大体、夜ですらない。
太陽は高い位置にあり、昼の明るさを無償で提供している。気を失ったにしても一晩丸々寝ていた感覚はない。
「ここ……どこだ?」
呆然と首を巡らせる。自室にいたので足は素足、服装は寝間着と実に締まらない。人に見られれば夢遊病者か極端なズボラ扱いは免れられないところだが、幸か不幸か人が住んでいる気配は一切感じられない。
ここに至るまでの過程を思い出す。
ASOの画面が滅茶苦茶にバグり、姉や母のものではない女性の声が聞こえ、モニターが光り、気づけばここにいた。
そしてその少し前の、他でもない自分の言葉を思い出す。
――何か不思議な光に包まれて気づいたらゲーム世界、とかないもんかなー
実際、不思議な光に包まれて気がつくというところまでリーチはかかった。
「いやいやいや……まさかな……」
怪現象に襲われ草原にいるという状況の原因説明ならば現実的なものがいくらでも頭に浮かんだ。
1:突然何者かに麻酔で眠らされ誘拐されて放置された。
2:今までの人生はこの草原で昼寝をしていた本当の自分の夢だった。
3:地球を緑の星に戻そうという生命体が襲ってきて自分だけ生き延びた。
鷹はゆっくり頷き、抱えた頭を前後に激しく振り乱した。
「駄目だ、考えれば考えるほどアクロバティックになる!」
「お姉ちゃん的には鷹君の動きの方がよっぽどアクロバティックだよ……」
「うるせぇ! ……って姉ちゃんいるのかよ!」
「どうもー、早坂愛紗です」
振り向くと、ダボダボしたフード付きの寝間着に動物スリッパを履いた姉、愛紗が片手を上げ気楽に挨拶していた。
やはり気を失う前に部屋で見た時の姿格好で、同じ境遇でこの草原にいることが知れた。
自分一人でなかったことに少しの落胆と、それよりは大きい安堵を覚えて鷹は溜息をつき、改めて周囲を見渡した。
全方位、どこを見ても草の海である。丘のような起伏はあり、遠くには山らしきものも見え、何もない無限の空間というわけではないようだったが。
「しっかしこれってどういうことだと思う姉ちゃん? これじゃあまるで……」
「ん? 鷹君の言うゲーム世界に召喚されたとかそんなんじゃないの? 家に帰れる奴だといいねー」
「なんでそんな軽くて冷めてんだよ! 異世界だぞ異世界! 少しは動じろよ!」
どう考えても尋常な状況ではない。
願望混じりではあったが、異世界召喚というのがしっくり来るというのは確かだった。しかし、だとしても身一つと姉一つで、何の説明もなしに何もない場所に放り出されるのは、想像していたものとはいささかならず違う。
それにここが本当に異世界か、もしくは叶うならばゲーム世界か、あるいは非情にも現実世界のどこかか、そのどれであるか判別する術も鷹には思い浮かばなかった。
ひとまずどこかに話せる人間がいるかどうか、それから確かめねばなるまい。
鷹が決意し頷くと、宙を見つめていた愛紗がポンと手を叩いた。
「あっほら、なんとなくメニュー的な気持ちで念じるとステータス見えた。やっぱゲーム世界だよこれ。念願叶ってよかったねー鷹君」
「だからなんで速攻で馴染んでんだよ!!」
言いながら鷹もそれに従ってみた。
(つってもメニュー的な気持ちってなんだよ……こう……△ボタン? Xボタン? それともEscキー?)
とりあえず×ボタンやBボタン的な気持ちではあるまい。
漠然と、RPGのメニューウィンドウが開く様子をイメージしてみる。
するとピロンと電子的な音と共に、半透明のウィンドウが視界に展開された。
詳細なステータスでなく簡易的な現在の状態を示すもののようで、表示された情報はこの程度だった。
タカ Lv1 モンク
HP 169/170
MP 0/0
「なんでモンク!? ナイトとか勇者とかだろ普通!」
「おおっといきなり欲が出たね。鷹君体育の選択科目が剣道じゃなくて柔道だからでしょ多分」
「そこなのか!?」
「ちなみに私は召喚士ー」
言われて愛紗に目を向けると、同様にステータスが表示された。
アイサ Lv1 召喚士
HP 140/140
MP 0/0
「MP0の召喚士て」
「こういうの初期MP0だと成長しないのがセオリーだよね。そのくせHPもモンクより当然低くて、いやー辛い!」
少しも辛くなさそうな表情でぺちんと額を叩く姉をひとまず置き、他に何か情報が得られないかゲームの操作をイメージする。
地図のイメージを浮かべても所々怪しい世界地図や日本地図をぼんやりと思い出すだけでウィンドウの反応はない。
何か道具はと考えてみたが身一つでそんなものが表示されるはずもなかった。
ならばともう一つ思考してみると、ごく小さなウィンドウが開いた。
「……少なくとも通貨の単位はゴールドって表記するみたいだね」
「考えることは同じか……」
ウィンドウには【0ゴールド】と容赦なく表示されていた。
その後も色々と二人で考えてはみたものの、ヘルプや地図がないならとりあえず当座の意味は無いだろうとメニュー探しは打ち切った。
「……ってかこういうのって、俺らを召喚した女神なりがまず目的とか話してくれるもんじゃね? 普通」
「いやー超常現象に普通も何もないとは思うけど……っていうか女神なんだそこ」
「そりゃ女神だろ。こう青系の髪で白い薄手のドレスで胸が大きいと尚いい」
「鷹君がマジ巨乳好きなのは知ってるけどもさ、姉にそんな性癖開示されても困るなぁ。とりあえず歩こっか」
頷き、適当に山が見える側に向かって二人は歩を進めた。
異世界とはいえ気温は過ごしやすい程度の温暖なもので、呼吸していて違和感を感じることもなかった。
散歩には良い日和ではあるが、行き着く場所も知れない徘徊であり、楽しいピクニックとはいかない。
――そして一分と経たず、膝の高さほどの草からガサッと音がするに至り、鷹はゲーム世界の一番のお約束を思い出した。
立ち止まり、音のする方を見据え、適当にそれっぽく構える。
「見ろ姉ちゃん! モンスターだ!」
「スライムだねぇ」
出てきたのは草をさらに鮮やかにしたような緑色をした、半透明のゼリー状の物体だった。涙滴型などはしておらず、コミカルな目や口などもない。見た目的に親しみにくいフォーマルな出で立ちである。
鷹は先程までプレイしていたASOの最下級の敵がこんな姿だったことをふと思い出す。
「何してんだ姉ちゃん! 戦闘だ、召喚魔法で援護してくれ! 俺が前に出る!」
「いや使えんし。若干テンション下げてくれないとすっごい絡みづらいよ」
「悪い、下げてく」
軽く深呼吸をしてから相手を見ると、期待に違うことはなくそこには【スライム 1匹】と表示されていた。
敵はプルプルと震えながら這いずってこちらに近づいてくる。
早坂鷹は考える。
何しろ異世界であり、自分は戦闘などしたことのない高校生であり、相手は毒や即死レベルの消化液を持っていないとも限らない。おまけに自分のLvは1であり、この世界的にも弱い方だろう。
「てい」
そう考えた上で鷹は一歩踏み出し、軽く後ろに振りかぶった足をスライムに向けて叩きつけた。
弾けた。
【WIN!】と簡素な表示が視界を横切り、鷹の記念すべき異世界初戦闘は勝利に終わった。
危険性を考慮してはみたが、初エンカウントのただのスライムも倒せないバランスではあまりに夢がなさすぎる。少なくとも即全滅必至の世紀末的なゲーム世界ではないようだった。
「とりあえずモンクらしく勝ってみたぞ姉ちゃん」
「緊張感の欠片もないねー」
テッテテー。
「そしてレベルが上がったらしい」
「まぁおめでたい」
愉快げな短いファンファーレと共に自動でウィンドウが開き、鷹のステータスが再度表示された。
タカ Lv2 モンク
HP 163/203
MP 0/0
「……ん? なんかHP減ってないか? 特に攻撃も喰らってないのに」
「最大HP増えたからその分減ってるだけじゃない? レベルアップで全回復する世界じゃないってことで」
「かなぁ」
実際、元のHPを正確に覚えていたわけではない。
腑に落ちない気持ちでウィンドウを閉じ、足についたスライムの残骸を払って再び山を目印に歩き始めた。
魔物ではなさそうな小さな鳥が青空を横切り、行く先に目を凝らせば左手に森らしきものもおぼろげにだが見えてきた。
草と魔物だけでなく何かがある、というのはそれだけで歩く励みになった。
風は心地よく、程よい陽気もあって、気の向くままいつまでもどこまでも歩いていられるかのような気がした。
あくまで気がしただけであり、鷹は十分かそこらで音を上げた。
原因は言わずもがな、裸足での異世界突入である。
「痛ぇ! 小石とかちょっと硬い茎とかで足の裏超いてぇ!」
庇うように踵に体重をかけ、爪先に体重をかけ、とうとう我慢できないといった風にその場に座り込んだ。
何しろ普段は靴下と靴と、舗装された道に保護されている人間の足だ。
胡座をかいて足裏を見てみれば、血こそ出ていないが張り出した部分に砂利やら小石やらが食い込んでおり痛々しいことになっている。
「あー、裸足じゃあねぇ。私はスリッパあるからせめて靴下だけでも貸そうか?」
「嫌だよ姉ちゃん足臭いし」
「なんだと」
ムキーと手を振り上げる姉を無視し、ふと嫌な予感がしてウィンドウを開いた。
タカ Lv2 モンク
HP 113/203
MP 0/0
サッと、鷹の顔が青ざめた。
「減ってる! 徒歩でめっちゃHP減ってる!」
「お? おお……うわぁ……全世界ダメージ床じゃんこれ。舗装路に甘やかされた都会っ子の足の裏は脆いよねー」
のほほんと言う姉はと見てみれば、スリッパ効果か最大HPから減っていない。つまりダメージの原因は裸足で野外を歩くチクチクした痛みの蓄積だ。
こんなことなら普段からスリッパを履く習慣をつけていればよかった、などと考えたところでまったく後の祭りである。まさかそんなところで異世界召喚の快適さが変わるなど知る由がなかった。
「えー……不備ありすぎじゃねーのこの召喚。まだ村の一つも見えないんだけど」
「ていうかさ鷹君」
顎に手を当て、小首をかしげて愛紗は言った。
「回復手段もないしさ、あと十分ちょっと歩いたらあんた死ぬんじゃない?」
「……」
風が吹き抜ける。
気持ちのいい風だ。
揺れる草の上に腰を下ろして多少は痛みも落ち着いた。
全快とは行かないが、とりあえず耐えられないほどではない。
回復したかなと笑顔でウィンドウを開く。
【113/203】。非現実的な現実は非情である。
「いや確かに痛いんだけどさ! 実感としてダメージ感あるけどさ! 足裏ダメージ続いたら死ぬってどんだけだよ!?」
「RPGの怖いところだねー。ギャグみたいなミニイベントでHPが1減るだけでも、それを何度も繰り返したら核融合食らうのと同等のダメージ量になるっていう」
「うぇぇー……そこらに薬草とか生えてないか? 回復手段なきゃクソゲーもいいとこだろこの世界……」
座ったまま周囲の草をむしったりしてみるも、何の変哲もない雑草ばかりだ。
現実世界でではあり得ない何かしらのファンタジーな植物なのかもしれないが、一介の高校生には違いなど分からず、手触りや青臭さはそこらの雑草そのものだ。
草で少し指を切った。痛い。【112/203】。また一つ命の火が消えた。
どうしたものかと呆然としていると、遠くの草がガサッと揺れた。
仕方なく立ち上がって身構える。スライム程度でも攻撃はしてくるだろうし、裸足ダメージ案件よりは優先すべき脅威だ。
草を割って、音の主が姿を現す。
弱そうならまた一撃で仕留めてやるという意気込みは、すぐに霧散した。
「…………なんだ、これ」
現れたのは先程と同じスライムだった。
少なくとも、ウィンドウには【スライム 1匹】と表記されている。ベスでもメタルでもない。
だが、その姿を残しているのは右半分のみで、残り半分はおよそ真っ当とは思えない有様だった。
即座に連想したのはQRコード。モザイク状の何かへ不自然にカラフルな色彩を出鱈目に塗ったような、そんな異物が脈絡なくスライムの体を浸食している。
気持ち悪い、というのが鷹の正直な感想だった。
最近どころか一時間以内に、これに近い何かを見た記憶があった。
この世界に飛ばされる前。そのきっかけになったと思われるパソコンのモニター。
滅茶苦茶に乱れたASOの画面が、まさにこのような色合いだった。
「バグってる? かなり私好みだけど触りたくはないなぁ」
「……蹴らない方がいいよな、多分」
速度は先のスライムと変わらず、ゆっくりと鷹達に近づいてくるだけだ。
右半分はリアルな質感を持って滑らかに。
左半分は一瞬ごとにチカチカと気持ちの悪い明滅をしながら。
危機感より生理的嫌悪感に突き動かされ、鷹は後ずさった。
「と、とりあえず逃げよう姉ちゃん! 絶対ろくなことになんないよこいつ!」
「でも走ったら数分持たずあの世行きだよ鷹君は」
「うぅわそうだった!」
死の実感などまるでないが、HPの減少という目に見える形での危機が判断を迷わせる。
それでもせめて、この異形が見えなくなる程度までは離れるかとそう決心した時のことである。
「――バインド!」
突如、澄んだ声が草原に響いた。
その声と共に光る何かが二人の前を横切り、スライムらしきものに命中した。
蹴った時のように弾けこそしなかったが、電撃状の光がスライムの全身に絡みつき、遅々とした接近は止まっていた。
ゲームに慣れた人間ならば全員が全員麻痺と判断するようなエフェクトだ。
危機が一旦は去ったことに、鷹は安堵の息をつく。
「……誰だ? 女の人の声だったけど……」
声のした方に首を巡らせると、逆光で見えづらいが遠くに確かに人影があった。
丘陵を越えてゆっくりと近づくその影はどうやら走っているようだったが、途中でバテたのかあからさまにペースが落ちた。
思わず生暖かい表情になった鷹は、同じような表情をした愛紗に顔を向けた。
「こっちから近づいてやろうか?」
「でも歩いたら数分持たず以下略だよ鷹君」
「そうだったそうだった。じゃあ待とう」
監視の意味も込めてビリビリと痺れているスライムをぼーっと眺めた。
見た目こそ気持ちが悪いが、能力的には最下級のモンスターと変わらないのだろうか。正常な部分を攻撃すれば倒せるのだろうか。バグってる部分に触れたらどうなるのだろうか。
危険性を測りかね仕方なく放置していると、数分後やっと人影が到着した。
――美しい女性だった。
長く青い髪を背に流し、白く滑らかなドレスと羽衣を纏って、それこそ鷹の夢想していた女神のような。
ただし、生憎と胸はさほど豊満ではなかった。
そして何より、いかにもスタミナ切れでぜぇぜぇと息を切らして汗だくという無残な有様だった。
「はぁ……はぁ……私は女神アンゼリカ……あなた…方を……このアルディアスに、呼んだ者です……」
女神は徒歩で来た。