三章 到来 -awaking-
またまた遅刻しちゃいました☆ いやほんと申し訳ないんですが、でも今回は割といい感じだと思います。宣言通りキャラもたくさん増えましたよ! いや言うほどたくさんじゃないかも……何はともあれ今回大きな動きがありますのでそれなりに期待して読んでください! ではぞうぞ♪
「凍月……」
あまりに……この場においてあまりに意外過ぎる人物の登場に、静騎は言葉を失い唖然としたまま目の前の少女を見つめてしまう。
確かに、考えてみればこの可能性は十分にあった。
深界に入ってからこっち、普段の日常とは一線を画した異常事態が矢継ぎ早に起きたせいで、日常と非日常を無意識のうちに切り離して考えてしまっていたが、日常世界の住人たる自分がここにこうして存在している以上、現実における自分以外の誰かが深界に迷い込んでしまっていたとして何ら不思議はないのだ。
「何、で……」
しかしそれでも、そう口にせずにはいられなかった。
運命の歯車に絡め取られてしまったように夢の中で出会いを果たした自分やグロリアはまだわかる。本音を言えばその辺りの理由に関してもまだまだ謎の部分も多いのだが、深界に入ってしまう前からある種の異常体質を持っていた二人だ。いずれはこうして巻き込まれてしまう定めだったのだと言われれば、納得できないこともない。
しかし彼女は――澪は違う。彼女は静騎と同じ学園に通う友人というだけで、こんな馬鹿げた精神世界とは何の縁もないごく普通の女子学生だ。何故、何の関係もない彼女が――
「あの……天笠君?」
「ぁ……え?」
「こうしてあなたに押し倒されている状況も夢に思い描いていなかったと言えば嘘になるけれど。さすがに外は想定外だったし、いい加減……少し恥ずかしいわ」
「え……あ、ごめんっ」
からかうような笑みを浮かべる澪の言葉でようやく我に返る。気付けば互いの息がかかってしまうほどの至近距離にまで接近してしまっていた。自分が先ほどからずっと澪に覆い被さるような体勢を取っていたことにようやく気が付いた静騎は、慌てて身を仰け反らせると、すぐさま距離を取った。
その慌てようを見た澪はくすりと一つ笑いを零すと、ゆっくりと立ち上がり自分のお尻についた砂埃をぱんぱんと掃う。余裕そうに振舞ってはいるが、白雪のような頬にうっすらと赤みが差している。
それに気が付いてしまった静騎はますます決まりが悪くなり、何と声をかけたものかと口を開きあぐねていたのだが、幸いにも澪の方から話を切り出してくれた。あるいは気を遣ってくれただけなのかもしれないが。
「ふぅ……びっくりした。まさかこんな夜の公園で天笠君にあんな熱烈に求められるなんてね」
「だ、だからそれについては悪かったって……ていうか、びっくりしたのはこっちだっての。まさか凍月がいるなんて……」
「びっくりして思わず妊娠してしまうところだったわ」
「して堪るかバカヤロー」
何というか……こんな場所にあっても澪は澪だった。
いつも通り、何を考えているのかわからない人を食ったような笑みで挑発的な言葉をのたまう彼女の様子に少し安心感を覚えると同時、やはり強く疑問も残った。
「ん? どうかした? そんなに熱い視線で射抜かれると流石に気恥ずかしいわね」
言いながら微笑む澪は、見たところそれほど自分の置かれている状況に動揺しているような様子はない。怪我はしていなさそうなので静騎のように戦闘に巻き込まれたわけではないようだが、夜遊びをするようなタイプでもなしに、こんな夜中に、しかも隣町の公園を出歩いている時点で彼女の行動が普通じゃないことは明らかである。
「あの、凍月。少し訊きたいことが――」
故にその辺りの事情を訊くため再度口を開こうとした静騎だったが、その言葉は直後に聞こえてきた新たな声の主に遮られることとなる。
「おい凍月、あんま一人でガンガン先行くんじゃねーよ。何があっかわかんねーんだからもうちょい慎重に……」
澪の後方、ちょうど臨海公園の入り口付近からこちらに向かって歩いてくる人影がある。静騎の姿を見止めて一瞬呆然とした様子で固まった後、次の瞬間に安堵の笑みを浮かべてみせたのは――
「静騎? 静騎じゃねーか! ははっ、いやよかったぜ。まさかお前にまで会えるなんてなぁ、おい!」
「れ、零士……!?」
静騎に向かって大きく手を振りながら駆け寄ってくる青年。人懐こそうな笑みと、やや雑然とした脱色具合の金髪が特徴的なクラスメイト――狼谷零士がそこにいた。
これで二人目。最早偶然では済まされないだろう。
「いやー、こんなわけわかんねぇ状況でまた知り合いに会えるとは、不幸中の幸いってところかぁ?」
がしっと静騎の首の後ろに腕を回し、笑う零士に思わず苦笑してしまう。
今の言葉で確信したが、どうやら零士たちも自分たちがすでに何らかの異常事態に巻き込まれてしまっているのだという自覚があるらしい。二人とも比較的平静を保っている様子なので、静騎のように命の危険を伴う目には遭っていないように思えるが、それでよかったと片づけるわけにはいかない。
何しろまだ、このエリアには紅眼や影など自分たちにとって脅威となる存在がいなくなったわけではないのだから。故にその説明もしなくてはならないが、とりあえずは二人がどういった経緯で今この場に至っているのかを知る必要があるだろう。
「天笠君、その様子だと何か知っているみたいね」
そんな風に眉間にしわを寄せて考えていると澪から声が上がる。
一瞬前までのからかっているような雰囲気はすでになく、その様子に静騎も居住まいを正す。
「私も、そして狼谷君も同じような状況でこの場にいるらしいんだけど……今日、というかもう昨日かしら? 確かにベッドの中に入ったはずだったのに、気が付いたら何故かこの臨海公園の近くに立っていたのよ。自宅から十キロ以上離れてるし、夢遊病にしてはさすがに度が過ぎてるでしょ?」
「しかもどうも変なんだよなぁ。凍月たちと一緒にこの辺見て回ってたんだけどよ、全然人の気配がしねーの。夜中っつーのもあるんだろうけど、この街中で人どころか車一台走ってねーってのはさすがに異常だぜ」
零士の指摘に首肯し同意の意を示す。
「僕も、全部を全部理解しているってわけじゃないんだ。ただ二人がそう感じているように、この場が僕たちの日常とかけ離れた場所にあるってことは間違いない」
話さなければならないことはたくさんある。
こうしてこの非日常の世界に巻き込まれた人間が増えてしまった以上、少しでもここでの滞在期間が長い自分がしっかりしなければならない。
が、その前に――
「二人とも、ちょっと確認したいんだけど……今零士が『凍月たち』って言ったよな? もしかして二人以外にも――」
「――うぇっ!? 天笠先輩……?」
と、零士が何気なく口にした言葉に疑問を覚えた静騎が問いかけたその時だった。先ほど零士が来た方向と同じ臨海公園入口方面からこちらへ近づいてくる人影があった。
「な、何で天笠先輩までこんなところに……って、凍月先輩たちも一緒じゃないですか! 勝手に先行かないでくださいよ、どこに消えたのかと思ったじゃないですか!」
「はぁ……うるさい雌豚がやって来たわね」
「うるさくないのも一緒にな」
澪と零士が二人してやれやれと言った風に呆れた顔を見せる。対して静騎は、新たにこの場に現れた二人の人物に再び唖然としてしまう羽目になる。
「あ、綺……ちゃん?」
「何ですか、人の顔をじっと見て。いやらしい。まぁ? 綺の可愛さに魅入ってしまうのは仕方ないことですけど」
すぐには信じることができず、試しに名前を読んでみたところ返ってきた刺々しい答えにイラッとしつつも密かに安堵する。
肩まで伸ばした黒髪を二つのおさげに結んだ髪の毛。トレードマークの星をモチーフにしたヘアゴムに、揃いのヘアピン。何よりその自己顕示欲に溢れた言動を――言ってはなんだが――こうも恥も外聞もなく自然に口にできるのは知り合いの中ではただ一人。
「うざ。んなわけないだろ。自意識過剰なんだよ、メスガキ」
「んなーっ!? 女の子に向かって何ですかその言い方はっ! ていうか、言っとくけど先輩とは一つしか違いませんからねっ! 綺もガキなら先輩もガキなんですー」
「どうでもいいけどスカートの裾、服に引っかかってえらい捲れてるぞ。水玉ちゃん」
「わあ――ッ!? み、みみ見ないでください! 馬鹿っ、変態っ、色情魔! 責任とれえー!!」
調子を取り戻した静騎の言葉に簡単に煽られ、べーっと小さな舌を覗かせたかと思えば、次の瞬間には己が失態を指摘され、涙目になって蹲る百面相の少女の名は、獅堂綺。静騎や澪たちと同じ私立栄星学園に通う一学年下の後輩である。
見ての通り聞いての通りの自意識過剰娘で、自分の可愛さに絶対の自信を持って疑わない高飛車少女だが、実のところ生活面で色々と抜けていたり、挑発されたり煽られればすぐに釣られてしまうあらゆる意味でちょろい性格から、何故か憎めない。
まぁ実際に美少女でもあるのだが。
「――綺」
そしてそんな風にスカートの裾を押さえ、鼻を啜る綺の頭上から言葉をかけたのは、彼女と共にこの場に現れたもう一人の人物。
「う、うぅ……お兄、ちゃん?」
「気にするなよ、綺」
「でも、でもぉ……先輩の前でこんな失態……」
「問題ない。パンツくらいみんな履いてる」
「どういうフォローのし方よ! 当たり前でしょそんなこと! 今までノーパンだったみたいな言い方しないでくれる!?」
どこか的外れなフォローをしたことで余計に綺を怒らせているのは彼女の隣に立つ、身長二メートルにも達しようかという巨漢だった。巌のようにがっちりとした筋肉質な身体に、寡黙で表情の変化に乏しくも精悍な面立ち。何より綺とは正反対に静かで、しかし一言一言に重さを感じる低い声。
「天笠もすまん。妹が突っかかって」
「ああいや、こっちこそごめん、マサ。綺ちゃん相手だとどうも自然とからかう癖がついちゃって」
「問題ない。素直じゃないが、綺も天笠に相手してもらえることをむしろ逆に喜んで――」
「だぁ――ッ! すとっぷすとっぷすと――――ッぷ!! ななっ、何を言ってんのよお兄ちゃんはっ!!」
獅堂正宗。綺の実兄で、彼も綺も澪たちと同じく静騎の昔ながらの知り合いである。
綺とは身長から性格まで、何もかもが正反対の凸凹兄妹だが、むしろそのおかげで帳尻が合ってちょうどいい感じになっている。性格上グループのまとめ役にはなり得ないが、静騎よりもひとつ年上で一応はグループ内の年長者だ。
「まったく……相も変わらず騒がしい雌豚ね。獅堂君、身内の躾けがなっていないわよ」
「面目ない」
「誰が雌豚ですか! お兄ちゃんも謝らないでっ」
「天笠君、大丈夫? 貞操は無事?」
「お前は何の心配をしてるんだ」
ここにきて一気に場に人数が集まったことで、俄かに騒がしくなる。期せずして静騎の昔なじみの全員が今この場に揃うことになったようだが、ここにきて降って湧いたような事態に頭が再び混乱に落とされる。
(何だろう……この、胸騒ぎは)
先に聞こえた悪魔の声曰く、この深界に入るには特別な資格がいるらしい。それが何なのかはわからないが、こうも自分の知り合いばかり集まるのは果たして偶然なのだろうか。
グロリアと初めて出会った時と同じ戸惑いが胸中に満たされていく。今この時この瞬間に、こうしてこの場に全員が集まったことが凄く自然で当たり前のことのような……。
「もしかしてだけど、綺ちゃんやマサも凍月たちと同じように……?」
「ああ」
「ふん……まぁ、その通りですよ。もう何が何だかわかんなくて……最初に見かけたのが澪先輩だったんですけど、後ろから声をかけたら凄く驚かれまして……普通に肩叩いただけなのに、綺の美少女フェイスに凄まじい威力のワンパンが……」
「自己防衛よ。いきなり背後に立つ方が悪い。あと、驚いてなんかないから。断じて」
「強く否定するところが怪しいよなー。凍月ってもしかして……お化けとか暗いとことか苦手なん――へぶぁっ!?」
「に が て じゃ な い か ら」
「わ、わかったから僕に言うなよ……」
ニヤニヤしながら顔を近づけてくる零士に視線も合わせずボディブローを食らわせ、光彩を失った目で静騎に念を押してくる澪。もうこの時点で自分から白状しているようなものだったが、それを言ったが最後、自分も零士と同じ末路を辿ると火を見るより明らかだったため、静騎はもだえ苦しむ零士をよそに一つ咳払いをして本題に入ることにした。
「と、とりあえずこれでこの場にいるのは全員だよな? さっき凍月たちには途中まで話したんだけど、みんなに聞いてもらいたいことがあるんだ」
静騎の言葉を聞いて、友人間で特有の和気藹々としていた場の空気が緊張を帯びていく。皆の視線が静騎に集中し、零士も額に脂汗を浮かべながらも引き攣った笑みと共に親指を立て、先を促してくれた。
その様子に一つ頷き、静騎は続きを話そうと口を開くが――
「そのことなんだけど、天笠君」
早速といったところで凍月が口を挟み、出鼻を挫かれる。正直な話いつ紅眼が追いついてくるともわからない状況なので、さっさと情報を共有してしまいたいところなのだが……。
「ごめんなさいね、いきなり話の腰を折っちゃって。でも私、一つだけどうしても気になることがあるのよ」
そう告げる澪は何故か見ているこちらの背筋に震えが走るほどの笑顔を浮かべていた。表面上はにこにことした上機嫌極まりない満面の笑みに見えるのだが、目が笑ってないというか……張り付いたような笑みに戦慄を禁じ得ない。
「き、気になるって……何が?」
静騎のその言葉に待ってましたと言わんばかりに一層口の端を吊り上げてみせる澪。その視線は静騎のちょうど背後の辺りへと注がれており、他の三名も澪のように露骨ではないもののちらちらと気になる様子でいる。いや、綺はどことなく不機嫌そうに頬を膨らませている……?
「何が、ねぇ……それじゃ、遠慮なく訊きたいのだけど――」
そうしてすっと澪が指差したその先には――
「さっきからずっと天笠君の後ろにひっついてるそこのお嬢さん。その子は一体どちら様かしら?」
「……え?」
一瞬、澪の言っていることの意味が分からず固まる静騎だったが、彼女の質問の瞬間、僅かに服の裾が引っ張られるその感覚に総てを悟る。
ばっと振り返った自らのすぐ後ろ。そこにはいつの間にやってきたのだろう、浜辺に置いてきたはずのグロリアが、お馴染みのぼんやりとした表情で静騎の顔と他メンバーの顔とを交互に眺めていた。
「静騎様、この方たちは……」
「ぐ、グロリア!? いつからここに!?」
「獅堂君たちが合流した頃にはのそのそとやってきていたわよ。天笠君気にしていなさそうだったから放っておいたけど、まさか気づいていなかっただなんてねぇ。さしずめ天笠君ハーレム新メンバーといったところかしら」
「先輩サイテー……また新しい女の子に手を出すなんて。だ、大体すぐ傍にこんなアイドルすら霞むくらいの美少女がいるのに……ごにょごにょ」
女子二人には糾弾され、その後ろでは零士が爆笑しながら終始無表情の正宗の背中をバシバシ叩いていた。
人が真剣な話をしようとしていたところで何を言っているんだと思うものの、口が上手く動かせない。
「い、いや彼女は、その……」
何も悪いことはしていないはずなのに、なぜか声が上ずり目が泳ぐ。何を話しても裏目にしか出ない予感がする。
「て、ていうか! ハーレムってなんだハーレムって! そんなもの作った憶えはない!」
「あらあら、ということは自覚なしだったということ? 罪な男ね。別に他の女がどうなろうと知ったことじゃないけれど、私のことは第一夫人としてしっかり責任を取ってもらわないと収まりがつかないわ。ねぇ、第二夫人の獅堂さん?」
「なっ、だっ……誰が第二ふ、ふふ夫人ですか!? あ、綺は天笠先輩のことなんて…………って、ん? ちょっと、凍月先輩。何をさりげに『第一夫人』とか言って自分だけ優位に立っているんですか?」
「あら? 別に天笠君のことはどうでもいいんでしょ? だったら第一でも第二でも同じことだわ」
「べ、別に天笠先輩のことはどうでもいいですけど……何となく第二とか言われると凍月先輩に敗けてる気がして、世界最高の美少女的にはイラッとするんですよ!」
「いやどっちもねーから」
そう答えるも二人は全く静騎の話を聞いておらず、見えない火花を散らし続けている。
どちらにせよ、今この場を収めるにはしっかりと説明するしかなさそうである。澪たちの妙な勘違いを解くのはめんどくさそうだが……。
「わかった……わかったよ。じゃあとりあえず彼女のことも含めて現状を説明するよ。けど、全部話し終えるまでは質問なしだ」
「静騎様……?」
「グロリアも、みんなのことは後で紹介するから少し待っててくれないか?」
「はい。静騎様がそうおっしゃるなら」
静騎の言葉に素直に頷くグロリアの頭にぽんと優しく手を置く。こうしていると何となく妹ができたような気分だった。
「天笠君?」「先輩?」
「わ、わかってるって……ちゃんと説明するから。それじゃみんな、突拍子のない話になるかもしれないから心して聞いてくれ。実は――」
光彩を失った二対の瞳の眼力に首筋を震わせながら、静騎はこれまでの経緯を話すべく一つ深呼吸をしてから口を開いた。
◇
そして数分後、総ての話を聞き終えた一同は数秒間黙り込んだままだった。
静騎がこの深界に入ってからの超常的な出来事とグロリアとの関係、今のところ判明している情報を伝え終わったものの、当然のことながら皆、咄嗟に言葉が出ない様子で唖然としているようだ。
「深界に、阿頼耶式……俄かには信じられないような話ばかりね」
「だが事実だ。実際ほんの数十分前まで、僕は軍人みたいな恰好をした男と本気の殺し合いをしていた」
ここが精神の世界だからなのかはわからないが、あれだけ血まみれになっていた衣服も今は卸したての新品のように綺麗になっているが、あふれ出た血潮の感触は総て本物だ。
その時のことを思い出すと今でも身体に震えが走る。
「ま、何にせよ一度現実に帰ったらお互い今日のこと確認しようぜ。静騎の言ってることを疑うつもりなんてねーけど、これで実は俺の妄想世界でしたーなんてオチだったら恥ずかしすぎる」
「問題はその帰り方、だが」
正宗の言葉と同時、皆の視線がグロリアへと集中する。
「……?」
注目を集めたグロリアはあまり状況が分かっていないのか、いつもの柔和な微笑みと共に小首を傾げているだけだ。
(まずいな……)
そして静騎はこの状況に内心一人冷や冷やとしていた。
それというのも、今のこの状況というのは明らかに『グロリアと澪たち』とで対立的な構図ができてしまっている。それぞれの関係性もさることながら、そもそもたった今話した内容からしてみても、グロリアの立ち位置に不審な点が多すぎるのだ。記憶喪失から断片的に思い出せたという情報も、内容があまりにも都合がよすぎる。
彼女が今回の事の発端――静騎たち全員を強制的にこの場に巻き込んだのではないかと勘ぐられても仕方がない。
「その……みんなが彼女のことを疑う気持ちもわかる。だけど今は非常事態だ。仲間内で疑心暗鬼になっていても状況は好転しない。彼女に悪意がないことは僕が保証する。そりゃ証明する手段はないんだけど、それでも――」
と、言い訳めいた言い方になってしまったが、グロリアを庇いたい一心で早口に捲し立てる。しかしそこまで言ったところで、皆が何だか複雑そうな表情で静騎とグロリアとを交互に見つめていることに初めて気が付いた。
「えー、っと……?」
最初は自分たちの何の根拠もない関係性を疑られているのではないかと思ったのだが、どうもそういった類の感情は見受けられない。思えば先ほどのグロリアを見つめる皆の視線も疑心というよりかはむしろ困惑。それも彼女に対するものではなく、むしろ――
「あの、天笠君。何か勘違いをしているようだけれど」
「綺たち別に誰もグロリアさん? のことを疑ってるわけじゃなくて……」
「むしろ逆だよ逆」
「逆?」
零士の言葉に首を傾げていると、続きを正宗が引き継いだ。
「我ながらおかしな話だと思うが……俺たち全員、彼女のことを無条件に信じてしまっていることに、困惑している。何故かはわからないが、ずっと昔から知っているような……そんな感覚に、戸惑っているんだ」
それは静騎が彼女と出会ったことで覚えた感覚と全く同じものだった。
「そういうこと。デジャヴってやつ? なーんかわっかんねぇんだけど、頭のどっかに引っかかるっつーか……ってわけでグロリアちゃんだっけ? 俺と君、昔どっかで会ったことない?」
「やめなさいナンパプリン。見た目だけじゃなくとうとう脳みそまでプリンのように軟らかくなったみたいね」
「ていうかぶっちゃけキモいです、狼谷先輩」
「……お前ら俺に何か恨みでもあんの?」
調子に乗る零士を冷たくなじる女性陣のおなじみの光景を眺めながら、静騎の胸中には先ほども抱いた正体不明の感情が渦巻いていた。しかし今度は、戸惑いを中心とした混沌ではなく……安心感。
「それじゃ改めて、自己紹介でもしておきましょうか。私は凍月澪。見ての通り、天笠君の第一夫人よ。よろしく」
「どう見ての通りなんだよ……あ、俺は狼谷零士だ。可愛い子には優しいから安心してくれていいぜ。よろしくな、グロリアちゃん」
「獅堂綺です。グロリアだから……リアちゃんって呼んでもいいですか? 綺ほどじゃないですけど、中々の美少女力ですからね。特別にあだ名で呼んであげます」
「獅堂正宗。綺は、俺の妹だ。まぁ、よろしく」
ここに集まった六人。運命に導かれて、なんて言うと大袈裟だろうか。
「ふ、ふふふっ」
皆の自己紹介を受けて、グロリアが思わずといったような笑いを零す。
「本当に……賑やかな方たち、ですね」
それはこれまで静騎と二人だけだった時には見せなかった笑みだった。まるで旧来からの友人と数十年ぶりに再会を果たしたかのような、懐かしさを伴う親愛の情念。ここにきて彼女の内側にも何か決定的な変化が生じてきているように思えるのは、きっと気のせいじゃない。
先ほどまでグロリアが纏っていた、どこか微睡んでいるようなぼんやりとした空気が薄れていく。陽炎のように揺らいでいた彼女の本質が今この時を以てはっきりと色づき始めていた。
「私……思い、出しました」
まなじりに涙を浮かべるほど絶えず笑っていた彼女がきらりと光る雫を指でそっと拭い、一層穏やかな笑みを浮かべぽつりと呟く。
「気のせいなんかじゃありません。勘違いなんかじゃありません。私……私、前にも皆さんと、こんな風に――」
言葉に乗って、想いが溢れ、そして瞬間それは――彼女を中心とした光となって溶けていく。
「な、何だ……!?」
グロリアの全身が薄ぼんやりと翡翠の光を発している。その光がまるで蛍のようにふわふわと粒子状に放出されたかと思えば、次の瞬間、静騎たち――この場にいる全員の身体を包み込んでいく。そして――
「これって……!?」
「何が――」
纏いつくようにやってきた光の粒子はいつしか密度を増して、焼けるような熱さと共に一ヶ所へと集束していく。
「くっ……!」
その時静騎は、自らの右眼に失明してしまうんじゃないかと思うほど眩い光の奔流を見た。
眼球を焼き切らんばかりの極大の光の中に浮かび上がるは、栄光を象徴せし水銀の星。二対の銀蛇が絡み合う栄光の聖杖が白で覆いつくされた視界の中に浮かび上がり――ここに契約が交わされる。
自分たちの出会い、そして運命、思えばこの瞬間からそれは再び始まったのだと、誰よりもここにいる自分たち自身がそう理解してしまったから――
――ここに、夢と現実とが混じり合う。
瞬間、これまでまばらな輝きを見せていた六つの光が示し合わせたように一層の煌めきを見せた。光の渦が周辺景色までもを巻き込み一帯を覆い尽くしていく。
夜明けの朝日と見紛うほどの極光の後、やがて光の渦はゆっくり、ゆっくりと収まっていき、その場には静騎を含めた仲間たちが月明かりに照らされ、各々放心したように立ち尽くしていた。
「な、なんだぁ? 今の」
最初に口を開いたのは零士だった。己が首元をしきりに気にしながら困惑の表情を浮かべている。
「いきなり光に包まれたかと思ったら鎖骨んとこがカーッて熱くなってよ。妙な印みたいのが浮かび上がって……」
「あ、綺も同じです! 場所は腰の辺りなんですけど」
「私は手の甲ね」
「俺は、右の肩、だな」
「ということは僕は……右眼、か」
皆とは違い、光が集中した箇所を確認できはしなかったが、先の感覚から恐らくそうだろうと推察できた。
もうすでに光と一緒に紋章もまた消えてしまっているが、皆が皆、自分の身体のどこかにそれが刻まれるのをはっきりと感じ取っていた。
いいやそれだけじゃない。グロリアと出会ってからずっと漠然と感じていた既知感とも呼べる正体不明の感覚。ここにきてそれが、身体ごと精神総てを呑み込むほどに一気に膨らんだことで、確信にまで至っていた。
「グロリア、今のは……」
きっとこれは偶然なんかじゃない。自分たちはここ深界という精神世界に選ばれるべくして選ばれ、そして彼女と出会うために集ったのだと、誰に言われることなく皆が理解していたから。
だからこそ静騎は、今すぐにでもグロリアと言葉を交わしたくて仕方がなかった。
理由なんてわからない。出会いに確信ができたとはいえ、いまだに訳が分からない状態なのは変わらないし、自分の中に眠っていた記憶があったわけでも思い出されたわけでもない。
ただ胸に込み上げてくる衝動のままに、彼女と初めて出会った時以上の気持ちの高ぶりが抑えられないのだ。だと言うのに――
「……グロリア?」
肝心の、グロリアの姿がその場から忽然と消えていた。
つい一瞬前、自分たちの身体が光の奔流に呑み込まれる前までは確かにそこにいたはずだ。
反射的に他の皆と顔を合わせても誰一人として心当たりはなく、傍から見れば滑稽な動作だったが皆一斉に首を傾げてしまう。
とは言え彼女には前科がある。この公園に辿りついた時同様、また例の如く、ふらふらと何処かへ行ってしまったのだろうと当たりを付け、静騎は苦笑を浮かべてみせた。
その笑顔が、一瞬後には凍り付く羽目になることも知らず――
「――……」
ザァッと、一つ強さを増した風が吹き抜けた。この冬の寒さの中で、さらに身を凍えさせる容赦のない寒風。まだ十二月に入ったばかりとはいえ、すでに丑三つ時を過ぎたこの時間はコートなしではいられない程の気温に達しており、ましてここは海に隣接した臨海公園である。
吹き荒ぶ風は海岸から冷気を運んで渦を巻き、体感温度はすでに氷点下をゆうに超えている。
しかしにも拘らず、この時静騎はそんな極寒の外気とは正反対に背中にじっとりと汗をかいていた。
覚えたのは烈しい気勢が乗せられた、熱波の旋風。感じたのは頭から押し潰されそうになるくらいの重圧を伴う、絶対的な狩人の気配。
間違えるはずがない。思い違えるわけがない。
この、感じは――
「――おーおー、ようやっと追いついてきてみりゃこいつはまた……面白ぇことになってんじゃねぇか。とうとう眷属たちが雁首揃えて勢揃いってわけかい? 少年少女たち」
夜闇に溶け込む大外套を翻し、ギラリと輝く真紅の瞳が月光を反射し不気味に輝く。
――紅眼の男。ほんの数十分前に静騎を死の淵へと追いやった黒衣の男が、影の襲撃を退けついにここまで追いついてきたのだ。
「揃いも揃って呆けちゃってまぁ……今の光が何なのか、気になるか? ありゃ契約の洗礼だ。聖統主が眷属と契約を結ぶ時の儀式みたいなもんさ。そのやり方ってのは聖統主によって様々だけどなぁ」
重く、そしてこの場の寒さなど一気に吹き飛ばしてしまう烈火の如し熱さを伴う声がその場に響いていた。
全員が全員、突然の出来事に何が何だかわからず呆然と立ち尽くす。視線の先二十メートルほどの距離にいる男の歪んだ気配に誰一人指一本動かすことすらできていなかった。
明らかにその男が放つ空気が自分たちとは異質なものだということも理由の一つで、本能的に覚えた畏怖と忌避の念がまともに向かい合うことを拒否したこともまた事実だ。
「俺ぁこう見えても親切だからなぁ。お前さんたち初心者のために説明してやるが……聖統主ってのは、深界に自分の無意識を潜り込ませることのできる特異能力を持った人間のことを言うんだ。眷属は文字通り、その力を分け与えられた聖統主の従属者ってわけだ。能力的にできることにそう大差はねぇが、眷属契約は聖統主の意思一つでどうとでもすることができる。ま、要は親玉が誰かって話だ。頭を潰されりゃ連座でみーんな能力を失っちまうから、眷属は死ぬ気で聖統主を守る」
しかし今この場に関してだけ言えば、そんな事実など些末なことだった。
彼らが硬直している一番の理由は、男に対する恐怖でも異常な現状に対する逃避でもない。
「要するによぉ、俺が何言いたいかっていやぁ……お前さんならわかるかい? 少年」
鮮血を思わせる紅蓮の瞳が静騎を見据える。
いつかは心臓を鷲掴みにされるような恐怖を覚えた眼光だったが、しかし今の静騎にとってそんなことは最早どうでもよかった。いいやもしかすると、先の口上を含め、男が登場してからこちらの総てのやり取りなど意識の外へと排斥してしまっているのかもしれない。
何故なら先の一陣の風に乗りやってきた微かな香り。鉄錆のようでいて、どこか生々しく鼻につくその香りが、自らの鼻腔に届いた瞬間から、彼は総てを理解していたから――
「ぁ……」
眼前で起きたことを現実のものと受け入れられず、怯え震える綺の声が微かに漏れる。澪と零士は肩を震わせ戦慄き、正宗は表情こそ変えないものの目を限界まで見開いて驚愕を隠せないでいる。
そして静騎は、全身の血が凍り付いてしまったかのような冷めた感覚の中、感情の籠っていない瞳でただ一点だけを見つめ、呆然と立ち尽くしてしまっていた。
――おい。お前は一体……何を、やっているんだ?
背中に噴き出した汗がつーっと背筋を伝っていく。瞳孔は開き、握り締めた拳はわなわなと震え、一秒ごとに速くなる動悸に自然と息が荒くなる。
――その手に持っているものは、何だ? その刀に突き刺さった人は、誰だ? 滴り落ちる夥しいほどの赤い液体は、一体――
「お前ら、もう詰んだよ。一網打尽だって、そういうことだ。残念だったなぁ、少年」
紅眼の手にした軍刀。長大で、暴力的な赤の輝きを見せるその刃に深々と突き刺さり、ピクリとも動くことなく担がれているのは――
「あ、あぁ……あああ」
――何も……何も心配していません。だって……。
守ると誓った。命に代えても守ってみせると約束した。
これから……これから総てが始まるって、そう皆と信じ合ったばかりなのに……それ、なのに。
――貴方が守ってくれるのでしょう?
狂おしいほどに守ると焦がれた少女が――グロリアが、そこにいた。力なく光彩を失った瞳で、だらりと全身を弛緩させ、噴き出した鮮血に濡れながら。純白を宿したその全身を、赤々と染めながら。
「あ、う、ぁ…………ぁぁあああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
瞬間、脳みそがショートしたんじゃないかと思うくらいのスパークが視界に走ったと同時、静騎は一も二もなく飛び出した。
何を考えての行動じゃない。殆ど条件反射に近い衝動で激昂を上げ、血走った眼を見開き、紅眼に肉薄するべく大地を蹴る。
「はははっ、相変わらず勇ましいねぇ、少年! 仕方ねー、そらっ、受け取んな」
「っ!?」
しかし飛び出したところで、思いがけない紅眼の行動に動きを止めさせられる。まるでゴミでも扱うかのように大切な少女の身体を放り投げた紅眼の所業には激しい怒りを覚えたが、ここでその怒りを優先させて彼女を受け止めず殴り掛かるなどという選択肢はあり得ない。
「グロリアッ!!」
空中で抱きしめるようにその小さな身体を受け止め、すぐさま無事を確認する。
「グロリア、意識はあるか!? グロリ――」
しかしそう思い、胸に収まる彼女の姿を目にした瞬間、総てを悟ってしまう。
身体が冷たい。呼吸を示す胸の上下運動が見られない。貫かれた胸からあふれ出る血はすでに温度を失っており、まるで凍結していくかのように表面が凝固し始めている。
「――……」
もう……何をどうしようとも取り返しがつかない、覆しようのない死という現実。その残酷な真実を、文字通りの眼前に叩き付けられた静騎は最早この場の何もかもを信じることができず、呆然自失の表情で動かぬグロリアの身体をぎゅっと抱きしめる。
(ふざ、けるなよ……ここは、深界は……そんな現実すらひっくり返すとんでも理論の非現実なんじゃなかったのかよ? 何を、何こんなことばっかリアリティ出してんだよ!? ここならどんなことだって思いのままなんだろ!? なのにどうしてこんな……こんな、あっさり……)
行き場のない感情が胸の内に激しく渦巻いていく。ぐちゃぐちゃにかき回された脳内はあらゆる逃避を実現させようと、焼き切れんばかりに回転するも、同時に静騎の思考は冷たく、無機質な、刃のように鋭いものへと変化をし始めていた。
物言わぬ肉塊と化してしまったグロリアの身体を、そっとその場に横たえる。次いでゆらりと立ち上がった静騎の瞳には一切の感情が排されているにも拘らず、井戸の底を思わせる深淵に染まっていた。
「そう、だ……違う」
ぽつりと、呟いた言葉が夜闇へ溶けて消えてゆく。瞳の中、覗き込んでも見えない程奥底に渦巻いていた激情が沸々と揺らめきを見せ始める。
――そう、そうだ。彼女が、グロリアが死んでしまったのはこの世界のせいなんかじゃない。
「僕だ。僕の、せいで……グロリアは」
総ては自分の力不足のせい。紅眼を斃すことどころか、奴からまともに逃げ切ることもできずに彼女を何度も危険に晒した。
運命のような出会いに酔い痴れて、夢見心地のまま、阿呆のように状況に浮かれ切っていた。
まるで自分がグロリアというお姫様を守護する騎士となったかのような……自分には何か特別な力がある。彼女と自分の間には何か奇跡的な運命の繋がりがある。
だから何があっても平気。だから何があっても守り通せる。そんな何の根拠もない浅はかで子どもじみた思い込みが、最悪の結果を招いた。ただ、それだけのことだ。
だからこそ――
「――お前は絶対、許さない。殺してやるぞ……!」
ここで紅眼を打倒する。彼女を殺した仇を今ここで全身全霊を以て亡き者にすること。
それが、曰く眷属である自分にできる最後の仕事だと思うから。彼女の為に自分ができる唯一の手向けになると思うから。
命を賭して、死すらも恐れずただその一点だけのために。
「ふはっ、おっかねぇ! いいぜぇ、かかってきな。今度こそ白黒つけようじゃねぇか。あんまこういう台詞は月並みで面白くねぇんだけどよ……安心しろよ、すぐにあの世で会わせてやる」
自らに叩き付けられる怒気と憎悪に、深く喜悦の笑みを浮かべた紅眼が得物を構える。静騎の様子にどこかしら期待感を見せているのか、以前は出し惜しんでいた武器を初手から抜いてきている。
だがそんなことは最早どうだっていい。
今この瞬間に奴をこの手で葬り去る。ただその一心だけを胸に、自らの想いを燃料に魂の歯車を全力で駆動させる。
「死ぬのはお前だ。あの世で彼女に詫びてこいっ!!」
その両目に憎悪に染まった黒い炎を迸らせ、必殺の決意と共に紅眼に向かって飛び出した。
「天笠君……」
そしてその一部始終の光景をこれまで蚊帳の外で呆然と眺めているだけだった澪たちも、ここにきてようやく正気を取り戻しつつあった。
「何、だよこれ……何なんだよ」
思わずといった様子で零れた零士の言葉はこの場の全員の心の内を代弁していたと言っていい。
化物みたいな異端の気配を纏った男の登場に、グロリアの死、そして激昂する静騎が男と繰り広げている冗談にしか思えないような戦い、矢継ぎ早に起こる異常事態に理解が追いつかない。
本当にこれは現実の出来事なのか? 静騎の話ではこの場は精神世界という話だったが、ならば今も現在進行形でこの身を苛む恐怖の震えはただの夢だとでも言うのだろうか?
「リアちゃん……そんな」
今にも泣き崩れそうな声を漏らしながら綺の視線が向かう先は、地面に横たえられたグロリアの身体。その身体は遠目からでもはっきりと感じ取れるくらい明確な死の気配を纏っている。それが精神世界だからこそできる芸当なのかどうかはわからなかったが、これだけ離れていても疑いようがなく彼女の命は絶たれてしまったのだと理解できてしまう。
「……」
しかし、皆がこの異常事態に混乱し続ける只中、たった一人だけ現状に違和感を覚えている人間がここにいた。
「……本当に」
「あ?」
「本当に、そうなのかしら?」
皆が混乱の渦中に溺れかけている中、そんな冷静さに満ちた澪の静かな疑問の声が響いた。
「そうって……一体、何がだよ」
「グロリアさんのことよ。彼女、本当に死んでしまったのかしら?」
「は? お前何言って――」
いきなり妙なことを言い出す澪に、綺も零士も正宗も、皆例外なく怪訝な視線を向ける。
確かにここからグロリアの身体が詳しくどうなっているかなど確認はできない。近づこうにもすぐ傍では静騎と紅眼が互いに大気の爆音を轟かせながら人知を超えた競り合いを繰り広げているため、無闇に駆け寄ればこちらに命の危険が及ぶ。
だが、彼女の身体が先の紅眼の刃に何の呵責もなく突き刺さっていたことはこの場の全員が目撃していた事実である。
加えて真っ先に彼女と接触した静騎のあの反応。かなり平静を欠いていたとはいえ生存という希望的観測を持っていただけに――言うなれば静騎にとって都合のいい結末――それさえ覆さざるを得なかったほど明確な死は疑うことこそ愚問だろう。
それは澪もわかっているはずなのだが……。
「心配されなくても私だってそれくらいわかっているわ。グロリアさんが死んでしまったことも、天笠君の行動がその総てを物語っているということも」
「だったら何で……」
「では訊くけど……何故グロリアさんの身体は今この状況になっても、まだああして残っているの?」
澪の発した言葉の意味が分からず、固まる三人。しかし直後に正宗が彼女の言わんとしていることを理解する。
「そうか……ここは、精神世界」
「そういうこと」
つまり、澪が言いたいこととはこうだった。
確かにグロリアは表面上死んだように見えている。いや、死んでしまったことには間違いないのかもしれない。ここは現実であって現実ではない。ここでの怪我や死が現実でどう影響を及ぼすのかはわからないが、精神だから殺されても全く平気なんてことは絶対にないだろうし、だからこそ静騎や自分たちもこれほどまでに動揺していた。
しかし……もしそうであるならば、こうして今もまだ視線の先に彼女の死体が残っていることは明らかにおかしいのだ。
「この深界は精神の世界。もし本当にグロリアちゃんが死んじまってたとするなら、それは現実世界でも同じなはず。あの男の話じゃ、深界には現実における自分の意識を潜り込ませることで侵入が可能となる。つまり一度死んじまえば、現実の身体も当然死んじまって、こことのリンクが切れるってわけか。だったらここに死体が残るわけもねぇ」
「加えて、さっきあの紅眼の男は言っていたわ。聖統主――頭を潰せば皆能力を失う、と」
つまり、自分たちの聖統主と言われているグロリアが本当に死んでしまっているならば、こうして自分たちも深界にいまだ残っている事実と矛盾する。
「だからこれこそ本当に夢みたいな話だけど……グロリアさんは表面上死んでいるように見えていても、もしかすると本当の死は迎えていないんじゃないかしら?」
ならばまだ間に合うかもしれない。澪自身、自分で口にした今の理論が完全に正しいとも思っていないし、実際真実なのかどうかはわかるわけもない。
しかし現況に光明を見出せるとしたらそれ以外にはありえない。
このままではどの道全滅してしまう。そうなれば今度こそ真実の死は免れないだろう。
「とにかく、今がチャンスよ。天笠君があの男を引きつけてくれている今のうちに、私たちはグロリアさんの身体を回収する」
静騎の身はもちろん心配だ。今も彼のもとに駆け付けたくて身が引き千切れそうなほどに苦しいのだ。しかしことこの状況に至って、大して戦闘の場数も踏んでいない自分たちが加勢に出向いたところで足手まといになるだけなのは明白。
だったらこちらはこちらで今できることをやるしかない。
(上手いことグロリアさんが目を覚ましてくれれば状況を打開することができるかもしれないし)
それこそ希望的観測に過ぎなかったが、今はその憶測を拠り所に前に進むしかないと自分たちを鼓舞し、流れ弾を警戒しながらグロリアの回収へと一歩を踏み出したのだが――
「うおわっ!?」
「きゃっ」
突如、自分たちとグロリアたちとの間を隔てるように地面を突き破って現れた何かに邪魔立てされる。
「なっ、これって……」
まるで樹齢何百年と育った木の根のように野太く、無数の棘が生えた鞭のような、触手のような見た目の……これは植物か?
そのスケールが桁違い過ぎて咄嗟に何かを判断できなかったが、よく見てみれば眼前に聳える壁のように無数に生えているそれらは――茨だった。
まさか紅眼が自分たちの行動を読んで先手を打ってきたのかと思い、そちらに視線をやるが奴にはそのような様子は見られない。ならばあらかじめこの場所に仕掛けられていた罠のようなものなのかと思っていれば――
「――レオン中将」
「おぉ、エリナ君! い~いタイミングだぜぇ。やっぱ、俺ぁツイてるなぁ」
グロリアを中心に囲うように不気味にうねる茨の中心。いつの間にこの場に現れたのだろう。そこに立っていたのは紅眼と同じく漆黒の軍服に身を包んだ矮躯の少女だった。
「定期警邏中にふらりとどこかへ行かれたかと思えば……何を、遊んでいるのですか?」
「いやぁ、何やら面白ぇ連中を見つけたんでね。安心しろよ。迷惑かけた詫びに、手土産もある」
「……迷惑をかけられてるのは、今日に限ったことじゃないんですが」
衣装は紅眼と同じ形状の軍服で、女性用ということくらいしか違いは見られないが、大きな特徴の一つは彼女の髪だった。この夜の闇に爛々と咲き誇るように輝く薔薇色の長髪。左右でひと房ずつツーサイドに括った髪が風になびいて夜闇に美しい軌跡を描いていた。
身長は恐らく百五十センチとなく、非常に小柄だが、外見上の大きさなど、ここ深界においては何の当てにもなりはしない。
先の茨は十中八九彼女の術理だろう。阿頼耶式とは身体強化の術式だと聞いていたが、それ以外にも何か特殊な能力があるのだろうか。
迫る静騎の猛攻を片手間に捌きながら、紅眼がどことなく親しみの籠った声を返した先の少女――エリナと呼ばれた彼女は、声音に呆れを滲ませてはいるもののその表情はほとんど変わらず、どこか機械じみた寒々しさを覚えた。しかしエリナが紅眼の相手取る静騎の顔を見た瞬間、僅かに表情を強張らせた。
「その男……」
「ああ、こいつが一番面白ぇんだよ! ぜってぇ何か持ってやがる。この俺が言うんだから間違いねぇさ!」
「……そう、ですか」
しかしそれも一瞬のことだった。薔薇色の髪の少女は、次の瞬間にはもう先の無感情な表情へと戻っており、興味を失くしたように視線を外すと、次いでグロリアの方へと一歩を踏み出す。
「で、これが?」
「おぉ、そうだったそうだった。そいつが聖統主だ。一応殺しちゃいるが、中々肝の据わったお嬢さんだ。まだ芯まで届いてねぇ」
「なるほど。では?」
「ああ、パスの場所はわかってるな? その後の処理は貴様に任せる」
「了解」
それだけ言葉を交わすと、紅眼は静騎との戦闘に再び集中し、エリナは横たわるグロリアの身体を無造作にその華奢な肩へと担いだ。
「では中将。ご武運を」
「はっはぁ! 心にもないこと言うねぇ、うちの可愛い部下はよぉ!」
そうして紅眼は改めて静騎との交戦に、エリナはグロリアを担いだまま曰くパスの場所へと向かうべく、尋常ではない勢いで夜空の彼方へ跳躍した。それが阿頼耶式による身体強化だということは瞭然だろう。
瞬間、澪たちの方へとちらりと視線を向けるも、取るに足らない存在だと判断したのか、そのまま無視して街路の向こうへ消えていく。
「いけない。私たちも追うわよ!」
紅眼に続く得体の知れない人物の登場に動揺してしまったが、事態は恐らく最悪の状況へと向かいつつある。
澪たちはグロリアの身体がいまだこの場に残っていることに違和感を覚え、彼女の肉体を保護しようと考えていたが、先の紅眼たちの会話や行動を鑑みるに、やはりグロリアはただ死んだわけではなかったのだ。
彼らが何をしようとしているのか皆目見当もつかないが、自分たちにとって不利益となることだということだけははっきりと伝わっていた。だったら、一刻も早くあの薔薇色の髪の少女の行動を阻止しなくてはならない。
「で、でも凍月先輩! 天笠先輩がっ……」
「っ……天笠君」
綺の言葉に今なお死闘の渦中にいる静騎の方へと視線を向ける。
すでに二人の姿は遠ざかりつつあり、かろうじて視認できるほどにしか見えなかったが、ぶつかり合う二つの濃密な気配は否応なしに感じられ、感覚的に静騎の方が劣勢に立たされているのだとわかってしまう。
助けにいきたい。今すぐにでも駆け付けて、彼の盾の一つにでもなってあげたい……でも、それは――
「……獅堂君?」
「あっちは、俺に任せろ」
その時、肩に置かれた硬く大きな手の平の感触に見上げる。意外にもここで名乗りを上げたのは、正宗だった。本来仲間内でもあまり自己主張の強くない彼の行動は予想外だったが……いや、そうでもないのかもしれない。
「……任せて、いいのね?」
無感情に見えるその瞳。その奥底に赤々と燃えた烈火の輝きが、彼の心の内を何よりも証明していたから。だからこそ澪はほんの刹那の間、考えた後そう告げた。
「ああ。俺も喧嘩程度だが、多少はこういうのにも覚えがある」
正宗はその見た目から、昔からガラの悪い連中から無用に絡まれることも多かった。だからこそこの中では誰より戦いというものに通じているし、かつて実家が古い道場を営んでいたこともあって技術的にも多少の心得がある。
それがたかだか不良の喧嘩程度のものだろうと、このメンバーの中では誰より戦闘というものに対し適任だと言っていい。
「狼谷、そっちは任せるぞ」
「お、おおおおう! 女どものことは、お、俺に任せろ!」
「……頼もしい限りですね」
綺の苦笑につられて、澪もまた一つ笑ってみせると零士の肩を叩いて「頼むわよ」と声をかける。
明らかに強がりだとわかる零士の言葉だったが、それでも零士は逃げようなどとは考えていない。常からお調子者で、時には臆病な彼だが、その実友人や家族、自分を取り巻く総ての日常を誰より愛していることは皆が知っている。その日常を守りたいと、どんな時でも強く願っていることも。
その気持ちが改めて言葉を通じて伝わったからこそ、正宗は満足そうにニッと口角を上げてみせると、皆に背を向け、静騎の加勢に向かうべく駆け出した。
「私たちも行くわよ」
澪の言葉に頷き合い、ここに行動を開始する。
こんなわけのわからない状態のまま死んでたまるか。自分たちは明日も変わることなく学園でいつも通りの日常を過ごすんだと、あの日常こそが自分たちのいるべき世界なのだと、皆がそう強く信じている。
(だけど――)
だけど同時に、こうも思っていた。
――いつの日か、記憶にも残っていないどこか遠く彼方の地で、前にもこんなことがあった気がする。
そう思うのはただの錯覚か。
最早どちらが夢でどちらが現実か定かではない。ただ一つ分かるのは、この状況を含め、総てが虚構などではないということ。
今はただその事実だけを肝に銘じ、それぞれの渦中へと足を踏み入れていく。
誰に言われるでもなく、他の誰でもない、自分たちの意志で……。
こんな感じでした。個人的には結構燃える展開ですね。次回はバトルバトルのバトル三昧になると思います。あとたぶんまたキャラ増えます。やっぱ燃える展開が好きだよね! コメディシーンには相変わらず期待しないでください……ではまた二週間後に('◇')ゞ