二章 深界 -Qliphoth- その②
というわけで後半です。キャラいっぱい出すとか言ったがあれは嘘だ……いやホントすいません。解説回になります。
「はぁ、はぁっ……はぁ! はぁっ、ぐ、はぁ……!」
冬夜の凍りついた空気が全身の肌という肌を引き裂く中を、疾風の如く駆け抜ける。
街の中は異様な静けさに包まれており、人の気配を一切感じられないのが不可解だったが、そうでなくとも脇目も振らずにアスファルトを駆ける静騎には周囲を気にかけている精神的余裕などありはしなかった。
(ヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバい――ッ!!)
腹から溢れ出る血が夜気に赤い軌跡を描き出し、一歩踏み出すたびに激痛が全身を走る。はっきり言ってすでに足の感覚はなく、背後から迫りくる恐怖に追い立てられれるままに足を動かしているだけだったが、限界を超えて酷使された両足がここにきてついにその力を使い果たす。
「あっ……ぐ、ぁあっ!」
「きゃっ……」
抱え上げていたグロリア諸共、そのままの速度で地面へと叩きつけられる。砂埃を巻き上げながら数十メートル転がり続けた末に停止したその場所は、静騎も何度か零士たちと訪れたことのある隣町の臨海公園だった。
結果的に、およそ十キロはあるかと思われる距離を僅か五分足らずという驚異的な速度で走破した静騎は、最早完全に正常から逸脱した自分の身体能力に驚きすら感じなくなっていた。
「づっ、はぁ、はぁ………はぁ、げほ、げほっ!」
冬場の凍えるような潮風に晒されながら、荒く白い息を吐き続ける。
紅眼の男との戦いにおける怪我に加え、さらなる擦傷と打撲傷。気力を使い果たした全力疾走後の疲労で指一本すらろくに動かすことができず、普通なら死んでもまずおかしくない重傷だが奇跡的にも生きている。
それはつまりここが現実世界ではなく――
(深界……本当に、心の中の――精神世界だっていうのかよ……)
紅眼の男との邂逅の直前、頭の中に響いた声が再び脳内にリフレインし始める。あれが幻聴の類だったのか、それとも本当にこの異次元に潜む悪魔の囁きだったのかはわからない。
しかしどちらだったにしても、これまでここで起こった総ての出来事が自分の作り出した妄想めいた夢などということだけは絶対にないと言いきれた。
(これが夢なら、嘘なんだとしたら……この痛みは何だ? この苦しみは、この恐怖は? これが全部偽物だなんてことがあってたまるか!)
思い出しただけでも震えが走る。紅眼の男との対決、為す術なくとはあのことを言うのだろう。何もできずに完全敗北を喫した。それも相手は全力を殆ど出していなかったはずだ。
(あいつ、確か話の途中で『俺ら』って言ってた……あんな化物じみた奴が他にもいるとしたら……)
考えたくもないことだった。
(とにかく、今はこの場所から脱出することを考えないと……)
何にせよ、今ここで思い悩んでいても仕方がない。状況が悪い時にネガティブな感情に囚われるのは仕方のないことだが、それで場が好転することは有り得ない。
運が良かったとはいえ、一度は逃げおおせることができたのだから今はその幸運を噛み締め、次の策を考える。
「ぐっ……」
一旦身体を起こして考えを巡らせる。
現在紅眼はあの影と交戦中。完全に戦線を離脱するなら今を除いてほかにないはずだが、ここが本当に精神世界――深界であるならば、その方法がわからない。
(眠っているなら目を覚ませばいい。だけどそもそも目を覚ますったって、起きようと思って起きられるわけじゃないし……朝が来れば自然に起きられるのかと言われれば、そんな保証もどこにもない)
そもそもの話、深界と現実で時間の流れが同じとも限らないのだ。夜空に浮かぶ月は相変わらず不完全な半月蝕のまま、移動している様子も見られない。時間切れを狙うのは無謀が過ぎる。
(あの時の……あの時の感覚がもう一度掴めれば、もしかしたら――)
思い出されるのは、先の紅眼との戦いでの一幕。
死の直前、何故かはわからないが、妙に昂揚とした感覚に包まれたのを憶えている。何かが始まる予感、自分の中に眠り続けていた種がここにきてようやく芽吹くような絶対的感覚。
今なら誰にだって負ける気はしないと、そう確信できていた。
(だけど……)
そんな根拠のない自信は、男と最後激突する直前に木端微塵に砕かれた。
(確かに、確かにあの瞬間まではいける気がしてたんだ……それが妄想なんかじゃないことは、今でも断言できる)
でも、ダメだった。敗者の言い訳ではない。あのままでは、決定的に何かが足りない。
それに気づき、このまま突っ込めば確実に死ぬと確信的な未来を幻視したからこそ、直前になって咄嗟に身を翻すことができていた。
(あの時、あの影が割り込んでこなかったら、本当にヤバかったかもな……)
影を仕留め損ねていたことに気付けていなかったのは完全に失態だったが、そのおかげで窮地を脱することができたのだから、そういう意味では結果オーライだろう。何故影が静騎たちではなく、紅眼を狙ったのかは不明だが……。
「くそっ、阿呆か僕は……」
しかしそこまで考えたところで、静騎は自分の都合のいい頭に思わず悪態を吐いた。
(あの時の力を使えれば今度こそ勝てるかも? 寝惚けるのも大概にしろ)
確かにあの感覚は錯覚とは思えないような確信的なものだった。だがだからと言って結局不発に終わったそれに再び頼るなど博奕もいいところ。例え未知なるその力を使えたとしてそれが奴に通用するかはまた別問題だ。
(あれだけ危ない目に遭ったっていうのに……危機に対して鈍感になり過ぎてるな。全く現実が見えていない)
やぶれかぶれになるのはまだ早い。大体自分はまだこの世界のことをようやく理解し始めたばかりなのだ。あの阿頼耶式という力に関してもまだまだ理解は不足している。
(紅眼の言ってた『レベル』とかいう言葉も気になる。自己防衛の意味でもまずはそっちを……)
と、そこまで考えがまとまったその時。あまりにも遅すぎるが、ようやく静騎はこの場における違和感に気が付いた。
「ぐ、グロリア……?」
先ほどまで――転倒した直後まで腕の中に抱えていた白髪の少女が姿を消していた。地面を転がり停止するまでは庇い続けていた記憶があるので、いなくなったとしたらその後だ。
その事実を受け止めたことでサァーッと血の気が引いていく。
まさか気が付かないうちに新手の敵に攫われてしまったんじゃないかと全身に戦慄が走るが、慌てて周囲を見回してみれば思いの外早く彼女の姿を見つけることができた。
「――……」
沿岸に広がる白砂の浜。夜空から降り注ぐ星々のように砂粒が光り瞬くその場所に、彼女はいた。
潮風に流れる長い髪を押さえながら、月光揺らめく波打ち際で夜の海を眺めている。
一つの名のある絵画のような光景に見ているだけで感嘆の溜息が零れるが、同時に静騎はこの状況における彼女のあまりの緊張感のなさに軽く頭痛も覚えていた。
「何やってんだ、あいつは……」
その瞬間、何というか今の今まで悩んでいたあらゆる事柄が総てどうでもよくなった。
「人が無い頭絞り出して考えてるってのに……ったく」
呑気というか緊張感がないというか。先ほど静騎は自分を指して『危機感に対して鈍感になっている』と評価したが、彼女の場合、鈍感どころか無感――状況に対する危機感そのものが欠如しているような印象を覚える。
「何か知らないけど妙に信頼されてるみたいだし……」
それに関しては自分にも言えることだし、彼女の場合ただ単純に敵の脅威を正しく認識できていないだけなのかもしれないのだが……とりあえず直近の心配事については丸ごと放り投げてしまうことにして、グロリアの傍へ行くことにする。
「い、つぅ……」
倒れていた場所のすぐ傍は、土手になっていた。潮風が傷口に沁みるが痛みを堪え、砂浜へと続く階段を一段一段下りていく。
上にいた時は気が付かなかったが、砂浜に下りると波の音がよく聞こえた。柔らかな砂を踏み締めながらすぐ近くまで行っても彼女はぼーっと海を眺めたままだ。
「あほ」
背後まで近づいたところで、その頭にびしっと軽く手刀を入れる。
正直な話、自分の奮闘に対しあまりに無関心な彼女の様子に少なからず苛立ちも覚えていた。自分勝手な感情なのは百も承知だが、ちょっとくらいは気にかけてくれてもいいんじゃないかという思いもある。だけど――
「あ……静騎様」
振り返り、こちらの姿を見つけ嬉しそうにふにゃりと笑う彼女の表情を見た瞬間、一気に毒気を抜かれてしまった。多少の憎まれ口くらいは言ってやろうかとも思っていたのだが、そんな気も一瞬で失せてしまう。
「……あんまり心配させるなよ」
代わりに一言そう呟いて、頭に触れたままの右手で一つグロリアの頭をぽんと軽く叩く。
「心配…………心配? 心配、されたのです?」
「まぁ……うん」
「誰が?」
「僕が」
「誰を?」
「君を」
「……何故?」
「いや何故って……」
そんな風に心底意外そうな顔で小首を傾げられても、正直返答に困る。というか、この少女は本気で言っているのだろうか?
「急にいなくなったら誰だって心配するだろ? まして僕たちは今追われてるんだ。少しくらい神経質にもなるさ」
なんだか言い訳くさい言い方になってしまったが、真っ当な理由としてはこんなところだろう。さすがにこっ恥ずかしくて『君を心配するのに理由がいるか?』などとは言えなかったが、大体ニュアンスは伝わったはずだ。
しかしグロリアは、静騎の言葉を聞いてなお頭上に疑問符を浮かべており、あまりピンときていないようだった。
「心配……静騎様が、私を…………ああ、もしかして」
と、グロリアは何か一つ謎を解き明かしたみたいな顔で両手の平を合わせると、眉毛を逆ハの字にしたドヤ顔を作ってみせた。
「つまり静騎様は、急に私がいなくなって心寂しくなってしまったと、そういうことですね」
今度は無言で若干強めの手刀を叩き込んだ。
「……痛いです」
「当たり前だろ。痛くしたんだから」
「そんなに照れなくても」
「照れてねーよ!」
なんの悪びれもなくにこにこと笑うグロリアに調子を狂わされる。
こうして会話をしていると、館で初めて話した時は分からなかった彼女の本質がだんだんとわかってくる。まずそれは一番に分かったことだったが、奔放というか、大人しそうな印象の割に意外に行動力があるし思ったことを口にする。聡いように見えて実は考えなしだったり、目を離した隙に何をしでかすかわからない。
それについて特別怒っているとかイラついているわけではないのだが、心が休まる暇がないというか、感覚としては産まれ立ての子犬を相手にしているようなものだろうか。
危なっかしく、その一挙手一投足にハラハラしたり、時には頭を抱えたくなる時もあるが、悪意や邪気の類が一切ない故に総てを許したくなってしまう。
「まったく……」
不思議だと、改めてそう感じる。初めて会ったはずなのに、彼女とはずっと昔から一緒に過ごしてきたような奇妙な懐かしさを伴う運命を感じた。にも拘らず、今こうして会話をしてみれば、知ることのできた彼女の一つ一つの仕草や癖、性格の総てが新鮮に思えて仕方がない。
「怪我は? さっき思いっきりこけたから上手く庇えなかったかもしれないけど、平気か?」
「おかげさまで。少し手の甲を擦り剥きましたけど……こんな場所なので、ほら」
言いながら差し出された手を見てみれば、確かに少し赤くなっている。しかしそれも一秒二秒と見つめているうちに消しゴムでもかけたかのようにすぅっと消えていく。
つまりこれも深界において発現する特異な現象。阿頼耶式の一種というわけだろう。静騎も今更になって気が付いたが、あれほど激しかった負傷の痛みを今は殆ど感じていない。
「高速治癒ってところか。とことんデタラメな力だな……」
パワー強化とスピード強化は先の戦いでまさに実感したが、治癒力の強化は傷を負ってみなければその効果のほどはわからない。さすがに戦闘中に瞬く間に回復していくような都合のよさはないようだが……紅眼が静騎と比べて桁外れのパワーを有していたように回復力にも個人差みたいなものがあるのかもしれない。
「……ん?」
そんな風に考えたところで静騎は、先ほどのグロリアの発言に大きな違和感を覚えた。
「今、こんな場所って言ったよな? てことは君は、ここが深界とかいう場所だって知ってたのか?」
もしそうなのだとしたらこの場から抜け出す方法も知っているかもしれない。
身を乗り出す勢いで問い詰める静騎に一瞬だけ目を丸くしたグロリアは、頬に人差し指を当て少し考えるような仕草をした後語り始める。
「ん~……知っていた、というより、思い出したのです」
「思い出す?」
「ええ。静騎様にはまだ言っていませんでしたが、実のところ、私には正確な出生の記憶がないのです。物心のついた時にはあの館で寝起きし、家族はいません。使用人の類も」
つまりは実質的な天涯孤独。親戚筋にも心当たりはなく、あそこに独りで暮らすことが当たり前のこととなっていたし、家の敷地内から出るなどという発想すら湧いたことはなかった。
「ですが、それでも夢は毎日見ていました。無味乾燥とした館での生活の中でただそれだけが私の楽しみであり、生きがいでした。私を守ると言ってくれた騎士様……貴方と出会える日を文字通り毎日夢に見て、そして今日、それが叶ったのです」
月明かりに横顔を照らされ、グロリアは本当に幸せそうな笑顔を静騎に向ける。不意に向けられたその笑顔に思わず照れくさくなってしまうが、今はデレデレとしている場合ではない。
「つまり、思い出したっていうのは……」
「はい。その通りです。さすがは静騎様♪」
「いやまだ何も言ってないから」
話の腰を折られ、反射的に三度頭に手刀をかます。二度目よりは力を加減したつもりではあったが、グロリアは何故か嬉しそうにニマニマと笑いながら両手で頭を押さえていた。
その姿がご主人様に構ってもらえてご満悦な犬の姿と重なってしまい、複雑な気分を味わう羽目になったが、一つ咳払いをして話を戻す。
「つまり、僕と出会ったことで君の記憶が戻った。そういう解釈でいいんだよな?」
「断片的に、ですが。事実、自分のことは何も。思い出せたのはここ深界が精神世界であるということ。そしてここでは私たちは想いの強さによって現実では有り得ない身体能力や超常の術を使用できるということ」
すなわちそれが阿頼耶式だ。グロリアの話では阿頼耶式は大きく分けて六つの基本能力が存在するそうだが、その話はまた後で聞くことにして――
「まとめると……僕も君も、深界に関して持ってる情報に大差はないってことか……」
聖統主や眷属という言葉にも聞き覚えはないらしい。
多くは望まなくとも、少しでも新しい情報が欲しかったところなので、一番の当てが外れてしまったことにさすがに焦りを覚えてきた。
(まずいな……紅眼から逃げてきて一体今どのくらい時間が経った?)
あの影の奮闘に期待したいところだが、一度は影に打ち勝った静騎ですら紅眼相手にあの様だったのだ。そんなに長い時間足止めができるとも思えない。
「ちなみに、ここから脱出する方法なんてのも思い出せるか?」
「脱出、ですか?」
「ああ。冷静に考えてみれば今すぐ現実に戻れるならそうするのが最善だ」
紅眼が現実世界でどういった立ち位置の人間なのかはわからないが、一度ここから脱出してしまえば少なくとも、常識はずれの力は使用できなくなる。
それにこれは勘だが、恐らく現実に戻れば奴の手はどう足掻いても届かなくなるはずだと、静騎は考えていた。
現実に戻れたとして、結局そこで刺されでもすればジエンドだが、たぶんその可能性はない。それは同じ町で紅眼の姿を見たことがなかったり、見た目が明らかに海外の人間だったりと理由は様々だが、確信に至った理由はもっと曖昧で不確かなもので……纏う空気というのだろうか。紅眼の外見や言動の端々から感じ取れる『日常』が自分たちのそれとは全く別物だと、そう理解できてしまっていた。
「脱出……」
グロリアは癖なのか、先ほどと同じように頬に人差し指を当て考える仕草を見せる。
「たぶん……そこまで複雑な工程を踏む必要はない、と思います。基本的に『現実に戻りたい』と強く願うことが、深界から抜け出すトリガーとなっているはずなので」
「そうなのか?」
もしそうであるなら話は早い。
よもやそんな単純なことが脱出方法だとは文字通り夢にも思っていなかったので、すぐにでも実践しようと瞼を閉じて強く念じてみる。
しかし――
「……全然戻れないな」
どれだけ強く願ったところで、一向に戻れる気配がない。まさか本心では帰りたくないと思っているなどということはないだろうが……。
「グロリア、本当にやり方はこれであってるのか? なんか手応えをまるで感じないんだけど」
「ん~……おかしい、ですね。この状況でも戻れないとなると……もしかすると、誰かの領域に呑み込まれてしまっているのかもしれません」
「領域?」
また耳慣れない単語が出てきたと、今日何度目かわからない疑問符を頭の上に浮かべる。
グロリアの説明によると、いわゆる『領域』とは阿頼耶式による『場の支配力』のことであり、自らの想いの力を影響させることができる範囲のことらしい。
「広いから想いの力がそれだけ強大、狭いから脆弱とは一概には言えないのですが、こうして私たちが領域の支配力を破れず現実に帰れない事実がある以上、この領域の持ち主は少なくとも私たちよりも数段格上なのは間違いないはずです」
「それって、もしかしてあの紅眼の……」
「いえ、私の見立てではあの方は恐らく自らの『内側』に領域を展開するタイプでしょう。会敵すればただでは済みませんが、一旦戦線離脱することさえできれば逃げることは容易なはず……しかしこちらはその逆。憶測にすぎませんが、もしかすると私たちが出会ったあの場所からすでに領域の中だったのではないでしょうか」
つまり、深界に入った直後からずっとその何者かの領域――腹の中だったというわけだ。
その癖特別こちらに危害を加えてくるわけでもなく、領域内で戦いが起こっても一切干渉せず傍観するだけ。罠にかかった鼠が天敵に食われていく様をじっくり鑑賞していたいのだろう。
直接手を下さず、しかし決して檻からは逃がさないこの姿勢は悪趣味極まりなく、最早嫌がらせとしか思えない。
(いや……もしかしたら実際そうなのか?)
あの時聞こえた悪魔の声。頭の中にふと思い浮かんだその声が、ここにきて現状とかちりと符合する。もしもあの声の持ち主がこの領域の支配者だとすれば……。
『さぁ始まるぞ。もう逃げられない』
いつかも聞いたその言葉が不意に頭の中で蘇り、戦慄に全身が震える。もうどうすることもできない状況なのはわかっているつもりでいたが、改めて置かれている状況の危険度を認識する。
紅眼に領域の主……もしかすると他にも敵は存在しているかもしれない。
「くそっ……やっぱりのんびり考えてる場合でもなさそうだな」
時間的にそろそろ紅眼が追いついてきてもおかしくはない。そして新たな敵の存在。
(覚悟を決めろ、天笠静騎……もうどこにも、逃げ道なんてないんだ……!)
自分自身に檄を飛ばし、非日常の渦中へと飛び込んでいく覚悟を新たにする。
せめてこんな時、共に戦ってくれる仲間の一人でもいればと願わずにいられないが、ないものねだりもしていられない。
「行こう、グロリア。ここでじっとしていても何も始まらない。それにもしかしたら現実に帰るための専用の出口とかあるかもしれな――」
と、無意識に拳を握り締め、自らを奮い立たせるような言葉と共に一歩を踏み出そうとしたその時。
全身の毛が粟立つような感覚に見舞われた。
(っ、まさか……早速お出ましか!?)
勢い良く見上げた先、土手の向こう側に何者かの気配を覚えた。人の気配を察知することができるなんてまるでバトル漫画の世界だが、これも恐らく阿頼耶式の一種なのだろう。
紅眼が追いついてきたのか、領域の主の登場か、はたまた別の敵がやってきたのか……。
何にせよ戦いは避けられそうにない。一旦脱出については置いておき、臨戦態勢を整える。と言っても今の自分に態勢を整えるも何もないのだが。
(傷はもうだいぶ回復している……けど)
その身に染みついた恐怖まではそうはいかない。今もこうしているだけで緊張と不安とで吐きそうになるくらいの重圧を覚えている。
(でも……やるしかない)
先ほど直に味わった死への恐怖を無理やりに押し殺し、ぐっと拳を握る。せめて武器ぐらいは調達しておきたかったところだが、贅沢も言っていられない状況だ。
ここが精神世界で想いの力が強さに変わるというのなら、湧き上がるこの恐怖心さえも糧にしてみせろと、自身を叱咤し眼光鋭く土手上を睨み据える。
「……」
ドクドクと心臓の鼓動が加速していく。瞬き一つせずに土手上を注視し、シルエットの端が視界に映り込んだその瞬間――
「――っ!」
引き絞られた弓矢が放たれるが如く、シルエット目掛けて一直線に飛び出した。
先手必勝。相手もこちらの存在くらいは気づいているかもしれないが、今なら土手が死角となって虚を突ける。
故に、一撃で仕留めるつもりでしならせた右脚。加速に加えて全体重を乗せ、標的に向かって放たれんとされた蹴撃は、キレ、タイミング共に完璧で――
「ん……!?」
しかし次の瞬間、雲間から差し込む月光に一瞬だけちらりと照らされたシルエットの横顔に静騎は目を見開いた。
「え、あ……ちょ」
まさかとは思いつつも、速度に乗った身体をどう止めていいかわからず、空中で無理やり急ブレーキをかけようと身体を捻る。そして――
「うわっ!?」
「きゃっ……!」
結果、蹴り自体は止めることができたものの、自分自身の身体はどうすることもできず、シルエットの人物とあえなく激突。そのまま数メートルごろごろ転がったところで停止する。
「い、つぅ……一体何――」
静騎に押し倒されるような形で下敷きになっている人物が戸惑いの声と共に瞼を開く。今すぐどいた方がいいとは思っているものの、静騎自身自分の真下にいる人物の存在を受け入れることができずに呆然としてしまう。
そしてそれは彼女もまた同じで――
「ちょっとあなた、いつまでそこに――って、え……?」
怒りの声と表情と共にこちらを睨みつける切れ長の瞳が、驚愕に見開かれる。そしてそのまま視界に飛び込んできた静騎の顔を見て、放心したような声を上げた。
「……天笠、君?」
凍月澪。
今日の日中、いつも通り教室で下らないやり取りを一緒に繰り広げていた友人の一人が、そこにいた。
というわけで終了。前回先走ったキャラいっぱい発言は次回今度こそ出しますんで。まだまだ基本設定すら殆ど明かせてない状況ですが、気長に待っていただければ幸いです。