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グロリアスマーチ(休止中)  作者: 織上ワト
第一部 悪夢襲来 -Fall In The Nightmare-
3/12

二章 深界 -Qliphoth-

先週サボってしまいましたがようやくできました……その割に相変わらず意味不明な状態が続いていますけども。どうぞお願いします。【2016/9/25現在】

「君、は……」

 しばし呆然としたまま少女と見つめ合う。

 すでに先ほどまでのある種トランス状態とも言えるハイな感覚からは抜け出してしまっている。

 何故自分にあんな荒唐無稽な真似ができたのか、咄嗟に頭の中に流れ込んできた『阿頼耶式(アラヤシキ)』という単語、そしてあの影は結局何だったのか。

 疑問に新たな疑問が重なり、様々な情報がいっぺんに流れ込んできたことで頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 いまだ心に整理がついておらず、自分が自分でなくなっていくような感覚に吐き気を覚えて仕方がない。

(そのはず、なのに……)

 一方で、奇妙な程クリアに澄み渡った意識が全身を包み込んでいく感覚もはっきりと覚えていた。まるで長く終わりの見えない悪夢からようやく解放されたかのような、心地の良い目覚め。その要因となっているものは言わずもがな――

「また、会えたって……?」

 夜空に舞い上がる花吹雪。空中で輪舞(ロンド)する無数の花びらの、その中心。

 静騎の眼前にて柔らかな微笑みを湛える少女が口にしたその言葉が、解呪の魔法となって彼を縛り付けていた縛鎖の念から解放する。


『また』というのは一体いつのことを指しているのだろう? 昨夜の夢の中での出会いを言っているのだろうか、それとも昼間洋館の中から感じた視線のこと? いいやそれよりもっと前、自分と彼女がこの世に生を受けるより遥か以前の遠い昔に――


「ぁ……」

 ふわりと、鼻先をくすぐる甘い香りにハッとなる。

 そうなって初めて、静騎はつい一瞬前まで目の前にいたはずの少女が、今自分の胸の中にすっぽり収まっていることに気が付いた。

「は、あ、っとその……こ、れは」

 突然の出来事にどう対処していいのかわからず、行き場を失くした両手が虚しく空中を彷徨う。

 女性からこんな風に抱き着かれたことがないとは言わない。なんて言うと一部の人間から怨嗟の念を向けられて仕方ないとは思うが、その相手というのは母親と三つ年上の姉の二人だけである。

 最近はそういうことも殆どなくなってきているが、二人とも何かにつけて静騎を甘やかしたがるので、少し前までは油断をすればすぐに頭を撫でたり撫でさせたり抱きしめられたりと、はっきり言って黒歴史にしたいくらいの恥辱の日々の連続だった。

 要するに静騎の女性経験などそんなもので、澪やとある友人の妹とも交流はあるがここまであからさまに密着したことなど皆無であったため、咄嗟にどう行動するべきか考えつかない。

 とりあえず、意味も分からず初対面の女の子を己が欲望のままに抱きしめ返すという行動が最低だということはわかるのだが……健全ないち青少年たる自分にとってこの状況は酷過ぎる。

「……ありがとう」

 己が脳内で理性と本能とが激しいせめぎ合いを繰り広げていると、不意にそんな感謝の言葉が耳に届いた。

 視線を落とすと胸の中で柔らかな微笑みを浮かべる少女と目が合う。

 初めてまともに耳にした彼女の声は深い慈しみに満ちていた。想像していた声よりも少々高めで可愛らしく、外見の雰囲気から少し大人びているような印象を抱いていたので、そのギャップにドキリと鼓動が高鳴った。

 間近で感じられる花の蜜のような香りに頭がくらくらする。

「あ、ありがとう……って、いう、のは?」

 言ってから、そんなものさっき影から彼女を庇ったこと以外にないだろうと自分の大ボケさに頭を抱えたくなったが、少女は気にした様子もなく、一度身体を離すと改めてにこりと微笑んでみせた。

「何もかも、です。今夜貴方と出会えたことに。私を見つけてくれたこと、守ってくれたことに、感謝を」

「お、大袈裟だろ。確かに君を庇いはしたけど、それはあくまで咄嗟の行動というか……それを、『出会いに』だなんて」

 何やら壮大なことを言い出した少女の言葉に背中がむず痒くなる感覚を覚えていると、少女はゆっくりと首を横に振る。

「大袈裟なんかじゃありません。ずっと、待っていました。貴方のこと」

 見つめ合う二人の間に一陣の風が吹き抜ける。

 ずっと待っていたと、彼女は今確かにそう言った。一体何を以て彼女がそんなことを言っているのか今の静騎には分からない。彼女とは夢を除けば正真正銘初対面で、互いに言葉を交わしたことすらなかったのだ。静騎の方は夢で見た彼女と同一人物だと確信できているが、彼女の方もそうとは限らない。別の誰かと勘違いをしている可能性だってある。

(だけどそれでも……)

 今日この夜、彼女と相見えて魂が震えた。ずっとずっと遠い昔から探し続けていた大切な人をようやく見つけることができたと、湧き上がる興奮を抑えることができなかった。

(彼女は『待っていた』。僕は『探していた』)

 だったら今は、それだけで十分だろう。

 吹き抜ける風に揺られる髪を押さえるその仕草は昨夜夢で見たままの情景で、不意に思い出されたその記憶が半ば無意識のうちに静騎の口を急き立てた。

「あの……君に訊きたいことが、たくさんあるんだ。まだ自分の中でも全然整理ができてないんだけど……まずは、その、自己紹介から済まさないか? 僕も君も、どういうわけか互いのことを知っているみたいだけど、少なくとも……僕は君の名前を知らない」

 そう言って、右手を差し出す。

「僕は、天笠静騎。君とは……昨晩、夢の中で会ったんだ。今日みたいに、この中庭で」

 自分でも相当おかしなことを言っている自覚はあったが、他に説明しようがないのでありのままにそう伝える。

 同時に今日だけでなく、夢の中でさえも不法侵入を果たしてしまっているという罪の告白に他ならなかったが、幸いにして少女は気づいていないのか気にしていないのか、静騎の言葉に一層嬉しさを滲ませた微笑みを浮かべながら、差し出された手をぎゅっと握る。

「静騎様……良いお名前ですね。そして申し遅れました。私は――グロリア・レイ・ルナレス。私もあなたと同じ。昨夜夢の中で貴方と出会い、そして今日もこの場所からお見掛けしました。その時はびっくりして、思わず隠れてしまいましたけど」

 口元を隠しながらおかしそうにくすくす笑う彼女につられて、静騎もまたぎこちない笑みを返す。

 澪お墨付きのしかめっ面が常態の静騎だったが、この時ばかりは何となく、笑ってみたくなったのだ。

 そして彼女――グロリアの言葉を聞き、改めて昨日からにかけての一連の出来事に得心がいった。無論のこと全部が全部というわけではないが、少なくともこれで彼女が自分のことを知っていた風に喋っていたことにも一応の納得がいく。

 この場合普通に考えれば『夢で出会った』ではなく、『偶然全く同じ夢を見た』という表現の方が正しいのだろうけど、細かいところに言及していたらきりがない。

 それにもう一つはっきりしたこともある。

(表現はどうあれ、グロリアも僕も同じ夢を見ている。そして今日、こうして出会った)

 いくらなんでもこれが偶然とは考えにくい。この場に現れた影や自らが行使した謎の力も併せて無関係ではないだろう。こんな非現実的なことを認めるのには激しく抵抗があるが、すでに自分たちは日常を離れ何か大きな非日常の渦中に巻き込まれてしまっていると考える方が自然だ。

 いいやあるいは最初から(・・・・)――

「……」

 妙な想像が頭の中を過りそうになったところでかぶりを振って掻き消す。


『――キミの現実(リアル)はこちらだろう?』


「……? 静騎様?」

「あ……え?」

「顔色が優れないようですが」

「あ、ああ……大丈夫。問題ない」

 黙っていると、グロリアが心配そうに顔を覗き込んできたのでどうにかその言葉だけを絞り出す。本当なら笑って安心させてあげるべきなのだろうが、すでに先の不慣れな笑顔で表情筋は使い果たしてしまっていた。

(何にせよ、今が非常時なのは確かなんだ。それにグロリアの素性も、まだ何もわかっていない)

 先に彼女に宣言したように、訊きたいことは山ほどあるのだ。こちらの情報がゼロなのに対し、彼女の方はまだわからない。静騎と同様グロリアもまた、巻き込まれただけの可能性もあるが、実は彼女がすでに非日常(向こう側)の人間である可能性も十分に考えられる。そう考えれば静騎を『待っていた』ことにも納得がいくのだ。

 彼女が自分を招き入れたのだとしたら、辻褄が合う部分もたくさんある。

(と言っても、僕も容疑者(・・・)の一人だってことには変わりないけど)

 身に覚えのないはずの超常的な力を知っていた(・・・・・)。そしてグロリアと出会った時に感じた運命的な予感。

 自分自身が知らないだけで、本当は静騎の方こそそう(・・)なんじゃないかと、不安に思う気持ちはどんどん膨らんでいき留まるところを知らない。

(いっそのこと、全部夢の延長線上……いつもの悪夢の新しいバリエーションの一つだったら、何も考えなくて済むんだけど)

 そんな、それこそ現実逃避じみた考えを抱いてしまった自分に嘆息し、改めてグロリアから情報を問い質そうと口を開きかけた――その時だった。



 ――それは少し違うね。


 ――ここは深界(クリフォト)。夢とは微妙に立ち位置が違う。言うなれば深層心理――人の生まれ持つ無意識の奥底に存在する精神の世界なンだから。



「――」

 確かに、聞こえた。

 頭の中に直接語り掛け、ぐちゃぐちゃにかき回すような、腐り、爛れた、悪魔の囁きが。



 ――ここには総てがある。現存している人だけじャなく、これまで歴史上存在していた総ての人類――いや、次元上に存在するあらゆる世界の記憶や経験、夢や幻想が無尽蔵に蓄積されている無意識の海にして意識上の世界の裏側。


 ――キミの世界の言葉でわかりやすいよう平たく言えば、ネットゲームの世界さ。プレイヤーはキミの精神。舞台(フィールド)深界(ここ)。今頃キミの肉体はいつものベッドの中ですやすや眠ッているところだろうさ。ここは全人類の精神と繋がッているサーバー。まァ、入るための資格(アカウント)を取得するには、少々手間と才能がいるけどね。きっひひひ!



 耳元で無数のハエが飛び交う羽音を聞かされ続けているような不快感に満ちた声音。聞いているだけで全身を掻き毟りたい衝動に駆られ、ぞわぞわと背筋を走る怖気を抑えることができない。

 口調こそ丁寧な説明口調で、今の静騎にとってはむしろこれらの情報は貴重で好都合なもののはずなのに、これ以上その声を聞くことに我慢がならなかった。

 何故ならこの声の主はただのひと欠片も親切心や善意などというものを持ち合わせてはいないことを、静騎は嫌というほどに(・・・・・・・)思い知っている(・・・・・・・)。人間を貶め、蔑み、辱め、誰の手も届くことのない絶対の高みから悶え苦しむ様を喝采の拍手と共に眺め咀嚼する。それこそが奴の本質で、与える言葉はいつだって人を混沌と絶望に堕とすための汚濁に塗れた嫌がらせ(ギフト)でしかないのだから。

「静騎様……本当に平気ですか? 少し横になられた方が……」

「いや、いいんだ。それより――」

 何にしろ今の声が幻聴でないのなら確認する必要がある。ここが現実の世界ではなく、心の中? いよいよ以てファンタジー脳全開な展開になってきたが、ここまで来て明確に否定できる材料を持っていない。

 毒を食らわば皿までというわけではないが、これが夢でも何でもない以上はどんな荒唐無稽も受け入れなければならない。そして静騎が覚悟を決めて口を開いた次の瞬間のことだった。

「ぐっ……!?」

「……え?」

 ――何者かの気配をその場に感じた。

 その気配を感じ取った直後、左胸の奥をぎゅっと思い切り握り潰されるような苦痛を錯覚した。次いで襲い掛かってくるのは、身体ごと押し潰されそうになるほど明確に感じられる圧倒的重圧感(プレッシャー)

(なん、だ……? 何かが……来る……?)

 先に撃退した影など比較にならない程、強大な力を持った何か。

 静騎と同じような重圧を覚えているのか、グロリアもまた一瞬前までの柔らかな微笑みはすでにない。息苦しさに僅かに顔を歪めている彼女を無意識のまま自らの背後へ回す。

 自身も全く平気というわけではもちろんないが、気持ちを奮い立たせて視線の先の暗闇を鋭く睨みつける。

 そこから発せられる濃密な強者の気配に、知れず動悸が速度を増していく。立っているだけで額からは汗が噴き出し、呼吸はすでに全力疾走した後のようにぜぇぜぇと荒い息遣いへと変わっていた。

 コツ、コツと大理石の回廊を踏み締める軍靴の音色が静かに響く。そして――


「――へぇ、お前がこのセフィラの聖統主(エルド)かぁ?」


 降り注ぐ月光に照らされ、漆黒の外套を翻しながらこの場に現れたのは一人の男だった。

「はっ、こいつはツイてるぜぇ。まさか一界層(いちかいそう)にまーだ手付かずの領域が残されてるなんてなぁ。たまには真面目に定期警邏(けいら)もしてみるもんだぁ」

 何やら意味深な言葉を呟きつつ、男は軍帽の下から覗く刃物を思わせる真紅の眼をギラリと光らせる。

 その眼光に早くも気圧されそうになりながらも、静騎は男の出で立ちに違和感を覚えていた。

 上から漆黒の軍帽に同色の外套。その下から覗く衣服も重厚感を漂わせる金装飾の軍服で、左側の腰には剣帯に吊るされた軍刀が鞘に納まりながらも隠しきれない殺気を垂れ流しにしている。

 どう見てもこの場にそぐわない、それどころか現代の日常社会においてはコスプレと称してもいい格好。しかし静騎の違和感とはその格好の場違いさではない。

 むしろその逆。あまりに似合い過ぎて(・・・・・・・・・・)いることこそ最大の違(・・・・・・・・・・)和感だった(・・・・・)

 普通、ただの一般人がこの手の制服を着る場合、どうしたってそこには衣装と身体との間にある種の齟齬が生まれる。当然だろう。軍服は軍人が着用するためにデザインされたものであり、それを何の軍事教練を受けていないものが着たとしても、どれだけサイズが合っていようと、どれだけそれっぽいメイクを施そうと、どこかしらに違和感――要するに『コスプレ感』とでも称せるような雰囲気が匂ってしまうものなのだ。

 それは軍服に限った話ではなく、給仕服や道着、究極学校の制服であっても同様だ。衣装とはその用途によって精通している人間が着て初めて衣装として完成されるのであり、にわか仕込みの人間やまだ未熟な者が着たとしてそれらは長い月日をかけ馴染ませていく必要がある。

 その前提をして、視線の先にいるこの男は実に堂に入っていると言っていい。体格、仕草、纏う雰囲気に至るまで一切隙がなく、着られている感をまるで感じさせない制服や武装の数々はこの男の経歴を実に雄弁に物語っており、そしてそれはそのままこの男の経験値に直結すると、静騎は理解していた。

(こいつは、本物(・・)だ。いきなりすぎてまだ考えがまとまってないけど……もし、さっきの影みたいに戦いにでもなったとしたら……)

 ――勝ち目は、ない。

 何故こんな生粋の戦闘職たる軍人がこの町にいるのかはわからない。

 わかっているのはどう見ても友好的ではないその雰囲気と、その意味不明な言動から察せられる一つの結論。

(つまりあいつも、同類(・・)なんだ)

 先に倒した影、自らが行使した超常の力。静騎にとっての非日常、それが男にとっての日常であり、自分もまたすでにその渦中へ飛び込んでしまった後なのだと、最早完全に理解した。

「眷属は……なるほど、少年一人だけってわけかい。要はお前ら至りたて(・・・・)ってところか? ここにきて超ド新人が出てくるとは、いよいよマジでツイてるなぁ、俺は」

 再び独り言のように呟いた後、くつくつと含み笑いを漏らす。

 何が可笑しいのかは全く理解の埒外だったが、一つだけ今の言動から察せられることもあった。

(『眷属は少年一人』……つまりあいつの中での認識は僕が『眷属』、そしてグロリアが――)

 ――聖統主(エルド)

 音の感じからは全く単語の意味を想像できないが、直感的に自分よりも彼女の方が重大な存在なんだと理解できた。つまり――

「んじゃまぁ、サクッと終わらせるとしますかね。めんどくせぇのは嫌いなんだ。だからよぉ、少年。そんな勇ましい目つき睨んでくれちゃって、何考えてんのか知らねぇけどさぁ……」


 ――狙われるなら、彼女だ。


「楽に死にてぇんなら――そこぉ動くんじゃねぇぞおッ!」

 直後、男の腰辺りから閃光が迸った。

 コンマ五秒遅れで静騎たちの後方から、キィンと鋭い音が鳴り響く。視線を向ければ見上げるほどの洋館の上半分が、綺麗な直線を描いて斜めに断割されていた。

「嘘だろ……!?」

 先ほど覚悟を決めたばかりだというのに、早速決意が揺らいで現実逃避へ意識が回れ右をしたくなる。先ほどの影との戦いも通常では有り得ない力のぶつかり合いだったが、こちらはいくらなんでも度が外れすぎている。

 とっさの判断で背後の少女に覆い被さらなければ、今頃二人まとめてあの世に到着している頃だっただろう。

「へぇ、お前も結構ツイてるなぁ」

「っ!?」

 すぐ頭上からかけられた声に振り向くと、そこには半月蝕の月を背にこちらを見下ろす紅眼の男が立っていた。その手には先ほどまで腰に差していた軍刀が――

「く、ぅぉおああっ!!」

 次の瞬間、静騎は殆ど反射的に男に向かって拳を振るっていた。生まれて初めて武器と呼べる物――それも実際に血を吸い、幾十、幾百と命を奪ってきた代物を間近で見たことで恐怖がリアルに感じられたというのも理由の一つだが、最大の理由は――悟ってしまったから。

「づ、らぁああっ!」

 自らとこの男との間に開いた絶望的なまでの戦力差。

 直前まで懸念していた『あの力(・・・)が使えないんじゃないか』という不安はすでに解消されている。

 何故なら先ほど男が放ったと思われる一撃――飛来する斬撃とでも称せばいいのか――は、視界に認識できない程の速度、そして見ての通りの暴虐的な威力で、例え半分以上がヤマ勘による回避行動だったとしても、通常の身体能力では決して躱すことのできない必中必殺の一刀だった。

 にも拘らず自分はここに生存している。今なお繰り出し続ける拳も影との戦闘時と同様に、確かに超常の力を宿していると確信できている。いやそれどころかその時よりも遥かにキレが増し、徐々に身体に馴染んできているような感覚すらある。まるで元々この身体に染みついていたかのように、己の人生の総てを懸けて積み上げ、研ぎ上げてきたように、途切れることなく思い出されていく(・・・・・・・・)

 だというのに――

「くっ、はぁ! らぁあっ!!」

 当たらない。放つ拳の一切が、繰り出す蹴撃の総てが、何もかも。

 男は遊んでいるのか、今のところ最初の一撃以外の攻撃は皆無だ。何やら興味深そうに静騎のことを観察しているようにも見えるが、そんなことはどうでもよかった。

(くそっ……くそ、くそ、くそ、くそ!!)

 先に避けられた右ストレートに続き、ワンツーからの後ろ回し蹴り。喧嘩の類などこれまで一度たりとてしたことはなかったはずなのに、何故か出すべき最善手が頭の中に自動的に組み立てられていく。拳の握り、力の入れ具合から、効果的なフェイントに相手の急所を的確に突く技術。すでに自分がいち学生から戦場の住人へと昇華を遂げていることを自覚しながらも、しかしなお目の前の男に追い縋ることすらできていない。

 単純な実力差だけではない、まるで自分と相手と立っている場所が断絶されているかのような絶対的な壁を感じるのだ。

(僕の後ろには、グロリアがいるんだっ……今ここに、彼女を守れるのは僕しか……いないのに!)

 どれだけ必死になろうとも、どれだけ全力を出そうとも、どれだけ過去の自分を覆し、どれだけ強くなろうとも。

 彼女を守ることができなければ――

「そんな強さに、意味なんて――ないっ!!」

 勝利こそ至高。敗北こそ絶対の禁忌。

 守る者が敗北するということ、その結果守られる者は一体どうなるのか。そんなことはどんな馬鹿でもわかるほどに明快なのだから。

 そうして過去最高速度、最大威力の乾坤一擲が、大気を突き破る爆音を轟かせながら紅眼(あかめ)の男へとついに届いた。

 今度は避けられてはいない。確かに拳の先には硬い肉の感触が感じられ、この一撃が反撃の狼煙となることを確信して疑わなかった。

 しかし――

「――いやぁ、お前面白ぇなぁ、少年」

「なっ!?」

 男の腹に渾身の一撃を入れた静騎の頭上から、言葉通りの含み笑いが降ってくる。

 確かに届いた。そのはずなのに、突き刺さった拳はそれ以上ピクリとも動かず、横から握り締められた手首がギリギリと軋みを上げる。

「ぎっ、ぁっ……」

「最初はまともに阿頼耶式(アラヤシキ)も扱えねぇ、そもそも喧嘩もできそうにねぇ新人(ジャンク)野郎かと思ってたら、どっこい蓋を開けてみりゃ中々いい動きしやがる。はっきり言って俺ら(・・)と比べてそう遜色もねぇし、力の扱い方だけで言やぁ全く無駄がねぇ。だから今度は経験者かと思った」

 ぐいと凄まじい力で引っ張られ、空中へと片手で持ち上げられる。握り潰される寸前の手首が悲鳴を越えた断末魔を上げているが、構うことなく、残った足と拳で抵抗を試みる。

「く、らあ!」

「だがしばらく観察してやってても、戦闘技術自体は洗練されちゃいるが肝心の位階(レベル)が雑魚同然。身につけてる技能の高度さとお前自身の立ち位置が一致してねぇ。こりゃ一体どういうわけだぁ? 何かのからくりかよ?」

 しかし男は一切気にかけず、当然の如くダメージは皆無。相も変わらず静騎にとって意味不明の言葉を投げかけながらも一人可笑しそうにニヤニヤと静騎を眺め続ける。

「ま、結局のとこどーでもいいんだけどよぉ。少年が何者だろうと所詮は眷属だ。眷属をいくら殺そうが何にもならねぇし。そろそろ飽きた」

 その言葉にぞっと全身を駆け抜ける冷たい感覚を覚える。

『飽きた』。すなわちそれは――

「んじゃ、歯ぁ食い縛ろうかぁ? 少、年、よぉっ!!」

 言葉の直後、ずどん、と大砲でも発射されたかのような重い爆撃音が空気を震わし、その場に轟く。

「ごっ……がはぁ!?」

 放たれたのは紅眼の拳。静騎のそれとは比べようのないほど大きな、岩をも思わせる拳が吊るし上げられた彼の腹を打ち抜いていた。その一撃で内臓はずたずたに破壊され、込み上げてきた血液を口から派手にぶち撒ける。

 これまでの人生で感じたことのない痛みに意識が飛びそうになるが、それを許さない声が至近距離から耳朶に響いた。

「はいお疲れー。そんじゃま、もう一発いくぜぇ」

「――っ!?」

 紅眼の手は静騎の手首からいまだ離されていない。すなわちそれは、今なお静騎の身体がその場に吊るし上げられたままということで――

「が、あがぁっ!?」

 先ほどの一撃と寸分違わぬ同じ箇所へと、再び紅眼の拳が突き刺さる。サンドバッグさながらに為す術なく真っ向から一撃を叩きこまれる静騎だったが、掴まれた腕のせいで吹き飛ぶことすらできず、力の反動で腕ごと引き千切られそうになる。

 再度込み上げてきた血の逆流に加え、今度は腹も裂け、内外からの激痛のデュエットにいっそ意識を失くしてしまいたい気分だった。でも――

「耐えるねぇ、少年。好きだぜ、そういう自己犠牲の精神。楽になっちまいたいけどできねぇ。後ろに守りてぇもんがあるんだ。男としちゃ、退けねぇよなぁ」

 飛散する鮮血をその顔に浴びた紅眼が凄惨な笑みを浮かべている。

 すでに視界は朦朧としていた。顔面は涙と脂汗と口から溢れ出た血で酷い有様になっており、首から下がどうなっているかなどは最早確認したくもなかった。

(だけど、それ、でも……!)

 守る。守らなくちゃと、彼女に対するその一心だけが自分を今突き動かしている。

 何故かはわからない。わからないが……あの敗戦の悪夢で覚えた後悔。それがいつまでも頭にこびりついて離れない。

「もぅ……二、度と……君、を……――ご、ぐぁっ!?」

 三度目。先の二度と同じく腹への一撃をもろに食らった静騎は、上下半身が引き千切られてしまったんじゃないかと思うほどの激痛を覚えたのだが、今度は同時に全身に先ほどまでは得たくとも得られなかった浮遊感を覚え、気づいた時には勢いよく地面を転がっていた。

「――静騎様っ」

 ぼろ雑巾のように横たわる自分のすぐ傍へ、グロリアが駆け寄ってくる気配を感じる。

「ば、か……何、やってんだ。早く逃げ……」

 自分が誰のためにこれほど身体を張っているのかわかっているのだろうか? いや、彼女からしてみればこれは静騎が勝手にやっていることで、もしかしたら善意の押し付けもいいとこなのかもしれないが、それでも気持ちくらいは汲んでほしい。

(命を懸けて守ると誓った。だからこそ、君には生き延びてほしいのに……)

 しかしグロリアはそんな静騎の想いを知ってか知らずか、無言のまま彼を抱き起こし、慈しむようにその頭を抱きかかえる。

 高級そうな淡いピンクのドレスワンピースが血と泥で汚れていくことに場違いにも申し訳なさを覚えるが、それ以上に彼女のその時の表情に静騎は違和感を覚えてやまなかった。

「グロ、リア……?」

「はい、何でしょうか? 静騎様」

(こんな……こんな今すぐに死んだとしてもおかしくない状況なのに……僕はボロボロで、動けなくて、狙われているのは自分だって、君はわかっているはずなのに)

 そのはずなのに――どうして。

(どう、して……君は――)

「やべぇやべぇ、悪かったな少年。勢い余って手ぇ離しちまった」

 その時、紅眼の男がひらひらを手を振りながら再びこちらに近づいてきていた。今度はその手に軍刀を握り締め、いよいよ止めを刺しに来ようとしていることが嫌でも理解できた。

 依然として窮地に何ら変化はない。一度は離れた紅眼との距離もすでに十メートルを切っている。最初の一撃のことを考えるなら、もういつ殺されてもおかしくはない状況だ。

(いや、もしかしたら最初から……そうだったのかもな)

 冷静に考えてみれば、男は開戦から腰の軍刀を最初と今の二度しか抜いていない。主武装となるはずのそれを殆ど使わず、今ようやくその手にかけたということ。それはすなわち――

(最初から、いつでも殺せる状態だったってこと、か)

 考えてみれば当然のことだ。誰あろう紅眼本人が最初の最初に言っていたではないか。

「だから言っただろ? 楽に死にたきゃそこ動くな、ってよ」

 その通りだ。あそこで動かず、総てを諦め、放棄して、奴の斬撃に身を任せていれば、こんなに殴られなくて済んだし、こんなに痛い思い、苦しい思いをしなくて済んだ。グロリアの綺麗な服を汚すこともなかっただろう。

(ああ、それなのに……何故、僕は……)

「……ほーぉ、まーだやる気かよ? 根性だけは買ってやるが……」

 地面に手をつき軋む身体を無理やり起こす。膝はがくがくと震えろくに力を入れることもできず、立っただけで口から腹から血が噴き出して頭がくらくらする。

 どう見ても満身創痍。今ならただの子どもにだって簡単に倒されてしまうと、自分で自分がよくわかる。守ると豪語しておきながら、そんな力すでに欠片も残っちゃいないことなんて誰が見ても明白だ。一撃盾になれればマシな方だろう。

 だからそう、これはただのカッコつけ。彼女の前で無様な姿を見せるわけにはいかないという安っぽいにもほどがある男の見栄だ。そんなこと、彼女だってわかっているはずなのに……。

(それなのに……何故、君は……)

 こんな誰がどう見ても崖っぷちな死の直前にまでなって、何故君は――笑っていられるんだ(・・・・・・・・・)?

「何も……」

 朦朧とする意識の中、背後からグロリアの澄んだ声音が聞こえてくる。

「何も心配していません。貴方が敗北してしまうことも、私が死んでしまうことも……どこにも心配することなんてありません」

 その声は今まで聞いた彼女の言葉の何よりも格別な安心感に満ちており、背中越しに伝わる確信めいたその言葉が、顔を見なくともいつもの柔和な笑みで静騎の背中を見守っていることを教えてくれて――

「だって……貴方が守ってくれるのでしょう? だったら私は、それを信じます。信じて、待っています(・・・・・・)

「――」

 そして彼女の言葉と同時、それ以外の音の一切が世界から消失した。


 そうだ。彼女は言った。『私を守って』、と。

(だから僕は……誓った)

『君を守る』、と。

 それは御伽噺の中に登場するようなお姫様と騎士の契約。

 ここが何処で、一体いつのことなのかもわからない遠く彼方にある記憶の話。

 総てが始まったこの時(・・・)こそ、彼女と紡いでいく物語の出発点。


 紅眼の動きがスローモーションに感じられる。奴の右手に握られた刀が、もうすでにゆっくりと振り下ろされ始めている。今度こそ幕引きの一撃だ。

 この一刀が振り下ろされたその瞬間、自分も彼女も死ぬだろう。

 しかしなぜだろう。こんな命の危機に立たされているというのに、胸の内から湧き上がってくる昂揚感が抑えきれない。まるで自分の心が階層を一つ勢いよく駆け上がっていくような、新たなステージへと辿り着こうとしているかのような次元を飛び超える感覚。


 守ってくれと、彼女は言った。

 それはある種傲慢で、身勝手な……けれど何にも代えがたい、天笠静騎にとってのたった一つの魔法の言葉。

(君が、そう言ってくれるから……その言葉があるからこそ、僕はどこまでだって――)

 加速していく静騎の意識。

 紅眼の刀が届くのが先か、それとも静騎が行動を起こすのが先か。どちらが先かなどまるで予測がつかず、静騎の方は仮に先に行動を起こせたとして何が起こるかわからないというリスクもある。

 本人すらもわかっていない『それ』がもたらすのは敗北の破滅か勝利の栄光か。

 両者の臨む決着が、ついにその場に姿を現さんとした――その時だった。



「■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――ッッ!!」



 唐突に、降って湧いたかのような、うなり声がその場に轟き渡った。

「んなっ、こいつ……!」

 先に静騎に吹き飛ばされ埋まっていた瓦礫を砕き散らして、猛然と紅眼に襲い掛かる黒い影。さすがの紅眼もこの奇襲は想定外だったらしく、振り下ろさんとされていた刀を盾代わりに、影の巨大な爪を受け止める。

「ちっ、シャドウか! いいところでめんどくせぇ、なぁ!!」

 横薙ぎに払った刃をひらりと躱されたところで、周囲を見渡し、もう一度舌打ちする。

「いいところだったのによぉ……くっそ、逃げられちまったか……」

 視線の先には先ほどまで静騎たちが蹲っていた場所。その空間はすでに空となっており、静騎のものと思われる血だまりが広がっているだけだった。

「ったく……本当に、いいところだった(・・・・・・・・)んだぜぇ。なぁ、少年」

 館の外へと点々と続く血の跡を眺めながら紅眼はそう呟いた。

「あの状態だ、現実(あっち)に帰っちまったってことはねぇだろうが……案外逃げ足が速いもんだ」

 その瞳の奥にはつい先ほどまでとは違う、何か未知の事象が起こることに期待する子どものような無邪気な光が見え隠れしていた。

「■■……!」

「ま、とりあえずはこっちを先に片付けるかねぇ……は~ぁ、や~っぱツイてなかったかぁ」

 一言呟き、剣を構える。

 ただのラッキーな拾い物だと思っていたものが、意外なほど面白い展開へと転がる気配を本能的に感じながら、紅眼の男は嗜虐的な笑みと共に影へと向かっていった。



というわけでいいとこで終わってしまいましたね、すいません……。イメージ的には二章前半ってとこですけど、次話を三章として分けるかは検討中。ってか凄い盛り上がっといて_(┐「ε:)_ズコーでごめんなさい。次でちゃんと頑張ります。あとすっげーキャラいっぱい出る予定なんで楽しみにしてください。

※一応目標通り来週書き上げられるよう頑張りますが物理的に無理そうなら二週に一回更新ってことにもなりかねないのでご承知ください。

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