第96話 ベネトナシュのきりさくこうげき
かつて彼女は、己こそが最強だと信じていた。
吸血鬼は元々絶大な戦闘力と魔力を有する種族だが、その中にあって彼女は最初から飛びぬけていた。
生まれ持ったマナの濃度が違う。生まれながらに決まっている位階が違う。
基礎能力値、限界値。その両方において他と隔絶して生まれたのが彼女――ベネトナシュであった。
周囲はそんな彼女を姫よ麒麟児よと持て囃したが、その悉くが彼女の不快感を煽った。
周囲の吸血鬼を見て、一度として彼等を同類だなどと思った事はない。
レベルの低い下等生物にしか見えない。同じ種族だととても思えない。
高すぎる自尊心がそう思わせるだけだろうか?
自分だけは違う、特別だと思いたがる子供特有の思考だろうか?
それならばよかった……本当に、ただそれだけならばよかったのだ。
だが彼女は真実、他と違っていた。
成長すればするほどに差は広がる一方で、己を取り巻く何もかもが下らぬ塵芥に思えてくる。
まるで自分だけよく似た、全く別の生き物のようではないか。
そんな、確信にも似た予感が幼少より常にベネトナシュの中に燻っていた。
天才? 異才? 鬼才?
思いつく限りの言葉を己に当てはめようとしても、どれもしっくりこない。
例えば猿と人とで計算の速さを比べ合って、それで人が勝てばそいつは天才か?
否、そんなはずはあるまい。人は猿に勝てて当然だ。
要はそれと同じ事。ベネトナシュが既存の吸血鬼に勝てるのは至極当然で、単に彼等全員がベネトナシュよりも下位の生き物だから強さに差が生じているだけ。
少なくとも、ベネトナシュは己と他の間に存在する差を、そう認識していた。
対等に戦える敵を求めて大陸中を荒らしまわった事もある。
戦えば戦うほど、殺せば殺すほどに力が増し、やがて歯向かう者は誰も居なくなった。
何と退屈なのだろう。勝てると最初から解り切っている戦いを予定調和そのままに勝利する、この味気無さ。呆気なさよ。
手応えを感じた事はある。手強いと思った事もある。
だが負けると思った事は一度もなく、本当の意味で対等の敵と巡り合えた事もない。
やがて世界の1/4にも匹敵する大陸全てから完全に敵が消え去り、いよいよ彼女は己の向かう先を世界へと広げる必要性に迫られた。
海の向こうには魔神王や獅子王といった、己と同じく覇道を邁進している者がいると風の噂で聞いた事がある。
正直なところ全く期待などしていなかったし、どうせ自分が勝つだろうとも思っていた。
しかしそれでもいずれは相見えねばならぬ相手。誰が最も強いのかを決め、そして勝利した者こそが世界の行く末を左右する。
かつて、ルファス・マファールが台頭する以前の世界においては魔神族の頂点たる魔神王、魔物の頂点たる獅子王、竜族の頂点たる竜王、そして吸血鬼の頂点である吸血姫の四人が睨み合う事でかろうじて均衡が保たれており、彼等彼女等はいつか衝突すべき相手として互いを見据えていた。
地獄には魔王アイゴケロスなる者もいるらしいが、彼は地上に乗り出す気もなく、ならば地上の覇権を争うのはこの四人だと長年思われていた。
だから、その報を耳にした時は心底驚かされたものだ。
――竜王、天翼族の女に討伐される。
世界の戦力バランスを保っていた四人の『最強』のうちの一角が、全くノーマークだった天翼族によって抹殺された。
竜王の事はベネトナシュも噂話程度には聞いた事がある。
性格はまさに傲岸不遜。己以外の全てを下等生物と断じ、気晴らしに他の生き物を殺める事もある暴君だったという。
人類相手にはよく脅しをかけ、必要ともしていない生贄を要求する事もあったそうだ。
だから人類に恨まれるのは至極当然の事で、討伐されたのも因果応報としか言いようがない。
だが問題は、それを一人で成し遂げてしまったという事だ。
軍勢を率いたわけではなく、罠を仕掛けたわけでもなく、言葉巧みに嵌めたわけでもない。
正面から堂々と突撃し、そして単騎の力で屠り去った。
その事実はベネトナシュをして驚嘆するに十分なものであった。
しかし彼女は、その時点ではそれほど興味を抱いてはいなかった。
竜王が討たれたのは奴が弱いから。
要するに噂は当てにならないという事で、きっと大した奴ではなかったのだ。
そうベネトナシュは結論を下し、天翼族の女への興味もすぐに失せてしまった。
しかしそれが過ちであった事を彼女は僅か数年後に、己の身を以て思い知る事となる。
他ならぬその天翼族――ルファス・マファールが己の領地へ攻め込んで来た事によって。
敗北を覚悟して戦ったのは生まれて初めての事で、そしてこれ程に心が昂ったのもまた初の体験であった。
この時ベネトナシュは数百年の生の中で初めて己の同格……否、格上と遭遇したのだ。
種族は吸血鬼と天翼族。人類の中の闇と光を象徴するかのような二種族で、恐らくは最も遠い関係に当たるはずだ。
だが分かる。こいつは私の同類だ。他の有象無象、他の吸血鬼などよりも余程己に近い。
己と同じく既存の種族の枠に収まりきらない異端児。世界が偶然生み出してしまった有り得ざる者。
初めて、勝敗が見えない。敗色濃厚な戦いに己が身を投じる事が出来るなどと、想像すらしていなかった。
勝てると分かっている戦いを、予想通りに勝つのではない。
勝てるか負けるか分からぬ戦いに、全霊を賭して挑みかかる。
その――何と心地よき事か!
結果としてこの戦いは痛み分けという名の敗北に終わり、ベネトナシュはルファスが世界を一つに纏めるまでの間だけ、という条件付きで彼女に協力する事となった。
止めを刺されなかったのは屈辱であるし、気を遣われて『負けなかった事』にされたのはもっと気に食わない。
しかし、それはベネトナシュにとって渡りに船である事もまた認めなければならなかった。
ルファスと出会ったことで上の存在を知った。
戦いがこんなに愉しいと初めて理解出来た。
そして、彼女を知ることで己はまだ上へ行ける事も分かった。
ならば次だ。次こそ必ず奴に勝ってみせる。
仮に敗れるとしても、今度こそは情けなどかけさせはしない。此度の敗北は、情けなどかける余裕がある程に弱かった自分に原因がある。それを棚に上げて彼女を批判する事はベネトナシュのプライドが許さない。
だから今は従おう。奴の覇道にも協力しよう。
奴が世界を制した時こそが再戦の時だ。その為ならば尽力は惜しまない。
そして奴が世界の頂点に立った時こそ、真の決着を付けるのだ。
それがベネトナシュの、恐らくは生まれて初めて抱いた心よりの望みであった。
よく誤解される事だが、別にベネトナシュはルファスを嫌っているわけではない。
最強の名を傷付けられ、転落させられた事は多少不満ではあるが、それは己が弱かっただけ。
だから恨んでいもいないし憎んでもいない。
むしろ感謝しているし尊敬している。
この世で一人、尊敬する人物の名を挙げろと問われれば一瞬の迷いもなく彼女の名を挙げる。
嫌ってなどいない。むしろ好いている。
初恋を覚えた初心な小娘のように一途に熱く強く、焦がれて想い続けている。
それは恋のようであり、愛にも似た感情なのだろう。
ただ、その全てが殺戮の牙へと変換されてしまうだけだ。
愛情表現の全てが殺意を伴った致死の攻撃へと変わるだけだ。
だから、ルファス・マファールだけは己が殺す。
他の誰にも殺らせないし、自分を殺していいのも奴だけだ。
故に、あの結末だけは納得出来ない。
己とルファスの戦いを穢した連中を許す気になどなれない。
事の始まりは、ベネトナシュがルファスへ再戦を申し込んだ時より始まった。
二人の間で結ばれていた協定。ルファスが世界を一つに纏めた暁にはベネトナシュと全力で戦うという約定。
ルファスはそれを確かに果たし、二人は世界そのものを破壊しかねない力を以て衝突した。
己の生み出す黄金の林檎や錬金術によって生み出した能力上昇アイテムにより破格の強さを得た覇王。
ルファスという宿敵を得て己の可能性を開花させ、無尽蔵にマナを取り込むことで自力でレベル1000まで到達したベネトナシュ。
二人は完全に吸血鬼と天翼族という種族の枠を逸脱し、常識外れの技と力を惜しみなくぶつけ合った。
それはベネトナシュにとっては待ち続けた至高の一時であり、己が死ぬか相手を殺すまで続くものだと信じていた。
やがてルファスとベネトナシュの戦いは佳境へと入り、ベネトナシュはいよいよ追い詰められる。
自分はまさに満身創痍。吸血鬼の再生力も追いつかず、恐らくは後一度全力の攻撃を行えばそれで力尽きるだろう。
対するルファスはまだ余裕があり、現状では向こうが圧倒的に優勢であると認めざるを得ない。
無論それで諦める彼女ではない。後一度しか攻撃出来ぬなら、その一度で逆転すればいいだけの話。
「行くぞマファール……この一撃で終わらせよう」
「ああ、そうだな。来るがいい、ベネト」
相変わらず余裕の表情で招くように手を動かす彼女が憎たらしくも愛おしい。
負けるにしてもせめて一撃。この全霊の攻撃を奴に刻み込んで、忘れられぬ存在となってやろう。
否……必ず勝つ! この一撃で奴の心臓を貫く!
必勝の気迫を以てベネトナシュが走り、ルファスが迎え撃つ。
だが裏切りはあまりに唐突に起こった。
激突するまさにその瞬間、ルファスに対し何者かの妨害魔法、妨害スキルが発動して彼女の動きを止めてしまったのだ。
ベネトナシュもそれに気付き、咄嗟に攻撃を逸らすが一度勢いの付いた攻撃はそう簡単には止まらない。
彼女の繰り出した爪は急所こそ外れたものの、ルファスの脇腹を抉り赤い華を咲かせてしまった。
「貴様等……これは何の真似だ!」
無論これに憤ったのはベネトナシュだ。
彼女からしてみれば待ち続けた戦いに無粋な横槍を入れられたのだから怒るなというのが無理がある。
故にベネトナシュは妨害を入れた張本人――七英雄達を、この上ない憎悪を込めて睨んだ。
しかしすぐに気付く。様子がおかしい、と。
普段ならば有り得ない天力に漲っている。今の自分と比較しても決して劣っていない力で溢れている。
これは何だ? 確かに七英雄は強者には違いないが、いくら何でもここまでではない。
憤怒の表情を見せるベネトナシュに、しかし七英雄は何も答えない。
それどころか無言で、魔法による束縛を行いベネトナシュの動きを封じてしまった。
普段ならばこんな魔法にかかりはしないだろうし、仮にかかってもすぐに振り解けただろう。
だが今のベネトナシュは満身創痍。もはや腕一本満足には動かせない。
彼女は惨めに地に這い蹲り、何が起こっているかも分からず状況を見守るしかない。
「すまんなベネト。どうやら用事が出来てしまったようだ。
悪いが此度の戦いは痛み分けという事にして、決着は次の機会としよう」
「ま、待て、マファール!」
「案ずるな、余は必ず戻ってくる。その時まで牙を磨いておくといい」
彼女はそう言ってベネトナシュを置いて飛び立ち……そして、戻ってはこなかった。
後の展開は歴史が語る通り。ベネトナシュが与えた傷が原因でルファスは追い込まれ、そして七英雄に敗れた。
ベネトナシュはまたも痛み分けという名の敗北を喫する事となり、宿敵がいなくなったが為に生き甲斐をも完全に失ってしまったのだ。
そして彼女は俗世への興味を完全に失い、万事どうでもよくなって己の棺へと引き籠った。
部下からの報せでアリオト達が魔神王と戦おうとしていた事は伝わったし、彼等から応援も頼まれたが全て無視して蹴り飛ばした。
あの裏切りが彼等の本意でなかった事は分かっている。だがそれでも許す気になどなれない。
だから彼女は世界の動向も全く気にしなかった。
人類が追い込まれようと、英雄の何人かが死のうと心を動かさなかった。
そんな彼女に再び転機が訪れたのはルファスの敗北より五十年近くが経ったある日の事。
魔神族が雑魚の大群を率いて国に攻め込んできたので、ちょっとした運動代わりに叩き潰してやった日の事だ。
その中で唯一手応えのあった敵である魔神王が、とんでもない爆弾を落としていったのだ。
「ふむ、流石は吸血姫。七英雄の中でも唯一単騎でルファス・マファールと戦えると謳われる事はある」
「そういう貴様は噂程ではないな。まあ手強いのは認めてやるが、それだけだ」
二人の戦いは互角ではなかった。
魔神王は多少余裕があれど全身が傷付いており、服も破けている。
対するベネトナシュはほぼ無傷。戦況は完全に彼女が圧倒している。
しかし魔神王がまだ全力を出していない事も薄々予感はしていた。
気になるのは、ここまで圧倒されて尚、魔神王が全く本気を出そうとしない事だ。
「惜しいな。もしも君があの時に加わっていれば、あるいは世界は変わっていたかもしれん」
「どうでもいい。あんな連中がどうなろうが私の知った事か」
「辛辣だな。それは彼女との決着を邪魔された怒りかね?」
「……言葉は慎重に選べ。今すぐに貴様のよく回る口を引き裂いてやってもいいんだぞ」
「図星か」
ベネトナシュが音を置き去りにして爪を薙ぐ。
血の華が咲き、右腕を肩ごと切り落とされた魔神王が距離を取った。
しかしその顔は不敵なままで、腕を落とされたというのにいささかも堪えていない。
「まあ落ち着け。アルコル……ああ、アルコルというのは私達の間でのルファスの呼び名なのだがね。彼女も言っただろう、『必ず戻る』と。君は少し結論を焦りすぎだ」
「知ったような事を」
「知っているからね」
魔神王は話しながら腕を切断面へと付ける。
すると縫合も何もないのに腕がピッタリとくっ付いてしまった。
指先が動くのを確認しながら彼は悪魔の囁きをベネトナシュへと贈る。
「ルファス・マファールは必ず戻ってくる。
後……そうだな、『彼女』が言うには後百五十年程だったか。
吸血鬼の君ならばそう長い時間でもないだろう。
気長に待っているといい。君の望みは必ず果たされるさ」
魔神王が何故そんな事を知っていたのかは今でも分からない。
奴が言っていた『彼女』が誰を指すのかも不明だ。
だが事実としてルファスは帰ってきた。
ならば……ならば、いい。その現実だけが全てだ。他の事などどうでもいいし、興味も沸かない。
この現実があれば、それでいい。
他には何も要らない。
ベネトナシュは部下の立ち入りを禁じた己の私室にて、焦がれた宿敵の気配が近付いてくるのをただじっと待ち続けていた。
ルファス「……七英雄とは一体……」
ディーナ「唯一正気だったはずの人が一番おかしいとかどうなってるんですか……」
スコルピウス「何かあいつ、妾とキャラ被ってなあい?」




