第44話 魔神王が勝負を仕掛けてきた
空間が歪む。
まるで幼子が童心そのままに描いた風景画のように捩くれ曲がり、原型を留めていない。
あまりにも現実離れしたその風景は、勿論現実のものではない。
錯覚。ルファスと魔神王の二人が放つ絶大な存在感を恐怖した瀬衣達が勝手にそう錯覚しているだけで実際には空間など歪んでいない。
だがその場にいる全員がそう認識してしまったのならば、それはもう現実と変わり無く、歪み切った世界の中で黒翼と魔神の王が相対する。
勇者達など視界にも入れていない。
互いに互いの姿しか認識せず、既に二人だけの世界が完成されてしまっている。
不幸にも中央に挟まれてしまった勇者など、この二人の絶対者にしてみれば石くれにも等しい存在なのだろう。
だからこそ、両雄共に瀬衣達などまるで知らぬとばかりに睨み合っている。
「……この時を、焦がれていた」
やがて、沈黙を破り男が声を発した。
低く、それでいて落ちついた声色だ。
その言葉には不思議と棘がなく、まるで焦がれた片思いの相手に出会った青年のように優しい。
「不思議なものだ。
私と君は初めて出会う。
だというのに、私達は互いの事をよく知っている間柄だ。
初めて会ったという気がしない」
間に勇者達を挟んだままに、男が語る。
魔神王――人類共通の大敵である魔神族の頂点にして、世界の脅威そのもの。
死と恐怖の具現。
7英雄ですら手に負えなかったという魔の王が、黒翼を前にして何の気負いもなく言葉を続ける。
「それでもあえて今はこう云おう……お初にお目にかかる、アルコル。
私はオルム。……君達が魔神王と呼ぶ者だ」
「アルコル?」
「君の呼び名だよ。出会えば必ず死ぬ存在。
故に我等は畏れを込めて君を『死を呼ぶ星』と呼んだ」
まるで蛇のような縦割れの眼光を細め、慈しむように200年前に遂に戦わなかった宿敵を見る。
その視線に対し、ルファスもまた揺るがず不敵な笑みを以て返した。
魔の王が怪物ならばこちらも怪物。
同じ領域に棲むからこその、対等がそこにある。
ならば恐れる道理はなく、その顔には強者故の余裕さえある。
だから断じてびびっているわけではない。
本心では「何この圧迫感。笑うしかねーわ」とか考えているわけでは断じてない。
「もう名乗る必要はなさそうだが、名乗りに返さぬのは礼に反する。
余はルファス・マファール。其方等が死を呼ぶ星、と呼んでいるらしい存在だ」
互いに相手を知っているのに初対面。
名前などとうに知られているのに名乗る。
何ともおかしく、滑稽な絵だ。
表面上は穏やかに語り合いながら、しかし既に闘争は始まっている。
魔神王――オルムは精神感応系のスキルを駆使するもルファスがそれを状態異常無効の装備で弾き、彼女の『威圧』をオルムが単純なレベルで跳ね除ける。
どちらもオルムとルファスでなければ既に終わっている強者の技であり、しかしこの二人にとってこれはほんの戯れ。
『効かない』と分りきっている、ただの軽い挨拶に過ぎない。
哀れなのは間に挟まれて『恐怖』(攻撃力低下)のステータス異常に加えて『威圧』(行動不能)の余波で地面に屈服させられている勇者一行だろう。
「其方自身が出て来るとは流石に予測しなかったぞ。
そんなにも勇者が怖いか?」
「馬鹿を云ってくれるな。
私が恐れるのは今も昔も二人だけ。
一人は全知全能の女神。
そしてもう一人は目の前にいる死を呼ぶ星のみよ。
それ以外など、万人塵に等しい」
「では、この事態は其方にとっても予想外と?」
「否、予想の範疇。私は君と遭う為にここに来たのだ」
矛盾した発言だ。
畏れていると明言しながら遭いたいと云う。
無言で次の言葉を促すルファスに、オルムが話を続けた。
「ああ、正直に告白しよう。
私は君を畏れていた。君との直接対決を避け続けていた。
死を呼ぶ星とそれに従う12の星。そして君の統率力により纏められた英傑達との戦いを恐ろしいと感じた。
恐れ、怯え、寝ても覚めても君を想った。
その臆病な在り方を今更否定する気など毛頭ない。全て反論出来ぬ事実だ」
「その割には、此度は随分と簡単に顔を出したな」
「喪ってから気付いたのだ。君だけが唯一、女神のシナリオを外れていた事に。
君という存在をこの世界は失うべきではなかったのだ、という事に」
オルムの勿体ぶった説明にルファスの目が細まる。
何を言いたいのか分らぬ、といった顔だ。
いや、彼女だけではなく瀬衣達も魔神王の発言の意図が読めない。
「……どういう事だ?」
「知りたいか? ならば力尽くで聞き出してみせよ。
200年前の君らしく、単純な暴力を用いて。
ま、否と言ってもこちらから仕掛けるがね」
ゴキリ、とオルムの指の関節が鳴る。
それに合わせてルファスがゆっくりと掌を握り締めた。
――開始まる。
瀬衣達は全身を奮わせながら、これから始まる闘争を予感した。
今、ここで開始されるのだ。
200年前は遂に実現しなかった、覇王と魔神王の闘争が。直接対決が。
誰も見た事のない頂上決戦が。
「――不敵! ならば、あえてその望みに乗ってやろう!」
「――死兆星の力、200年で錆び付いていないか試させてもらうぞ!」
爆ぜた。
瀬衣達の頭上で空気が爆発し、しかし二人の姿は既にどこにもない。
目で追えぬ速度とはこの事。
瀬衣達では認識出来ぬ速度で二人の王は跳躍し、そして頭上で激突してその場を離れたのだ。
戦闘領域は既に空中。
一体いつ移動したのかも分らぬ二人は、空中を舞台に拳を無数に繰り出し交差させている。
放つ攻撃の一撃一撃、その全てが例外なく決殺の威力を秘めた上位スキルであり、そこにはただの一発とてフェイントや小手調べなどなく、全てが即死狙いの大技の乱れ撃ちだ。
しかし二人にとってそれは呼吸をするに等しい容易さで発動出来る技巧であり、頂上同士であるが故にその戦いは拮抗している。
無論、立ち止まってなどいない。
常に動いている。相手の死角に回り込もうと翔け回っている。
常人では捕らえられぬ超速で飛翔し、二筋の閃光となった超越者二人が縦横無尽に物理法則など知らぬと幾度も直角に曲がり、旋回し、互いの隙を探る。
まるで光だ……そう瀬衣は思った。
朱と黒の光が現実離れして、まるで昔に見たロボットアニメか何かのドッグファイトのように空中を滅茶苦茶に翔け回っている。彼の目にはそうとしか映らない。
「覇ッ!」
ルファスが拳撃の合間を縫ってオルムを殴り上げた。
まるで大砲でも炸裂させたかのような、人が人を殴って出すべきではない轟音。
だが音が聞こえた時は既に遅く、成層圏近くまで吹き飛んだオルムを追い越してルファスが高く飛翔している。
今度は蹴り。
再び轟音が響き、オルムが地面に砲弾のように叩き込まれた。
それと同時に地面にどこまで続くかも分からない亀裂が走り、まるで地震でも起きたかのように大地が揺れ、陥没し、砕け散る。
追ってルファスが地面に急降下する。
だがそれと同時に飛び出したオルムがカウンターの蹴りを放ち、今度はルファスが吹き飛んだ。
いくつもの岩山、木々、その他諸々を貫通し砕き、果ての彼方まで飛んで行く。
――直後、意味のわからぬ速度で飛ばされたルファスが更に意味の分からない速度で以て帰還し、オルムへと突貫。
再びカウンターを合わせようと拳を出したオルムだったが、それと同時にルファスが跳躍して回転し、オルムの背後に背中合わせに立ち、肘打ちを見舞う。
だが不発。オルムも同じタイミングで肘を出し、ルファスの肘打ちを相殺している。
遅れて轟音が響き、衝撃波が周囲360度に拡散した。
それだけに留まらず二人を中心に地面が抉れて巨大なクレーターを形成し、余波だけで木々を根元から吹き飛ばした。
瀬衣達は咄嗟に壁となってくれたゴーレム達と、展開されたクルスのシールドに守られたものの、余波に過ぎない風ですらが彼等にとっては死に至る災害。
防御結界が頼りなく軋み、クルスの顔が焦燥に歪む。そして結界の外で頑張っていたゴーレム達の何体かが粉微塵となった。
「……流石だ。これ程の手応えは200年前の7英雄との戦い以来か」
「……其方も、魔神王を名乗るだけはある」
二人が笑い、身体の向きを相手に向けると同時に距離を空ける。
逃走? 否、助走。
一度距離を空ける事でより強く地面を踏みしめ、爆発するかの如き勢いで前へと飛び出した。
互いに助走を付けての激突は先ほどよりも尚大きく全てを揺らし、余波だけで地形を変える。
だがその犯人である二人はもう姿もなく、遥か高い空中で空気が爆ぜた。
まるで大砲でも撃ったかのような音が幾度も響き渡り、爆発したかのように衝撃波が巻き起こる。
置き去りにされた愚鈍極まりない音と衝撃だけが『ちょっと前にここで激突しましたよ』と必死に知らせている、実に涙ぐましい努力の成果だ。
爆ぜる。
ルファスの蹴りでオルムが海の果てまで飛ばされ、射線上にいたゴーレム数体を粉々にし、大海を真っ二つに割りながら水平線の彼方へと消えた。
たが次の瞬間には、もう戦いが再開している。
爆ぜる。
放射状に放たれたオルムの魔法が偶然射線上にいたゴーレム数体を消し炭とし、前方全てを薙ぎ払いながら直進してルファスすらも飲み込む。
やがてそれは母なるミズガルズから離脱し、大気圏すらも突破して虚空の果てへと消えた。
だがそれを浴びたはずのルファスはまるで平然としている。
爆ぜる。
空ぶったルファスの手刀が大地を地平線の彼方まで切り裂き、不発に終わったオルムの拳が風圧だけで海を水平線の彼方まで割る。
だがこれらの衝突を視認出来るのは当人達だけだ。外野には衝突の残滓とその余波しか観測出来ない。
姿はなく、音と衝撃波だけが存在と闘争を知らせ続ける。
幾度にも渡り空が爆ぜ、時折巻き込まれた哀れなゴーレムが崩壊し、木々が突然根元から吹き飛び、地面が抉れ、海が割れる。
これが超常。これが頂上。
異常にして異怪にして異様にして異能。
常人の計り知れるものではない。
元より、その戦いの足跡すら追う事が出来ない。
恐らくは数え切れぬほどの高位スキルを雨あられと出し惜しみなく贅沢に乱発しているのだろうが、一体何を使っているのかすら理解出来ない。
化物同士の闘争。もはやそれ以外に言葉が見付からない。
勇者の物語を無視して突然一番最初のフィールドに湧いて出てきたラスボスAとラスボスBが何か勝手に本人同士で納得して勝手に戦っている。
意味がわからない。
まるで自分達などどうでもいいと言われているようで、酷く情けない気持ちになる。
「…………なんなのよ」
アルフィが顔を蒼白にしながら呟く。
歯はガチガチと鳴り、視線が定まっていない。
「……なんなのよ、あれは……」
それはその場の全員の代弁だった。
その問いには、まさに『あれは何だろう』としか答えようがない。
道理を外れている。理解を超えている。
彼等の持つ常識を完全に無視してしまっている。
故に、その問いに答えられる者もまた皆無であった。
『あれは何だろう』では答えとして成立しない。
「どうしようもないじゃない……あんなの……。
私達にアレを倒せですって……? どうやって……?
か、勝てるわけないじゃない、あんなの……あんな、化物……。
そうでしょ? ねえ……?」
見れば、アルフィは涙すら流していた。
旅に出るまでは強気で自信に溢れていたというのに、今はただの恐怖に竦む一人の少女でしかなく、その心は完全にへし折れてしまっている。
だがそれを咎める事が出来る者など、一体どこにいようか。
あの馬鹿げた戦いを目前にして、どうして心保つ事ができよう。
「あんな……あんな化物二人を相手に……私達に一体どうしろっていうのよおおお!!」
その涙混じりの叫びすらも掻き消すように再度、空が爆ぜた。
音など置き去りにした超高速域の戦い。
当人同士しか視認し得ぬ極限まで体感時間を圧縮した、時間を停止めたに等しい刹那の攻防。
無論、そんなスキルなど使っていない。
だが限りなく縮めた刹那の世界を動き回る速度があるならば、それは時間停止と何ら変わりなく、要するに『全力で動けば時間が止まる』という領域に棲んでいるというだけの話だ。
音はとうに消え、時間すらも置き去りにした二人だけの無音の世界。その中で尚も攻防は続く。
避けて避けられ、防いで防がれて、殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、撃って撃たれる。
絶対防御、防御貫通、絶対命中、絶対回避、単撃連撃乱撃、ダメージ加速にダメージ軽減。
天法、魔法、加速、減速、攻撃反射にスキル貫通、攻撃上昇防御上昇速度上昇、攻撃低下防御低下速度低下、バフデバフ、スタン付与にスタン無効。
ありとあらゆる常時、通常、対抗スキルを発動し無効化し貫通し防御し回避し相殺し、それでも尚互いに決定打を入れられずに決殺決死の攻撃を放ち続ける。
「っはあああああああああ!!」
ルファスが身体を捻る。
攻撃力を上昇させ防御を貫通し、可能な限りのスキルを上乗せして更なる一撃の準備へ入った。
これまでの攻撃全てが馬鹿みたいな大砲ならば、これは更に威力を上げたもっと馬鹿みたいな大砲だ。
結局のところ大砲である事に変わりはなく、要は単純な力押しであった。
「ぬううううううううううううん!!」
同じくオルムも身体を捻り、右拳に全ての力を集約させる。
恐らくはルファスと同程度かそれ以上のスキルを発動しているのだろう渾身の一撃。
これを放つ事で生じる周囲の被害など知らぬ存ぜぬ関係ない。
大事なのは今、この闘争の一瞬のみ。
――衝突。そして時が動き出す。
恐らくはこの時代、この世界において最強の使い手たる二人が放つ徒手における最大の一撃。
それを何の躊躇もなく衝突させ、その直後に紛れも無く『世界』が揺れた。
それと同時に圧縮時間中に放たれた全ての攻撃の余波、打撃音が一斉に弾け飛ぶ。
遠く遠方に位置する森林が激しく揺れ、動物達が恐怖したようにパニックを起こす。
海が荒れ狂い、全世界に住む生き物が同時にその空気の震えを感じ取った。
各地で大地が裂け、雪山では雪崩が起こり、いくつかの岩山が崩れ落ちる。
余波だけで嵐が発生し、台風の如き暴風が世界各地で荒れ狂う。
そして残っていた僅かなゴーレム達は勇者達の壁となり、一体残らず崩壊した。
地震の如く揺れる城内。恐れ知らずの吸血鬼達がざわめく中、その王たる少女は揺らがない。
優雅に玉座に腰掛け、血を注いだグラスを傾ける。
周囲には魔物の死骸。彼女の首を取りに来た目障りな獅子の手勢が役目も果たせず餌となり果てていた。
「……妬かせてくれるな」
待ちわびた宿敵の健在を知らせるかのような世界の震え。力の波動。
話に聞き、既に確信していたが今この上なく宿敵の健在を実感する。
同時に苛立ちに似た感情も沸く。
己を置いてどこの誰と遊んでいるのだ、と身勝手な嫉妬が心を焦がす。
歓喜と嫉妬……まるで初恋を覚えたばかりの生娘のようではないか。
そんな事を考えながら、ベネトナシュは窓の外を見る。
憎くも愛しいあの宿敵が今、どのようにして戦っているのかに思いを馳せながら。
「たまらねェ」
荒野にて一人の雄が歓喜に満ちた声で呟いた。
その周囲には吸血鬼の死骸。
高い不死性を有するはずの彼等が、再生すら出来ぬ程に壊し尽くされている。
それを為したのは、中央に座する巨大な獅子だ。
「勃起しちまいそうだ……魅せ付けてくれるじゃねえか。ルファスよォ……」
その全長は150mを超え、本性を現した時のアリエスすら上回る。
獰猛な瞳は己以外の全てを餌と断じる傲慢さに満ち、筋肉質の体躯は猫科のしなやかさと同時に鋼の堅さを備えている。
その体毛は紅蓮。赤黒く染まった巨大な獅子が涎を垂らし、今はここにいない最上の獲物へと下卑た欲望を抱く。
揺れる世界が心地いい。感じられる力の波動は最上の誘いであり、彼の闘争心を刺激してやまない。
それでいて、肝心の相手は此処にいないのだ。ああ、何という生殺し。狂いそうなほどにもどかしい。
解消する術もない獣欲と闘争心を抱えながら彼――獅子の王は感じられる闘争の波動を愉しみ続けた。
そして冗談じゃない、と瀬衣は余波でひっくり返り情けない姿になりながら戦慄した。
いくら何でもこんな化物達を倒せなんて、無茶振りもいい所だ。
否、化物ですらない。――天災。あれはもう人の形をした災害だ。
見ろ、虎なんて怯えて耳を伏せた上に尻尾まで股の間に隠しているじゃないか。
そんな瀬衣達を他所に衝突を終えた二人は地面に着地し、戦闘前とまるで変わらぬ姿で佇んだ。
メグレズ「私の造ったゴーレムが……」




