平成野球少年。
千春 ♂
真 ♂
和美 ♀
真夏の陽光は殺人的だ。
喫茶桐壺から望高まで自転車で移動した俺たちは、全身汗だくになっていた。駐輪場に自転車を置いてすぐ、倒れこむようにして自販機前に腰掛ける。ここは日陰な上に風通りがよくて比較的涼しいのだ。あくまで比較的、ではあるが。
熱中症対策には水分補給が最重要だ。皆、飲み物を我先にと購入して慌てて流し込む。「……やっぱり、バスの方がよかったんじゃない?」
「馬鹿言え。この前、チャリ移動を提案したのはどこのどいつだ」
「だって桐壺、バス停から遠いんだもん」
「だもん、じゃねえよ。チャリで集合したんだ。チャリで移動しなきゃしょうがないだろうが」
水分をとって人心地ついたというのに、口から出てくるのは不毛な遣り取りばかり。
「ああ、もう、こんなに日焼けしちゃって……こんなことなら、日焼け止め塗ってくるべきだったな」
無視か。自身の細い腕を眺めながら溜息を吐いている。
「日焼けを気にするな。女子かお前は」
暑さで疲弊しているせいか、心の声が口から漏れ出てしまう。
「今は男でも気にすんだよ。ね、和美からも何か言って――ブッ!」
黙っている和美に話を振ろうとする真だったが、その途中で盛大に吹き出し、視線をそらして俯いてしまう。どうしたのかと振り返って、合点がいった。
和美の白いブラウスが、汗でずぶ濡れになっている。そのせいで下着が透けてしまっているのだ。和美の場合、無駄に3Dなので、純情な真は直視に耐えないのだろう。
「おい、和美……」
缶コーヒーを飲み終えた和美が、ようやく俺の視線に気が付く。
「……ん? ああ、これ。参っちゃうよねえ。着替えもないのに」
そう言いながら、あまり嫌そうではない。むしろ面白がっている風にも見える。
「大丈夫。あたし、あんまり気にしないから」
お前が気にしなくても、周りの男が気にするんだよ。特に真が。無頓着なのか、周囲の視線を楽しんでいるのかは分からない。前者ならズボラが過ぎるし、後者ならそれは露出狂の痴女だ。いずれにせよ、女としてどうかと思う。
とは言え、着替えがないのもまた事実。
ならば――とる方法は一つしかない。
スマホを取り出しアプリを起動させ、目の前の女を画角に収める。
「和美」
★
流れるような作業で、和美の性別反転完了。
目の前に鎮座するのは、彫りの深い顔をした天パのオタク。男の、和美だ。撮られた本人も横にいた真も慣れたモノで、俺の行動を瞬時に理解したらしい。
「……多分、女のおれはそのままでもいいと思った筈だけどなあ」
呑気な声を上げているが、そうはいくか。
結局、男三人連なる形で、俺たちは目的地を目指すのだった。
自販機コーナーから体育館を左に曲がり、渡り廊下沿いに十メートル程歩いたところに、我が校のグラウンドはある。野球部の練習場はグラウンドの右奥だ。バックネットが設置されているので一目でそれと分かる。今は試合形式の練習でもしているのか、部員たちは守備位置に散らばっている。俺たちはグラウンドを迂回し、サード後ろの場所にまで移動した。
「何か……凄いな」
最初の感想が、それだった。部員や設備を見てではない。バックネット裏にずらりと並んだ女子生徒たちを見て、だ。十人はいるだろうか。彼女らの視線は一様に、マウンド上の投手に注がれている。その投手が投球フォームに入るたび、黄色い歓声があがる。
中でも中央に立つ少女は特製のうちわを持って応援していて、どこぞのアイドルのコンサートを思わせる。厚い唇と面長な顔が印象的で、その熱い視線を真っ直ぐマウンド上に注いでいる。
そこには、一人の投手の姿。
「あの人は?」
「名前くらい聞いたことない? 七瀬先輩。ウチのスーパースター」
マウンド上を見たまま、和美が答える。確かに名前くらいは聞いたことある。
七瀬悠季。
望月高校野球部二年の絶対的エース。中学野球界でもそれなりに有名な存在だったらしく、入部した頃から何かと話題になっていた、らしい。一年の時点で易々とレギュラーの座を射止め、今年、エースピッチャーとして夏の大会に挑んだのだが……。
「確か、県大会の二回戦敗退だったんだっけ?」
同様にマウンド場を見据えたまま、真が呟く。
「チームに恵まれなかったってところだねえ。七瀬先輩のピッチングはよかったんだけど、守備と打撃が駄目だった。だからこそ、新生チームになった今、気合を入れて練習に励んでるんだろうねえ」
したり顔で解説する和美。コイツは高校野球にも精通しているらしい。もっとも、自分の学校のことなのだから、それも当然なのかもしれないが。
再び、歓声が上がった。七瀬が打者を打ち取ったらしい。
「何か知らないけど、すっごい人気だね」
「真、知らないの? 七瀬先輩って、イケメンでも有名なんだよ。校内にファンクラブが出来るくらい」
言われてマウンド上に目を凝らす。
確かに、男前だった。
帽子の下から覗く目元は涼しげで、鼻梁は高く、唇は薄い。甘いマスクの筈なのに、どこか凛々しく見えるから不思議だ。体も非常に均整がとれていて、しなやかな肉体から紡がれる投球フォームは美しくすらある。素人の、それも男である俺ですらそう思うのだ。
これは、人気が出ない方がおかしい。
俺たち三人はしばしその場に棒立ちになって、二人目の打者を打ち取る七瀬悠季に釘付けになっていた。
と、その時。
カキン、と乾いた音と共に、硬球がこちらに飛んでくる。
「危ない!」
刹那、物凄い力で後ろにぐい、と引っ張られる。勢いが付きすぎて、二メートル程、後ろにもんどり打つ。
「――――ッ!」
腰と背中を強か打ちつけ、一瞬呼吸ができなくなる。
体を起こしたのと、ボールが横のネットに突き刺さるのを見たのが同時だった。どうやら、危うくライナー気味のファウルボールにぶつかるところだったらしい。
「千春、大丈夫!?」
真が慌てている。後ろにいる和美も心配そうだ。だけど、俺は俺の襟首を掴んでいる男から目が離せないでいた。
「……危ないだろ。見学ならバックネット裏に行け」
押し殺した声が耳に届く。
学校指定の青いジャージに身を包んだ、長髪の男だった。髪は顎くらいまで伸びていて、前髪の間からは見える目は三白眼。静かな物腰だが、その凶相のせいで迫力は二割増しだ。右手には小型の給水ポットとタオルを提げている。部員たちのために用意したのだろうか。と、言うことは……。
「……三塁近くでウロウロしてたら危ないってことくらい、ド素人でも分かりそうなもんだろ。練習の邪魔だ。分かったら早く行け」
平坦で、乾いていて、だけど怒気をはらんだその声に、思考が中断される。色々と分からないが、一つだけはっきりしている。今、俺たちは物凄く怒られている。
「そこまで怒ることないっしょ」
柔らかな声に、体が硬直する。見ると、マウンドから七瀬先輩が歩いてくるところだった。その場にいる全員の視線が一斉に集まる。これほど居心地の悪さを覚えたことはない。
「あ、悠季……」
緊張してるのは俺たちだけではない。ぎこちない動きで、ジャージ男は七瀬に近づいていく。
「サンキュ」
受け取ったタオルで顔の汗を拭う。俺たちがこの男と鍔迫り合いしている間に、さっさと三人目の打者を三振で抑えていたらしい。
「それより、どうしたんだよ」
チェンジで相手チームが守備位置につくのを背景に、七瀬は尚も追及してくる。どうやら、自分の打席は随分先らしい。
「……別に大したことじゃない。さっきのファウルボールが当たりそうになってたから、危ないって注意していただけだ」
言葉少なに状況説明をしているが、どこか弁解じみている。きっと、この男は野球部の男子マネージャーなのだろう。口調から察すると七瀬と同学年らしいが、やはり、校内一の人気者を前にすると緊張するものらしい。
「そっか――それは確かに、コイツの言う通りだ。さっきみたいにファウルボールが飛んでくるかもしれないから、見学するならバックネットの裏に移動した方がいい。その方が安全だし、安心して見学できるからさ」
白い歯をこぼしながら、イケメンピッチャーは優しくそう言う
「――スミマセンでした。僕ら、大人しく隅に引っ込んでいます」
こういう時、真っ先に頭を下げるのは決まって真だ。釣られるようにして、俺と和美も頭を下げる。下げた後で、バックネット裏に移動する。素直に謝罪したのがよかったのか、マネージャーもそれ以上何か言ってきたりすることはなかった。
「……あの人、だよね」
木陰に避難して、真っ先に口を開いたのは真だった。呟く真の視線の先では、例の青ジャージが練習に使うバットを一本ずつ丁寧に拭っている。
「ひかると口論したっていうマネージャーか?」
「うん。他にそんな感じの人、見当たらないし」
どれだけ見ても、この場にいるのは練習着に身を包んだ坊主頭と、バックネット裏の女子ギャラリーだけ。この部のマネージャーは、彼と見て間違いないだろう。
「ちょっと想像しているのと違ったけどね――」
そう言いながら、真は早くも行動を始める。止める間もない。
「あのぅ……ちょっとよろしいですか?」
ネット越しに、ベンチ脇にしゃがみこんで作業を続ける男に声をかける。
「さっきは失礼しました。実はですね。僕たち、ちょっとお聞きしたいことがあって来たんですけど」
軽妙な語り口だ。口下手な俺や人見知りの和美にはとても真似できない。
対するジャージ男、三白眼をこちらに向けたまま押し黙っている。
無言を肯定のサインととった真が、さらに続ける。
「今から一ヶ月くらい前なんですけど、練習中に、変な女が来ませんでしたか?」
「……変な女たちなら、ほぼ毎日来てる」
ぶっきらぼうにそれだけ言うが、意味がよく分からない。
真も首を傾げている。自分の意図が伝わらなかったと気付いたのだろう。彼は真のすぐ横を顎でしゃくる。そこには、七瀬ファンである女子の群れ。それ以上何も言わなかったが、何となく言いたいことは分かる。毎日のように練習に来てキャーキャー言われたら、はっきり言って邪魔なのだろう。しかし、俺たちが聞きたいのはそんなことではない。
「あの、そうじゃなくてですね――もっと、こう、とにかく変な奴が来た筈なんですよ」
ひかる、お前、『とにかく変な奴』呼ばわりされてるぞ。故人に憐憫の情を抱く僅かな間に、真は自分のスマホを取り出し、軽く操作して相手に突き出す。
「コイツなんですけど」
恐らく、そこにはひかるの画像が映し出されているのだろう。
一瞬――男の動きが止まった気がした。でもすぐに顔を背けてしまう。
「知らない」
「本当ですか? よく見てください。コイツ、絶対に野球部の練習に来てた筈なんです」
真の声と表情には、必死さと悲痛さがにじみ出ている。半分は素なのがコイツのいい所で、半分は芝居なのがコイツの悪い所。だけど、相手には届かない。
「……そう言われても、知らないものは知らない」
無表情、無感情にバットケースを担ぐ。取り付く島もないとはこのことだ。
ここまでか――そう思った次の瞬間、事態は思わぬ展開を迎える。一人の部員がこちらに近付いてきたのだ。
「どうした」
七瀬に対するのと比べ、幾分フラットな口調でそう尋ねる。
「俺のタオル知らね?」「お前のなら、洗濯機に入れておいた」「ちょ、勝手なことすんなって。俺、何で汗拭きゃいいんだよ」「汚れてたからな。代わりにこっちを使え」
言いながら、近くにあったポリ袋から洗いたてらしいタオルを取り出し、渡す。
ここだけ聞けば、特にどうということもない遣り取りだ。
問題は、その部員が去り際に放った一言にある。
「いつも悪ィな、鳴川」
タオルを掴み、去っていく。残された俺たちは、三人で顔を見合わせていた。
鳴川。
そう――繋がるのか。
「ちょっと待ってて」
機敏な動作で真は駆け出す。止める間もない。さっきから俺と和美の二人は完全に傍観者だ。戸惑う俺たちの前で真は素早くバックネットをくぐり、鳴川に近付いていく。
「……こっちに来るなって言っただろ」
バットケースを片付けながら、そっけなくそう言う。顔も見ない。
「あの、鳴川翼さんって言うんですか?」
「……どこかで会ったか?」
下の名前を言われたことに驚いたのだろう。眉を寄せ、ほとんど初めて、まともに真の顔を見る。対する真もしっかりと相手を見据え、はっきりと言い放つ。
「話を聞きました――増田さんに」
「来い」
増田の名前を聞くや否や、真の襟首を掴み、グラウンドの隅へと引きずっていく鳴川。今回も止める暇はなく、俺たちは慌ててついていく。
「ちょっと、離してくださいっ! 自分の足で歩けますからっ!」
抗議の声は届かない。鳴川に引きずられ、若干浮いた姿勢で、じたばたともがく真。
そう言えば――さっき俺を引っ張り倒したのも、左手一本ではなかっただろうか。見かけによらず、大した腕力だ。
「……ここでいいか」
解放されたのは、グラウンドの端、運動部が部室として使用しているプレハブ小屋が長屋のように連なっている部室棟の前。
奇しくも、ひかるがこの男と口論していたのと同じ場所だった。
「乱暴しないでくださいよお」
力づくで放り投げられた形の真が腰をさすっている。
「そのくらいで何だ。男のくせに軟弱だな」呆れて溜息を吐くのも一瞬、鳴川の目はすぐにその鋭さを取り戻す。「それより、質問に答えろ……お前ら、さっきからどういうつもりなんだ。人の周りをチョロチョロと」
「何度も言ってるじゃないですか。僕たちは、さっきの画像の奴がここに来たかどうか、聞きたいだけなんです」
「お前ら、あのバカの知り合いか? だったら言っとけ。俺は興味がない。何度来ても一緒だってな」
鳴川が吐き捨てるが、俺たちには意味が分からない。それは多分、彼の言葉が足りないせいではない。最初から、話が噛み合っていないのだ。
天を仰ぐ。今日も、ひどく暑い。
少し向こう、アスファルトから陽炎が上がっているのが見える。俺は陽を避けるように部室棟の軒下に移動し、逡巡の後、口を開く。
「――ひかるには、伝えられません」
口がカラカラに渇いている。
「アイツ、死んだんです」
「え……」
「自殺でした」
思いのほか自然に、その台詞が出た。鳴川がこちらを凝視している。和美も、真も。汗が止めどなく吹き出し、顎から滴り落ちる。口に入った自分の汗は、やはり何の味もしなかった。
「何、で……」
狼狽する鳴川。今や、無表情の仮面は剥がれ落ち、驚愕の表情に取って変わっている。
「分かりません。分からないから、探っているんです」
「僕ら、ここ二週間のアイツの目撃証言を集めたんです。そしたら、二十四日の新川河川敷と、二十六日の部室棟前――つまりここで、それぞれ目撃されていることが分かって」
「そして、そのどちらにも、鳴川先輩が関わっている……」
真の後を継いで、初めて和美が口を開く。人見知りのコイツにしては珍しい。
「鳴川先輩、教えてほしいんです。ひかると何があったんですか? さっき、興味がないとか何とか言ってましたけど」
結局、俺が先頭に立っている。こういうのは真に任せたいのだが。
「……お前らは?」
「俺たちはアイツの幼馴染みです。俺は1Bの町田千春。こっちは同じクラスの相良真。こっちは高校から友達になった1Aの勝浦和美です」
今更の自己紹介。
「……あの一年は……ひかる、って言ったっけか」
「松前ひかるです。おれと同じ1Aの生徒でした」
和美が答える。過去形が悲しい。
「順を追って聞いていった方がいいですね」
焦れたのか、真が前に出る。前に出た勢いそのままに、軒下に移動する。日焼けを気にしたらしい。
「草野球の試合で、何があったんですか」
「何があったも何も、あの時はいつもの通り、レッドブルズとの試合があって――」
明らかに動揺した素振りで、たどたどしく話し始める。流暢な説明には程遠いが、余計な描写がない分、逆に聞きやすい。望月ファイブスターズのエースとして先発を任された鳴川はいつものように好投を続け、七回の時点で無安打無失点だった、らしい。
「……そこで、あの女が代打を申し出たんだ」
ここまでは、真が増田に聞いたのと全く同じだ。
「草野球なんてのはユルいから、今までも観客が代打を申し出ることもなくはなかった。ただ、その場合はほぼ例外なく、野球経験者って決まってる。あの女みたいに、ド素人がしゃしゃり出てくるなんてことは、ありえないんだ」
「ド素人だって、分かりましたか」
「当たり前だ。バッティングの構えを見れば一発で分かる。馬鹿らしいから、三球とも、ど真ん中に叩き込んでやった。へっぴり腰の大振りで、かすりもしなかったな」
「そしたら?」
絶妙な合いの手で、真は口下手な鳴川から話を引き出していく。
「あの女、一人前に悔しがりやがって……あんまり腹が立ったから、つい強い言葉が出た」
「何て言ったんです?」
「『ド素人が試合の邪魔すんな』って……」
「胸ぐらを掴みながら、ですか?」
「そうだ」
聞く真も、答える鳴川も至ってフラットな口調だ。陽炎のぼるグラウンドの隅で、淡々とした質疑応答は続く。
「その後は……?」
「別に何も。試合終了後、あの女はいつの間にかいなくなってた。と言うより、俺自身、そんな女がいたってこと自体忘れてた。完全に終わったんだと思ってたんだ」
「だけど――それでは、終わらなかった、と」
コクリと首肯したまま、額の汗を拭う鳴川。
「……翌日は野球部の練習日だった。よりによって、あの女はそこに現れたんだ」
何故だ。何故アイツは、ここに来た。
「草野球と野球部を掛け持ちしてるって思ったんじゃないかなあ」久しぶりに和美が口を開く。「おれ達は『野球部ではプレイしていない』って情報を聞いてたけど、アイツはそうじゃなかった。ただ、望月高校の生徒ってことだけを知ってたんだと思う。それで、あれだけ凄いピッチャーなんだから、当然野球部にも在籍してるんだと勘違いした――そんなところじゃない?」
それでも、まだ分からない。
ひかるは何故、この鳴川という男にそこまで執着するのだ。
草野球で代打を申し込んだのなんてただの気まぐれで、その後に鳴川に叱責されたのだって妥当な流れだ。本来なら、その日限りで完結する話の筈。それなのに、翌日アイツは野球部の練習場に現れた――何のために?
「いや、最初から俺が目当てだったかどうかは分からない。しばらくは他の部の辺りをウロウロしてたみたいだったしな。結局、俺が作業してるのを見つけて、野良犬みたいに駆け寄ってきたけど」
野良犬とは言い得て妙だ。少なくとも室内犬ではない。アイツはきっと、定期的に野に放つ必要があったんだろう。
「駆け寄ってきたアイツは、何と?」
タオル地のハンカチで汗を拭いながら、真は尋ねる。
「……驚いてたな。俺がここでマネージャーをしていることが、心底意外だったらしい」
「あの、それについては正直僕たちも同じ感想です」
「……お前らも、男のくせにマネージャーなんて、って思うか?」
口元を歪めながら、鳴川はそう言う。対する真の返答は素早かった。
「思いません。マネージャーも大切な役割ですし、そこに性別差があるとも思いません」
真っ直ぐな目で、口調で、真は言い切る。
「今の、ひかるがそう言ったんですか?」
「……違う。ただの一般論だ」
そうだろう。アイツはアホだが、間違ってもそういうことを言う奴ではなかった筈だ。
「あの女――ええと、松前だったっけ――アイツはひとしきり驚いた後で帰っていった。二十五日は、それで終わりだ」
「……それだけ、ですか?」
思わず声が出ていた。
「その日はな。問題は、次の日だ」
そう。ひかるが鳴川との口論を目撃されていたのは、翌日の二十六日なのだ。そこで何があったのか――それが、どう自殺に結びつくのか――それが問題だ。
「また来たんですよね」
「また来たな……」地面をスニーカーの爪先でガツガツ蹴りながら、鳴川は呟く。「その日は最初から俺が目的だったらしくて、他には目もくれず、駆け寄ってきた」
アイツは何故、移動が基本『駆ける』なんだ。五歳児か。
「何か言ってましたか」
「何かどころじゃない」軽く溜息を漏らす。「いつまでマネージャーを続けるのか、選手としてやるつもりはないのか、何のために野球部にいるのか――なんて、俺が止めなければもっと喋ってたな。話がファイブスターズに移りそうだったから、慌ててこの場所まで引きずってきた」
まさに、今の俺たちと同じ状況だった訳だ。
「皆、悠季に注目してて見られてないと思ってたんだが、見てる奴もいたんだな……」
「鳴川先輩は、何と?」
「興味がない、と答えた」
「そんな……」
最初に鳴川が言っていた言葉だ。
「選抜とか甲子園とか、興味がないんだよ。プロや大学でやれるとも思ってない。俺はただ単純に野球が好きなだけなんだ。プレイできるならどこでもいい」
「それで、草野球チームですか」
「――男のくせに、って思うか。野心も覇気もないって」
「いえ全く。人それぞれだと思います」
鳴川も真も、ほとんど表情を動かさずに喋っている。どこまで本心か、わからない。
「ちなみに、それも一般論ですか?」
「……そうだな。心配しなくても、松前はそんなこと言ってないよ」
「アイツは何て言ったんです?」
「『せっかく――』って言ったきり絶句してたな」
「せっかく、それだけの実力があるのに、ですか?」
ひかるが言いたかったであろう言葉を代弁すると、鳴川は自虐めいた笑みを浮かべ、視線をそらす。
「ウチには悠季がいる。俺の出る幕なんかない」
――アイツとエース争いなんかしたくないしな。
最後の台詞が、蝉時雨に掻き消される。確かに、この部には七瀬悠季という絶対的エースがすでに存在している。勝負事に興味がないと嘯く鳴川にとっては、この部でプレイすること自体に魅力を感じないのだろう。
「それなら」静かに、真が質問を重ねる。「どうしてここでマネージャーをしてるんですか? 草野球チームに入って、帰宅部でいいじゃないですか」
真の追及に、鳴川は言葉を詰まらせたようだった。
「……だから、俺は野球が好きなんだよ。せっかく部活に入るんだったら、野球部以外に考えられないだろ」
帰宅部という選択肢はないらしい。
「でも、マネージャーやりながら草野球なんて大変でしょ?」
「好きでやってることだからな」
「練習時間とかは……」
「向こうはナイター練習もできる。部が終わってからやればいい」
「大変じゃないんですか!?」
と言うか、不可能だろう。それを可能にしているのは、天賦の身体能力のおかげか。
「慣れればどうってことない」
「照明代もかかるし……」
「増田さんが何とかしてくれる。俺の頼み事だったら大抵のことは聞いてくれるからな」
草野球チームを主催する鮮魚店店主は、この凶相の高校生に滅法甘いらしい。
「ええと、ここまでの話をまとめると――要するに、アイツは鳴川先輩が部のマネージャーをしていることが疑問だった訳ですよね。草野球でマックス百四十キロもの剛速球を投げながら、野球部ではマネージャーに甘んじていることが不思議で仕方がなかった。勿体無いと思ったアイツは、お節介にも先輩にそれをぶつけた。対する先輩は勝負事――甲子園出場や全国制覇などには毛頭興味がなく、ただ単純に純粋に野球が好きなだけで、選手として活動するつもりなどなかった。その価値観の違いから、口論に発展した。それを通りすがりの人間に目撃されてしまった、と……」
スラスラと要約する真。
「まあ……そういうことだな……」
立板の水の如く話をまとめる真に対し、鳴川は若干目を白黒させながら首肯している。
「なるほど……分かりました」ウンウンと、小刻みに頷いている。「僕たちが聞きたかったのは以上です。お時間とらせて申し訳ありませんでした。あと、僕らの友達がうるさくしてすみませんでした。合わせて謝罪します」
小さな体を押し曲げ、ぺこりと一礼。
「じゃあ、先輩もお忙しいでしょうから、僕らはこの辺で――」
えっ――と、俺と鳴川が同時に同様のリアクションを示す。
これで、終わりなのか?
「オイ……松前の自殺した理由ってのはどうなったんだよ」
踵を返しかける真に、若干焦った様子を見せる鳴川。無理もない。俺も同じ気持ちだ。
「正直言うと、分かりません。ただ、鳴川先輩との一件は無関係だと断言できます。なので安心してください」
それでは、失礼します――。
まだ何か言いたげな鳴川を置いて、真は本当に踵を返す。
和美は、それに黙ってついていく。
何が何だか分からなかったが、俺もそれについていくだけだった。