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2学期になっちゃったら

千春  ♂ 

ひかる ♀


 ――私、もう死んじゃおうかな……。

 ひかるの呟きが蝉時雨に溶けていく。カーペットに栗色の髪が放射状に広がっている。

「……ひかる」

 俺は溜息を吐き、テーブルの上に腕を伸ばす。

「シャーペンの芯、借りるぞ」

 ペンケースからHBの芯を取り出し、自分のペンに補充する。原稿用紙は残り十二枚、さっきからなかなかマス目が埋まらない。全く、中学三年にもなって、読書感想文もないだろうに……。

「って、ちょっとーっ!」

 腹筋を使って起き上がり、テーブルにすがりつく。

「もっとさあッ! 他に言うことがあるんじゃないのッ!? 親友が死んじゃうって言ってんだけどッ!?」

「何だ、お前、死ぬのか」

 マス目に視線を落としたまま、ぞんざいに答える。

「死ぬ死なないの問題じゃないでしょお……」

 テーブルに顎を乗せ、唇を尖らせている。

「もっと、こう、さあ……『そんなこと言わないでくれよーっ!』とか、『お前に死なれたら俺生きていけないよーっ!』とか、色々あるじゃんかあッ!」

 読書感想文なのに課題図書を読んでないのは、やはり問題なんだろう。もちろん、それならそれで方法論はいくらでもある。巻末の解説を自分の言葉で書き換えるというのが常套手段だが、今度はその『自分の言葉』という部分が難しくなってくる。最終的には丸写しとなるんだろうが、できるならそれはしたくない。さて、どうしたものか……。

「無視すんなよーッ!」

 バンバン、とテーブルを叩くひかる。その振動で、書いている字が揺れる。補充したばかりの芯も折れる。俺は大きく息を吸い込み、目の前のアホを正面から見据えた。

「――松前ひかる」

「何よフルネームで」

「座れ」

 すでに座っている人間に対して、そう言う。

 しかしドスを効かせたのが功を奏したのか、ひかるはそそくさとその場で正座を始める。

「何でしょうか……」

「まずは現状把握だ。今日は何月何日だ?」

「八月三十一日です」

「つまり?」

「夏休み最終日です」

「そうだな。で、俺たちは今、何をしている?」

「夏休みの宿題を片付けています」

「うん。俺は昨日までにだいたい終わらせて、読書感想文を残すのみとなった。最終日になってもまだ課題図書を読んでない俺も大概だが、一方のお前はどうだ?」

「何一つとして手つかずのままです」

「その理由は?」

「一ヶ月半の間、遊びほうけていたからです」

「もう一度聞く。今日は何月何日だ?」

「八月三十一日です」

「やばいな」

「やばいです」

「一刻も早く読書感想文を仕上げなければならない俺が、お前の部屋にいるのは何故だ?」

「優しい千春さんに、宿題を丸写しさせてもらうためです」

「そうだな。ただ、がむしゃらになって書き写すだけの作業だな」

「アホな私でも何とかなりそうです」

「やれ」

「はい」

 俺の号令を合図に、ひかるは学習机に移動して机の上のワークと格闘し始める。

「だいたいなあ、お前」

 ひかるが作業を始めたのに気を良くした俺は、説教口調をやめて呆れた声を出す。

「宿題が終わらないくらいで死ぬとか言い出すんじゃねえよ。お前らしくもない」

「だって、悲しくもなるじゃん」シャーペンを走らせながら、ひかるは情けない声をだす。「この夏、すっごい楽しかったのに」

「お前、全力で遊びほうけてたもんな」

 海にプールに花火大会――義務教育最後の夏を、全力全開で楽しんでいた。

 そのツケが、これな訳だが。

「そういや、真はどうしたの。去年までは三人で一緒にやってた気がするんだけど」

「気がするんじゃなくて、実際三人でやってたんだけどな。アイツ、今年は余裕をもって終わらせるんだって息巻いて、実際に昨日までに全部終わらせたみたいだ」

「私、何度も遊びに誘ったのに、最近は全部断られてたもんなあ。そのせいか……」

「まあ、無理をしすぎたせいか、夏風邪ひいて寝込んでるけどな。あれでアイツ、けっこう体弱いから」

 いつもなら例え自分のノルマが終わっていても笑顔で駆けつけるような男だが、体調不良では仕方がない。仕方がないから、今日はこのアホと顔を突き合わせている訳だが。

 閉め切った窓の向こうで、大量の蝉がさんざめいている。松前家の庭には大きな桜の木があって、ひかるの部屋はその真横なので、とくにうるさく響くのだ。幸い、コイツの部屋は冷房がよく効いているのでさほど不愉快ではないのだけれど。

 作業を始めて数十分ほど経った頃だろうか。

 ようやく感想文の終わりが見えてきた所で、ひかるが口を開く。

「……例えばの話だけどさ」

「何だ。もう飽きたか」

 こいつの集中力にはムラがある。ある時とない時の差が激しい。基本的には、ない。

「夏休みの間にさ、何か大変なことが起きたりしたら、宿題免除とかになんないかなー」

「何だよ、お前の言う『大変なこと』ってのは」

「親友が大怪我にあって入院して、夏休みの間ずっとお見舞いに行ってたとかさー」

 気持ち、身を引く。

「もしかしなくても、その親友ってのは俺のことだな。もし何かしてみろ。例えお前相手でも容赦しないぞ」

 六年間、柔道をやっていただけあって、腕には覚えがある。

「例えだっつってんじゃん。だいいち、三十一日に怪我したって意味ないよ。こんな真っ黒けじゃ、全然セットクリョクないしー」

 こんがりと日焼けした腕を見ながら溜息を吐く。しかし、俺は少し感心していた。言い方こそ馬鹿っぽいが、内容は論理的だったからだ。……普通か。コイツの場合、ハードルが下がりすぎて地面にめり込んでいるために、普通に走っているだけなのに、ハードルを乗り越えたことになってしまうのだ。なんだか、ズルい。

「それよりも……そうだなあ……」

 シャーペンを上唇と鼻の間に挟んで思案顔。二十一世紀の中学生がやる仕草ではない。

「そうだ。日々巨悪と戦うのに忙しくて――地球の平和を守るのに必死で、宿題なんてやる暇はなかった、ってのはどう!?」

「名案だな。いいんじゃないか。それでいけよ」

 原稿用紙のマス目を埋めながら、気のない返事をしてやる。

「スルーしないでよお。この場には千春しかいないんだからさ、アンタが流しちゃったら、収まりがつかなくなるでしょー?」

「そう思うんだったら手を止めんな馬鹿。もう夕方だぞ。サボんな黙ってやれ必死になれ殺すぞアホが」

「……私の知ってる千春じゃない……」

 若干涙目になりながら、渋々作業に戻る。俺だってこんな乱暴なことは言いたくないが、このくらい強く言わないと分からないのだから仕方がない。

 そこからさらに数十分――。

 俺は無理やり原稿用紙のマス目を埋め終えて、すでに推敲作業に入っていた。

「だけど真面目な話、さ――」

「おい、まだ一時間も経ってないぞ」

「や、うん、手動かしながら話すから、聞いてもらっていい?」

 シャーペンを走らせながら、妙に低いトーンで話す。

 これは、あれか。

 年に数回しか見えない、松前ひかるの真面目モードか。

「さっき、正義の味方してたら宿題やるヒマなかった、って話したじゃん。まあ、アレは我ながらバカだと思うし、ほとんどが冗談で言っただけなんだけどさ」

 ちょっとは本気だったのかよ。

「確かに、正義の味方はないと思う。でもさ」

 だったら私は、何になれるのかな――って。

 言い放つような乾いた声が、静かに響く。

「……どういう意味だ」

「そのままの意味。ほら、私バカだし、元気ってことくらいしか、取り柄ないじゃん?」

「そうだな」

 激しい反論がくることを期待して言ったのだけど、それはない。どうやら本気で思うところがあるらしい。

「毎日毎日、遊びまわってバカやって――もちろんそれは楽しいんだけど、なんか、ただ楽しいだけって言うか、意味ないんだよね。私が私であることに、意味なんてない。これから先もきっと、何もできずに生きていって、何にもなれないまま死んでいく――そんな気がするんだって」

 驚いた。

 このひかるが、そんなことを考えているだなんて。

 いや、そんなことを考えられる頭があるだなんて。

「誰かの役に立ちたいとか、困ってる人を助けたい、救いたいって気持ちはあるんだけど……今の私じゃ、どうしようもない」

 何にもないもん。

「何の才能も、力もない。何もできない。目の前に困っている人がいても、泣いている人がいたって、今の私じゃダメなんだよね。ホント、こんな私でも、何かあればなって思うんだけど……」

 淡々としたひかるの声が、蝉時雨にかき消される。何か言うべきなのは分かっているのだけど、俺に気の利いた返しなどできる筈もなく、結局、出てきたのは恐ろしく常識的で現実的な言葉だった。

「……今はとにかく、宿題を終わらせることに専念しろ。先のことより、今のことだ」

「分かってるってば。ちゃんと手、動かしてるでしょ」

 しばらくの、間。

「……進捗状況はどのくらいだ」

 感想文を書き終えた俺は、片付けをしながら尋ねる。

「えっと、今五十三ページ目が終わったとこ」

「そうか」

 ひかるが今取り掛かっているワーク集は全部で八十ページ程度だから、写すだけならあと一時間もかからないだろう――その、ワーク集だけなら。

「六時か。まあ、完徹することを考えれば、あと十三時間はある。何とかなりそうだな」

「は? いくら何でも、書き写すだけでそんなにかからないでしょ」

「――お前、夏休みの宿題がそのワーク集だけだと思ってるのか? そんな訳ないだろう」

 溜息を吐きながら、俺は自分の鞄を開け、中から様々な冊子やプリントを取り出す。

「各教科のドリルと演習ノートだ」

 どさりと、テーブルの上に置く。

「お、鬼……」

「何が鬼なんだ。俺が自力でやったものを写させてやってるんだぞ。むしろ仏だろうが。そもそも、この期に及んで宿題の総量を把握してないお前が間抜けなんだよ」

「やめて! もうやめて!」

 倒れ伏し、耳をふさいでいる。現実逃避にもなっていない。少し可哀想になったので、優しくひかるを起き上がらせてやる。起き上がったひかるは、しょげながら自分の鞄から宿題を取り出す。きっと、終業式からほとんど開けられなかったんだろう。

 明日は始業式なのだが。

「美術系、工作系がなかったのが救いだな。日記は根性でどうにかしろ。読書感想文は語尾だけ変えて誤魔化せ。あとは丸写しでいいから。俺はもう帰るからな。寝るなよ」

「ええ!? 帰っちゃうの!? もうちょっといてよっ!?」

「何でだ。俺がいたって意味ないだろ。宿題は全部置いていってやるから、明日まとめて持って来い」

「話し相手がいなくて淋しいじゃん……泊まっていきなよ」

「無茶言うな。俺だって明日の準備があるんだよ。第一、話し相手なんていらないだろ。集中しろ」

 少し強めの言葉で諭すと、ひかるはそれで納得したようだった。学習机に向き直り、渋々と丸写しを再開する。

「頑張れよ――お前、本気で集中すりゃ凄いんだからさ」

 激励の捨て台詞を残し、俺は部屋を後にする。

 ひかるの集中力にはムラがある。基本的には、ない。

 ただ、稀に物凄い集中力を発揮することがある。周囲が絶望視していた望月高への入試合格を果たしたのは、その半年後の話だ――。

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