干物従姉弟!ちひろさん
千春 ♂
千尋 ♀
店から出て、駅を通り過ぎて一時間ほど歩くと、我が町田家が見えてくる。松前家の斜向かいに位置する、築二十年の建売住宅。吹き出る汗を拭いもせず、門扉を通りすぎ、ポケットから鍵を取り出してドアノブに差し込む。
……開いている。
つまり、誰かが家にいるということだ。しかし、両親の車は駐車場に見当たらない。共働きの二人は仕事で忙しく、毎日夜の七時をすぎないと帰ってこない。そのこと自体は何も問題はない。問題なのは、両親がいないのに家に誰かいるという事実の方だ。
まあ、おおよその想像はつくが。
「ただいま」
いつもなら、熱気と湿気を帯びた空気が強烈な質感を伴って襲ってくるところなのに、今日はそれがない。玄関も、それに続く廊下も、やけに風通しがいい。決して涼しくはないものの、蒸し風呂状態が常態であることを考えると、雲泥の差だ。確実に、誰かいる。
つまり、
「ヒロ姉、来てるの?」
「んー」
リビングから気のない返事が届く。引き戸を開けると、部屋の隅に彼女はいた。運転中の扇風機を抱きかかえながら片手でスマホを操り、棒状の氷菓をくわえている。上はピンクのTシャツ、下はハーフパンツ。ボブカットを風に揺らしながら、目だけで俺に挨拶をする。寝起きのような半目。全開リラックスだ。
湿気を含んだぬるい風が頬をくすぐる。掃き出し窓までもが全開になっている。風の流れを考えると、恐らく家中の窓が全開にされているんだろう。それはいいのだが。
「……何してるの」
「ん?」くわえた氷菓を右手に持ち替え、スマホを床に置く彼女。
「見て分かんない? 扇風機抱えながらスマホやってんのよ。あとガリガリ君」
「そうじゃなくて、俺は何でヒロ姉が俺の家にいるのかって聞いてるんだよ」
「エアコン、つけていい?」
「駄目」
母親が極度の冷え性のため、町田家ではエアコン禁止なのだ。
「今まで扇風機で我慢してたじゃないか。エアコン禁止だって知ってたんだろう?」
「知ってて聞いてるのよ」
好き勝手言っている。
この自由人は西邑千尋。
俺の従姉弟にあたる人物で、三駅離れた町に両親と一緒に住んでいる。年は二つ上で、偏差値は二十ほど上。年が近いせいか昔から一緒に遊ぶことが多く、名前が近いせいで、俺はその下半分をとって『ヒロ姉』と呼んでいる。
そして、こうして予告なしに来襲するのも、昔から。
「まあいいや。取り敢えず、着替えてくるから」
二階の自室に引っ込み、部屋着に着替える。
ここで初めて、俺はズボンのポケットにひかるのスマホが入っていることに気が付く。店を出る時、無意識に掴んでいたらしい。
……今は、このことはあまり考えたくない。
念のため、部屋着のポケットに入れ替えて部屋を出る。
一階のリビング、ヒロ姉はさっきと同じ場所にいた。ただし格好が違う。さっきはただ抱きつくだけだった扇風機を、今はTシャツの下に無理やり突っ込み、直接肌で風を感じている。そのせいで、くびれたウエストが全開だ。あまりにあられもない姿に、引き戸を開けたままの姿勢で棒立ちになってしまう。目が合った。
「ちょっ! ノックくらいしてよっ!」
慌てて服を直している。
「いやいやいやいや。ここ俺の家のリビングだし。ヒロ姉の部屋じゃないし。と言うか、俺が帰ってきたこと知ってただろうが。それで、着替えてくるって言っただろうが。すぐ戻ってくるって分かるだろ。それなのに、何でそういうことするかな」
「だって、暑くてさ……」
だらけきった体制で、扇風機にもたれかかる。
……そういう、ことか。
「エアコンつけていい?」
「好きにしろよ」エアコン禁止とは言え、俺自身は別段苦手な訳ではない。母親がいない今なら問題はないだろう。「ただし、部屋の窓は全部閉めてくれよ」
了解、と背中で受け、キッチンを目指す。冷蔵庫の水出し麦茶をグラスに注いで戻ると、リビングは早くも、若干涼しくなっていた。
ヒロ姉は大の字に転がり、送風を全身で受けている。
「生き返るわー」
半目でリラックスしている。本当に自由だな、この人。
「それで、何? 今日は晩飯食ってくの?」
「と言うか、泊めて。一週間くらい」
「お断りだ」有無を言わせない。「俺の一存じゃ決められないし」
「大丈夫。叔母さんの承諾はとってあるから」
すでに根回し済みらしい。こういうところ、昔からそつがない。
「あと、今夜も遅くなるから、家のことよろしくって、伝言」
……通夜帰りの息子に家事を任せるか、母。まあ仕方ない。これもいつものことだ。軽く溜息をつき、ほとんど口をつけていない麦茶をシンクに流す。
そこからは、時間が経つのが早かった。
干してある洗濯物を取り込む。軽く掃除機をかけて、トイレと風呂の掃除。夕食時が近付いたので、ヒロ姉にリクエストを聞く。「冷やし中華」という答えが返ってきたので、スーパーで必要な食材を調達し、手早く作ってやる。一通りの仕事が終わった頃には、すでに日は暮れかけていた。
ダイニングテーブル、二人向かい合って夕食をとる。
「……つくづく、アンタっていい嫁になれると思うわ」
冷やし中華のの具材として乗った錦糸玉子を箸で摘みながら、ヒロ姉は嘆息を吐く。
「そりゃどうも」
冷やしトマトをかじりながら、無愛想に返す。
人が汗だくで働いている間、冷房の効いた部屋でずっとスマホに興じていた人間に言われても、あまり嬉しくない。確かにここは俺の家で、家事を任されたのもこの俺だけど、あまり釈然としない。もっとも、そうめんを茹でることすら満足にできない人間に大事な夕食を任せることなどできはしないのだれども。
「それはそうと、一週間泊めろって、どういうことだよ」
「別にいいでしょ? 部屋も布団もあるんだし、着替えは持ってきてあるから」
「理由を聞いてるんだよ」
「親が海外旅行に行ったのよ。今、家に私一人なの」
親も自由人らしい。夏休み期間中に、こんな生活能力のない女残して海外に行くなよ。
「学校はいいのか」
「今は夏休み中ですけど?」
「生徒会の活動とかあるんじゃないのか」
「大丈夫大丈夫。優秀な後輩が何とかしてくれるから」
真面目くさった顔に馬鹿らしくなって、それ以上の追及を控える。信じられないことに、この人は地元で有数の進学校である私立心峰学園の現役生徒会長なのである。家ではグータラ全開干物女のくせに、学園では成績優秀の才女として通しているのだ。実際、頭は相当にいい。
「真面目な話、ぼちぼち引き継ぎの時期なんだってば。そろそろ次の代に仕事を任せていかないと、ね」
真面目な顔をして真面目なことを言っている。ヒロ姉のくせに。
「受験勉強は」
「私は夜行性だからね。アナタの寝てる間にせっせと勉強してるわよ」
嫌味な言い方だ。学年トップなのは母親から聞いて知っている。ヒロ姉のくせに。
「実際問題、こう見えてもアンタの十倍は勉強してるしね」
ヒロ姉のくせに。
「だから、まあ、ちょっと厄介になるわよ。迷惑かけないから、いいでしょ?」
元から反対するつもりなどない。ただ、少し気にかかっただけだ。
「あたしからも一つ、いい?」
箸を置き、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。話しながらも食べ終えていたらしい。本当に要領のいい人だ。
「何かあった?」
不意打ちに、心臓を掴まれた気がした。
「……何が」
「ううん、何か元気ないみたいだったから。今日、どこか行ってたんでしょ。学校の制服来てたけど、アンタ帰宅部だし、どうせ夏季補習なんか受けてないだろうし――ネクタイの色も、違ったし」
あんな状態で、しっかり人のことを見ていたらしい。
気取られるのが嫌で急いで着替えたと言うのに――全く。
真といい和美といい、何故俺の周りは、こうも目ざとい人間が集まるのか。あるいは俺が鈍感なだけかもしれないが、同じことだ。
あいつは、死んだのだ。
俺は、それに気付けなかったのだ。
「……言いたくないなら、無理には聞かないけど、さ」
急須に緑茶を注ぎながら、目を逸らすヒロ姉。言う必要はなかった。だけど、言いたい自分がいた。 きっと、今は少しでも何かに縋りたいんだろう。
「親友が、死んだんだ」覚悟していたよりもフラットな声が出た。
「――そう」
「自殺だった」
「ふうん……」
湯呑にお茶を注ぎながら気のない返事をしている。わざとそうしていることは明らかで、それが分かるから余計に辛い。
「それって、あの子? ほら、小柄でよく喋る――」
「真じゃない」
そう言えば、俺たちグループとは面識があるんだったか。会ったのは一度か二度の筈だが、この人は一度会った人間の顔は忘れない。
「じゃあ、イケメンだけど、天パでオタクっぽい――」
「和美でもないんだよ」
この段に来てようやく、ヒロ姉の顔に驚愕の表情が浮かぶ。目が、開く。
「……嘘でしょ?」
「嘘じゃない」
「本当に――ひかるちゃん!? あの、一番元気な子でしょ!? あの子なの!?」
真や和美の名前は出てこなかったようだが、ひかるのインパクトは絶大らしい。
「信じられない……あたしとマリカー対戦で負けて、地団駄踏んで悔しがって、ソフトを叩き割ったような子だよ……? あの子が自殺なんてしたの……!?」
いつだったか、ひかると真、和美と一緒にゲーム大会を開いたことがある。スマッシュブラザーズ、桃太郎電鉄、マリオカート――ひかる、和美、ヒロ姉がプレイして、俺と真は横で見ていた。あのアホは戦略性などまるでないゴリ押しスタイルを貫き通し、頭脳派の和美とヒロ姉の餌食にされていた。その結果が、『逆ギレソフト叩き割り事件』だ。弁償させたから、今では笑い話なのだけど――なるほど、それは記憶に残る筈だ。
「何で?」
「そこが問題なんだよ。それが、俺たちにも親御さんたちにも分からない。だから、少し悩んでる」
「なるほど、ね……」
湯気の立つ緑茶を軽く啜り、一人頷いている。
「熱いお茶を飲むくらいならエアコン切れよ」
「千春は、その理由を知りたい訳だ」
俺の軽口を無視して続けるヒロ姉。完全に見透かされている。
「……まだ、何も分からないのが現状だけどな」
嘘だった。手がかりはある。ポケットに入れっぱなしになっている、ひかるのスマホ。
それが、唯一の手がかりだ。
だけど――分からない。
喫茶店での出来事を俺は未だに受け入れられないでいる。
「そういや、さ――ヒロ姉、真って覚えてる?」
「今言ったじゃない」
「そうだけど、もっと、どういう奴だったかって……」
「どういうって――髪を二つに結んだ、割と可愛い感じの子だったかな。ひかるちゃんのインパクトが強すぎて、少し影に隠れちゃってるけど。それがどうかした?」
それで充分だった。
真は、女。
一度か二度しか会ってないヒロ姉ですら、そういう認識なのだ。
やはり――狂っているのは、俺の方なのだろうか。
ポケットに手を突っ込み、スマホを強く握る。
「……ま、いいや」食器をまとめ、ヒロ姉は立ち上がる。「何でもいいけど、無茶しないようにね。アンタ、割と無理する方だから」
「そんなことないだろ」「そんなことある」「ない」「ある」
「ないなら、それでいいわ」
言い捨て、リビングに戻っていく。
「……部屋、行ってるから。母さんが戻ってくるまでにエアコンは切っておいてくれよ」
了解、という言葉を背中で受けて、蒸し暑い廊下に出る。
何だか、ひどく疲れていた。
風呂場に向かい、一日の汗をシャワーで洗い流す。だいぶスッキリした。自室に戻り、久しぶりに自分のスマホを開く。何かと忙しくて、今日はほとんど触っていなかった。
メールボックスを開くと、八件の着信。六件は真で、二件は和美からだった。喫茶店であんな別れ方をしたからか、二人とも随分心配してくれたようだ。真からのメールで目を引いたのは、最後の着信。
『ひかるのことについて。
スマホもいいけど、わたしはやっぱり、生前の行動から考えるのがいいと思うのね。
で、知り合いの何人かに、あの子が死ぬ前に何をしてたか、それとなく尋ねてみたの。
返事はまだだけど、それによって何か分かるかもしれない。
明日、和美と集まって話し合お。喫茶桐壺に2時集合ね』
なるほど。あいつも色々と考えているらしい。でも本来なら、そのアプローチの仕方が正攻法なのかもしれない。返事をする前に、和美からのメールにも目を通しておこう。
『疲れてるんだから、とにかく早く寝ること。余計なことは考えないこと。それだけ』
リアルで話すとねちっこいくせに、メールだと淡白だな。普通は逆だろう。まあ、アイツらしいと言えばアイツらしいが。これが喫茶店を出てすぐに送られてきたメールで、次は真の最後のメールの後に送られてきたもの。
『真からのメール、読んだかな? 実は、お前に話しておきたいことができたんだ。
例の、アプリに関すること。理由は会ったら話すけど、取り敢えず真には聞かれたくない。
一時に駅前のマックで会いたいんだけど、大丈夫かな?』
これは、何だろう。マニアックで博識な和美のことだ。喫茶店の一件で早くも何かに気付いたに違いない。期待が高まる。取り敢えず、俺は双方にメールを返信しておく。
何かが緩慢に動き出す音が聞こえた気がした。