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25/27

ちひろ 1/2

千春♂

真♂

和美♀

千尋♀ 


 俺は一体、何をやっているんだろう。

 喫茶桐壺の帰り、容赦なく降り注ぐ熱線に身を焦がしながら、つらつらと考える。

 全ては、ひかるの自殺から始まった。

 誰もが首を傾げる突然の死、残されたスマートフォン、その中にあったTSアプリ。

 前の晩、アイツは泣いていた。

 とりかえしのつかないことをしちゃった。

 どうしよう、どうしよう――。

 寝ぼけていて曖昧だけど、そこの部分だけはやけに鮮明に覚えている。

 俺はアイツの真実を知りたいと願った。

 真や和美、ヒロ姉も、それに協力してくれた。

 ここ半月の、アイツに軌跡を辿った。

 鳴川に会い、真澄に会って――城ヶ崎と、出会った。

 でも、それだけだ。

 アイツが何をしてきたのかは分かった。

 誰かを救いたい。助けたい。役に立ちたい。

 そのために、至る所でアプリを使った。

 野球少女は野球少年に、女装男子は男装女子になった。

 そして、喫茶店のマスターもまた、男性から女性へと変えられていた。

 だけど――それが、一体何だと言うのか。

 俺はヒロ姉の指示通りに喫茶桐壺へと足を伸ばし、マスターに事の真実を尋ねた。

 結果は、予想通り。

 八月七日、パチンコ帰りのマスターは扇町から望月町行きへの車両に乗り、そこで痴漢の嫌疑をかけられていた。その直後、マスターが女性だと判明し、簡単に無実は証明されるのだが――それがひかるのおかげだと、俺たちはすでに知っている。

 もっとも、マスターはひかるの姿を目撃していないらしい。今日の和美と同じように、隠れてアプリを発動させたのだろう。知らない仲ではないのだから顔を見せればいいのに――アイツの考えていることは今ひとつよく分からない。

 いや、分からないと言うなら、一から十まで分からないことだらけではあるのだ。

 俺はきっと、未だに何も分かっていない。


 無為で無駄な思考で焼け焦げた俺を、キンキンに冷えた自宅が受け入れてくれる。

 あの聡明で怠惰な居候は、我が家の冷房禁止というルールを完全に忘れてしまっているらしい。でも、今はそれが有り難い。

「あ、千春......」

俺が部屋に入ると、和美か近寄ってくる。ソファには真の姿。近隣で聞き込みをしていた真の方が、喫茶店でマスターに話を聞くだけだった俺よりも帰りが早かったらしい。

と、ここで面子が一人足りないことに気が付く。俺と真を炎天下に放り出した張本人の姿が見えない。

「ん、ヒロ姉は?」

「それなんだけど――どっか行っちゃったみたいなんだよね」

「はァ?」

顔色悪く答える和美に対し、頓狂な声をあげてしまう。

「お前、ずっと一緒じゃなかったのかよ!?」

「さっきまでね。話の区切りがついたところでフラッと立ち上がって台所の方に行ったから、またアイスでも取りに行ったのかと思ってたんだけどーーどうやら、そのまま外出しちゃったみたいで」

呆れた。

居間のドアは気密性が高く、玄関での物音が聞こえにくい。和美に非はない。仮にも客である和美に何も言わず唐突に外出するヒロ姉が非常識なのだ。

それに、この一週間、一切家から出なかったヒロ姉が、自分から外にでるなんて――。

「連絡は?」

「番号もアドレスも知らないもの」

「じゃあ俺に連絡してくれよ」

「今するつもりだった。そしたら、千春が帰ってきたから……」

ちょうどいいタイミングだったらしい。

分かった、と頷き、スマホでヒロ姉の番号を呼び出す。相手はすぐに出た。

『もしもし』

「ヒロ姉、今どこ!?」

質問に対する自由人の答えは、俺の斜め上をいっていた。

『駅に向かうバスの中』

「駅!? なんで!?」

『大切な用事があるの』

「俺ら二人を外にやって、和美にも黙って出てきて、用事も糞もあるかよ。早く帰って来いって」

『私的な用事じゃないわよ。今回の、ひかるちゃんの件に関わること。和美ちゃんに黙って出てきたのは悪いと思ってるけど、簡単に説明できることじゃないから』

「そう言われてもな……」

あまりにも身勝手すぎる。

『用事の内容については、後で必ず教えるって、約束するから』

「その前に、ヒロ姉が何に気付いたのか教えるって約束もしていた筈だけど?」

『もちろん覚えてる。だから、電話口で話すわ。スピーカーにしてもらっていい?』

「とっくにしてる」

すでに、和美、真の二人は俺の両隣にスタンバイしている。

『OK。じゃあまず、千春ね。ちゃんと話は聞いて来たの?』

「当たり前だろ」

あの日あの時刻、標的にされたのがマスターだったことを皆に告げる。

「他の質問も聞いて来たけど、全部話した方がいい?」

『いや、それも後に回しましょう。物事には順序ってモノがある』

「千尋さん、これで全部分かったんですか?」

今まで黙っていた和美が、我慢できないとばかりに電話口に顔を寄せる。

『多分、間違いないと思う』

「聞かせてください!」

「近い」更に接近しようとする和美の顔を押しのける。「何だ、和美は何も聞いてないのか。ずっと話してたんだろ?」

「あたしが話してたのは、ひかるの人となりとか、あたしたちとの付き合いについてだけ。肝心な部分は、何も教えてもらってないのよねえ」

「俺や真が外で頑張ってたってのに、二人で女子トークに花咲かせてた訳か」

『それも大事なことなの。今に分かる』

一瞬の間。電話の向こうから車内アナウンスが聞こえてくる。

『これで、終わりにしましょう』

いよいよ、これで終わり。

ヒロ姉の次の言葉を、俺は少し緊張して待っていた。

『まず最初に、真くんの調査結果を聞こうか。一番重要なのは、そこだから』

「そう、なりますよね……」

顔色悪く、そう呟く真。どうも駅での大捕物で体力を使い果たしてしまったらしく、今にも倒れそうだ。

「えっと、僕は千尋さんに言われた通り、喫茶桐壺の評判を商店街で聞いて回ってたんだ」カルピスで唇を湿らせる。コイツも緊張しているらしい。「マスターや静香さんの人柄や仕事ぶりに関して悪く言う人はいなかった。その辺は、僕たちの知ってる通り。マスターは豪快で面倒見がよくて、静香さんは気遣いができて優しい人、なんだけど――」

「だけど?」

和美が、今度は真に身を寄せる。コイツは距離を縮めないと質問できないのだろうか。


「全然知らなかったんだけど――あの二人、もう長いこと一緒に暮らしてるんだってね」


 ……すぐには意味が分からない。

「えっと、あの二人って、血の繋がりあるんだっけか?」

「家族や親類とかじゃあないよ。もちろん、ただの友人って訳でもない」

「もったいぶらないで、はっきり言ってもらえる?」

 いつも勿体ぶってばかりの和美が先を促す。

 そして真は目を伏せたまま。衝撃的なことを口にする。


「恋人だよ」


 目を上げる。目が合う。

「あの二人は、恋人同士なんだ」

「それって……」

 二の句が継げない、とはこういうことを言うのだろう。頭がホワイトアウトしていく。

「そう、同性愛者ってこと」

「俗な言い方をすれば百合、生々しい言い方をすればレズビアンだねえ……」

「いや、わざわざ言い換えなくていいから」和美の茶々で、ようやく現実世界に戻ることができた。「――それ、本当なのか? あの二人が? 全然知らなかったぞ」

「だから、それは僕たちが知らなかっただけだって。知ってる人は知ってる。二人が同性愛者ってことも、ずっと一緒に暮らしてるってことも、ね」

 ぐにゃりと、世界が曲がる。そんな。次からどんな顔をしてあの店に行けばいいんだ。

「熟年レズカップルかあ……なかなか濃いわねえ」

 いつものことながら、この女には真剣味というものが足りない。

 ただ、ヘラヘラしてるのはそこまでだった。

「――あ」言葉を切り、硬直する。「そういう、こと……」

 肉眼で分かるほど、はっきりと和美の血の気が引いていく。

 ちょっと尋常な反応ではない。

 ずっと顔色の悪い真を見ても、事態が深刻なのは分かる。

 ただ、どう深刻なのかは分からない。

 つまり。

「どういうことだよ? もしかして、何にも分かってないの、俺だけか?」

「もしかしなくてもそうじゃない?」

平坦な声で和美が答える。

また――このパターンか。

「ちょっと待てよ。マスターたちが同性愛者で一緒に暮らしてるから何だって言うんだよ。そんなの、個人の自由だろうが」

 答えたのはヒロ姉だった。

『もちろんそうよ。別に誰も悪いなんて言ってない。そんな次元じゃないの。よく考えてみて。これは、因果関係の話なのよ。マスターたちが同性愛者で一緒に暮らしてるのは、一つの結果。じゃあ、それに対応する原因は、何だと思う?』

噛んで含めるようなヒロ姉の誘導に、俺の鈍い頭もようやく回り始める。

 城ヶ崎の標的にされたマスター。

 ひかるは咄嗟に、アプリでその窮地を救った。

 ――そうか。

「元々、マスターは男だったんだよな。それを、ひかるが女性に変えてしまった……」

『その通り。では、男性だった頃は、どうだったって考えられる? 男性のマスターと女性の静香さん、異性同士なんだから、同性愛者とはならないわよね?』


「夫婦だった――ってことか」


『そうね。そう考えるのが一番自然。静香さん、『相馬』って苗字らしいけど、それは旧姓ね。本当は彼女も桐壺姓。マスター・桐壺操さんが女性になってしまっために、夫婦という関係性は抹消され、自動的に旧姓に戻ってしまったという訳。現行の日本の法律では、同性同士の結婚は認められてないからね』

 背後で、ドアの開閉音がして、途端に蝉時雨が電話口から鳴り響く。バスから降りたらしい。

『――喫茶桐壺の二人が夫婦だったら何だ? って考えてるわね』

「人の心を読むんじゃないよ」

『違うの?』

「違わないよ。全くその通り、そう思ってるよ。要するに、一組の中年夫婦が熟年同性愛カップルに変わったってだけの話だろ? それが、何なんだよ」

「千春」

 刹那、右サイドの空気が動くのを感じ、身を翻して和美の接近をかわす。

「……そんな露骨に避けなくても」

「近いんだよお前は。自重してくれ」

「努力する――それはそうと、もうちょっと想像力を働かせてみない? 夫婦が夫婦でなくなった時に――それも離婚や死別じゃなく、最初から結婚していた事実なんかなかったと歴史が塗り替えられた時、どんな現象が起きると思う?」

 今さら何とも思わないが、やはりこの女の語り口は回りくどい。

「分かってるなら、はっきり言ってくれ」

「大事なことなの。じゃあ、質問を変えてみようか?」


 ――女にできて、男にできないことって、何?

 

 突然の方向転換に面食らってしまう。

「……なぞなぞか?」

「真面目に考えて。男にできて女にできない、でもいいわ」

「そんなこと――」

「いつだったか、千春言ってたわよねえ? 『男にできて女にできないことなんてない』『女にできて男にできないことなんかない』って。あたしも、概ね同意見。肉体的ハンデは確実にある。男と女では脳の働きが違うとも言われているし、社会的役割が違うって認識も根強い」

 だけど、どう?

「やってやれないことって、案外少ないわよね? 一般的に男がやるモノと思われてるスポーツに女性が挑戦したっていいし、女性のだと思われている職業に男性が就いたって構わない。現実的に、勝つか負けるか、成功するか否かはケースバイケースだけど――とにかく、物理的にやってやれないことはない。さらに、異性の服を着たって、同性同士で愛し合ったっていい訳よね? 世間の目はともかく、それは個人の自由。あと、例えは悪いけど――女性が性犯罪の加害者に、男性が被害者になることだってある。そういう実例は数え切れないほどある」

 突如として捲し立てる和美の勢いに、俺は圧倒される。何を言い出すのだ、コイツは。

「男だから、女だからって性差のみで何かを縛り付けることなんかできない。あたしも、基本的にはそう思ってる」

 だけどね。

「女にできて男にできないことってのは、確実に存在するわよね? あるいは、男女間ではできても、同性同士では絶対にできないこと――中学生でも分かる、物凄い簡単で、シンプルな質問よ?」

 多分。

それは和美の言う通り、極めて単純な設問なのだろう。俺はとっくに、気付いていた。

 気付いた瞬間に、鳥肌が立った。

 怖気――いや、寒気か。

立ち上がり、エアコンの設定温度を上げる。そしてそのまま、壁に向かって独りごちる。


「――妊娠か」


「ご名答。妊娠、出産は女性にしかできない。将来、医学の発展によっては男性が妊娠することも可能って言われてるけど、現在、少なくとも自然な形では、男性は子供を身籠ることはできない。もちろん、女性だけでも無理。男性のタネがなければ、子供は作れない。これもまあ、最近は精子バンクとか何とか話題だけど、まだまだ一般的ではないのが現実」


 ――マスターと静香さん、両方とも女性じゃあ、子供がいる歴史は生まれないのよ。


和美の言葉を受け、俺は大きく息を吐き、決定的なことを口にする。


「桐壺夫妻には、子供がいたんだな……」


「多分ね」

 神妙な顔で、和美が頷く。

「でも、そうなると――どうなるんだ?」

 子供いる夫婦の片方を性転換させてしまったら、その子供はどこに行くのか。今まで考えたこともないし、考えたくもない。

『最初に私、言ったよね――』

 久しぶりにヒロ姉の声が電話口から聞こえてくる。背後には駅構内のアナウンス。すでに望月駅にまで移動していたらしい。

『このアプリは目の前にいる人間を性転換させるだけのモノじゃないって……仮にAという人物を男性から女性に変換した場合、『Aが男性だった世界』から『Aが女性だった世界』に、撮影者をジャンプさせる――そういうとんでもアイテムだって』

 要するに、パラレルワールド。

 撮影した瞬間に軽い目眩に襲われるのはそのためだろう。つまり、人一人を変えるのではなく、自分を覆う世界全体を変えてしまうのだ。

『だから、人々の記憶も、記録も、性転換に沿って不自然じゃない形に再構築される。再構築された世界に、撮影者はジャンプする。『男のくせに』は『女のくせに』になる、女装は男装になる、女性の痴漢冤罪は免れる――そうよね?』

「そう、だな……」

 ヒロ姉が何を言わんとしているか分からない。ただ、嫌な方向に向かっているとうことだけは、はっきりと分かる。

『私、こうも言ったわよね。『このアプリはむやみやたらに乱用しちゃ駄目だ』って――アンタも和美ちゃんもまるっきり無視してくれてたけど、その理由がここにあるの』

 蝉時雨を背景に、低いトーンで話す。どうやらすでに駅のホームに移動しているらしい。

『正直、このアプリのことを知ってから、私は『ある一つの危険性』のことをずっと想像していたの。想像は想像でしかないし、確認する術なんてないし、アンタたちも性転換する対象は高校生ばかりだから、取り敢えず安心していたんだけど――』

「何なんだよ。分かんねえよ。はっきり言ってくれよ」

 自身の愚鈍さに苛つきもしたが、分からないものは仕方がない。

『じゃあはっきり言う。子供のいる夫婦の、その片方を性転換させるとね――』


 子供は、消滅するのよ。


「な……ッ!」

 あまりに慈悲のないその言葉に、俺は文字通り絶句する。

『さっき和美ちゃんが説明してくれた通りよ。男同士、女同士では子供は作れない。『物理的に自然な形で世界を再構築』したなら、子供には消えてもらうしかない』

「よ、養子ってことにするとか……」

『駄目駄目。DNAはどうなるの。養子なのに義父義母の遺伝子を受け継いでるなんて、『物理的に自然』じゃないでしょう。この場合、『子供はいなかった』ってことにするしかないのよ』

 子供は、消滅する。

 マスターと静香さんの間には、子供がいた。

 そして、ひかるはマスターを女性化させてしまった。

 そういう、ことか――。

「ひかるは、桐壺夫妻の子供を、消してしまったのか……」

「多分ね」答えたのは和美だった。「きっとあの子とも知らない仲ではなかったんだと思う。だけど、あの子もまた、想像力が足りなかった。痴漢冤罪から救うためにマスターを女性にして――その結果、夫妻の子供が消滅してしまうことまで、考えが回らなかったのよ」

「……優しいヤツだったからね」

目を伏せたまま、左に座る真が口を開く。

「知り合いの子供とは言え、自分のミスで人一人の存在を消し去っちゃった訳だから――多分、その罪悪感に耐えられなかったんだと思う」

「それが、自殺の原因か?」

無言で、コクリと頷く真。和美も沈鬱な表情を浮かべている。

「でも――死ぬことはないのにな」

せめて相談してほしかった。

いや、相談は、したのか。

深夜のアレがそうだ。あの時、もっとマシな対応をしていれば、あるいは――。


『ねえ』


 電話口からの問いかけ。背後では、やたら大きくガタンゴトンと音がしている。恐らくは列車に乗ったものの、周囲に配慮して連結部分ででも話しているのだろう。

『途中から黙って聞いてたけどさ、もしかして、それで終わり?』

「え? 終わり、って――」

困惑の表情で、真が俺と和美を交互に見ている。

「違うんですか?」

引き継いだ和美も怪訝な表情だ。この人、ここに来て何を言い出すのか。

『妊娠、出産のところまではよかったと思う。でも、その後がね……』

「ダメですか」

『うん、ダメ――知らない仲ではなかった? 知り合いの子供? アナタたち、それ本気で言ってるの? 違うでしょう? ひかるちゃん、そんなことで死を選ぶような子じゃないでしょう?」

 そんなこと。

 人一人を抹消するのが、そんなことなのか。

 だとしたら、ヒロ姉がこれから語ろうとしている真実と言うのは――

『もう、さあ……和美ちゃんも真くんも、何でそこまで鋭いのに、毎度毎度詰めが甘いのかなあ……そこまできたら、もうちょっとじゃないの。中途半端なんだよね……』

 ヒロ姉、苛ついている。

 温厚な彼女にしては珍しい態度だ。

「でも、あの……何がどう違うんですかね? 他に考えられないと思うんですけど……」

 おずおずと切り出し、さり気なく進行役を買って出るのは真だ。

『違うと言うか、不十分。まだ全部拾いきれていないし、説明できてない部分もあるし』

 再び、顔を見合わせる真と和美。

『まず最初に確認。千春、真くん、和美ちゃん、それにひかるちゃんの四人って、それぞれいつ頃に知り合ったんだっけ?』

 急に何を言い出すのかと思ったが、ヒロ姉のことだから何か思惑があるのだろう。ここは素直に答えておく。

「俺とひかるは小一からの付き合いだね。真とは小四のクラス替えで一緒になった。和美は高校に入ってからだけど――」

『千春と真くんはB組で、和美ちゃんとひかるちゃんがA組だっけ? ということは、和美ちゃんと最初に仲良くなったのって、ひかるちゃん?』

「え? ……ええ、席が前後だったので」

 何を今さらと思う一方で、妙に座り心地が悪くなる。何だろう、この違和感は。

『なるほど。じゃあ次、みんな『喫茶桐壺』を常連にしてるって言ったけど、それっていつ頃からかな?』

 全く別方向からの質問に、三人揃って虚を突かれる。答えたのは俺だ。

「えっと……いつからだたかな。俺とひかるの二人は、少なくとも小学校低学年の頃から出入りしていた記憶があるけど……」

『ふうん……じゃあ引き続き、千春に質問』

「また俺かよ」

『出番よ。マスターと静香さんの病歴、聞いてくれたわよね? 喫茶店を開いてから、どちらか長期に渡って休むようなことってあったのかな?』

 ああ、それか。それなら前もってヒロ姉に聞くように言われていた。

「静香さんが消化器系の病気で、一年近く休んだことがあるって言ってた」

『それは、いつ頃?』

「確か――十六年くらい前って言ってたかな」

『了解。じゃあ次は、質問とは違うんだけど――和美ちゃん、さっき見せてもらった画像、皆に見せてもらっていい?』

「は? あの記念写真を、ですか?」

 困惑している。人の感情が可視化できたのなら、きっと今頃、リビングはクエスチョンマークで埋め尽くされている。

「それは構いませんけどねえ……」

 自分のスマホを取り出し、画像を呼び出して俺たちに見せ、次々にフリックしていく。

 学校、家、喫茶店、街、海、山。

 俺たち四人を写し取ったポートレート。様々な場所を後景にしているが、構図はどれも似たり寄ったり。右から真、俺、ひかる、少し離れて和美――中心に来ているのは、ひかるだ。今では空席のその部分が、何とも哀しい。

『次、私とみんなでゲームやった時のこと、覚えてる?』

「忘れる訳ないだろ。ひかるがマリカーで負けてソフト叩き割ったんじゃねえか。みんな覚えてるよ」

『その時、ゲームをプレイしてた面子は?』

「ひかると和美とヒロ姉だろ? 俺と真は横で見てただけだ」


『OK。じゃあ最後に、決定的だけど、簡単な質問――』


 ――ひかるちゃんって、単独行動を好む、一匹狼タイプだった?


 声を潜めて言い放つヒロ姉の言葉に、俺は反発する。

「……全然違うよ。何言ってんだ。アイツはどちらかと言えば寂しがり屋で、常に誰かと一緒じゃないとダメなタイプの人間だった。ヒロ姉だって、知ってるだろ」

 そう。

 アイツは、群れていないといけないタイプの人間だった。輪を作り、和を形成して、その上でコミュニティ内のルールを逸脱して存在感を示す――アイツは、そういう人間だ。

『ふうん……だとしたら、おかしいわよねえ?』

「何がだよ」

『だってそうじゃない。あの子はほとんど一人で行動してるのよ? 途中、鳴川さんや真澄ちゃんに付きまとったり、脇坂日向を名乗る城ヶ崎さんと行動を共にしたりはしているけど――それって全部成り行きでしょう? 基本、あの子は単独行動を常としている。アプリのことを秘密にしておきたかったって気持ちは分かるけど、それにしては、たった一人で随分な行動力よね?』

 それは確かに、最初から謎だった。アイツは一人でどうこう出来る人間ではない。頭脳や才能の問題ではなく、人格として、単独行動に向いてないのだ。

「でも、実際問題アイツは一人で動いている訳ですし、そこを掘り下げても仕方がないんじゃないですか?」

 真の反論にも、ヒロ姉は屈しない。

『仕方なくないわよ。むしろ、ここが一番重要なところなの』

一拍置いて、一同を見渡す。


『一人じゃなかったとしたら、どう?』


「……あ!」

和美がいち早くヒロ姉の言うことを理解するが、俺はまだ意味が分からない。

「一人じゃないって、じゃあ誰と一緒だったんだよ」


『桐壺夫妻の子供だってば』


「え?」

『その子とひかるちゃん、常に行動を共にするくらい仲がよかったんじゃないの。アナタ達は、四人組ではなく五人組だった。そう考えると、全ての辻褄が合うもの』

真を見ると、顔面蒼白にして口を開けている。多分、俺も似たような顔色をしているのだろう。

『時系列に沿って情報を整理しましょうか。まず、十六年前――静香さん、一度だけ長期に渡って休んでるわよね。あれ、産休』

「え? でも、確かに消化器系の病気だって……」

『こっちの世界では、ね。女同士じゃ子供は作れない。だから産休のための一年は、別の病気のためだと歴史が塗り替えられたのよ。マスターが男の世界では、あれは産休なの。夫妻の子供は、その時に生まれた。十六年前――千春たちと同じ年にね』

背後で、車内アナウンスが響く。

 次は扇町、扇町。

『千春、小学校低学年の時から喫茶桐壺を常連にしてたって言ったけど、これもよく考えるとおかしいのよね。聞いた話だと、昔ながらの喫茶店なんでしょ? 小学生が出入りするような店じゃないわよね? 駅前にはファストフードもファミレスもあるのに、何だか不自然だと思わない?』 

 確かに、和美と最初にアプリの話をしたのは、駅前のマックだった。

『しかも、家や学校からも離れていて、バスを使っても自転車を使っても交通の便が悪い。そんな店を、何故四人は行きつけにしていたの? マスター夫妻の子供と、仲良しだったからじゃないの?」

 今まで気にも留めなかった様々な出来事が、確かな質感で俺たちの周辺を覆っていく。

 喫茶桐壺の子供と、幼馴染みだった? 俺たちが?

 そんな。まさか。

『高校に入ってからもそう。和美ちゃんは、どうして千春たちと仲良くなったんだっけ?』

「だから、あたしとあの子が同じクラスで、席が前後だったから――」

『ダウト。よく思い出して。本当に、和美ちゃんとひかるちゃん、席が近かった? 違うでしょう? ひかるちゃんと席が近かったのは、和美ちゃんじゃないでしょう?』

「えっと……」

 顎に手を当てて考え込んでいる。本気で思い出せないらしい。

「何でそんなことがヒロ姉に分かるんだよ」

『分かるわよ。入学してすぐの教室って、机は出席番号順に並べられてるわよね。そして、出席番号というのは名前の五十音順で決められる』

 言われてみれば、確かにそうだ。

 俺とひかるが最初に仲良くなったのも、それが理由だった。『まちだ』と『まつまえ』で出席番号は前後だった。鳴川もそんなようなことを言っていた。『なるかわ』と『ななせ』で席が近くて、それで七瀬悠季と仲良くなったのだと。

 ならば、『まつまえ』と『かつうら』では、どうか。

『マ行とカ行の人間は、何をどうやったって席が近くになることはない。『席が近かったから』という理由では、仲良くなりようがないのよ。つまり、和美ちゃんと接触したのは、別の子。カ行で始まる、千春や真くん、ひかるちゃんと仲の良かった人間』

「……『桐壺』は、カ行ですね」

 虚ろな瞳で、和美が呟く。

『そうね。和美ちゃんと千春たちを結びつけたのも、桐壺夫妻の子供。かくして、五人は常に行動を共にするようになった』

「でも、これだけじゃ――」

『もちろん、まだあるわ』

 背後は、何度目かの蝉時雨。すでに列車を降り、駅を出ているらしい。

『いい? 真実ってね、大概は『最もシンプルな形で、常に目の前に提示されている』ものなの。ただ、それに気が付かないだけで』

「どういうことだよ」

 さっきから同じ台詞ばかりの気がするが、それが俺の役回りなのだから仕方がない。

『文字通りの意味よ。『孔』の存在を、みんなしっかりと見据えるべきだって言ってるの』

「分かりやすく言ってくれ!」

 意味が分からないのは、俺が鈍いからではないと信じたい。

『――さっきの画像、もう一回呼び出して』

 和美はスマホを操り、さっきと同じように次々と指で弾いていく。

『見て、みんなの立ち位置。どれも似たような形じゃない? 真くん、千春、ひかるちゃん、少し距離を置いて、和美ちゃん――何で、和美ちゃんは他の三人と距離があるんだろ』

「距離感ってやつじゃないのか」

『パーソナルスペースのことを言ってるのね。それではここで、クエスチョン。千春、和美ちゃんは今、どういう位置にいる?』

 刹那、和美と顔を見合わせる。

 コイツは相も変わらず、顔を、胸を、こちらに押しつけている。

 ただただ、近い。

『私も、最初はそれが和美ちゃんのパーソナルスペースなんだと思ってた。どれだけ親しくても密着を嫌う人っているからね。だけど、和美ちゃんってパーソナルスペースは相当に狭い方だよね? 話をする時には、相手が困惑するほど距離を詰める癖がある。同性だろうが異性だろうが、お構いなし。ましてや、大人数で写真を撮る時は身を寄せ合うのが一般的。それなら、この隙間は何なんだと思う?』

「そこには、もう一人いたってことですか?」答えたのは真だ。

『恐らくね。アナタたちは五人組だった。一緒に遊ぶ時は、だいたい五人。二人や三人で遊ぶ時も、だいたいその子がメンバーに含まれてる。もっとも、みんなの記憶、認識からはキレイに抹消されてるんでしょうけど――でも、思い出して。よくよく記憶を探れば、この記念写真と同様、そこここに似たような隙間は見つけられる筈よ?』

 そう言われても、俺の記憶は曖昧だ。そんなことを言われても困る。

「――ゲーム、ですか……っ!」

 閃いた、といった感じで真が叫ぶ。

『ご名答。よく思い出して。あの時やってたソフト、スマブラに桃鉄、それにマリカだったわよね? ゲーム好きの和美ちゃんとひかるちゃん、それにたまたま遊びに来てた私がプレイしてて、千春と真はそれを横で見てた。だけど、これってよく考えるとおかしいのよね。その時やってたゲームはどれも対戦型で、最大四人までプレイが可能。だけど、実際にプレイしてたのは三人――横で見てるくらいなら、普通は一緒にやるわよね」

「コントローラーが三つしかなかった――ってことでは、ないか」

 言ってる途中で気が付く。

『そう。そのためにちゃんと確認もしたからね』

「……つまり、そこには俺たち以外の、別の誰かがいた訳か……」


 誰か。


 抹消された人間。


 ぽっかりと穿たれた、孔。


『父親が女性化したことで子供の存在は抹消され、誰の記憶にも残らなくなった。唯一その存在を認識していたひかるちゃんは、もうこの世にいない。だからそれがどういう人間でどういう顔立ちで何て名前だったか、私たちに知る術はない。でも、類推することは可能よね』

「どうやって、ですか?」泣きそうな声で真が尋ねる。

『千春』

 低いトーンは、背後の蝉時雨にかき消えそうになる。

『自殺直前に、あの子は何て言ってたんだっけ?』

「『とりかえしのつかないことをしちゃった』って……」

『他には?』

「『キラ』が、どうとか……」

『多分それが、消えた子の名前ね』

「『桐壺キラ』ってこと?」

 キラキラネーム、という言葉が思い浮かんだが、飲み込んだ。つまらないことを言っている場合ではない。

『それでもいいけど、私は違うと思う。千春は聞き間違いをしたんじゃないかな。極限まで追い詰められた彼女は発音も不明瞭だっただろうし、千春も寝ぼけていた。ただでさえ、出だしの母音は聞き取りづらいからね』


 ――アキラ。


『多分、そういう名前だったんじゃない?』


 桐壺アキラ。


 それが、桐壺夫妻の子供で、俺たちの古くからの友人で、ひかるが消してしまった――もうこの世界にはいない、孔の名前。

『出揃った情報だけでは性別まで判断できないけど、ここでは便宜的に男性だったと仮定しましょうか』


 ――整理するよ。


 不意に、蝉時雨がやむ。どこか屋内に移動したらしい。

『発端は、ひかるちゃんがTSアプリなんてトンデモアイテムを手に入れるところから始まる。アプリを手に入れた経緯みたいな部分は、いくら想像したところで無駄だから割愛するわよ。大事なのは、そのことを桐壺アキラくんに相談したってこと。結果、彼女はアプリを有効活用して、困っている人々を救おうと思い立つ』

「何で僕たちには黙ってたんでしょうか」

真がもっともな疑問を口にする。

『さあねえ……これも想像するしかないけど、千春や真くんに言ったら、反対されると思ったんじゃないかな』

「あたしは反対しませんけどねえ」

『和美ちゃんの場合は逆で、面白おかしく使いこなして、収集がつかなくなると判断したんじゃない? 実際そうだし』

何一つとして反論できない。本当にそうなら、随分と慧眼なことだ。

「でも、桐壺アキラには話したんですよね……」

真はまだ拘っている。

『うーん、別に三人を信用してないとか、頼りにしてないとかではないと思うよ? 今はもう全て推し量るしかできないけど――アキラくんって子は、ひかるちゃんにとって特別な存在だったのかもしれない』

「……彼氏彼女の関係だったってことですか」

『どうだろ。正式に交際してたのではないにせよ、お互いに友達以上の感情を抱いていた、という可能性はあるかもね。ずっと、べったり一緒になって行動してた訳だし』

――俺では、なかったのか。

淋しさや悔しさといったネガティブな感情は、不思議と湧かなかった。それどころか、何だか腑に落ちた気分だ。

 俺にとって、アイツはアホな幼馴染に過ぎない。

 そして、もう一人の幼馴染である桐壺アキラは、そうではなかった。

それが、全てだ。

『話を戻すわよ。アプリの秘密を共有した二人は、河川敷で偶然、鳴川翼ちゃんと出逢う。そこから先は皆の知っている通り。野球部でプレイできるようにとお節介で男性化するも失敗。その直後に女装した立花歩夢くんに出逢い、演劇部に乗り込んで吉良真澄ちゃんと出逢う。異性装をやめるようにと付きまといを始め、ついて行った電車内で痴漢冤罪騒動に遭遇。アプリで真澄ちゃんの窮地を救った後で酒井広海さんと知り合い、旦那さんの冤罪を晴らすと決意。だけどその直後に黒幕である城ヶ崎さんに目を付けられ、彼女の悪ふざけに弄ばれることになる。本庄しのぶくんに会うように誘導され、そこで『次の標的はお前の大事な人だ』と告げられる。走って、電車に間に合うものの、すでに痴漢冤罪は始まってしまっていた。そこで、以前アプリで真澄ちゃんの危機を救ったことを思い出す。慌ててスマホを取り出し、視線の先にいる桐壺操さんを、女性化してしまった――』

今までのことをダイジェストで語るヒロ姉。

「――途中から主語をなくしたのは、わざとですか?」

『相変わらず和美ちゃんは鋭いね。そう――ここでの主語は『ひかるちゃん』じゃなくて『ひかるちゃん達』。何度も言うように、二人は常に一緒に行動していた。そう考えると、城ヶ崎さんが言わせた本庄くんの台詞にも、合点がいく』

「『お前の大事な人』の『お前』って、桐壺アキラのことを指してたんですねえ……」

『その通り。実の父親だもの。そりゃ大事な人よね。そしてそれはひかるちゃんにとっても同じこと。厳密に言うと、『大事な人』の『大事な人』だけど』

「……マスターは、その時ひかるのことなんか見てないって言ってたけど」

そのこともしっかりと聞いてある。痴漢に間違われるなどという緊急事態でも、近くに息子と息子の彼女がいたなら、気付きそうなものだけど。

『離れた場所からアプリを使ったんでしょう。画角に体の一部分でも入ってたら有効なんでしょ? 多分、冤罪を晴らした後で声をかけるつもりだったんだと思う』


――だけど、すぐにそれどころではなくなってしまう。


落ち着いた声音に、俺は再び怖気立つ。

『それまでずっと一緒にいたアキラくんが、消えていなくなっちゃったのよ。電車の中でいなくなるなんて有り得ない。ひかるちゃん、操さんのことなんか忘れてパニックになったでしょうね。必死になって彼の姿を探した筈よ。だけど、薄々勘付いてもいたの。自分が何をしてしまったのか。人の父親を女性化するということが、どういう事態を引き起こすのか』

「その場ですぐに男に戻せばよかったじゃねえか!」思わず、強い声が出た。

『もちろんそうしたでしょうね』

でも、無駄。

『考えてみて。性別変換によって起きる再構築や歴史の塗り替えというのは、あくまでその性別であることによって生じる矛盾をなくすためのモノなの。操さんが女性になったことにより、アキラくんという存在そのものが矛盾となってしまい、彼は消滅した。でも、逆はどう? 操さんが男性に戻っても、アキラくんの不在は矛盾とならないでしょう? 性別変換の度に世界は再構築、つまり上書きされるの。性別を戻したって、決して以前の世界が戻ってくる訳ではない。女性化させた人間を再び男性化させるというやり方では、アキラくんは戻ってこないの』

「そんな……」

『無駄だと分かって、結局操さんは女性のままにしちゃったみたいね。今の理屈をひかるちゃんが理解していたかどうかは分からない。それでも、自分自身がアキラくんを消してしまった残酷な現実は分かっていた筈。だからこそ、桐壺夫妻にも、千春たちにもそのことを言い出せなかった。自身の罪を認めたくなくて、現実を直視したくなくて――あの子は、何時間も彼を探し続けたんだと思う。体力のリミットを超えるまで、ずっとね』

 その姿を想像するだけで、体が震える。

 孤独と絶望と後悔と罪悪感と――そういった全てに押し潰されそうになりながら、だけどギリギリのところで均衡を保って、アイツは彷徨い続けたんだろう。

 そして。 

 そして――。

『あの子は、町田家に辿り着いた。アキラくん亡き今、一番頼りになるのは千春だと判断したんでしょうね』

 真も和美も黙って聞いている。

『いっぱいいっぱいのひかるちゃんは、何の前振りもなしにいきなり本題に入った筈よ。さっきも聞いたわよね。千春、その時あの子は、何て言った?』


 体はとっくに震えている。


 今度は、心が震える番だった。


 ――アキラが。


『アキラがいなくなっちゃった。取り返しのつかないことしちゃった。どうしよう、どうしよう――そう言ったんじゃない?』

 その言葉に対して、俺は返す言葉を持っていない。

『思い出して。千春は、それに対して何て答えた?』


 ――アキラって、誰だ?


『そう答えたんじゃない?』

 震えている。腕が、脚が、膝が、顎が、頭が、顔が、心が、気持ちが、記憶が、心が、魂が――全てが、震えている。

 逃げ出そうとしてる。

『その瞬間、心の均衡は崩れたんでしょうね。もしかしたら、その瞬間になってようやく、ひかるちゃんは気付いたのかもしれない。消えたのはアキラくんの姿だけではなく、存在そのもの、この世にいた記憶、記録そのものだって――』

 そんな。

 そんな。

 それでは――。

「アイツが死んだのは、俺のせいじゃないか――」

声が震える。どうすることもできない。重力が飛躍的に増大し、押し潰される。

「俺が――俺が――」


  俺が、ひかるを殺したのだ。


『……取り返しのつかない過ちを思い知った彼女は、堪えきれなくなった』

 結果、部屋で首を括った。

『できうる限り自分の痕跡を消そうとしたみたいだけど、このアプリは何故か消すことができなかったみたいね。結果、このアプリだけが残った――これが、ひかるちゃんの自殺に関する、真相の全てよ』


ヒロ姉の声が遠くで聞こえる。


「全部、俺のせいだ――」

「それは違うでしょ」

頭上を声が通過していく。これは、真か。

「そんな状況になったら、僕だって同じこと言うよ。千春は悪くない。アキラって子が消えたのも、ひかるがそれに耐えられなくて自殺したのも、不幸な事故じゃんか。千春が気に病むことないよ」

顔を上げると、こちらを真っ直ぐ見据える真と目が合う。それだけで、俺は少しだけ救われる。我ながら単純だ。

「千尋さん」神妙な顔つきで和美が電話口に身を寄せる。「今、わざと千春を追い詰めるような言い方しましたよね? いつもなら、従姉弟のアナタが一番にフォローする場面の筈なのに。何か意図があったんですか?」

言いながらどんどん顔を近づけていく。

『和美ちゃんは、そういうとこ本当に鋭いね』

 電話越しでは、どんな表情を浮かべているかは分からない。

 再び屋外に出たのだろう――復活した蝉時雨を背後に、ヒロ姉は抑えたトーンで言葉を紡ぐ。

『もちろん、話には続きがある。アキラくんは消え、ひかるちゃんは死を選んだ。これはもう、起きてしまったこと』

でもね。

『ある方法を使えば、全てをなかったことにできるんだけど――どうする?』

すぐには、言葉の意味が理解できない。

 その時、脳裏をよぎったのは、城ヶ崎望との一連のやりとりだった。

 何故だろう。

 城ヶ崎の、全てを小馬鹿にした態度と、ヒロ姉の慈悲深いそれとは完全に対照的なのに。

「全て、って……」

『具体的に言うと、アキラくんの消滅と、ひかるちゃんの自殺。この二つをまとめてなかったことにできる裏技があるんだけど――試して、みる? 和美ちゃん風に言えば、仕様の穴をついた超絶バグチート――ってとこかな』

「本当かよっ!」

降って湧いた救済案に、俺は俄かに興奮する。だけど、まだ疑問の方が大きい。

「……でも、どうやって?」

『同じことよ――』

アプリを、使う。

『TSアプリは、性別変換によって因果関係を操作することのできる、危険なツールよ。だけど、使い方によっては強力な武器にもなる。私たちが今この世界にいるのは、様々な要因が交じり合った『結果』よね? なら、時間を遡って『原因』ごと消し去ってしまったら、どうなる? この世界は大きく様変わりすると思わない?』

 俺と真は迷わずに和美を見る。ヒロ姉の話は難解すぎて、俺たちには無理だ。だけど、いつも高い理解力を誇る和美ですら、ヒロ姉の話には首を捻っているようだった。

「話が抽象的すぎて掴み所がないんですが――もうちょっと具体的になりませんか」

『じゃあ、そうしましょうか。いい? まず、ひかるちゃんが自殺したのはアキラくんが消えたからで、アキラくんが消えたのは、父親の操さんを女性化したからよね? じゃあ、何故操さんを女性化させたの?』

「痴漢冤罪の標的にされたからじゃないですか?」何を今さら、という顔で和美が答える。

『その原因は?』

「城ヶ崎の嫌がらせですね。痴漢冤罪を嗅ぎ回るひかるを、からかってやろうと思った。あの女は、そういうのを見て面白いと思う感性の持ち主なんです」

『そうね。以上のことを踏まえると、諸悪の根元は、誰?』

「……城ヶ崎、ですけど――って、まさか!」


『それを消しちゃえば、全てはなかったことになる筈よね?』


瞬間、時間が停止する。

場が凍りついた、と言うべきか。

「け、消すって――」

沈黙を破り、真が掠れた声を出す。

『アキラくんの時と同じよ。両親のどちらかを性別変換させれば、子供は消滅する。城ヶ崎さんが消えれば、一連の痴漢冤罪は起こらない。ひかるちゃんが間違えてアキラくんを消すこともない。自殺も、起きない。そういう形に世界は再構築される。全て、なかったことになる』

淡々と恐ろしいことを口にしている。

「……よくそんなことが平気で言えるな」

『平気じゃないわよ』

 相変わらずの抑えたトーンで、ヒロ姉は続ける。

 そして、何故さっき、城ヶ崎を連想したのかに気が付く。

 電話越しでのやりとりもそうだが――声の色が同系統なのだ。

 多分それは、底が見えない程、深く、昏い、闇の色。

『……全然平気じゃない。私だって嫌よ、こんなの。だけど、考えて。アキラくんが消えたことで、ひかるちゃんは死を選んだの。その結果、千春も真くんも和美ちゃんも、こんなに苦しんでる。対して城ヶ崎さんはどう? 彼女の退屈しのぎのために、どれだけの人間が不幸になった? 痴漢に仕立て上げられた人たち、その家族、体を触られた女性たち、最終的にトカゲの尻尾にされた本庄一味の人達――数えきれない程いるわよね? それを踏まえたら、どう? アキラくんとひかるちゃんが存在する世界と、城ヶ崎さんが存在するこの世界。選ぶとしたら、どっち?』

そんなこと言われたって。

 残酷な二者択一。

 今俺たちがいるのは、桐壺アキラが消滅し、ひかるが自殺し、城ヶ崎が存在する世界。

 ヒロ姉が提示しているのは、その逆の世界。

 選ぶのは、二つに一つ。

 感情的にも、恐らくは客観的にも、選択の余地などはないのだと思う。そう、考えるまでもない。

 だけど。

 だけれど。

「それで、人一人消していい理屈にはならないだろ……」

『何度も言うけど、私だってこんなのは間違ってると思うよ? 誰か一人を悪役に据えて、その人の犠牲で成り立つ大団円なんてね。でも、これしかないの。本気で全てなかったことにするなら、城ヶ崎さんに消えてもらうしか、ね』

 理屈は分かる。

 それでも。

「そんなコト、俺にはとても――」

『ちょっと……何を勘違いしてるの?』

 逡巡する俺を半笑いで止める。

『誰も千春にやれなんて言わないわよ。やらせられる訳がない。そうでしょう? アンタ、ひかるちゃんが自殺してから、味が分からなくなってるじゃない』

「な、何でそれを……」

 確かにそうだった。好きな烏龍茶を飲んでも、何を食べても、何の味もしない。

 アイツが死んでから、ずっと。

『何日間アンタと一緒にいると思ってるの。私にはそのくらいお見通しよ。ショックとストレスによる心因性の味覚障害だって、医者じゃない私にだって簡単に分かる。アンタは、それだけ傷ついてる。後悔してる。身も心もボロボロのアンタにやらせる人間がいたとしたら、私はソイツを人間とは認めない――そしてそれは、真くんと和美ちゃんも同じ」

 私がやるわ。

『私ね、千春のこと、弟みたいに思ってるんだよ? さっきアンタは私のこと守るって言ってたけど、馬鹿にしないで』

 私が、アンタを守るの。

『それに、私は心峰の生徒会長でもある。ウチの生徒が引き起こしたことだもの。生徒会長として放っておく訳にはいかない。今までずっと冷静に振る舞ってきたけど、あの人を許せない気持ちは、私だって同じだから』

 呆気にとられていた。俺の知ってるヒロ姉は、こんな熱い台詞を吐く人だっただろうか。今の今まで、頭脳明晰だけど怠惰な干物女だと思っていたのに――こっちこそが、本当の西邑千尋なのかもしれない。

 だけど。

 それなら。

 この人は、何を――。

 唐突に、和美が電話口に近付く。


「千尋さん、今どこにいるんですか?」


 そう、それは俺が最初にした質問。

 和美との会話の途中、いきなり外出を始めたヒロ姉。バスに乗って望月駅まで移動し、そこから電車で扇町へ、そこからは建物の中を出たり入ったりしながらずっと移動しているようだが――。


 瞬間、ドッと冷や汗が出た。


「ヒロ姉ッ! 今どこにいるんだッ!」

 和美と同じ質問をするが、相手の返答は淡々としたものだ。

『随分と立派なお屋敷だよねえ――県議会議員って、そんなに儲かるんだ』

 もっと早くに気が付くべきだった。

 ヒロ姉は、最初からそのつもりだったのだ。

「城ヶ崎の、家の前にいるのか……ッ!」 

『実は、和美ちゃんに話を聞く合間に、アポは取っておいたの。話があるって言ったら、快く応じてくれたわ。生徒会長風情が出張った所で、県議の娘である自分の身は絶対に安全だって高を括ってるんでしょうね』

「いや、城ヶ崎に会ったって……」

『まさか。城ヶ崎さんに会うつもりなんて、端からないわよ。電話対応してくれたの、彼女の母親だった』

 城ヶ崎はじめさん。

『心配しないで。一瞬で方をつける。母親が在宅なのは確認済み。お手伝いさんとかは雇ってないみたい。つまり、最初に玄関先に出てくるのも、母親のはじめさん。私はただ、彼女にスマホをつきつけ、名前を呼んでシャッターを切るだけ』

 それで全て、終わる。

『今までアンタら三人が性転換した子たちと違って、それによって生じる因果関係は計り知れない。多分、世界は大きく形を変えるでしょうね。これは一種の、賭け。だけど心配しないで、私、くじ運は強い方だから』

「あれだけアイス食って、一回も当たり引いたことねぇじゃねぇかよッ!」

 我ながら的外れなことを言っているとは分かっていたが、それでも何か言わずにはいられなかった。

『心配しなくてもいいわよ。あの人が消えて歴史の塗り替えが起きたところで、それを認識できるのは私一人だけ。千春たちは何一つ気付くことなく、日常に戻るだけ。アキラくんやひかるちゃんのいる、平凡で平穏な日常にね』

「ヒロ姉はどうなんだよッ!」俺が反対しているのは、そこだ。「城ヶ崎を消したこと、ずっと覚えてるんだろ。さっき、全然平気じゃないって自分で言ってただろうがッ!」

『平気じゃないけど、覚悟はできてるつもり。今回の件に関して、私はこの家を一歩も出ないで、ろくに働きもしなかった。最後くらい、責任をとらせて』

 私はアンタの従姉弟で、心峰の生徒会長なの。

ヒロ姉の決意は固く、これ以上何を言っても無駄なようだった。

 だけど、それでも。


 俺はスマホを引っ掴み、立ち上がっていた。転がるように玄関を目指す。

 今から扇町に向かったところで、間に合わないのは目に見えている。だけど、足が止まらない。そもそも、城ヶ崎の家を知らない。ヒロ姉は生徒会の後輩に調べさせたのだろう。なら俺は、真を使って――いや、絶対に間に合わない。ヒロ姉はすでに城ヶ崎の家の前だ。彼女の言うように、インターホンを押し、応対に出た母親にスマホを突きつければ全てが終わるのだ。

 全てが変わるのだ。

 ヒロ姉を除いて誰も何も認識していない世界にジャンプして――

 俺たちは平穏を取り戻す。

 

 ただ、ヒロ姉だけが全てを覚えている。


 そんなの、嫌だ。

 

 慌てて靴を履いて外に出る。

 殺人的な陽光が俺を照らす。

 すぐ後ろ、真と和美も後を追ってくる。

 だけどそこで、俺は足をもつれさせ、無様に転ぶ。

 極限まで熱せられたアスファルトが頬を焦がす。

 転がったまま、手にしたスマホを耳に当てる。

 さっき、電話の向こうからインターホンの音が聞こえた気がしたからだ。

 ヒロ姉。

 ヒロ姉。

「ひろねえええええええええええーッ!」


『城ヶ崎はじめさんですね』

 

 電話の向こうから、押し殺したヒロ姉の声が響く。

 そして。


          ★


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