まこと君チェンジ
千春 ♂
真 ♂
和美 ♂
操 ♀
静香 ♀
「――で、まんまとアイテムをゲットしたって訳だ」
カウンターで和美が薄い笑みを浮かべている。
場所は『喫茶桐壺』。
松前家から駅を横切って数キロの場所にある、昔ながらの喫茶店である。俺や真、ひかる、和美の溜まり場でもあり、葬儀の場から抜け出した俺たちは当然のように、冷房がキンキンに効いたこの場に避難した。
そして当然のように、和美はこの場で待ち構えていた。超然とした態度でコーヒーカップを構えている。すかした態度が気に食わないが、傍らに置かれたひかるの写真と、若干赤くなった双眸だけは見逃さない。きっと、コイツはコイツでひかるの死を悼んでいるのだろう。俺たちは、特に気負うこともなく、松前家での一件を和美に話していた。
俺が自殺の原因を探っていること。
そして、ひかるの部屋でアイツのスマホを見つけたこと。
「黙って持ってきちゃった訳じゃないよねえ?」
「当たり前だろうが。おばさんの許可はとってある。解約も先延ばしにしてもらった」
「よく分かんないよねぇ。千春は、どうしてそこまで、ひかるのスマホにこだわる訳?」
そう言い、顔をずいっと近づけてくる。暑苦しい。
「はい、烏龍茶お待ちね」
俺は和美の顔を押しのけながら、マスターの桐壺操さんが出してくれた烏龍茶で唇を湿らす。マスターは四〇代の女性マスターで、シニョンにまとめた髪と黒いエプロン、常に腕まくりしているシャツがトレドマークだ。
「千春、何か大事なことを隠してるっぽいんだよねえ。そろそろ、吐き出しちゃえば?」
「――アイツが自殺したのは、俺にも責任があるのかもしれないんだよ」
「あんまり思いついちゃダメだよ?」
背後、拭き掃除をしていた静香さんが柔らかい声をかける。静香さんはこの店に長年勤める店員さんで、気遣いのできる優しい性格が特徴だ。豪快で男勝りなマスター・操さんとはいいコンビと言える。
「いや、思いつめている訳ではありません。これは――本当に、俺自身の問題と言うか」
「千春、順を追って話そうか、ね?」
真の気遣いが身に沁みる。和美はニヤニヤしながらこちらを見ているし、マスターや静香さんも作業しながら耳傾けているのは丸分かりだ。ぼちぼち、腹を括る頃合なんだろう。烏龍茶に口をつけて、俺は口を開く。
「自殺の直前――アイツは、俺の家に来てたんだよ」
「えっ……」
振り向かずとも、真が目を開いているのが分かる。構わず、俺は続ける。
「深夜の二時頃かな……。当然、俺はベッドで寝てたんだけど、携帯に着信があって、起きて出てみたらアイツからで――家の前まで来てるって言うから、寝ぼけたまま出てみたら、本当にアイツがいて、だけど、アイツ、泣いてて……」
「それで?」
真の的確な相槌に乗っかかるようにして、俺は話を続ける。
「アイツ、ずっと泣きじゃくってて――俺も寝ぼけてたし、アイツもグズグズ言っててよく聞き取れなかったんだよ。何て言ってたんだっけかな……。『キラ』がどうとか、『取り返しのつかないこと』がどうだとか――」
「『キラ』って何? キラー? 吉良?」首を傾げる和美。
「分からない――ただ、アイツ、ずっと泣いてて――」
あの日の光景を思い出すたびに、胸が痛む。
いや、思い出せてない――のか。
だからこんなに痛くて、苦しいのだ。
「俺も一つ二つ返答をしたくらいで、まるで意味が分からなくて……。そのうち、アイツ、諦めたみたいに肩を落として、帰っていったんだけど……」
「え、それだけなの!?」目を丸くする真。
「いや――その時、意味ありげにずっとスマホを突き出してたのだけが印象的でさ……。多分、スマホに何か意味があるとは思うんだけど……」
「スマホなんかで、どう『取り返しのつかないこと』ができるって言うのかな。おれはそれが気になるねえ」
首を傾げながらコーヒーに口をつけるのは和美だ。
「お前も、自殺の原因探しに協力してくれるのか」
「は? 最初からこっちはそのつもりだし」脇にどけていた写真数枚をトントン指で叩きながら、僅かに口角を上げる。「俺だって、仲間の一人なんだからさ」
写真は、どれも俺たち四人が写っている。
真、俺、ひかる、少し離れて和美。
今は、三人。
きっと、空いた孔を埋めたいんだろう。
その孔の正体が分からないのだけれど。
「千春、肝心のスマホの中身はどうなってるのさ」
逆側から真が顔を近づけてくる。
「――いや、さっき調べてみたんだが、データや履歴は全て消去されていた。アプリの類も、デフォルトのもの以外は全て削除されていたな」
「自殺者は、身の回りきれいにしてから――って言うもんね」
「おれだって、今のPCフォルダ見られたら発狂するなあ」
和美のコメントは無視した。せっかく見直したところだったのに、台無しだ。
「ね、ということはさ。やっぱスマホは関係ないんじゃない? 仮に関係あったとしても、全部消されてるんじゃ意味ないよ」
真の言うことはもっともだが、実は続きがある。
「いや、一つだけ、よく分からないアプリが残されていたんだ」
これなんだが――と、二人に対して交互にそのアイコンを見せる。
妙なものだった。
男(♂)と女(♀)のマークが、並べて描かれているだけ。
その下に書かれているのは、『TS』の二文字のみ。
これを見ただけでは、まるで意味が分からない。
「――何、これ」
「分からん。TSって何の略だ? それにこのマーク、男と女って意味だよな? どういうアプリなんだ?」
額を寄せ合って話し合うが、案の定結論は出ない。こういう場面では必ずマニアックなコメントをする和美は、何故か押し黙っている。気になって振り向いて見ると、天然パーマをいじりながら何やら思案している様子。
「……和美、何か知ってるのか?」
「知らないけど――そのアイコンと、『TS』って名前がちょっとねえ……」
「何さ、やけにもったいぶるね」
薄ら笑いを浮かべながら、首を伸ばす真。
「もったいぶってる訳じゃない。おれだって、よく分からないよ」
こいつは十中八九何かを知っている。だが、今は口にするつもりはないらしい。こういう所は頑固だから、追及しても無駄だろう。
「それ、取り敢えず開いてみたらどうなの?」
今まで傍観を決め込んでいたマスターが、グラスを拭きながら口を挟む。
「あたし、そういう最近のやつとか全ッ然分からないんだけどサ」 四〇代半ば、バブル世代のマスターは首を傾げながら続ける。「カメラアプリって言うの? ひかるちゃん、前に携帯で写メ撮りまくってた時期があったし。あたしは断ったけどね」
「それがこのアプリで、って言いたいんですか?」
「分かんないってば。でも、今は少しでも情報が欲しいんでしょ? だったら、見てみればいいじゃない。その正体が何であれ、命を取られたりはしないでしょ」
マスター・桐壺操の危機管理の基準は死ぬか死なないかの二択でしかないらしい。しかし、今はそのワイルドさに惚れている場合ではない。
「マスターの言う通りだよ、千春。開いてみたら?」
調子のいいことを言う真。今スマホを操作しているのは俺だから、必然的に俺が開くことになる。和美を見れば、無言で顎をしゃくってくる。やれということだろう。軽く溜息をつきながら、俺は謎アプリのアイコンをタップする。
次に画面に現れたのは、喫茶桐壺のカウンターだった。
何のことはない。よくあるカメラアプリのフレーム画面だ。
ただ、オプションや自撮り用、フレーム選択などの余計なボタンは存在せず、ただ画面下部にシャッターボタンがあるだけ。シンプルと呼ぶにはあまりにも殺風景すぎる画面だ。デフォルトのカメラ機能の方がまだ充実している。
「ただのカメラアプリみたいだな……」
店内の様々な光景を画面越しに見ながら、独りごちる。
「試しに何か撮ってみれば?」
言われるまでもない。目の前の砂糖壺を画角に捉え、シャッターボタンを押して見る。
結果は、エラー。
『人物を確認できませんでした』
画面中央に、そう大きく表示される。
よく意味は分からないが、人物撮影専用のカメラアプリらしい。
「真」
呼びかけて、真を画角に入れる。咄嗟に顔の横でダブルピースをしてみせる。小顔効果を狙ってるのか。女子かお前は。心の中でツッコミを入れながら、シャッターを切る。
『 真 を認識しました』
☆
刹那、目の前が素早く明滅した気がした。
ぐにゃり、と世界が歪む感覚。目眩でもしたのかと思ったが、気が付くと俺は普通にカウンター席に腰をかけている。何だと言うんだ。
スマホの画面に目を転じて――目を剥く。
そこには、頭の横でツインテールにした少女が写っていた。
「あ、割と可愛く撮れてるねー」
真が画面を覗き込む。画面と同じ、ツインテールの髪型だ。服装も、ブラウスにチェックのミニスカート――望月高校の夏用女子制服に変わっている。
「え? は?」
「でも、これが何だって言うんだろ。ただのカメラアプリじゃんか」
小首を傾げる真。その声も、以前に比べると随分高い。
「撮られたら二十四時間以内に死ぬとかだったら笑えるねえ。呪いアプリ? や、デスアプリか。ひかるもキラがどうとか言ってたらしいし」
「……和美、そのギャグ、黒すぎて笑えない」
顔を引きつらせながらむくれている。
何だ。何だこれは。何が起きている。
俺の目の前に、小柄な女子高生が鎮座している。
黒目がちの瞳、長い睫毛、自己主張が少ないながらも僅かに隆起した胸、ツインテールの髪、短いスカート、高い声。
これは、誰だ? 俺の幼馴染みの、相良真なのか?
シャッターを切った瞬間に世界そのものが変貌してしまったかのような錯覚を覚える。
そう。恐ろしいことに、違和感を感じているのは俺一人だけのようだった。真本人も、和美も、マスターも従業員の静香さんも、誰も何もおかしいと思っていないらしい。
今度こそ、激しく目眩がした。
「お前――」
意を決して、言葉を発する。気付かなかったが、口の中がカラカラに乾いている。慌てて烏龍茶を口に含む。
「なに?」
そう言い、小首を傾げる真。
「真、なんだよな?」
「は? 唐突に何よそれ。わたしはわたしじゃんか。急に何なの?」
一人称が『わたし』。それに加えて、女言葉。普段から柔らかい物腰で、女口調に近い喋り方をする男ではあったけど、今のそれは紛うことない女言葉だ。男子高校生の口にする台詞ではない。
いや違う。男子高校生などではない。女子高生だ。
相良真は、女性なのだ。
いやいやいやいや。
俺の記憶の中の真は、確かに男だった。温厚な性格で弁が立ち、小柄で中性的な顔立ちではあったが――男だった筈なのだ。なのに。それなのに。
「お前って……女だったっけ……」
言うまい言うまいと思っていたのに、自然とそんな言葉が口をついて出てしまう。
「は!? さっきから何なの!? どっからどう見ても女じゃんかっ! そりゃ、ちょっと胸は小さいかもしれないけどさっ! だからってその言葉はひどくない!?」
気の利いた返しをする余裕など、今の俺にはなかった。目の前にいる真は、確かに女子らしい。弁が立ち、興奮するとヒステリックになるのは前と同じだ。
ただ、性別が違う。
いや、おかしいのは俺の方なんだろうか。
ひかるの死んだショックで、俺は狂ってしまったんだろうか。
一応、説明をつけられないこともないのだ。おかしくなったのは、この――TSアプリで、真を撮影した直後。撮影した直後に、真は男から女に性別を変えた。
アイコンのマークを思い出す。
♂と♀。
つまり――。
「千春、どうしたんだ? ちょっと、お前おかしいぞお?」
珍しく、和美が心配そうな声をかけてくる。それに反応する余裕さえ、今の俺にはない。
「……悪い……。ちょっと、気分が悪くなってきた……」
立ち上がろうとしたが、膝が震えている。目眩と吐き気が同時に襲う。再び口内の乾きを覚えて、僅かに残っていた烏龍茶を飲み干す。
「今日は、もう帰るわ……」
財布から烏龍茶代を取り出して、俺は席を立つ。
「は!? 千春、どうしちゃったの!?」
背後、真が女の声で、女の口調で、声をかけてくる。
俺はそれには応えず、震える足で店のドアを開ける。
途端、酷暑日の陽光と蝉時雨が俺を襲い、再びたたらを踏んだ。